« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011/12/28

プカナサークラの受難

 シニグを考えることの愉楽は与論の島人の到来の時期を構成できることにある。いつ、どこから来たのか。それを知ることに、自分自身の由来を重ねているのだ。その魅惑は抗しがたいものがある。

 今回の帰省でふいに気になったのは、プカナサークラだ。

 2005年に上梓された『与論島―琉球の原風景が残る島』によれば、著者たちはプカナの構成員の残存率と判明率の低さに驚き、「何か特殊な事情があった事を想定させる」と、居住地の悪条件をひとつの仮説として提示している。

 野口才蔵の『南島与論島の文化』では、プカナについてハジピキパンタの民話を所有していると書いている。

プカナダークラの座元の方は梶引半田に船の梶がひっかかっり島に上がって、南進し(シニュグ神路を通って)更に東進して、国垣で居住されたが、後にプカナの土地に移ったということである。最初、国垣で暮らしている時、二羽の鳥が兄妹の契りを結ぶのを見て、この兄妹も、それを見まねて、夫婦のちぎりを結んだので、子孫が栄え島中にひろがった(後略)。

 という民話だ。

 これが関心をそそるのは、竹内浩の『辺戸岬から与論島が見える』のなかでは、この民話譚は、ティラサキサークラが辿る神路として提示されていることだ。当の竹内も関心を抱き、「このティラサキサークラのカミミチの経路は、何故か前章で述べた与論の創世神話『シマナシヌカミヌパナシ』の島の話とよく似ている」としている。

 これまで考えてきたのは、ティラサキサークラの集団は、与論島に北方から入り、農耕技術をもたらしたということだった。であればこそ、農耕技術以降と想定される神話をこの集団は持ち、シヌグにおいても農耕の吉凶を占い、他のサークラに迎えられる立場を占めていたのだ、と。

 しかし、神話化される以前の民話を、プカナサークラが持っていたとすれば、話は少し違ってくる。ティラサキサークラの勢力は実際には、ハジピキパンタを通過したのではなく、プカナサークラが所有していた民話を自ら吸収し神話化したということだ。在地集団の民話を、自ら神話化し権力化するのはアジア的な農耕共同体に見られる構造なので、これはありうる話だとしなければならない。

 けれど一方、プカナがこの民話を持っていたとしたら、ショウサークラを始めとした麦屋集団に対するプカナの集団の与論への上陸は、はるかに後になる北方からの流入であったという可能性が生まれる。

 『南島与論島の文化』では、ティラサキの属するシニググループにはプカナは入ってない。しかし、『辺戸岬から与論島が見える』には、プカナは、「以前は、ティラサキサークラのムッケーシニグだったと言われている」とある。これを踏襲すると両者に接点はあったわけで、この時に、ティラサキ集団によって、民話が吸収されたか、ティラサキの持つ神話をプカナが受け容れたか、どちらの可能性も今のところ否定できない。

 ただ、プカナが持つ民話が、ティラサキサークラによって神話化されたかもしれないこと、現在、その残存率と判明率が低いことなどから、このサークラの受難を垣間見るように思えた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/12/27

与論の浜、ほぼ全図

 4年前、2日かけてだったろうか、与論の砂浜を全て見尽くそうと自転車で走りまわったことがある(「与論砂浜三十景」)。まだ陽射しは強く、南岸の、ただならない気配を放つダルバマの斜面では、もう一歩も歩けないとしばし倒れこんで荒い息を吐きながら、怖くなったのを覚えている。何が哀しくてそんなことをするのかと聞かれても自分でも分からない。それをやらないでは気が済まないとなると、どうにも鎮めようがない。鎮まりたまえと言ってみたところでアシタカのように無力だ。

 そのときは、計34の浜を巡っている。

 今回、図書館の方の親切で島の資料を漁るうちに、与論の海岸沿いの地名を整理した表に出くわした。で、これに出会いたかったとばかりに浜をマッピングしてみた。数えると50になるので、4年前は約7割をカバーしたことになる。まだまだだったんだね。浜の名前は地元の言葉に依る。だから、クリスタルなんとか等は、ここでは退場願った。また、半可通のぼくのことなので、場所が曖昧で厳密には間違っているものもあるだろう。それは、ご存知の方が指摘してくれるとありがたい。特に、南岸のメーバルとワタンジの間の浜は、「ユバマ」が消され、訂正のように書かれた「ウパラ」も消されているので不明のままにしている。

 この小さな島がこれだけの浜の地名を持っているのは驚くべきことだ。それだけ、浜が生活に密着していたということであり、また与論が砂浜の豊かな島であることも告げている。自ずとぼくはここで、「ゆんぬ」の由来がユナ系の「砂」の意味だという自分の主張の根拠に、これを加えようとしているわけだ。



より大きな地図で 与論島のほぼ全ての浜辺 を表示


(北から反時計回り)

ウヮーチ
ナードゥンダ
イチャジキパマ
ナホーバッタイ
シナパ
アイギ
フバマ
ウドゥヌスー
アガサ
ミシヌパマ
ウシオオシバマ
イチョーキ
ダイヌパマ
イーガマ
ナーシー
ハニブ
フバマ
ウブラ
ホータイ
トゥムイ
マンマ
ナガサキ
ムリサンバマ
ハキビナ
ナミンブ
ウヮーヌマキ
ヘーシ
シゴー
ハミゴー
ピャーシ
ダルバマ
ウジジ
メーバル

ワタンジ
タティダラ
アーサキ
ムティバマ
シーラ
トゥーシ
パマゴー
ウプガニク
ユリガハマ
プナグラ
ナガピジャ
ワリバマ
ミナタ
イシバマ
クルパナ
ティラザキ
トゥマイ
ナーバマ
ユバマ

※1.12/27 喜山康三さんの指摘でムディバマを追加。合計51。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011/12/26

ハジピキパンタの威容

 12月23日午前、島の創世神話に名高いハジピキパンタに出かけた。先月、歴史遺跡として見学が可能なようにだろう、樹々の伐採が行われたのを知り(ハジピキパンタ「さすらいの風来簿」)、足を運んでみることにしたのだ。ここはこれまで気になりながらも定かな位置が分からず、見ず仕舞いだった。もっと言えば、丘の上に岩がひとつある程度という貧しい想像力しか持ち合わせていなかった。

 しかし、その全容を見るに及んで、創世神話の場に相応しい威容を誇っていることが分かった。

Hajipiki3

 ハジピキパンタは島の中央部の高台に位置している。ここは与論島の創世にまつわる神話の場所として名称だけはよく知られている(cf.『与論島の生活と伝承(1984年)』など)。神話によれば、アマミクとシニグクの姉弟神が、舟で魚取りをしようとした際、舟の舵が浅瀬に引っかかり、それが見るみる盛り上がって島になった。やがてミーラ嶽が続きそれが繋がって与論の島は産まれた。つまり、ハジピキパンタとは、舵引きの丘という意味になる。



より大きな地図で ハジピキパンタ を表示

 「ハジピキパンタ」(さすらいの風来簿)のおかげで、ここは岩がいくつか連なっていることは分かっていたが、それどころではない渓谷と呼びたくなるような規模を持っていた。渓谷の谷間の南の端の断崖はガジュマルの根が幾重にも降り、ウガンとしての意味を持っただろうことが想像される。そこから南へ数十メートル、谷間は続く。谷間の東側の岩は中ほどで最も盛り上がり、舵を引っかけたと指定されるべき珊瑚岩も予想がついた。ただの小さな岩ではない。初期島人が一定期間、ここを居場所としたとしてもおかしくない広さもある。

 島の最高峰のある城(グスク)ではなく、ハジピキパンタが島産みの場所として神話に指定されているのは、あることを物語る。それは、この神話を作った勢力が島の北から上陸し、この地まで辿りついたということだ。島の四方の海が見渡せるこの地に立つと、それは俄然リアリティを放ってくる。また、この島が珊瑚礁の隆起によって成り立っていることもハジピキパンタは明かしている。ぼくは神話やシニグ祭の構造に接近する足場を得たようで、心踊る想いだった。

 それはこれからの課題なのだけれど、もうひとつ差し迫った課題もある。それは、この手の歴史的場所の扱い方だ。歴史的遺跡は、「開発」ではなく「手入れ」が必要だということだ。画像に収めたくなくてなるべく入れてないが、ハジピキパンタの樹々は無残なまでに伐採されていた。根を張り巡らせたガジュマルの木も刈られて見る影もない。これはハジピキパンタに対して、農地や住宅として整地するのと同じ、開発するという発想で臨んでいることを意味している。これでは、初期島人が体感したであろう精霊の宿る聖域としての力は失われてしまう他ない。巨岩と巨木は精霊の降りる場所として最初の信仰の対象になるものであり、それは人類に普遍的なあり方だ。今後、不用意なコンクリートの流し込みや不似合いな看板の設置が行われないことを望みたい。せめて、ハジピキパンタの価値を理解する人々との協議のもと、名所としての手入れを行ってほしい。


Hajipiki1_2

(パンタの北の端。ガジュマルの根が降りる。ここはウガンとしての場所だったと思う)


Hajipiki2

Hajipiki4

Hajipiki8

Hajipiki6_2

(パンタの南側の眺め。谷間、東側、西側岩上から)

Hajipiki7

(ここが、舵の引っかかった珊瑚岩というのがぼくたちの見立て)

Hajipiki9

Hajipiki5

(ハジピキパンタ内、パンタの東側沿いには蘇鉄の群生が見られる。与論に蘇鉄が植栽が始まるのが1682年だから、17世紀以降も生活圏の中にここがあったことが分かる)

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2011/12/20

『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』

 吉成直樹の『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』が近年の考古学などの研究成果を踏まえて開陳する琉球弧の歴史像は、刺激的だ。

 琉球弧には南方のオーストロネシア的世界が広がっていた。歴史上の記述に奄美が登場するのは、657年、『日本書紀』での「海見」を嚆矢とするが、この頃にはヤコウガイを物産とした交易システムが奄美大島を中心に形成されていた。9世紀後半にはこの交易によって、鉄器も奄美に持ち込まれている。

 7世紀から8世紀半ばまで「奄美」の記述が見られるが、その後、しばらく姿を消す。「奄美」が再び記述に現れるのは、十世紀の終わり、「大宰府管内襲撃事件」の当事者としてである。997年、「南蛮(奄美人)が大宰府管内に乱入し、人や物を略奪したという。このとき、大宰府が「貴駕島」に南蛮の追捕を下知し、翌々年の999年には大宰府は南蛮賊の追討を言上。歴史上の記述で初出となるキカイガシマには、このとき城久が形成され、そこが国家による南島経営の拠点とされる。ここの喜界島は国家「内」であり、奄美大島は国家「外」であったことになる。

 十一世紀からの史料では「アマミ」は姿を消し、「キカイガシマ」が登場する。国家拠点としての喜界島は、この辺りから性格を変え、国家「外」の存在と見做されるようになっていた。南九州の勢力により国家の管理の及ばない交易拠点となっていたのではないか。また、喜界島の管理のもと、徳之島でカムィ焼きの生産が始まり、喜界島で消費される。カムィ焼きは高麗の陶工が実際の生産にも携わっていた。国家外の交易拠点としての喜界島には、高麗商人の関与が大きく認められる。奄美の「大宰府管内襲撃」も、高麗人の関与が認められるのではないか。

 この11世紀から「奄美」は再び歴史上の記述から姿を消す。

 これとは別系列で吉成は、アマミキヨの南下についても考察している。アマミキヨ、シネリキヨが現れる神歌の分布で興味深いのは、本家である奄美群島にはほとんどなく、多くは沖縄諸島に分布しているということ。

 こうした分布のあり方は、奄美群島のアマミキヨ、シネリキヨ神話が沖縄諸島に南下し、その後に奄美群島にナルコ、テルコ神話が浸透したということを示唆する。神話が南下するとは、神話の担い手が南下したということにほかならない。

 アマミキヨの南下については外間守善などの考察によって知られている。けれどそこに、このグスク時代前後の奄美の歴史を背景に置くと、想像力を刺激されてくる。吉成もアマミキヨの南下は11世紀以降だと仮説しているが、仮にそうだとして、12世紀後半、源頼朝の喜界島征討により圧迫された奄美大島のアマミキヨ勢力が南下したものか、そうだとすれば倭寇勢力もその一員だったのか。またそうではなく、征討により南下を余儀なくされたのは喜界島の勢力だったのか。そういう問いが生まれてくる。

 ただ、南下したアマミキヨはアマミクとシニグクの二神を仰ぐ農耕技術を携えていることを踏まえると、もともとの在地の民ではなく、奄美に南下した勢力がこれらの神話を持った後、さらに南下したのだとすれば、その時期はさらに後ろになるのかもしれない。

 いまこれ以上のことを付け加えることはできないのだけれど、それでも別のことが腑に落ちてくる気がする。吉成も指摘するように、「奄美」という呼称は他称であると見なしてきた。それは琉球弧では大島と呼ばれ、「奄美」とは呼称されていないように、これが地名として根づいていないことを根拠にしていた。しかし、7世紀に「海見」と記述されたとき、そう他称する地名ないし信仰があったはずだ。それが空虚であるのは他称の度合いの強さと見なしていたけれど、そうではなく、そもそも南下したから空虚になってしまったのではないか。つまり、「奄美」が「奄美」を去ったために、地名としての奄美は空虚を余儀なくされたのではないか。そういう仮説が湧くのだ。

 これは吉成の論とは別にこちらが勝手に想像することである。しかし、南下したアマミキヨによって、ぼくでいえば、与論の創世神話も整備され、共同祭儀としてのシニグも形成されたのは確からしく思われる。

 吉成直樹の『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』は近年の研究成果を広く概観できるように配慮された網羅性があり、琉球弧論として今年最大の収穫になった。 


7c~8c 「奄美」の朝貢
9c 喜界島城久遺跡
10c終り 奄美人の大宰府管内襲撃。喜界島への追討の下知。
11c 喜界島、異国の扱い
11c ヤコウガイ大量出土遺跡群が終焉を迎え、徳之島でカムィ焼生産が始まる
12c末 喜界島、日本の内

 国家の枠組に入っていない奄美大島と枠組に入っている喜界島。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »