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2012/01/31

与論シニグ・デッサン 3

 プカナ、サトゥヌシ、ニッチェーの後、城地区のサークラまでの記述を野口は割愛しているので、『与論島―琉球の原風景が残る島』の高橋の助けも借りると、三サークラの後に続くのは、プサトゥ、ユントゥク、クルパナである。野口によれば、高橋のフィールドワークの時点では廃止になっていたユクイもこれに加わる。

 これらのサークラは、クルパナをパルシニグとしてムッケー(迎え)を行う一群である。ティラサキ(寺崎)をパルシニグとするムッケーの形態と並列して存在したわけだが、寺崎のそれが政治的な擬制を伴っていたと考えてきた後には、このクルパナについても手放しではこれが原型を止めているとは言えなくなる。クルパナをパルシニグとする原型があったから、寺崎をそれに倣ってパルシニグとしたのか、それとも、寺崎、クルパナ(黒花)ともに、政治的な編成を伴っているか。どちらも可能性があるとしなければならない。

 もうひとつ、寺崎は龍野の経緯により城地区のグループに加えられているが、城地区からの別れサークラが茶花、立長地区を主な移住先としたことを踏まえると、那間地区を中心に移住先を持った寺崎は、与論への来島の後先でいえば、プサトゥ、ユントゥク、クルパナ、ユクイのなかにあるのでなければならない。同様にハジピキも。城地区の島人がやってくる前に寺崎サークラが存在したとすれば、である。ここは島の人に実際に聞いてみるしかないが、まだできていない。

 ただ、これらのサークラがいずれかのサークラから分離したものではなく独立してあったという言い伝えに添うなら、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシの後にも、小さな集団が与論に次々と来島した経緯があったのを推し量ることができる。そして彼らは大和からの人々を含むグスク時代の琉球弧の人口膨化の一端を担った、主に北からの流入であったと考えられる。

 ここで関心をそそられるのは、ユントゥクサークラである。野口によれば、

 因みに徳田峯中氏は、ユントゥクダークラの「アイスヌ」というヲナイ神を祭っており、徳田有秋氏は「マクロク」という男神を祭り、徳田有秋氏がシニュグ祭の座元である。(p.86)

 とあることだ。シニグや琉球弧にはアマミク、シニグクの名がよく知られているが、男女二神はそれだけではなく、小さな信仰集団がいくつも存在した可能性を伺わせる。同時に、ユントゥクサークラはウンジャン祭を行っていたことを踏まえれば、複雑だが一方でアマミキヨとの類縁性も高いことになる。また、喜山康三からプサトゥはウプサトゥが原型でウが脱音したものではないかと聞いたが、するとプサトゥは「大里」とみなすことができる。「里主」を連想させる命名だが、それだけ各サークラは内閉性が高かったことになるわけだ。

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