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2011/12/20

『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』

 吉成直樹の『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』が近年の考古学などの研究成果を踏まえて開陳する琉球弧の歴史像は、刺激的だ。

 琉球弧には南方のオーストロネシア的世界が広がっていた。歴史上の記述に奄美が登場するのは、657年、『日本書紀』での「海見」を嚆矢とするが、この頃にはヤコウガイを物産とした交易システムが奄美大島を中心に形成されていた。9世紀後半にはこの交易によって、鉄器も奄美に持ち込まれている。

 7世紀から8世紀半ばまで「奄美」の記述が見られるが、その後、しばらく姿を消す。「奄美」が再び記述に現れるのは、十世紀の終わり、「大宰府管内襲撃事件」の当事者としてである。997年、「南蛮(奄美人)が大宰府管内に乱入し、人や物を略奪したという。このとき、大宰府が「貴駕島」に南蛮の追捕を下知し、翌々年の999年には大宰府は南蛮賊の追討を言上。歴史上の記述で初出となるキカイガシマには、このとき城久が形成され、そこが国家による南島経営の拠点とされる。ここの喜界島は国家「内」であり、奄美大島は国家「外」であったことになる。

 十一世紀からの史料では「アマミ」は姿を消し、「キカイガシマ」が登場する。国家拠点としての喜界島は、この辺りから性格を変え、国家「外」の存在と見做されるようになっていた。南九州の勢力により国家の管理の及ばない交易拠点となっていたのではないか。また、喜界島の管理のもと、徳之島でカムィ焼きの生産が始まり、喜界島で消費される。カムィ焼きは高麗の陶工が実際の生産にも携わっていた。国家外の交易拠点としての喜界島には、高麗商人の関与が大きく認められる。奄美の「大宰府管内襲撃」も、高麗人の関与が認められるのではないか。

 この11世紀から「奄美」は再び歴史上の記述から姿を消す。

 これとは別系列で吉成は、アマミキヨの南下についても考察している。アマミキヨ、シネリキヨが現れる神歌の分布で興味深いのは、本家である奄美群島にはほとんどなく、多くは沖縄諸島に分布しているということ。

 こうした分布のあり方は、奄美群島のアマミキヨ、シネリキヨ神話が沖縄諸島に南下し、その後に奄美群島にナルコ、テルコ神話が浸透したということを示唆する。神話が南下するとは、神話の担い手が南下したということにほかならない。

 アマミキヨの南下については外間守善などの考察によって知られている。けれどそこに、このグスク時代前後の奄美の歴史を背景に置くと、想像力を刺激されてくる。吉成もアマミキヨの南下は11世紀以降だと仮説しているが、仮にそうだとして、12世紀後半、源頼朝の喜界島征討により圧迫された奄美大島のアマミキヨ勢力が南下したものか、そうだとすれば倭寇勢力もその一員だったのか。またそうではなく、征討により南下を余儀なくされたのは喜界島の勢力だったのか。そういう問いが生まれてくる。

 ただ、南下したアマミキヨはアマミクとシニグクの二神を仰ぐ農耕技術を携えていることを踏まえると、もともとの在地の民ではなく、奄美に南下した勢力がこれらの神話を持った後、さらに南下したのだとすれば、その時期はさらに後ろになるのかもしれない。

 いまこれ以上のことを付け加えることはできないのだけれど、それでも別のことが腑に落ちてくる気がする。吉成も指摘するように、「奄美」という呼称は他称であると見なしてきた。それは琉球弧では大島と呼ばれ、「奄美」とは呼称されていないように、これが地名として根づいていないことを根拠にしていた。しかし、7世紀に「海見」と記述されたとき、そう他称する地名ないし信仰があったはずだ。それが空虚であるのは他称の度合いの強さと見なしていたけれど、そうではなく、そもそも南下したから空虚になってしまったのではないか。つまり、「奄美」が「奄美」を去ったために、地名としての奄美は空虚を余儀なくされたのではないか。そういう仮説が湧くのだ。

 これは吉成の論とは別にこちらが勝手に想像することである。しかし、南下したアマミキヨによって、ぼくでいえば、与論の創世神話も整備され、共同祭儀としてのシニグも形成されたのは確からしく思われる。

 吉成直樹の『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』は近年の研究成果を広く概観できるように配慮された網羅性があり、琉球弧論として今年最大の収穫になった。 


7c~8c 「奄美」の朝貢
9c 喜界島城久遺跡
10c終り 奄美人の大宰府管内襲撃。喜界島への追討の下知。
11c 喜界島、異国の扱い
11c ヤコウガイ大量出土遺跡群が終焉を迎え、徳之島でカムィ焼生産が始まる
12c末 喜界島、日本の内

 国家の枠組に入っていない奄美大島と枠組に入っている喜界島。

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コメント

 おはようございます。
喜界島の遺跡発掘現場を5年ほど前に見る機会があった。  歴史が書き換えられる気がした。

 自分が何処から来たのかは 知りたい。
死んだら  どうなるだろうか・・・、
今生きるとは どういうことかなどなど・・・、
自分学で老後を生きよう。

 次なる考察を期待しています。

投稿: 泡 盛窪 | 2011/12/24 06:32

盛窪さん

南下したアマミキヨ勢力。ふつうに考えれば、ティラサキから上陸した人々だと思うのですが、いかがでしょうか?

投稿: 喜山 | 2011/12/28 09:28

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