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2012/01/30

与論シニグ・デッサン 2

 野口才蔵が『南島与論島の文化』において、居住地の位置、居住地からの湧泉や耕作地との距離や位置から、各シニググループの与論への定住の順序を考察しているのはとても妥当jなアプローチに思えるので、それに従うと、ショウ・グループの後に定着したのは、プカナ・サークラだった。

 ここで関心をそそられるのは、プカナが与論の創世神話を持っていることだ。

プカナダークラの座元の方は梶引半田に船の梶がひっかかり島に上がって、南進し(シニグ神路を通って)更に東進して、国垣で暮らしている時、二羽の鳥が兄妹の前で夫婦の契りを結ぶのを見て、この兄妹も、それを見まねて、夫婦のちぎりを結んだので、子孫が栄え島中にひろがったとの、民話を信じられる。

 これは与論の創世譚としてもっともよく知られた民話あるいは神話である。さらに野口は書いている。

ずっと以前には、ハジピキに六〇坪ばかりの土地があったが、七〇年前、親(話者竹菊政氏の親の時代に)が売ってしまったのは、遺憾であると語られた。(昭和四十九年聴取)民話と一連をもたせたこの話は、何と現実的響きの強いことよ。

 野口の感慨の通り、民話の存在とハジピキ所有の記憶はプカナこそ、創世神話の所持者であり、ぼくたちがこれまで寺崎サークラのものと見做してことに撤回を求めるものだ。「プカナサークラの受難」で見たように、この間の経緯は、琉球系の龍野が寺崎の土地を購入し、寺崎サークラを所有したことに依っている。琉球王朝支配以降に来島した龍野がプカナに所属するに至る経緯も野口は押さえている。龍野家の「系譜伝録」によれば、1706年に代官制度が厳重になり、薩摩により「宝物」が没収されるのを恐れて城(グスク)からプカナサークラの居住する地域へ移住したというのだ(p.72)。これにより、プカナ・サークラは寺崎サークラのムッケー・シニグを演じた時代を持つことになるのだが、ということは、それ以前は、プカナ・サークラこそ、寺崎のパルシニグであったのかもしれない。さらにプカナこそ、アマミキヨの集団なのかもしれない。

 プカナの次に野口が取り上げているのは、サトゥヌシ・サークラだ。このサークラは「沖縄より渡来」という伝承を持っているという。この伝承を信じるなら、プカナが寺崎という北方から島に入ったのに対し、サトゥヌシは南から入ったことになる。

 ここまでのサークラが麦屋井(インジャゴー)の湧泉を拠点としたのに対して、ニッチェー・サークラは木下井(シーシチャゴー)の湧泉に依っている。野口はニッチェーの出自について、これといった伝承がないからと、「北のシニグ半田(高い岩の上で)シニグ系の神を迎えることから、おそらく北方の海から渡来して来たのではなかろうか」と推測しているが妥当だと思う。ニッチェー・サークラが人口的に大集団であることが、11世紀以降、奄美大島や大和からの流入により琉球弧の人口が一気に増えたという歴史的背景を置くと、その流入集団の一派と見なすことができるのだ。ただ、ニッチェー・サークラが与論の按司時代を象徴する集団であってみれば、彼らは大和の武士的集団というより、奄美の倭寇的な存在なのではないだろうか。

 サトゥヌシとニッチェーの前後関係について野口は一部、混乱した記述を見せているが、『与論島―琉球の原風景が残る島』で高橋誠一は、「分布の面で見る限り、両サアクラの構成員の移住は、先後をつけがたいほどに重複して行われた可能性が高いと言わざるを得ないのである」(p.122)としている。思うに、両サークラはその初期に按司の座を巡って激しく対立した時代を持ったのではないか。ニッチェーは与論の英雄譚、アージニッチェーの物語を持ち、サトゥヌシは「里主」の意味である。両者は対立の後に、ニッチェーが勝者となる。サトゥヌシ・サークラはスーマ・サークラという別称を持つが、それは敗れたことにより、サトゥヌシという名称が抑圧された結果、生まれたのではないだろうか。

 これらのことから、プカナ、サトゥヌシ、ニッチェーが与論にやてきたのは、11世紀から12世紀にかけてのことではないかと考える。こう見る時、ショウのグループがいかに長い間、与論に先住していたかを知るのだ。

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