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2011/10/22

なぜ、与論島までが割譲されたのか

 なぜ、与論島までが割譲されたのか。これは言うまでもなく、1609年の薩摩の琉球侵攻の結果、奄美諸島は薩摩の直轄支配下になるが、その際、なぜ、与論島までがその範囲となったのかという意味だ。このことはいまだ明確になっていないという歴史の問題であるばかりではなく、日常的な問いである。たとえ、歴史の問いとして意識していなくても、なぜ鹿児島なのかという問いをぼくたちは手にしているからである。それはとりわけその境界に位置する与論の島人にとっては切実さを秘めている。だから、この問いは優れて現在的なものなのだ。

 ぼくなどもありていに考えて、支配者の上から目線からすれば、奄美大島から順次、島は小さくなり与論島で最小となり、ついで沖縄島という新しい単位が地図上の区切りとして適当だったからと見なしてきた。西の伊是名、伊平屋は伊是名が尚氏の出自だから、例外とされる。『奄美自立論』でも、間接統治下の琉球本体を睨むのに、与論島までと区切るのが緊張を与えられるという視点を導入した程度だった。

 弓削政己は、『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』で、この問題を取り上げている。むろん、与論島の問いとしてだけではなく、視野を広く取り、奄美全体のこととして、「薩摩藩琉球侵攻時の琉球尚寧王の領土意識について」と題されている。

 弓削はそこで、尚寧王の領土意識からのアプローチを試みている。

 まず、薩摩への降伏直後、尚寧王が冊封体制下の朝貢先である明に宛てた公文書の記述。
 

警を報ずるに、三月内、先ず葉壁山・奇佳山等の処、烽号を連放するに拠り、虚惨を伝報す。
(一六〇九年五月付、尚寧王咨文『訳注文』)

 「葉壁山」とは伊平屋島のことで、「奇佳山」は喜界島に当たり、内容は、伊平屋島、喜界島の辺りで狼煙があがり悲惨な状況になっている、ということだ。弓削はここで繊細な立ち止まり方をする。尚寧王は喜界島に対して「属地」と認識しているが、書く順番は薩摩侵攻の順ではなく、伊平屋島を先にし喜界島を後にしていることに注意を促すのだ。つまり、尚寧にとって伊平屋島の方が重みがあったということだ。

 そして公文書は領土問題に触れ、
 

議して、北隅の葉壁一島を割き、民の塗炭するを拯(すく)う(同上)
 

 議して、「北隅」の伊平屋島一島を割いて、民のひどい苦しみを救いたい、と続ける。弓削は書いている。

 ここで、指摘したいのは、尚寧王の認識として、島津氏への割譲領土を「北隅の葉壁一島」と伊平屋島を琉球領土の「北隅」としていて、奄美諸島について触れていないことである。これは、尚寧王の琉球国領土認識が、伊平屋島という事を示していると見てよいであろう。

 それだからこそ、「先ず葉壁山・奇佳山等の処」と伊平屋島を先に書くのだと弓削は言いたいわけだ。

 この後、薩摩は領土を確定し、奄美諸島を除く琉球に対し知行目録を出し、領土面積と生産高を確定するが、そのことを明に告げる公文書には、

茲に疆土(きょうど)を平定すること故(もと)の如くにして、士民の維新するに当り、例として当に進貢し謝恩して蕃職を供修すべし(一六一二年正月、尚寧王咨文『訳注文』)

 と尚寧は書く。弓削は、疆土、つまり領土は「故(もと)の如く」であると表現したことについて、ひとつは割譲範囲を小さく見せるための表面上の取り繕いの意味もあるだろうが、それ以前に、尚寧王の領土認識の現れと観ることができるのではないか、としている。

 弓削の考えは、北山との関係を述べるところで説得力を増している。琉球は三山時代を経て尚寧の由来である尚氏によって統一されるが琉球北部は、敗れた側の北山の支配地域だった。1650年の『中山世鑑』には、北山の管轄について、「山北王トハ、今帰仁按司也。是モ、首里ニ背テ、羽地・名護・国頭・喜武・伊江・伊平也、数国を討従ヘテ、自ら山北王トゾ申ケル」とある。

 ここで、「羽地・名護・国頭・喜武・伊江・伊平」等の「数国を討従ヘテ」山北王になったと解すれば、与論と沖永良部はその範囲に入っておらず、両島が琉球国の領土になったのは1420年以降ということになり、「羽地・名護・国頭・喜武・伊江・伊平」以外の「数国を討従ヘテ」山北王になったと解すれば、山北王時代に与論と沖永良部は1420年以前に琉球支配圏に入っていたことになる、と両方の仮説を挙げている。弓削はここで、沖永良部には山北王の次男がいたという伝承を取り上げているが、どちらの仮説が正当かについては、結論を出すのを慎重に避けているように見える。与論にも、北山系の三男、王舅(おーしゃん)が与論城を構築したという伝承がある。しかし別には尚氏系の花城真三郎が築城したという説もある。ぼくもまた、少なくとも与論については、どちらの仮説が正しいと判断する材料を持っていないが、弓削が、与論と沖永良部の言葉や民俗的事象が琉球北部と似ていることから、早い時期から人・モノの交流はあったのを前提として山北統治下に早期に入ったと考えることもできるとしているのと同じように、支配の有無に関わらず、交流はあったと見做すのは自然なことだと思える。

 ここで弓削はもうひとつ、千竃(ちかま)文書についても取り上げている。千竃家は鎌倉幕府の薩摩国河辺郡の代官職と郡司職を務めた者で、千竃文書とは1306年に、子どもたちへの所領の分割譲与について書かれたものだ。ここで奄美諸島にも触れられているが、ここでは与論島のことだけ取り上げれば、「わさのしま」とある記述が、与論島かどうかは研究者により説が分かれているそうだ。弓削がここで言わんとしているのは、14世紀の初頭での奄美に対する北からの影響のことで、境界が南北に上下する様を想定している。

 弓削のまとめはこうだ。

 これまで、なぜ、薩摩藩は、与論島までを割譲したのかというのが、特に奄美諸島に住んでいる人々の疑問であった。その疑問に明快に対応する事はできないが、そのことを最後に検討したい。筆者は、基本的考えとして、幕府・薩摩藩、琉球国、中国明、相互の立場が接近していたからだと考える。

 これは難しい言い方だが、その後、「幕府の勘合貿易復活、蕃の大島割譲という当初の意向、伊平屋島以南が本来の琉球国領土という尚寧王の底流にある認識、明の進貢貿易の継続の意向が集約された結果として、奄美諸島が薩摩藩の直轄領となったのではないかと考える」と続けている。

 ぼくたちはここで、「お国はどこですか?」と聞かれた時のあの、引き裂かれた意識に宙づりになって言い澱む感覚が、歴史に裏打ちされているのを改めて知るとともに、山原(やんばる)への親近感がそのなかの要素になっているのも歴史的なものだということを改めて実感するだろう。尚寧王の領土認識はそれを裏返した形で示している。

 ただ、与論の島人である者には、なぜ、与論島までが、という問いが氷解するわけではない。伊波普猷が「南島人の精神分析」に記した注釈、「最初鳥島は其中に這入つてゐたが、支那に硫黄を貢する必要上、再ぴ琉球の管下に入れられて、その代りに与論島が四島と運命を共にすることになつた」という出所不明(ぼくが)の言葉の謎も解けないままだ。こうしてぼくはまた自分の身体感覚に耳を澄ます場所へ戻っていくことになる。しかし、この論考のおかげの分だけは、身体が発する弱いシグナルを受信しやすくなっているのは確かだ。


 

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コメント

「お国はどこですか?」と聞かれた時のあの、引き裂かれた意識に宙づりになって言い澱む感覚・・・、この感覚をずっと引きずっている与論人は自分も含めて多いと思う。

饒舌に説明したい、一方で、面倒くさい。
結局、曖昧さを許して軽い笑いのなかに自分の出自を納めてしまう。

また自分の身体感覚に耳を澄ます場所へ戻っていくのだが、身体が発する弱いシグナルを受信しやすくなっているのは確かで、そういうところをうろうろしてもう55歳にもなってしまった。

投稿: かわうちけいし | 2011/10/22 23:42

 喜山さん

 これは沖縄側にも切実な話題です。
 薩摩侵略当時においては、徳之島以北はしかたがないような空気はあったと思いますが、少なくとも与論&沖永良部は "沖縄" の範囲と認識していた感があります。
 与論に薩摩正規軍が駐屯していたわけでもなく、琉球本島ににらみをきかす必要もないわけですよね。

 それと、よく誤解されるのは、「伊平屋」は現在の伊是名村を含む伊平屋諸島を表しますね。

投稿: 琉球松 | 2011/10/23 09:42

突然の書き込み失礼します。
血筋的にはユンヌンチュではありませんが、縁のある者です。

この度、ユンヌの友人が出産予定というコトで、現在三線を習い始めたコトもあり、何かお祝いの歌を覚えたいと思っています。

別のユンヌの友人に訪ねたところ、
茶花小の正門に「ユンヌチュルシマヤ イニクサヤアシガ」という出だしの歌があり、それが結婚式などでよく歌われるようだと教えて貰ったのですが、残念ながらタイトルが解らないとのことでした。

もし喜山さんがご存知なら是非ご教授いただきたいと思い、投稿させてもらいました。また他に適切なユンヌの歌があれば、教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

長々と書き込み失礼いたしましました。

投稿: ガジマル | 2011/10/29 23:04

> かわうちけいしさん

宿命みたいなものですが、それでもふつうの与論の人の発信力がついてきたように見えるのが希望ですね。


> 琉球松さん

切実、と言ってもらえると嬉しいですね。イヒャーは、伊是名を含むのですね。知りませんでした。ありがとうございます。


> ガジマルさん

遅くなってごめんなさい。その歌はよく知られた曲ですが無題です。「今日ぬふくらしゃや 何にぎゃにたてる」と始める祝儀の歌もありますが、これも無題。「与論小唄」はよく知られていますよ。「木の葉みたいな我が与論 何も楽しみもないところ 好きなあなたがおればこそ いやな与論も好きになる」。三線を聴かせてあげるって素敵ですね。

投稿: 喜山 | 2011/11/06 08:53

 喜山さんへ

 「伊平屋」は現在の伊是名村を含む。。。のは、伊是名村が伊平屋村から分村する以前の感覚ですね。
 現在「伊平屋」と言う場合は、伊平屋島を中心とする伊平屋村でOKです。

 ですから、伊是名島出自とされる尚円王は、歴史的には伊平屋出身という事になります。

投稿: 琉球松 | 2011/11/09 15:28

琉球松さん

行政区は、伊平屋。島名は伊是名、という理解で合っていますか?

投稿: 喜山 | 2011/12/28 09:31

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