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2011/11/20

「日本のロックを批評するということ」

 昨晩、池袋ジュンク堂に、「日本のロックを批評するということ」というテーマで、加藤典洋と竹田青嗣の対談を聞きに行った。批評を自己形成の糧にして欠かさず読んできた者にとっては、豪華な取り合わせで参加しない手はなかった。

 竹田青嗣の、あの張りのある声は、何年か前、同じ場所で西研との対談にも顔を出したことがあったので、その時披露されたカラオケがうまくて歌手の道もありえたという武勇伝?と一緒に覚えがあった。けれど、加藤については二十年以上読んでいるもののその声を知らなかったので、それも楽しみのひとつだった。加藤の声は東北の抑揚を残した柔らかな口調で言葉を探りながら発するところ、明晰に繰り出す竹田と対照的ではあった。無理のある類推だけれど、江藤淳と吉本隆明の語りの対照を思い出させた。

 加藤は、1986年に竹田が上梓した『陽水の快楽―井上陽水論』に衝撃を受けたと語った。井上陽水というポップスの歌い手を対象にした批評など存在しなかったからだというのだ。竹田もそれを受け、『陽水の快楽』以降、昨夜の対談の契機になった加藤の新著、『耳をふさいで、歌を聴く』が出るまで、それに続くものはなかったと解説を加えた。ぼくは、ぼくもまた『陽水の快楽―井上陽水論』に、当時、同様の理由から衝撃を受けたが、批評の世界に入ったばかりで自分の感じ方に普遍性はないと思ってきたのだけれど、加藤の弁を聞き、歴史的なことであるのを知った。竹田にとっての陽水は、ぼくにとってはビートルズだ。そう思い、自分の『陽水の快楽―井上陽水論』を書きたくて、『ビートルズ:二重の主旋律―ジョンとポールの相聞歌』を書いた。思いの丈に比して手は貧しく、これは音楽批評の系譜にカウントされてはいないけれど、少なくともぼくにとってはそう存在している。そういえば、『ビートルズ:二重の主旋律』を出したいと申し出た時、出版業界の人には、ビートルズといえば、渋谷陽一とか石坂啓一とか、既にビッグ・ネームが存在しているから書くのは無駄だ言われたことや、ぼくは批評の棚に入れてほしいのにジュンク堂でも音楽コーナーに置かれたのを思い出した。音楽批評の不在という意味だったんだな。

 加藤は、『陽水の快楽―井上陽水論』の衝撃の中身を、期待されないのに書く、頼まれないに書く。それが批評が紐付きでないことの根本。誰も井上陽水について書かれることは期待も頼みもしていないという言い方で語ったが、それはぼくにとっても励ましになる。

 対談を通じて、音楽というジャンルの独特な存在の仕方も知ることになった。加藤は、音楽は世界中のティーンエイジャーにとって必須の存在になっているが、日本では音楽にはファンは多いけど理解者が少ない。これに比べたら文学は理解者がいて、音楽に比べたらラクだと解説する。竹田はそこに、音楽には批評が存在していない。批評がないということは芸術として存在していないということだと、添えるのだった。二人の言を合わせれば、批評とは理解者のことだ。

 音楽業界に身を置いている参加者からの質問があった。批評的のものを存在させるために、教育や意識改革が必要なのではないか。何をすればいいのか、という。加藤はそれに、色々な方法が考えられるだろうけれど、要はまともな人がどれだけいるかということではないかと応えた。この応答は、いまやどこにでも言えるのではないだろうか。水戸黄門が終わる時代、小さな勝者が小さな義を唱えるようになり場は荒れている。そこではどんな領域に手を染めるかというより、誰とどのように取り組むかということが大きな意味を持つようになっている。まともな人がどれだけいるか。そういうことではないだろうか。

 『耳をふさいで、歌を聴く』は、既に読んでいたので、対談の前に購入していた『3.11―死に神に突き飛ばされる』にサインをしてもらった。こういうときはただのファン心理。ありがたく頂戴した。

 『3.11―死に神に突き飛ばされる』は、タイトル通り、今年の震災、津波、原発について、とりわけ原発をテーマに書かれたものだ。

 その深刻な展開に海外で接し、私に最初にやってきたのは、これまでに経験したことのない、未知の、悲哀の感情であった。その感情は、今回の惨事が人間を含む自然全般を深く汚染・毀損することを通じ、私を“スルーして”、いわば次代を担う人々、若い世代の人々、これから生まれてくる人々をターゲットにしていることから、来ていたように思う。大鎌を肩にかけた死神がお前は関係ない、退け、とばかりに私を突きのけ、若い人々、生まれたばかりの幼児、これから生まれ出る人々を追いかけ、走り去っていく。その姿を、もう先の長くない人間個体として、呆然と見送る思いがあった。
 それでいま、私には、もう昔のようには、幼い子供の姿が見られない。

 この自責の念がこの本のモチーフに底流している。もちろん、この自責は他人事ではない。

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