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2011/10/16

『江戸期の奄美諸島』からの助走

 『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』には、奄美史の新しい知見が散りばめられている。全体が塗り替えられているものではないが、一つひとつの小さな面がひっくり返される。でもその一つが裏返ることで他の面にも波及して、まるでオセロのように、この本の前と後では黒と白が形作る分布図が違って見える。それは驚きであるし痛快ですらある。

 しかしその痛快さは、ブーメランのように自分にも返ってくるだろう。ぼくが、『奄美自立論』で論拠にしたいくつかのことが、『江戸期の奄美諸島』では、事実はそうではなかったものとして、異なる事実が提出されているからだ。その点において、ぼく自身も塗り替え作業を行わなくてはならない。その最たるものは、系図差上げに関することだ。従来、奄美の系図は薩摩によって没収され焼き捨てられたと言われてきた。しかし、弓削政己が述べているところによれば、それは事実ではなく、むしろ農民と身分同一化されることを嫌った与人層が、差異を主張するために進んで差し出したものであるというのだ。弓削は、系図は沖縄に比べれば奄美の方が残っているとも添えている。ぼくにとってこれが躓きであるのは、薩摩によるモノだけではない、コトの収奪の一系列に数え上げているからだ。

 実は、躓きはこれに始まることではない。この本では触れられていないが、あの「大島代官記」序文の執筆者が誰かという点に、最大の躓きはあった。ぼくは、『奄美自立論』では、いぶかしく思いながらも、その序文を大島の人が書いたものとして受け止めてきたが、これも弓削によって、薩摩の役人の手によるものと明らかにされた経緯があった。ぼくはそのことを、「『大島代官記』の『序』を受け取り直す」として書いた。「序」のことと、「系図差し上げ」は、コトの収奪、それは言い換えれば記憶の収奪であるとして取り上げたのだから、ぼくにとっては認識の修正を伴う重要な個所だ。

 その上、これを書いたのは、2009年の8月、つまり、『奄美自立論』を出した4月の四ヶ月後には早速、躓いたのである。思い返すと、2009年は大きなメルクマールになった年だ。ぼくは、『奄美自立論』を書いていた2008年、1609年以降、1709年、1809年、1909年のどの節目にも奄美はもの申すことなく過ぎてきたのだとすれば、2009年はその最後の機会だと捉えた。2109年になれば、奄美のことを痛みを通じて語る者など誰もいなくなっているかもしれない。誰から望まれているわけでも頼まれているわけでもなかったが、言葉を発する、それはなされなければならないと思い込んでいた。しかし、2009年が明けてみると、常の奄美とは違い、多くの言説が発表され、また関連するイベントも四十を越える規模になっていった。ぼくは奄美はいつもの「沈黙」でやり過ごすはずで、これほど発言するとは思ってもいなかった。もっとも、奄美発の発言はほぼ弓削政己単独でなされ、多彩に研究者が登場する沖縄に比べ、圧倒的な人材の差を見せつけられたのでもあったが。その弓削の研究成果のなかに、奄美史の塗り替え作業は発動されていたのだ。

 ぼくは2009年以前の知見をもとに『奄美自立論』を書いたが、ほどなくして2009年には修正を迫られているようなものだ。ただ、それは重荷ではない。先へ進む手がかりのいくつかをぼくたちは得たということなのだ。

 その余の塗り替えは、ぼくにとっては躓きとはならかなかった。たとえば、「抜け荷死罪」が奄美に対する規定というより、流通過程で起きる「抜け荷」に対するものであることや、「換糖上納制」もまた奄美だけに起こったことではないだろうということなどだ。先日、10月8日、法政大学の沖縄文化研究所にて、『江戸期の奄美諸島』の出版を期に、弓削政己、前利潔、高江洲昌哉によって発表がなされた。その際に気づいたのは、史実の塗り替えのなかで、奄美だけだったのかどうかが繰り返し問われていることだった。「抜け荷死罪」の例のように、それは奄美だけではなかったということになる。ぼくにその視点は無かった。奄美は言葉にならない特異な経験を経ている。それを他者と交換可能なものにするには、まず言葉にしなければならない。それでなくては比較もできない。それがぼくの立ち位置だ。しかし、その塗り替えが単なる史実発掘では済まないのは、それ自体が痛みを伴うものだからだ。たとえば、「抜け荷死罪」が奄美だけの困難だという認識は、薩摩に対するルサンチマンの根拠たり得てきた。それが史実でないということは、奄美の島人がほっとすることではなくルサンチマンの根拠を奪われることになる。奪われるくらいなら、塗り替えを認めず、史実の理解を拒否すらするだろう。

 弓削は研究会の席上、そのことに対し、それは近代以降の苦難を投影するからのことで、史実を奄美の人に向かって語るときには、そのことを分かった言い方をしないといけないと語っていた。それを語る弓削政己とて奄美の人である。大きく頷かなくてどうしよう。ぼくも半分はその渦中にいる者だ。半身のぼくはそのルサンチマンから自由だ。だから、2009年以前の奄美の知見を読むとき、そこに薩摩に対する批判に向かうべきところで矛先は琉球へ向かうという奄美の知識人の精神の屈折を見て取ることができるし、「系図差上げ」についても、認識違いはあったとしても所詮、奄美の困難を規模として抱えた島人ではない、たかだか与人問題ではないかと見なすこともできる。けれど、もう半身のぼくはルサンチマンの渦中にいる。そこでは、ぼくも近代以降の困難の投影をなしているだろう。その痛痒は他人事ではない。

 「系図差上げ」問題で、奄美の島人はなぜ、与人が自らなしたものに対して、没収されその上焼き捨てられたということを信じてきたのだろう。そうなる過程には類する事実はあったかもしれない。ただ、それがあったとしても、ここに物語の要素を加えたのはどうしてだろう。弓削が、近代以降の苦難を投影したのだと言うところで、ぼくはそれは奄美の困難が生みだした民話なのだと思った。手がかりになる言葉のないところで、苦難を伝え分かち合うために生みだされた民話である。それは語り継がれることによって、現在の苦難の意味を知り、また慰め合うよすがとなってきた。民話は必ずしも史実を語らない。しかし時代のエートスの構造は教えてくれる。弓削が、奄美に向かってはその気持ちを分かった上で語らなければいけないという時、それは、このエートスの構造を抜きにはできないということを意味している。

 ぼくも半身は民話の渦中にいる者だ。そのような者として、『江戸期の奄美諸島』からの助走を始めなければならない。


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コメント

  おはようございまう。

お久しぶりです。
なるほど ざ  わーるど。
沖縄から奄美の歴史が見えてきました。

 パソコンが壊れて 通信不能です。
助けてください。

投稿: | 2011/10/17 06:22

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