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2012/01/31

与論シニグ・デッサン 3

 プカナ、サトゥヌシ、ニッチェーの後、城地区のサークラまでの記述を野口は割愛しているので、『与論島―琉球の原風景が残る島』の高橋の助けも借りると、三サークラの後に続くのは、プサトゥ、ユントゥク、クルパナである。野口によれば、高橋のフィールドワークの時点では廃止になっていたユクイもこれに加わる。

 これらのサークラは、クルパナをパルシニグとしてムッケー(迎え)を行う一群である。ティラサキ(寺崎)をパルシニグとするムッケーの形態と並列して存在したわけだが、寺崎のそれが政治的な擬制を伴っていたと考えてきた後には、このクルパナについても手放しではこれが原型を止めているとは言えなくなる。クルパナをパルシニグとする原型があったから、寺崎をそれに倣ってパルシニグとしたのか、それとも、寺崎、クルパナ(黒花)ともに、政治的な編成を伴っているか。どちらも可能性があるとしなければならない。

 もうひとつ、寺崎は龍野の経緯により城地区のグループに加えられているが、城地区からの別れサークラが茶花、立長地区を主な移住先としたことを踏まえると、那間地区を中心に移住先を持った寺崎は、与論への来島の後先でいえば、プサトゥ、ユントゥク、クルパナ、ユクイのなかにあるのでなければならない。同様にハジピキも。城地区の島人がやってくる前に寺崎サークラが存在したとすれば、である。ここは島の人に実際に聞いてみるしかないが、まだできていない。

 ただ、これらのサークラがいずれかのサークラから分離したものではなく独立してあったという言い伝えに添うなら、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシの後にも、小さな集団が与論に次々と来島した経緯があったのを推し量ることができる。そして彼らは大和からの人々を含むグスク時代の琉球弧の人口膨化の一端を担った、主に北からの流入であったと考えられる。

 ここで関心をそそられるのは、ユントゥクサークラである。野口によれば、

 因みに徳田峯中氏は、ユントゥクダークラの「アイスヌ」というヲナイ神を祭っており、徳田有秋氏は「マクロク」という男神を祭り、徳田有秋氏がシニュグ祭の座元である。(p.86)

 とあることだ。シニグや琉球弧にはアマミク、シニグクの名がよく知られているが、男女二神はそれだけではなく、小さな信仰集団がいくつも存在した可能性を伺わせる。同時に、ユントゥクサークラはウンジャン祭を行っていたことを踏まえれば、複雑だが一方でアマミキヨとの類縁性も高いことになる。また、喜山康三からプサトゥはウプサトゥが原型でウが脱音したものではないかと聞いたが、するとプサトゥは「大里」とみなすことができる。「里主」を連想させる命名だが、それだけ各サークラは内閉性が高かったことになるわけだ。

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2012/01/30

与論シニグ・デッサン 2

 野口才蔵が『南島与論島の文化』において、居住地の位置、居住地からの湧泉や耕作地との距離や位置から、各シニググループの与論への定住の順序を考察しているのはとても妥当jなアプローチに思えるので、それに従うと、ショウ・グループの後に定着したのは、プカナ・サークラだった。

 ここで関心をそそられるのは、プカナが与論の創世神話を持っていることだ。

プカナダークラの座元の方は梶引半田に船の梶がひっかかり島に上がって、南進し(シニグ神路を通って)更に東進して、国垣で暮らしている時、二羽の鳥が兄妹の前で夫婦の契りを結ぶのを見て、この兄妹も、それを見まねて、夫婦のちぎりを結んだので、子孫が栄え島中にひろがったとの、民話を信じられる。

 これは与論の創世譚としてもっともよく知られた民話あるいは神話である。さらに野口は書いている。

ずっと以前には、ハジピキに六〇坪ばかりの土地があったが、七〇年前、親(話者竹菊政氏の親の時代に)が売ってしまったのは、遺憾であると語られた。(昭和四十九年聴取)民話と一連をもたせたこの話は、何と現実的響きの強いことよ。

 野口の感慨の通り、民話の存在とハジピキ所有の記憶はプカナこそ、創世神話の所持者であり、ぼくたちがこれまで寺崎サークラのものと見做してことに撤回を求めるものだ。「プカナサークラの受難」で見たように、この間の経緯は、琉球系の龍野が寺崎の土地を購入し、寺崎サークラを所有したことに依っている。琉球王朝支配以降に来島した龍野がプカナに所属するに至る経緯も野口は押さえている。龍野家の「系譜伝録」によれば、1706年に代官制度が厳重になり、薩摩により「宝物」が没収されるのを恐れて城(グスク)からプカナサークラの居住する地域へ移住したというのだ(p.72)。これにより、プカナ・サークラは寺崎サークラのムッケー・シニグを演じた時代を持つことになるのだが、ということは、それ以前は、プカナ・サークラこそ、寺崎のパルシニグであったのかもしれない。さらにプカナこそ、アマミキヨの集団なのかもしれない。

 プカナの次に野口が取り上げているのは、サトゥヌシ・サークラだ。このサークラは「沖縄より渡来」という伝承を持っているという。この伝承を信じるなら、プカナが寺崎という北方から島に入ったのに対し、サトゥヌシは南から入ったことになる。

 ここまでのサークラが麦屋井(インジャゴー)の湧泉を拠点としたのに対して、ニッチェー・サークラは木下井(シーシチャゴー)の湧泉に依っている。野口はニッチェーの出自について、これといった伝承がないからと、「北のシニグ半田(高い岩の上で)シニグ系の神を迎えることから、おそらく北方の海から渡来して来たのではなかろうか」と推測しているが妥当だと思う。ニッチェー・サークラが人口的に大集団であることが、11世紀以降、奄美大島や大和からの流入により琉球弧の人口が一気に増えたという歴史的背景を置くと、その流入集団の一派と見なすことができるのだ。ただ、ニッチェー・サークラが与論の按司時代を象徴する集団であってみれば、彼らは大和の武士的集団というより、奄美の倭寇的な存在なのではないだろうか。

 サトゥヌシとニッチェーの前後関係について野口は一部、混乱した記述を見せているが、『与論島―琉球の原風景が残る島』で高橋誠一は、「分布の面で見る限り、両サアクラの構成員の移住は、先後をつけがたいほどに重複して行われた可能性が高いと言わざるを得ないのである」(p.122)としている。思うに、両サークラはその初期に按司の座を巡って激しく対立した時代を持ったのではないか。ニッチェーは与論の英雄譚、アージニッチェーの物語を持ち、サトゥヌシは「里主」の意味である。両者は対立の後に、ニッチェーが勝者となる。サトゥヌシ・サークラはスーマ・サークラという別称を持つが、それは敗れたことにより、サトゥヌシという名称が抑圧された結果、生まれたのではないだろうか。

 これらのことから、プカナ、サトゥヌシ、ニッチェーが与論にやてきたのは、11世紀から12世紀にかけてのことではないかと考える。こう見る時、ショウのグループがいかに長い間、与論に先住していたかを知るのだ。

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2012/01/29

与論シニグ・デッサン 1

 驚くべきことに、大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究マキ・ハラの調査』によると、ショウ・グループのシニグは、以前は、寺崎を起点に神路を通ったとあることだ。

 此以前のシニグ即ちパル・シニグでは島の北海岸にあるテダラキから高千穂の東を経て、又吉の東で赤崎オガンの方向に向って遥拝して解散した、大多数の氏子が叶、那間の遠距離であるので、又吉の東に於て東方赤崎オガンの遙拝に止めた。遙拝の祝詞の中に「大東、大口云云」とあった。「大口」は赤崎オガンの東方海上の入口で、此の大口の神は赤崎オガンに祭られている。「大東」はアマミキヨは東方海上より来れりと伝う。東方海上の神を遙拝したのである。(p.252)。

 さらにこれ以前には、赤崎ウガンの遙拝に止まらず、赤崎ウガンに行って祈っていたのだという。赤崎は寺崎とむすびつけられていたわけだ。ここで、与論に最初に上陸した島人は、最初は赤崎、次は寺崎と言い伝えられていることに対して、細い補助線が引かれる。これは逆転した言い方で、このショウ・グループの神路がこうした伝承の元になったのかもしれない。これは、東方への信仰のもと、赤崎の近辺に居を定めた島人ではあるが、その出自の重要なひとつは寺崎であった可能性を示唆している。

 あるいは別の可能性もある。アマミキヨたちによって稲作技術がもたらされたとすれば、彼らの島内移住経路をなぞって神路を設定した。そのルートは自分たちの出自そのものではないから厳密ではなく、またその後、行路の距離から辿ることがなくなってもよしとされた。

 ショウ・グループが寺崎からのシニグ神路を持っていたことは、ショウに始まり、サキマ、キン、アダマの島人全体がそうだったことを意味していない。そもそもそうであれば、神路は絶やされることなく続けられただろうし、ショウのグループが東方海上を入口として示唆することもないだろう。

 大山は別の箇所で、ショウ・グループがシニグの後半に行う「大峯山の弓引き行事は、沖縄に向かって弓を引く抵抗の姿勢である」(p.382)としているが、実際には、「うくやま ぴどやまぬぬ ししぬ まーまんなか」と書いている。これは、大山の言うような抵抗の姿勢というものではない。これはショウ・グループが狩猟を営んでいたことを示すものであり、沖縄島北部との交流あるいは沖縄北部からの移住の記憶を留めていると見なされるものだ。

 初期島人の生命の源泉となったアマンジョウはアマミキヨ文脈に引き寄せてアマミキヨの井戸と解されることが多い。しかし、地形の特徴を示すのが地名の原義であるとしたら、ヤドカリのいる井戸と解することができる。さらに、ショウ、サキマ、キン、アダマについて、サキマは徳之島のサクマ(作真)と同名であり沖縄にも同じ地名を見出すことができ、アダマは沖縄のアダ(安田)との類縁あるいは島尻のアザマ(安座眞)と同名を思わせる。キンは、以前考えたことがあるように(「津堅地名考1 チキンとは何か」)、金武、具志堅などと同様の地形を想定することができる。ショウについては、ぼくはまだ分からない。ただ、ジョウが清音化されてショウとなったという可能性はあるはずだ。あるいは地名の原義に従えば、今帰仁のショシ(諸志)、加計呂麻島のシュドン(諸鈍)と同じく「汐」に由来するのかもしれない。

 ショウの島人をそのひとつとする初期島人は、赤崎近辺に居住した。彼らの一部には寺崎からの流入もあったかもしれない。ただし、赤崎近辺だけが初期島人の居住地ではない。西海岸のイチョーキ長浜からは三千数百年前と推定される貝塚が発見されている。彼らはその後の行方が不明だとしても、島の東西南北に初期島人はいなかったと想定する方が不自然である。

 奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡(二万五千年前頃)には台湾、東南アジアに起源のある石器群が出土している。この頃はまだ与論島は海上に姿を現していないにしても既に南方的な海洋文化はこの時、存在していた。貝塚時代、つまり本州、九州における、縄文時代晩期から弥生、古墳時代の琉球弧は、「本土縄文文化の影響を強く受けながらも、さらに南方島嶼世界、ことに台湾、フィリピン、インドネシアなどを源流とする文化やヒトの影響も断続的に受けていた。」(『琉球の成立―移住と交易の歴史―』吉成直樹)。ついで、麦屋の上城遺跡も九州、本州の縄文時代晩期に当たるものだ。上城の島人がショウ・グループの人々に当たる確証はないにしても、約三千年前には現在に通じる島人の足跡を認めることができる。赤崎近辺の島人は集団として生きながらえてきた。そして、定住する次の島人集団と出会うまでには長いながい時が経過したのだ。

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2012/01/28

『南西諸島の家族制度』という手がかり

 サークラを高倉と解するときに引用される論文として知っていた。しかし、それ以上の紹介に乏しいので関心を持てなかったのだが、与論シニグを考えるのに余りに手掛かりが少なく窮してしまい、ほんの慰みのつもりで、『南西諸島の家族制度の研究マキ・ハラの調査』を国会図書館で見た。けれど、大山彦一の論考はいい意味で期待を裏切るものだった。

 大山は『南西諸島の家族制度の研究マキ・ハラの調査』のうち、約二百頁を与論シニグに割いている。ニッチェーサークラのシニグには同席し、島の古老への取材も多く、論考は本格的なものだった。あなどってはいけない。なかでも第二篇第三節の「部落定住。A、B、C群の社会体系の形成」は、与論のシマ形成の構造化を目論んだもので、ぼくなどがずっとやりたいと思ってきていることそのものだった。

 もちろん、これで自分のやることは無くなったというのではない。この論考自体、1960年のもので、その後の学的成果を享受できない限界は当然、持っている。また、島の人でしか分からないことには手を届かせきれていない。ぼくはそれを頼りない程度だが、持っている。逆に、大山が与論に取材したのは1957年。語り継ぐ者希少になる一方のシニグであれば、記録は過去のものであればあるほどよい。それはぼくには無いものだ。大山の論考を引き継ぐ形でシニグ考を少しは続けていける。与論のような小さな島にとってそれはこの上ない贈り物だ。


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2012/01/24

リーフとしての琉球弧

 中国大陸を下に置くと、台湾や日本列島は離れで、琉球弧はリーフに見える。


Ryukyu


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2012/01/22

パルシヌグの収奪?

 野口才蔵の『南島与論島の文化』(1976年)から。シヌグ祭グループの内訳メモ。

 合同サークラはだいたい近接。

1.ショウ、サキマ、キン、アダマ
・密集部落。サークラ間の婚姻も比較的容易になされる。

2.プカナ、ニッチェー、サトゥヌシ(スーマ)

3.ユントク、プサト、クルパナ(パルシヌグ)、ユクイ

4.城間(グスクマ)、前田(メーダ)、ティラサキ(パルシニグ)、ハジピキ
・前田(メーダ)サークラの高祖は花城与論主の長子、又吉里子の子
・城間(グスクマ)サークラの高祖は、同じく三男の屋口首里主

5.川内(ホーチ)、口平(クチピャー)
・高祖は同一祖先。

6.見良(ミーラ)

7.伊伝

8.トゥムイ、マスオ氏、福氏、田畑氏

9.金久(ハニク)

10.トゥマイ


 この整理で気になるのは、4のグループだ。ぼくたちはこれまで、ティラサキ・サークラを農耕技術を持った集団であり、アマミキヨ勢力であったと見なしてきた。そうであれば、パルシヌグとして、ムッケーサークラに迎えてもらうポジションを得てきたのだ、と。そうであるなら、ムッケー・サークラはティラサキ・サークラに対して古い集団であり、劣位を強いられた集団であると見なされる。しかし、城間(グスクマ)、前田(メーダ)は琉球からの流入者であり、ティラサキに対して優位な立場にある。これは矛盾ではないのか?

 野口もここで「ある時代に何か政治的工策がとられたのではなかろうか」としている。野口の文章は、広場に出す書物の体裁でありながら、同世代の島の人でなければ分からない文脈で半ば語っているので、ぼくにはうまくつかめないところがある。何とか文脈を掴みだしてみると、こういうことのようだ。

・寺崎はプカナ所属の龍野が土地の所有者だった。その頃は、ティラサキだけでなく、プカナもパルシヌグだった。
・龍野の高祖は花城与論主の二男殿内与論主。

二男殿内与論主の後裔の所属するプカナダークらから農作の神として神格化した現人神を城間、前田ダークラに迎えさせたのではなかろうか注目を引くところである。(p.146)

 つまり、寺崎の所有者は琉球系の末裔だったから、同じく琉球系の城間、前田を迎える立場にできたのではないか、ということだ。ここに「政治的工策」を見るのは当然だろう。ある時、龍野は寺崎の土地所有者になることによって、パルシヌグの立場を得たということになる。この時、本来のティラサキ・サークラだった者たちはその立場を追われた可能性がある。

 シヌグに与論の先住、後住の痕跡を辿ろうとする者からすれば、このことは現在あるシヌググループをそのまま元にしてはならないことを教えている。ここで踏まえなければならないのは、寺崎、黒花がパルシヌグの立場にあるというシヌグ構造を後住の強者が利用したということだ。いわゆる資本の本源的蓄積としての土地の私有地への転化は、この南の小島でも見られたことになる。こうしたことは島内だけでは起こりにくいから強大な権力を背景に想定しなければならないだろう。琉球王朝だ。

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2012/01/15

奄美の島々、地名の由来 3

 ここしばらくの考察から、「奄美の島々、地名の由来 2」について、「奄美大島」を更新。

――――――――――――――――――――――――
■島名     ■呼称        ■由来・語源
          最古層/古層

喜界島     ききゃ         段の島
奄美大島   あまん/あまみ   アマン(ヤドカリ)のいるところ
加計呂麻島  かきるま       沖の島
請島      うき          浮く島
与路島     ゆる         寄る島
徳之島     とぅく         突き出たところのある島
沖永良部島  いらぶ        イラブ(海蛇神)
与論島     ゆんぬ        砂の島
――――――――――――――――――――――――


 もちろん、ぼくの仮説も多く(加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島)で広く共有されたものではない。特に、徳之島はアイヌ語からの発想なので根拠は薄弱だ。

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2012/01/09

アマンと「海見」

 奄美でいうアマン世のアマンとはヤドカリのことだと考えてきた。地名としての奄美の語源をアマンだと思ったこともある。ただ、地名としての奄美に対する当の奄美諸島の島人の感じる疎隔感から仮説として持つには至らなかった。いずれ他称だからと済ませてきたわけだ。

 だから、吉成直樹が『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』で、「奄美」の語源を「アマン」と仮説するのに出会い、問題意識の近さとその説にとても共感を覚えた(cf.「奄美=ヤドカリの地!?」)。

 吉成は一度、撤回したものの、『琉球の成立―移住と交易の歴史―』で、(奄美)=(アマン)という仮説にふたたび取り組んでいる。吉成に改めてこの課題を突きつけたのは、島言葉でヤドカリを「アマミ」と呼ぶ地域があるのを知ったからだという。

奄美群島の奄美大島と加計呂麻島でヤドカリのことを「アマミ」とする方名のあることを知るにいたって、改めて検討する必要を感じる。(p.100)

 具体的に大島と加計呂麻島のどこで言われているか、知りたいところだ。

 ところで、谷川健一は『南島文学発生論』のなかで実にさりげなく、地名としての奄美の語源について示唆している。

『琉球国由来記』によると、伊是名島の諸見村にヤブサス獄がある。諸見とは潮見のことであると『南島風土記』は解している。諏訪之瀬島に潮見埼がある。これはいうまでもなく潮の流れを見ることで、漁民や海人に由縁のある地名である。海見(あまみ)も潮見や魚見を指す言葉であろう。(『南島文学発生論』(『谷川健一全集〈第5巻〉沖縄1』所収)p.455)

 「奄美」の語源は「アマン」であるとする考えからすれば、この説は退けなければならない。

 しかし、別の意味でこの仮説ないし示唆は魅力的である。『日本書紀』に、657年のこととして、奄美が「海見」として表記された時が、地名としての「奄美」の嚆矢だが、「アマンをトーテムとする集団」にちなみ、あるいは奄美大島と加計呂麻島にある「アマミ」という地名を採って、大和朝廷勢力が「海見」と漢字をあてたとき、彼らの観念のなかでは、アマミを「潮見」として見ていたのではないかと考えられるからだ。その意味で谷川の仮説ないしは示唆に惹かれる。表音が漢字表記による表意を与えられた時の恣意性と、その後の錯誤の発生を目撃できるかのようで、だ。

 アマンから「アマミ」という自称は生まれ、「海見」として他称される。自称は島全体を覆うことなく、かつ地元からは衰退し、他称としての意味合いを深めていった。ついで、他称としての「アマミ」は「海見」から「奄美」への道のりを歩むことになる。


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2012/01/08

南下したアマミキヨと与論シヌグ

 谷川健一は『南島文学発生論』(『谷川健一全集〈第5巻〉沖縄1所収。『南島文学発生論』は1991年)で、アマミキヨは「日本本土から南下」したとしている。その「証拠の一つ」に、「奄美や沖縄では原料の得られない石鍋が」(p.453)奄美大島や沖縄本島に出土している、と。

 これに対して、吉成直樹は、『琉球の成立―移住と交易の歴史―』(2011年)で、「アマミ」という地名の語源を「アマン」、ヤドカリに求め、その意味を「ヤドカリをトーテムとする人々」に因むと仮説し、したがってアマミキヨも奄美から南下したものと捉えている(p.103)。

 そこで、おもろの詩句について、議論が分かれる。

 あまみや、すぢや、なすな
 しねりや、すぢや、なすな
 しやりば、すぢや、なしよわれ

 この理解について、谷川は、伊波普猷、仲原善忠、外間守善の「アマミヤの血筋をj否定すると解釈するのは明らかにまちがっている」(p.464)とする。

むしろ、アマミキヨ・シネリキヨの血筋を産めよ、という賛美にならなければならない。高い文化をもたらした北方の人々に対しての尊敬の念から、その血筋を産みたいと南島の人たちが思うのはとうぜんのことにちがいなかった。(p.464)

 当然のこととは限らないと半畳を入れたくなるのはさておき、吉成はこの点、伊波、仲原、外間と同様に、

おもろの主旨は、太陽神がアマミキヨとシネリキヨをお招きになって、島、国造りをさせ、そして太陽神がアマミキヨとシネリキヨの子どもを生むのではなく-この解釈には異論がある-、血筋の正しい人を生みなさいと命じたという内容である。(p.95)

 として、

 先に、アマミキヨを国人の始めとする伝説とは矛盾し、アマミキヨの上に日神(天帝)が重なっていることから、これが成文化したのは、封建王国成立後とする見解があることを紹介したが、これは支配者層(太陽神、天帝子など)を被支配者層(アマミキヨ)の関係が神話化されたものと考える。(p.100)

 と、アマミキヨが創世神でありながら、支配者ではない構造を浮かび上がらせている。谷川の断定調には辟易するが、それは置くとしても、吉成の議論の方によりぼくは説得される。

 谷川は、『中山世鑑』の島づくりの記述が、安須森、今鬼神、知念森、斉場獄、浦原、玉城、久高等々と続くことから、「これを見るとアマミク(アマミキヨ)が沖縄本島の最北端に足がかりを得て南下したことがはっきりする(p.455)」としている。

 ここについて、与論の島人としてのぼくを驚愕させたのも吉成直樹だった。『琉球王国誕生―奄美諸島史から』(2007年)で、おもろを読み解きながら、与論島が琉球王国成立の足がかりになった「根の島」のひとつとして紹介されていたのだ。(この本は与論の図書館にもあった)

(前略)与論島にも武力を行使する支配者がおり「島 かねる」行為を行っていたと考えられる。(p.273)
 トカラ列島の人々が航海に巧みだったことを考えれば「トカラ」の名を持つ神が航海守護を行うことは容易に理解できる。この事実は、トカラ列島から奄美諸島を経由せずに沖縄諸島に渡島したと考えられる集団は、与論島あるいは沖永良部島の奄美諸島南部の島々を足がかりにしたということを想定させる。それはすでに述べたように、沖縄島最北端の辺戸部落に「島渡りのウムイ」があり、この神歌を謳う辺戸部落の古老たちは、祖先神たちが沖永良部島、与論島を経て辺戸にとりつき、辺戸から沖縄の島の歴史が拓かれていったと固く信じているという指摘を踏まえてのことである。(p.275)

 歴史において一顧だにされないことを慣わしのようにしてきたぼくたちにとって、これは驚くべき記述だった。まだ、ある。

巻五-二三七
一玉の御(み)袖加那志 (玉の御袖加那志)
 げらゑ御袖加那志 (げらゑ御袖加那志を)
    神 衆生 揃て (神も人も揃って)
 誇りよわちへ (誇り給いて)
又奥武の獄大主 (奥武の獄大主)
 なです杜(もり)大主 (なです杜大主)
又かゑふたに 降ろちへ (与論島に降ろして)
 厳子(いつこ)達に 取らちへ (兵士たちに取らせて)

 他のおもろも紹介しながら、吉成はこう書く。

 二三七では「玉の(げらへ)御袖加那志」である神は「奥武の嶽大主」「なです杜大主」として与論島に降ろされ、兵士たちに何かをとらせる。二三五では同名の神が始原の首里城で国王に「上下の戦せぢ」を奉る。二三七で「厳子たち」が手にしたのは、まさに「上下の戦せぢ」であろう。
 巻五の始原構築おもろ群のなかで、このおもろ群はとくに難解である。ただ、琉球王国は与論島に始原世界と、武力の根源をみていたことは確実である。そのために、与論島はおもろで「根の島」と呼ばれていたのではないか。(p.279)

 以前も書いたけれど(「根の島としての与論島」)、ここでの驚きは二重にあって、ひとつは与論島が取り上げられていることと、もう一つは与論がおよそ縁遠そうな「武力」に関わるとされていることだ。「イューガマ」だけでなく、これも謎だ。

 吉成はさらに重要な指摘をしている。

アマミをヤドカリの意味にとるのであれば、アマミキヨ・シネリキヨの男女二神は、本来、アマミキヨの一神のみであったが、兄妹始祖のモチーフによって男女二神の組み合わせになったと考えなければならないことになる。これは、シネリキヨがアマミキヨの対句としてアマミキヨと同義、言い換えであることを意味しない。また、ヤドカリを祖先とする観念と兄妹始祖神話のいずれが文化史的にみて古いかについては不明である。(p.278)

 アマミキヨ一神だったのちに「兄妹始祖のモチーフによって男女二神の組み合わせになった」とぼくも考える。また、「ヤドカリを祖先とする観念と兄妹始祖神話のいずれが文化史的にみて古いかについては」、ヤドカリ祖先が古いと考える。人間と動物を同等とみなす観念は、古琉球以前に普遍的なものだと思えるからだ。

 さらにもう一つ。

(アマミキヨの南下の-引用者注)時期として、「アマミ」が考古資料からも、史料からも姿を消す十一世紀以降をひとつの可能性として考えたい。アマミキヨは、民間の神歌や『おもろそうし』では鉄や稲と結びついて伝承されており、それらがもたらされたのはこの時代であることが理由である。その場合、喜界島による「奄美人追討」によるものか、喜界島の交易拠点からの移住者に従っての南下なのかなどについては不明である。(p.164)

 ここで抽出したいのは、アマミキヨの南下が11世紀以降に可能性を持つこと。そして南下したアマミキヨは、既に農耕技術を持っていたこと、あるいは農耕技術を持った集団に随伴したかという可能性だ。

 さて、ここまでつまみ食い的に引いて、やりたいのは荒っぽく、与論シヌグの由来の背景を構想してみることだ。

1.もともとスク到来の予祝としての祭りがあった。踊りもあった。アマンを祖先とする信仰もあった。
2.アマミキヨの南下とともに、稲の儀礼が加わり、シヌグとして奄美南部と沖縄本島等に共有される。
3.倭寇勢力が、沖永良部島、与論島を足がかりに琉球王国成立に関わる。彼らは武力集団であり、シヌグのサークラを構成することはなかった。

 まだたったこれだけのことしか言えない。この構想のなかでは、南下したアマミキヨは、与論ではクルパナサークラとティラサキサークラを構成したということになり、その出自は奄美大島、喜界島の可能性を持つ。かつ、琉球王国成立に関与した人々ではないと見なすことになる。また、この構図のなかでは、シヌグの語源が男神シニグクに由来する可能性も生まれる。谷川の言う「しのくる」(踊る)に由来するのであれば、琉球弧の他島もシヌグ名を冠してもよいはずだからだ。


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2012/01/07

シヌグの由来、語源、起源

 谷川健一の『南島文学発生論』(『谷川健一全集〈第5巻〉沖縄1』所収)によれば、沖縄、宮城島では、スクは三種類あり、それぞれに稚魚と親魚で呼称が違っている。稚魚、親魚の順に並べると、

 ・テダハニスク オーエー
 ・ウンジャミ イノーエー
 ・スク ヤチャ

 スクは、夏、旧暦五、六、七月の朔日(ついたち)の前後にイノーにやってくる。正確な日づけで到来する不思議な魚だ。

 スクは産まれて四、五日のものが大群をなしてイノーに入ってくる。イノーの藻を食ったスクは真赤になり、臭くて食べられない。そこでイノーに入るまえから縦状になってかたまっているスクを一メートル位の処に網を張って待ちかまえる。

 古代琉球はイノーを頼りに生活が営まれた。スクもその重要な寄りもの(谷川によれば一番大切な)である。それは、種類と親子で呼称を分けていることからも伺い知れる。しかも、正確な日にやってくることは漁にとって好都合であるばかりか、神秘的にすら感じさせる。

 そこで谷川は、スクの寄る日とシヌグが行われる日が同じであることに着目し、シヌグを「スクの寄ってくるのを待ち受けた人たちの予祝祭」であると捉えている。たとえば、安田のシヌグで山を降りる男たちの掛け声、「スクナレー」は、谷川によれば、「スク直れ」(「直れ」は豊作の意味)、あるいは「スク魚寄(なよ)れ」の意味だと解する。

 このシヌグの由来がひとつ。もうひとつ、シヌグの語源については、「しのくる」(踊る)というおもろ語と関係があるとして、祭りの際の奔放な踊り、「男女の性的昂奮を爆発させるもの」ですらある踊りに結びつけている。ここでは、シヌグの語源として言われている男神シヌグクや「凌ぐ」という仮説は退けられることになる。

 そしてもうひとつ。シヌグとウンジャミはどちらが先かという議論があるが、小野重朗は、

 シヌグ   山 山の他界神 男性社会
 ウンジャミ 海 ニレーの神 女性社会

 と対比させ、シヌグの方が原始的で古風であるとしている。これについても、谷川は自説を挙げる。

 しかし私から見ればそのような二元的な対立の図式ははじめから想定する必要はないのであって、スクととるときの男性の漁撈とスクの到来を祈願する女の神役とが一体となって作り上げた祭りがまずあった。それがシヌグとウンジャミの二つの祭に分化したものと考えればよいのである。(『南島文学発生論』p.406)

 また、その時期についても、久米島でスク祭がとりやめになり、沖縄本島でもシヌグが禁止された十八世紀初頭と仮説している。

スクの到来とそれを祝福する若い男女の奔放な踊りが見られなくなり、それにかわって神女たちが海の彼方のニライカナイの神を迎え送るウンジャミの形式が育っていったのであろう。のちにシヌグが復活しても、ウンジャミを補完するために山の神を祀る男性集団の祭へと変貌転化を余儀なくされたと私は考える(『南島文学発生論』p.406)。

 というわけだ。

 これを最初に読んだ21年前、五穀豊穣の予祝の形を取っているシヌグとスクを結びつけること、また、語源を男女の交流を含んだ「踊り」に求めていることが両方とも荒唐無稽に思えて驚いた。また、谷川の断定的な論の運びにも違和感を覚え反発した。

 しかし、シヌグのない徳之島で育った松山光秀もスクの到来と稲作儀礼が深く関わっていると『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ 』)で読み、谷川の説は印象を変えた。

 松山によれば、スクは稚魚、親魚の区別どころではなく、「シュク→モハン→ワタブタ→アイヌックヮ→フルアイヌックヮ」と五段階もある。この細やかな観察は、スクの重要性をさらに強調するものだが、徳和瀬では、古くはノロによってフウゴモイと呼ばれる潮溜りで、スクの捕り始めの儀礼が執り行われていた。そしてその近くのユウムチゴモイで夏の折目の祭りの心臓部がある。「夏の折目の祭り」は徳之島版のシヌグのことだ。

このような重要な祭祀場の一角にシュクの捕り始めの儀礼の行われるフウゴモイがセットする形で設定されていたことに注目したい(『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ 』p.54。)

 これは結果的に谷川と同じ着眼だ。かつ、谷川以上に深部から捉えたもののように映る。スクナーレの語義から接近する谷川に対して、松山は五穀豊穣の予祝との接点も見据えているからだ。

水稲文化は人々の目に見えるシュクの寄りという自然現象の媒介によって、はるか彼方のネィラと結ばれていたと言えよう。人々の夢がふくらんでいったのも無理からぬことだと考えられる(『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ 』p.55)。

 谷川と交錯するのはこれに止まらない。「踊り」についても。

人々の喜びが爆発するのは旧六月中旬のカノエの日柄に執り行われる稔りの稲穂の刈取り始めの儀礼、シキュマの日だ。ワクサイからの解放感も手伝って、人々の喜びは最高潮に達したという。この日の前夜、人々は集落内の祭りの広場で夜を徹して踊り狂った(『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ 』p.58)。

 ここでも「爆発」、である。松山はシヌグについて考察しているわけではないから、語源を考えているのではないのだが、谷川の「しのくる」からの語源の導きを問わず語りに助けている格好だ。こう来ると、かつて荒唐無稽に思えた、「踊り」がシヌグの語源だとする仮説も説得性を帯びてくる。ただし、男神シヌグクを語源とする仮説も捨てがたいものがある。シヌグという名称で呼ばれる祭りの分布にはアマミク勢力の南下の進路を伺わせるものがあるからだ。

 シヌグとウンジャミの発生については、谷川のように二元的に考える必要はなく、同一の起源をもつと捉えるのが妥当だと思える。



 

 それにしても、稚魚、親魚の区別、徳之島では五段階もあるスクの呼称について、与論ではイューガマとたったひとつの呼び名しかないのは、以前も何回か書いたけれど(「イューガマの謎」)、不思議でならない。

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2012/01/03

ブログ・ツイッター・Facebook

 このブログを始めてもうすぐ七年になろうとしている。早いものだ。与論というテーマはいつも念頭を去らないから、与論を考える拠点としてここはずっと機能してきたしそれは今後も変わらないだろう。

 けれど、ずっと同じ頻度で書き続けられてきたかといえばそうではない。2010年にはツイッターに重点が移り、2011年はFacebookに移っていった。でも、それらがブログの代替になったのかといえば、考えてみるとそんなことはなく、費やす時間が移行しただけだ。「与論島クオリア」は決して向日的ではないので、観光を盛んにする目的からは一歩引かざるを得ない点が悩みだったが、それをツイッター、Facebookページは担いやすく、そういう場を見出したのは良かった。与論のツイッターやFacebookページで新しい仲間もできた。

 半面、ぼくにとってはツイッターやFacebookは、螺旋状に考えを深めていくのには向いていない。もともと社交は苦手だいうことからすれば、ぼくは本来、ツイッターやFacebookも向いてないのかもしれない。その割には、2009年に『奄美自立論』を上梓したことでひと段落を決め込んだのか、このブログはおざなりになっていた。特に去年は余裕がなくここで自分の基点を確認する時間を持てないできた。

 ひと回りして、ぼく個人にとってのブログ、ツイッター、Faceboookのポジションはこんなところになる。

・ブログ 考えを深める。文章を書く。
・ツイター ケア・コミュニケーションとリアルタイムの情報捕捉。
・Facebook 仕事の延長上のコミュニケーション。

 というわけで、改めてこのブログに費やす時間を取ろうと思っているところ。ブログが主体だったとき、書くテーマ別に四つブログを設けているけど、ビートルズ以外はツイッターやFacebookに吸収するとして、その余はこの場に集約させていきたい。


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ティラサキサークラの行路

 1937(昭和12)年頃の寺崎シヌグ祭祀。

1.ティラサキサークラの座元と供人は物忌みをなし身を清め夕方、寺崎ウガン近くのガジュマルの木の下にこもる。
2.座元はその夜見る夢で、世柄、作柄のお告げを受ける。
3.座元には神が憑依し、神送りをするまでは、神として迎えられる。
4.座元は赤い神衣に赤い鉢巻きを被りヤマブドウの蔓をたすきのように身にまとう
5.供人は白い神衣をつけ、デークの束を持つ

6.座元、供人の他に座元親族等の関係者数十人(パルシヌグ一行)が同行してターヤパンタへ。
7.原野や畑地の神道(シヌグ道)を通り、途中四箇所の石の周囲を各々一回、左回りにまわって進む。
8.ハジピキパンタでも石を一周した後、しばらくそこでハジピキパンタの地主の接待を受ける。

9.ターヤパンタでむっケーシヌグの旗が立つとそれを目標に進む。
10.寺崎出発後、三時間でターヤパンタ到着。
11.ターヤパンタでパルシヌグとムッケーシヌグが対面。
12.グスクマサークラの座元はパルシヌグを迎え、今年の世柄、作柄について尋ねる。パルシヌグの座元は夢のお告げに従って告知。
13.子どもたちはパルシヌグの座元が身にまとっているヤマブドウを争って取って食べる。これを食べると次のシヌグまで無病で過ごせるという。
14.子どもたちは用意されたデークを分け持って、各家々のヤーウチに出発する。
15.一行はターヤパンタ近くの畑で宴を開く。
16.この時の人数はクルパナシヌグを合わせて200人以上。

17.宴を終えると、パルシヌグとムッケーシヌグは列を作ってサト地区へ進み、シチャーターという場所でウウクイをする。
18.東の海の方に向かってデーク、ヤマブドウ、シヌグ旗の竹竿を投げ捨て、「ワープニトゥ、ウラプニトゥ、ワープニヤパイベーク」と唱える。
19.パルシヌグの座元は赤い神衣を振りながら、カリユシドーと叫んで神送りする。

(これ以前の寺崎シヌグの座元の行動)
・当時は、プカナサークラも寺崎サークラの迎えシヌグとして、ターヤパンタに来ていた。
・寺崎サークラのパルシヌグ一行は、ターヤパンタでグスクマサークラと別れて、プカナと正サークラに行って酒宴の後、インジャゴーの辺りを通り、ウタナの井戸の傍にある小高い石の上に装束を解いて石の上に乗せ、拝礼してお送りをなした。
(「那間シヌグ」、平成19年。小野重朗の「与論島のシヌグとウンジャミ」を引用したものと思われる)

・ハジピキパンタでは地元のハジピキサークラと合流して祭事が行われた。
・ターヤパンタでは、ムッケーシヌグのグスクマサークラとメーダサークラの出迎えを受け、共同の祭事と酒宴が行われる。
(「シニグは農耕文化・歴史を後代に伝える為に先祖が想像した伝承遺産である」2006年、たけうちひろし)


 ここで抽出したい構造は、

・シヌグが、神が憑依する側(パルシヌグ)とそれを迎える側(ムッケーシヌグ)に分かれていること
・以前は、ハジピキにもハジピキサークラが存在したこと
・以前は、プカナサークラもムッケーシヌグだったこと
・その頃、寺崎サークラはプカナと正サークラに行って酒宴を開いて神送りをしたこと

 現在のシヌグは簡素化の一途を辿っている。『与論島―琉球の原風景が残る島』でも既に、寺崎サークラは考察の対象外になっている。また上記のような記録がなければ、ハジピキサークラの存在も、かつてプカナサークラが寺崎サークラのムッケーシヌグだったことも分からず仕舞いだ。最盛期のサークラ数は『与論島―琉球の原風景が残る島』に記憶されている17に、寺崎とハジピキを加えた19であるというわけでもない。野口才蔵の『南島与論島の文化』では、25をカウントしているが、これが最盛期の近似値だろうか。

 シヌグも、他の与論の民俗事象と同じように雲をつかむような作業を強いられるのだが、ただそれでも、この寺崎サークラの行路から言えるのは、彼らが与論に農耕技術をもたらした勢力を象徴しており、パルシヌグとムッケーシヌグの合流に、在地住民との関係が凝縮されちるのではないかということ。また、寺崎サークラとプカナサークラが、シヌグの宴の後、正サークラに向かうという中には、与論の最古集団に対する儀礼も含まれていたように見え、シヌグが与論の共同体の成り立ちを証言するものであることを示す。その構造は抽出できるように思う。


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2012/01/02

「呪い」と「リトル・ピープル」と

 内田樹のおどろおどろしいタイトルの『呪いの時代』が売れていると聞く。そうだとしたら、それはここに書かれているにリアリティがあるからではないか。多くの人の、今の社会に対する現実感を言い当てているからではないかと思う。

 攻撃的な人が増えている。「呪い」の言葉を浴びせる人が。合い言葉は「待ったなし」。待ったなしの事態なのだからやるしかない。こうして他者を思考停止に追いこんでゆく。しかしこのとき思考停止をしているのはそこに追いやられる人ばかりではなく、まずもって「待ったなし」と号令している当の本人だ。待ったなしによって責任も回避される。なにしろ、待ったなしだったのだから。「呪い」の言葉を浴びせる人は自己承認に他者を必要とする。もちろん、もともと人は他者承認によって自己像を築くものだから内田が言うように“自分探し”はイデオロギーになる他ないけれど、他者承認の招来を待つことと他者承認を強要するのとは別のことだ。そこで、「呪い」の言葉を浴びせる人の他者承認は強迫的にならざるをえない。泳ぐのを止めてしまったら死んでしまうある種の魚のように、常に他者承認を求めずば彼らの自己承認は満たされない。かくして「呪い」は常に生産されてしまう。

 けれど、「呪い」は必ず自分へ回帰し自己に復讐するだろう。内田はそこで、「呪い」ではなく、「祝福」が必要なのだと書く。

 この文脈を引き継ぐように、「『腹の読めないおじさん」から「のっぺりしたリーダー』へ」では、政治のリーダーシップへ敷衍して、いつの間にか政治のリーダーも、「何を考えているのか分からない、けれど任せておきたいおじさん」から「チキンレースでブレーキを踏まないガッツな兄ちゃん」に交替したと見なしている。これもリアリティがあると言わなければならない。

 「チキンレースでブレーキを踏まないガッツな兄ちゃん」は、反対者を組みこめないから、人は思考停止に追いやられていく。思考停止のなかでは、人は幼児化する。厚木空港を降りたマッカーサーが日本人を指して、「十二歳の少年のようだ」と言った状況にすぐに逆行してしまう。戦後とはいったい何だったのか。「水戸黄門」は終わった。もう誰も紋所を出すことはできない。けれどそこで貌を出したのは意思を持った自立した個人ではなかった。ビッグ・ブラザーの時代から『リトル・ピープルの時代』(宇野常寛)に変わってしまったのだ。「チキンレースでブレーキを踏まないガッツな兄ちゃん」とは、さしづめ小ビッグ・ブラザー化を目論む者たちの謂いだ。

 宇野は<ここではない、どこか>を求めてもそれはなく、<いま、ここ>にどこまでも潜っていく他ないと云う。思考の運動としてはそうだろう。しかしぼくたちは生身の自然なのだ。縁無き場所からは立ち去るしかない。昨年の出来事は、地震と津波という自然と原発という人工とに晒されている身体は、生身の自然なのだということを突きつけた。ケアと祝福とが不可欠なことは言うまでもない。



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2012/01/01

2011年暮れの東北行

 2011年の暮れ、東北に行ってきた。東北といっても、一泊しかなかったので気仙沼と石巻に限ってのこと、そして物資を運ぶでもなくボランティアでもなく、ただの旅人としてだけれど。東京から正味四時間、気仙沼はもう日も陽も陰っていた。とにもかくにも港へ向かう。信号が復旧してだいぶ元に戻ったと街の人は言う。ただ、海が近づくにつれ、一階が消失したままの家屋や、根こそぎ無くなった更地が点在している。瓦礫は自衛隊とボランティアのおかげで見るみるうちに無くなったそうだが、あったはずのものがない廃墟感があたりに漂う。

 港は当然のことだけれど、空気が冷たい。寒いというのは、冷たさが肌に直接当たる感覚を言うのだなと思った。「日差し」に、この字ではなく、「陽射し」と当てたくなるのは、太陽が直接当たる感覚を表わしたくてそうするのだけれど、それと同じ感覚が「寒さ」にもあるわけだ。手が一気に冷たくなる、いや痛くなる。気仙沼大島へ向かうフェリーの横には、暗くてよくは見えなかったが、折れて漂流した桟橋が港の端に傾いたまま放置されてあった。

 近くには十一月にオープンしたばかりの仮設店舗の屋台村「気仙沼横丁」があり、そこで腹ごしらえのお世話になることにした。混んでいる店は気後れするので、ひっそりとした佇まいの店に。女将と弟が営むその店は、津波で家屋を海に持って行かれたと教えてくれた。二人とも気仙沼を離れていたが、これを機に戻ってきたのだと。そこへほろ酔いの初老の男性が入ってくる。そして店を出ようとするぼくを引きとめて、少し話を聞いてくれと言う。

 ダンボール二枚敷いてよ、こんな薄い毛布あてがわれてよ。どうすっぺって身体震わせてよ。「眠れないですね」。眠ったら凍死すっぺさ。仮設住宅ってそんなとこよ。オレは経験したから分かる。この屋台村だってみんな借金だよ。どうすっぺ。女房がいたって子どもがいたって一人になったら辛いよ。お兄さんも経験したら分かる。一人旅と違うんだから。仕事があったらまた別だよ。毎晩、テレビ見てそれでもたまらないからここにこうして呑みに来るわけ。財布と相談しながらよ。お兄さん、今日の日記に書いといてよ。

 彼の話をまた聞きたいと思うけれど、その機会はあるだろうか。

 翌朝、タクシーの運転手さんに頼んで少し走ってもらうと、辺り一画のほとんどが基礎だけ残して更地と化しているのに驚く。鹿折(ししおり)と呼ばれる場所。でもその向こうに巨大な漁船の姿が見えてさらに驚いた。第十八共徳丸。港から百メートル以上は離れているそこに一隻の漁船が目立った傷もなく、そこに置き場所を間違った展示物のようにぽつんと立っている。更地と漁船と。これが津波の威力というものか。いやそれはもう津波というより、海そのものの力だ。

 あの日、漁に出た漁船は津波に向かって真っすぐに進んで助かっているけれど、休んでいた漁船は持って行かれるか打ち上げられたそうだ。小さな漁船はほとんど撤去されたが、第十八共徳丸はまだ手つかずのまま残されている。これをモニュメントとして残すか、それとも撤去するかは、地元でも議論がまだ分かれているのだという。

 更地と化した一画に接するように、ひしゃげた旅館、ガタガタのサービスステーション、L字のビルの角にあって難を逃れた蔵(いやそれは難を逃れたとは言えないのだが)、時を止めたように凍った毛布。それらがあの日の証言者のように孤立した姿を晒している。

 近くの高台には神社があり、そこからの気仙沼湾の眺めはあくまで静かだった。あの日、この高台からは周りが海と化していく様子がまざまざと見えたのに違いない。GoogleMapで見ると、ここからすぐ北に陸前高田がある。

 気仙沼と石巻を結ぶ気仙沼線は津波で駄目になってしまっているので、気仙沼から石巻へ向かうには一度、内陸へ向かい、南下して東へ向かう迂回路を取る必要があった。乗り継ぎも東京のようにはいかない。途中、北上川を横切る。やはらかに柳あをめる北上の岸辺。実際に見る北上川は水彩の黄緑に鈍く光っていた。大きな川だ。結節点の小牛田(こごた)では、食べログで饅頭屋、「山の神まんじゅう村上屋」を見つけ、立ち寄る。かつては何軒もの饅頭屋で賑わったが今はこの一軒を残すのみになったそうだ。鉄道の結節点としてそこに従事する人と行き交う商売人とで賑やかった一時期があったのだろう。遠くに山を見通して田畑が広がる風景のなかではどんな物語が生まれ、人はどんな自己形成を果たしていくのだろう。

 石巻は、駅の改札でこの街が何を売り物にしているか教えている。街中も、サイボーグ009や仮面ライダーやロボコンの像があちこちに立っているので、何だか守られている気分になってくる。もちろん、守ってくれたわけではなく、ここでも海へ近づくにつれ、がらんどうになった一階や更地が目立った。いやそれでも、「倒れなかった、仮面ライダー」と新聞記事が伝えたように、彼らは歯を食いしばっているこの街を今こそ象徴しているのかもしれない。旧北上川の中州にある石森漫画館は一階部分が津波に洗われ今も休館中だった。けれど、入口付近の壁には板が張られ、幾重にも寄せ書きが記されていて、訪れた人の想いが詰められていた。

 ここでもとにかく港へ行きたかった。石巻出身の作家、辺見庸の「死者にことばをあてがえ」という詩が気になり、彼が遊んだという石巻の海を見たかった。

類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを 百年かけて 海とその影から掬え

 「かれやかのじょ」というのは、津波による死者たちのことだ。

 28日に操業を終えた漁港は静かだった。そしてきれいだった。その静けさと美しさは、まるで何事も無かったかのように時代を進もうとする世相を思わせて少し辛くなる。漁港の向こうには、津波を真っ先に引き受けた地域のひとつである牡鹿半島が見渡せた。けれど、何も無かったということはありえない。振り返れば、できたばかりの市場の壁が骨組みだけ残し、そこに冷たい風が吹いていた。

 海に向かって手を合わせた。気仙沼でもそうした。そうしてやっと、これがしたくて来たのだと思いいたった。


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(この角度で撮りたくなるのは、「宇宙戦艦ヤマト」を観て育っているからだろうか)

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