プカナサークラの受難
シニグを考えることの愉楽は与論の島人の到来の時期を構成できることにある。いつ、どこから来たのか。それを知ることに、自分自身の由来を重ねているのだ。その魅惑は抗しがたいものがある。
今回の帰省でふいに気になったのは、プカナサークラだ。
2005年に上梓された『与論島―琉球の原風景が残る島』によれば、著者たちはプカナの構成員の残存率と判明率の低さに驚き、「何か特殊な事情があった事を想定させる」と、居住地の悪条件をひとつの仮説として提示している。
野口才蔵の『南島与論島の文化』では、プカナについてハジピキパンタの民話を所有していると書いている。
プカナダークラの座元の方は梶引半田に船の梶がひっかかっり島に上がって、南進し(シニュグ神路を通って)更に東進して、国垣で居住されたが、後にプカナの土地に移ったということである。最初、国垣で暮らしている時、二羽の鳥が兄妹の契りを結ぶのを見て、この兄妹も、それを見まねて、夫婦のちぎりを結んだので、子孫が栄え島中にひろがった(後略)。
という民話だ。
これが関心をそそるのは、竹内浩の『辺戸岬から与論島が見える』のなかでは、この民話譚は、ティラサキサークラが辿る神路として提示されていることだ。当の竹内も関心を抱き、「このティラサキサークラのカミミチの経路は、何故か前章で述べた与論の創世神話『シマナシヌカミヌパナシ』の島の話とよく似ている」としている。
これまで考えてきたのは、ティラサキサークラの集団は、与論島に北方から入り、農耕技術をもたらしたということだった。であればこそ、農耕技術以降と想定される神話をこの集団は持ち、シヌグにおいても農耕の吉凶を占い、他のサークラに迎えられる立場を占めていたのだ、と。
しかし、神話化される以前の民話を、プカナサークラが持っていたとすれば、話は少し違ってくる。ティラサキサークラの勢力は実際には、ハジピキパンタを通過したのではなく、プカナサークラが所有していた民話を自ら吸収し神話化したということだ。在地集団の民話を、自ら神話化し権力化するのはアジア的な農耕共同体に見られる構造なので、これはありうる話だとしなければならない。
けれど一方、プカナがこの民話を持っていたとしたら、ショウサークラを始めとした麦屋集団に対するプカナの集団の与論への上陸は、はるかに後になる北方からの流入であったという可能性が生まれる。
『南島与論島の文化』では、ティラサキの属するシニググループにはプカナは入ってない。しかし、『辺戸岬から与論島が見える』には、プカナは、「以前は、ティラサキサークラのムッケーシニグだったと言われている」とある。これを踏襲すると両者に接点はあったわけで、この時に、ティラサキ集団によって、民話が吸収されたか、ティラサキの持つ神話をプカナが受け容れたか、どちらの可能性も今のところ否定できない。
ただ、プカナが持つ民話が、ティラサキサークラによって神話化されたかもしれないこと、現在、その残存率と判明率が低いことなどから、このサークラの受難を垣間見るように思えた。
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