« 2011年5月 | トップページ | 2011年11月 »

2011/10/22

なぜ、与論島までが割譲されたのか

 なぜ、与論島までが割譲されたのか。これは言うまでもなく、1609年の薩摩の琉球侵攻の結果、奄美諸島は薩摩の直轄支配下になるが、その際、なぜ、与論島までがその範囲となったのかという意味だ。このことはいまだ明確になっていないという歴史の問題であるばかりではなく、日常的な問いである。たとえ、歴史の問いとして意識していなくても、なぜ鹿児島なのかという問いをぼくたちは手にしているからである。それはとりわけその境界に位置する与論の島人にとっては切実さを秘めている。だから、この問いは優れて現在的なものなのだ。

 ぼくなどもありていに考えて、支配者の上から目線からすれば、奄美大島から順次、島は小さくなり与論島で最小となり、ついで沖縄島という新しい単位が地図上の区切りとして適当だったからと見なしてきた。西の伊是名、伊平屋は伊是名が尚氏の出自だから、例外とされる。『奄美自立論』でも、間接統治下の琉球本体を睨むのに、与論島までと区切るのが緊張を与えられるという視点を導入した程度だった。

 弓削政己は、『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』で、この問題を取り上げている。むろん、与論島の問いとしてだけではなく、視野を広く取り、奄美全体のこととして、「薩摩藩琉球侵攻時の琉球尚寧王の領土意識について」と題されている。

 弓削はそこで、尚寧王の領土意識からのアプローチを試みている。

 まず、薩摩への降伏直後、尚寧王が冊封体制下の朝貢先である明に宛てた公文書の記述。
 

警を報ずるに、三月内、先ず葉壁山・奇佳山等の処、烽号を連放するに拠り、虚惨を伝報す。
(一六〇九年五月付、尚寧王咨文『訳注文』)

 「葉壁山」とは伊平屋島のことで、「奇佳山」は喜界島に当たり、内容は、伊平屋島、喜界島の辺りで狼煙があがり悲惨な状況になっている、ということだ。弓削はここで繊細な立ち止まり方をする。尚寧王は喜界島に対して「属地」と認識しているが、書く順番は薩摩侵攻の順ではなく、伊平屋島を先にし喜界島を後にしていることに注意を促すのだ。つまり、尚寧にとって伊平屋島の方が重みがあったということだ。

 そして公文書は領土問題に触れ、
 

議して、北隅の葉壁一島を割き、民の塗炭するを拯(すく)う(同上)
 

 議して、「北隅」の伊平屋島一島を割いて、民のひどい苦しみを救いたい、と続ける。弓削は書いている。

 ここで、指摘したいのは、尚寧王の認識として、島津氏への割譲領土を「北隅の葉壁一島」と伊平屋島を琉球領土の「北隅」としていて、奄美諸島について触れていないことである。これは、尚寧王の琉球国領土認識が、伊平屋島という事を示していると見てよいであろう。

 それだからこそ、「先ず葉壁山・奇佳山等の処」と伊平屋島を先に書くのだと弓削は言いたいわけだ。

 この後、薩摩は領土を確定し、奄美諸島を除く琉球に対し知行目録を出し、領土面積と生産高を確定するが、そのことを明に告げる公文書には、

茲に疆土(きょうど)を平定すること故(もと)の如くにして、士民の維新するに当り、例として当に進貢し謝恩して蕃職を供修すべし(一六一二年正月、尚寧王咨文『訳注文』)

 と尚寧は書く。弓削は、疆土、つまり領土は「故(もと)の如く」であると表現したことについて、ひとつは割譲範囲を小さく見せるための表面上の取り繕いの意味もあるだろうが、それ以前に、尚寧王の領土認識の現れと観ることができるのではないか、としている。

 弓削の考えは、北山との関係を述べるところで説得力を増している。琉球は三山時代を経て尚寧の由来である尚氏によって統一されるが琉球北部は、敗れた側の北山の支配地域だった。1650年の『中山世鑑』には、北山の管轄について、「山北王トハ、今帰仁按司也。是モ、首里ニ背テ、羽地・名護・国頭・喜武・伊江・伊平也、数国を討従ヘテ、自ら山北王トゾ申ケル」とある。

 ここで、「羽地・名護・国頭・喜武・伊江・伊平」等の「数国を討従ヘテ」山北王になったと解すれば、与論と沖永良部はその範囲に入っておらず、両島が琉球国の領土になったのは1420年以降ということになり、「羽地・名護・国頭・喜武・伊江・伊平」以外の「数国を討従ヘテ」山北王になったと解すれば、山北王時代に与論と沖永良部は1420年以前に琉球支配圏に入っていたことになる、と両方の仮説を挙げている。弓削はここで、沖永良部には山北王の次男がいたという伝承を取り上げているが、どちらの仮説が正当かについては、結論を出すのを慎重に避けているように見える。与論にも、北山系の三男、王舅(おーしゃん)が与論城を構築したという伝承がある。しかし別には尚氏系の花城真三郎が築城したという説もある。ぼくもまた、少なくとも与論については、どちらの仮説が正しいと判断する材料を持っていないが、弓削が、与論と沖永良部の言葉や民俗的事象が琉球北部と似ていることから、早い時期から人・モノの交流はあったのを前提として山北統治下に早期に入ったと考えることもできるとしているのと同じように、支配の有無に関わらず、交流はあったと見做すのは自然なことだと思える。

 ここで弓削はもうひとつ、千竃(ちかま)文書についても取り上げている。千竃家は鎌倉幕府の薩摩国河辺郡の代官職と郡司職を務めた者で、千竃文書とは1306年に、子どもたちへの所領の分割譲与について書かれたものだ。ここで奄美諸島にも触れられているが、ここでは与論島のことだけ取り上げれば、「わさのしま」とある記述が、与論島かどうかは研究者により説が分かれているそうだ。弓削がここで言わんとしているのは、14世紀の初頭での奄美に対する北からの影響のことで、境界が南北に上下する様を想定している。

 弓削のまとめはこうだ。

 これまで、なぜ、薩摩藩は、与論島までを割譲したのかというのが、特に奄美諸島に住んでいる人々の疑問であった。その疑問に明快に対応する事はできないが、そのことを最後に検討したい。筆者は、基本的考えとして、幕府・薩摩藩、琉球国、中国明、相互の立場が接近していたからだと考える。

 これは難しい言い方だが、その後、「幕府の勘合貿易復活、蕃の大島割譲という当初の意向、伊平屋島以南が本来の琉球国領土という尚寧王の底流にある認識、明の進貢貿易の継続の意向が集約された結果として、奄美諸島が薩摩藩の直轄領となったのではないかと考える」と続けている。

 ぼくたちはここで、「お国はどこですか?」と聞かれた時のあの、引き裂かれた意識に宙づりになって言い澱む感覚が、歴史に裏打ちされているのを改めて知るとともに、山原(やんばる)への親近感がそのなかの要素になっているのも歴史的なものだということを改めて実感するだろう。尚寧王の領土認識はそれを裏返した形で示している。

 ただ、与論の島人である者には、なぜ、与論島までが、という問いが氷解するわけではない。伊波普猷が「南島人の精神分析」に記した注釈、「最初鳥島は其中に這入つてゐたが、支那に硫黄を貢する必要上、再ぴ琉球の管下に入れられて、その代りに与論島が四島と運命を共にすることになつた」という出所不明(ぼくが)の言葉の謎も解けないままだ。こうしてぼくはまた自分の身体感覚に耳を澄ます場所へ戻っていくことになる。しかし、この論考のおかげの分だけは、身体が発する弱いシグナルを受信しやすくなっているのは確かだ。


 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2011/10/16

『江戸期の奄美諸島』からの助走

 『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』には、奄美史の新しい知見が散りばめられている。全体が塗り替えられているものではないが、一つひとつの小さな面がひっくり返される。でもその一つが裏返ることで他の面にも波及して、まるでオセロのように、この本の前と後では黒と白が形作る分布図が違って見える。それは驚きであるし痛快ですらある。

 しかしその痛快さは、ブーメランのように自分にも返ってくるだろう。ぼくが、『奄美自立論』で論拠にしたいくつかのことが、『江戸期の奄美諸島』では、事実はそうではなかったものとして、異なる事実が提出されているからだ。その点において、ぼく自身も塗り替え作業を行わなくてはならない。その最たるものは、系図差上げに関することだ。従来、奄美の系図は薩摩によって没収され焼き捨てられたと言われてきた。しかし、弓削政己が述べているところによれば、それは事実ではなく、むしろ農民と身分同一化されることを嫌った与人層が、差異を主張するために進んで差し出したものであるというのだ。弓削は、系図は沖縄に比べれば奄美の方が残っているとも添えている。ぼくにとってこれが躓きであるのは、薩摩によるモノだけではない、コトの収奪の一系列に数え上げているからだ。

 実は、躓きはこれに始まることではない。この本では触れられていないが、あの「大島代官記」序文の執筆者が誰かという点に、最大の躓きはあった。ぼくは、『奄美自立論』では、いぶかしく思いながらも、その序文を大島の人が書いたものとして受け止めてきたが、これも弓削によって、薩摩の役人の手によるものと明らかにされた経緯があった。ぼくはそのことを、「『大島代官記』の『序』を受け取り直す」として書いた。「序」のことと、「系図差し上げ」は、コトの収奪、それは言い換えれば記憶の収奪であるとして取り上げたのだから、ぼくにとっては認識の修正を伴う重要な個所だ。

 その上、これを書いたのは、2009年の8月、つまり、『奄美自立論』を出した4月の四ヶ月後には早速、躓いたのである。思い返すと、2009年は大きなメルクマールになった年だ。ぼくは、『奄美自立論』を書いていた2008年、1609年以降、1709年、1809年、1909年のどの節目にも奄美はもの申すことなく過ぎてきたのだとすれば、2009年はその最後の機会だと捉えた。2109年になれば、奄美のことを痛みを通じて語る者など誰もいなくなっているかもしれない。誰から望まれているわけでも頼まれているわけでもなかったが、言葉を発する、それはなされなければならないと思い込んでいた。しかし、2009年が明けてみると、常の奄美とは違い、多くの言説が発表され、また関連するイベントも四十を越える規模になっていった。ぼくは奄美はいつもの「沈黙」でやり過ごすはずで、これほど発言するとは思ってもいなかった。もっとも、奄美発の発言はほぼ弓削政己単独でなされ、多彩に研究者が登場する沖縄に比べ、圧倒的な人材の差を見せつけられたのでもあったが。その弓削の研究成果のなかに、奄美史の塗り替え作業は発動されていたのだ。

 ぼくは2009年以前の知見をもとに『奄美自立論』を書いたが、ほどなくして2009年には修正を迫られているようなものだ。ただ、それは重荷ではない。先へ進む手がかりのいくつかをぼくたちは得たということなのだ。

 その余の塗り替えは、ぼくにとっては躓きとはならかなかった。たとえば、「抜け荷死罪」が奄美に対する規定というより、流通過程で起きる「抜け荷」に対するものであることや、「換糖上納制」もまた奄美だけに起こったことではないだろうということなどだ。先日、10月8日、法政大学の沖縄文化研究所にて、『江戸期の奄美諸島』の出版を期に、弓削政己、前利潔、高江洲昌哉によって発表がなされた。その際に気づいたのは、史実の塗り替えのなかで、奄美だけだったのかどうかが繰り返し問われていることだった。「抜け荷死罪」の例のように、それは奄美だけではなかったということになる。ぼくにその視点は無かった。奄美は言葉にならない特異な経験を経ている。それを他者と交換可能なものにするには、まず言葉にしなければならない。それでなくては比較もできない。それがぼくの立ち位置だ。しかし、その塗り替えが単なる史実発掘では済まないのは、それ自体が痛みを伴うものだからだ。たとえば、「抜け荷死罪」が奄美だけの困難だという認識は、薩摩に対するルサンチマンの根拠たり得てきた。それが史実でないということは、奄美の島人がほっとすることではなくルサンチマンの根拠を奪われることになる。奪われるくらいなら、塗り替えを認めず、史実の理解を拒否すらするだろう。

 弓削は研究会の席上、そのことに対し、それは近代以降の苦難を投影するからのことで、史実を奄美の人に向かって語るときには、そのことを分かった言い方をしないといけないと語っていた。それを語る弓削政己とて奄美の人である。大きく頷かなくてどうしよう。ぼくも半分はその渦中にいる者だ。半身のぼくはそのルサンチマンから自由だ。だから、2009年以前の奄美の知見を読むとき、そこに薩摩に対する批判に向かうべきところで矛先は琉球へ向かうという奄美の知識人の精神の屈折を見て取ることができるし、「系図差上げ」についても、認識違いはあったとしても所詮、奄美の困難を規模として抱えた島人ではない、たかだか与人問題ではないかと見なすこともできる。けれど、もう半身のぼくはルサンチマンの渦中にいる。そこでは、ぼくも近代以降の困難の投影をなしているだろう。その痛痒は他人事ではない。

 「系図差上げ」問題で、奄美の島人はなぜ、与人が自らなしたものに対して、没収されその上焼き捨てられたということを信じてきたのだろう。そうなる過程には類する事実はあったかもしれない。ただ、それがあったとしても、ここに物語の要素を加えたのはどうしてだろう。弓削が、近代以降の苦難を投影したのだと言うところで、ぼくはそれは奄美の困難が生みだした民話なのだと思った。手がかりになる言葉のないところで、苦難を伝え分かち合うために生みだされた民話である。それは語り継がれることによって、現在の苦難の意味を知り、また慰め合うよすがとなってきた。民話は必ずしも史実を語らない。しかし時代のエートスの構造は教えてくれる。弓削が、奄美に向かってはその気持ちを分かった上で語らなければいけないという時、それは、このエートスの構造を抜きにはできないということを意味している。

 ぼくも半身は民話の渦中にいる者だ。そのような者として、『江戸期の奄美諸島』からの助走を始めなければならない。


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011/10/03

「江戸期の奄美諸島」研究会

「江戸期の奄美諸島』研究会

日時:10月8日(土) 14:00~17:00
場所:法政大学沖縄文化研究所
http://www.hosei.ac.jp/fujimi/okiken/

パネラー:弓削政己、前利潔、高江洲昌哉

Flyer_4


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/10/02

秋と場面の転換

 これが秋なのか。冷凍庫を空けた時のような冷やっとした空気のかたまりが身体を包んですっと通り過ぎて行った。島じゃ冬だね、と与宇はつぶやく。初めての東京の夏は節電の夏だった。職場でも空調の温度は数度上げられていて、同僚たちは暑いあついと殊更のように繰り返していた。でも暑さに身体を馴染ませるのに慣れていた与宇はさして苦にならなかった。ちょうどいいんじゃね、とまではいかなくても、わざわざ口にするほどのことではなかった。その節電の夏が終わったのと分かったのは、ニュースではなく朝の電車に乗り込んだ時だった。冷たい空気が上から流れてきて驚いていると、車内アナウンスが節電は終わりましたと告げたのだ。節電のままでよかったのに、と与宇はつぶやいた。ツイッターにもそう投稿しようと書きかけたが止めた。節電は美徳という意味に取られてしまうかもしれないと思ったのだ。

 空は澄み、その前を遮るビルは磨かれた銀のように輝いていた。故郷の島の東海上でしばらく管を巻いた後、上京するときの飛行機の空路のようにまっすぐ本州を目指して東北に抜けて行った台風が東京の空気を洗っていったのはほんの少し前のことだったけれど、その直後の、あの空とまっすぐにつながっているような大気のままでいるみたいだ。ロウキー君は秋を運んできたね。でも与宇には、節電に段落をつけてやってきた冷たい空気が季節の移り変わりではなく場面の転換のように思えた。舞台の幕が降りて再び上がるように、CMの間、余韻に浸っていると次には別の場面が現れるように、本の章が新しい頁と題で始まるように。ロウキー君は幕を上げていったのかもしれない、いや幕はとっくに上がって次の場面になっていることに気づきなさいと言っているのかもしれない。

 空と街は澄んでその本来の色を伝えようとしているのに、与宇の目にはこのところ世界がモノクロに映るような気がしてならなかった。それが彼女にとっての場面転換の印だった。目がおかしくなったわけでも、失恋したわけでもない。スキーター・デイビスの「The end of the world」みたいだと与宇は思った。

 Don’t they know it’s the end of the world.

 その古い曲を与宇は母がよく口ずさんでいたので知っていた。最近になってふと思い出してYouTubeで検索して、歌い手の名前と風貌を知った。スロウなテンポなので、与宇はサビの部分の歌詞を島にいる時から辿ることができた。意味が掴めてからは、母が歌うたびに、単にこの曲が好きなのか思い出に浸っているのか、どちらだろうとよく思ったけれど尋ねたことはなかった。世界は終わったのにどうしてみんな気づかないんだろう。モノクロの世界が与宇に告げるのはそんな感覚だった。

 いけない、と与宇は思い返す。現実世界に踏みとどまらなきゃ。まして、上京したての一年目。島の感覚を引きずり過ぎているのに違いない。だって何事も無かったかのように周りの世界は動いているじゃない、と。このところ携帯に届くメールの数が減っている。まるでみんなで申し合わせて与宇にコンタクトを取らないようにしているみたいに。トントン、静粛に。今後、与宇へのメールを禁ずる。どこかで裁判官がそう宣告するのだ。それで現実感が薄れているのかもしれない。とにかく現実の世界にいなきゃ。毎朝、それを言い聞かせるが、その効果ではなく、仲良くなった同僚に会うと、そこだけ色がつくのでなんとかやり過ごすことができていた。

 与宇は、高橋商事という名前の、でもその実、商社ではない街の小さな不動産屋に勤めていた。東京にいる親戚が口を聞いてくれて、たまたま欠員の出たところになんとか入らせてもらったのだ。高橋商事。まったく冴えない名前だ。少なくとも好きな子ができたときに、自己紹介で女の子が口にしたくなる名前ではない。与宇といいます。高橋商事という不動産屋さんに勤めています。そう口にしても相手には何の印象も残らないだろう。でもそれは異性を気にした時のことであって、ふだんは社名が気になるわけではなかった。冴えない感じでいいとすら思った。むしろ、相手に引っかかるのは名前の方だ。「よー、さんですか?」とよく聞かれる。母が与論島の宇和寺という字の出身で、その頭文字二つを採ってつけた名前なのだ。はい、よー、です、と彼女は答えながら、次は、どんな字を書くんですか?と聞かれるのを待つ。そういう時、一青窈がいてよかったと与宇は思う。少なくとも、初めて聞く名前です、とは言われなくて済む。奇異な印象は少しは和らぐだろう。

 与宇は自分の名前に馴染めなかったけどそこは付き合いも長いからいいとして、東京での生活(島の外と言ったほうがいいのかもしれない)に慣れないものを数多く抱えていた。彼女はそれを暇があると書きだして、慣れないものリストと名付けるべきか、慣れなきゃいけないものリストと名付けるべきか迷うのだった。電車の乗り込みは脅威だった。駆け込んだりおしくら饅頭みたいにしている人を見ると、めまいがしてくる。そんな時は、「ハナミズキ」の、「どうぞ行きなさい。お先に行きなさい」を頭でリフレインして正気を保とうとする。もっとも、朝の混雑時に思いだすような曲もでないのだけれど。ホームに立つと、黄色い線の内側にお下がりください、とアナウンスがある。与宇はどうしても、その内側が、ホームの端と黄色い線の数十センチの幅の側のように思い込む錯覚を一いち取り払った。コンビニでビールを買うと、「年齢確認が必要な商品です」と、レジ機がいう。これには余裕があって、「あのぅ、確認しなくていいんですか?」とつい、言いそうになるのを押しとどめる。そんなちっちゃな挑発をして大人を怒らせるのを繰り返してきたから。コンビニの棚に並んでいる雑誌の表紙に踊るキャリアやモチベーションという言葉も与宇を驚かせた。いったい何のことだろうと思って紙面をめくるが読む気にはなれない。なんだかただならない緊張感が漂っているのを感じただけだ。

 与宇は少し前に図書館で見かけた『リトル・ピープルの時代』という本を思いだした。分厚かった。中身も気難しい男性が読むもので女の子が読む本じゃない。でも、村上春樹の『1Q84』から採っているのは、読んでいたから察しがつくし、表紙の仮面ライダーの写真も気になってめくってみた。読むのは数頁で断念したが、冒頭の要約で本の趣旨は分かったつもりになれた。絶対的な正義を提示するビッグ・ブラザーの時代は終わって、小さなビッグ・ブラザーたちが正義を巡って闘い続けるリトル・ピープルの時代になった、とそう言っているようだった。『ワン・ピース』でドンキホーテ・ドフラミンゴが叫ぶ「勝者だけが正義だ!」のまんまじゃない。どうりで、アメリカはのさばるはずだし水戸黄門は終わるわけよね。島にいる時、祖母の指定番組だったので、「水戸黄門」は欠かさず観た。観ざるをえなかった。番組の最後、格さんだか助さんだかが、「この紋所が目に入らぬか」という所になると、祖母が必ず手を叩いて喜ぶのだった。退屈な番組だったが、与宇も最後の場面はすかっとした気分になるのだった。そうか、あの紋所はもう無いってことなんだね。そう、与宇は思って、「この紋所が目に入らぬか」と決めた後、「あれ、ない」と慌てている格さんだか助さんだかを想像して一人笑いした。

 笑うと少し気が楽になった。モノクロに見えるのは、リトル・ピープルの時代にいるからだろうか。そんな気もするしそうではない気もする。いや、そうには違いないけど、それだけではない。その言い方の方が合ってる気がする。かえるくん。ふと与宇は思う。村上春樹の「かえるくん、東京を救う」で、かえるくんは、地底深くに潜むみみずくんと闘って東京の地震を回避する。少なくとも今は東京を巨大な地震は襲っていないけれど、北の方でみみずくんは暴れてしまった。それに地底だけじゃなかった。地底のみみずくんと海のみみずくんと空のみみずくんが暴れ、特に空のみみずくんは末代まで暴れ止まないと言われている。与宇はぞっとした。せっかく東京に来たと思ったら空のみみずくんの暴力の危険に晒されるなんて。空のみみずくんは目にも見えない小さな粒で人の骨も簡単に通過してしまう。それがいつか身体を破壊してしまうかもしれないというのだ。与宇は、それは気づかないうちに溜めこむストレスみたいだなだと思った。紋所の無い世界でつばぜり合いを繰り広げる矮小なビッグ・ブラザーもどきたちにうんざりするのと同じだな。だからモノクロに見えるのかな。でも、空のみみずくんはそれどころの騒ぎではない。かえるくんは大変だなと思う。

 かえるくん。与宇はそう声に出してみる。声に出してみたら、別のかえるくんのことを思い出す。アーノルド・ローベルの『ふたりはきょうも』という絵本だ。しっかり者のかえるくんとおっちょこちょいのがまくんが遊んだり喧嘩したりしながら仲良くなっていく物語だ。母がよく読んで聞かせてくれたので覚えているが、大きくなってからも、読み応えのあるすごい絵本だと思ってきた。辛いことがある時に読み返すと、自然に心があったまってくるのを感じた。ひょっとしたら、がまくんと遊んでいたかえるくんが、大きくなってみみずくんと闘うことになったのかもしれない。

 色が欲しい、と与宇は思った。そう思ったら動かずにはいられなくなって、都心の百貨店に向かった。百貨店もまた慣れないものリストの、でも、軽い方にランクインにしていた。エレベーターで婦人服売場に行くと、フロアガイドで目当ての売場を目指した。行き先はアニエス・ベイと決めていた。社会人を東京で経験した母が、バブルの頃流行ってて好きだったと言っていたブランドだ。与宇はアニエス・ベイを母が持っていたワン・ピース一着しか知らなかったが、他のブランドもほとんど知らないので、それでいいと思った。こんなきらびやかな世界を物色して回ったら気が遠くなるに違いないという怖れもあった。アニエス・ベイは今の流行りなのかどうかは知らない。けれど売場はあったからまだがんばっているのだろう。幸運なことに、すぐにひとつのディスプレイに目が止まった。小さな花をまぶした淡い青のシャツときめの細かな濃い目の緑のカーディガンだ。シャツの青は島の海に比べてずいぶん淡かったがカーディガンの緑は雨あがりの月桃の葉を思い出させた。ご試着されますか?と品のいいお姉さんが声をかけてきて、言われるがままに袖を通してみる。鏡に映る自分は自分じゃないみたいで、気恥かしくて正視できない。お似合いですね、という声も聞き逃してしまいそうになるくらい頭がぼーっとした。頬が赤らむのが分かったが、どうすることもできず、これをお願いします、と言ってしまった。後悔が過ぎったわけではなかった。むしろ色つきの自分が嬉しかったのだ。東京に来たての社会人一年生が着る服じゃないのかもしれない。でも与宇はお金をあまり使わなかったし、というより使い方を知らないしこれくらいは奮発しても大丈夫だろうと思った。色が欲しい気持は抑えられなかった。

 やっぱり、慣れなきゃいけないものリストは却下で、慣れないものリストと命名しよう。冴えない社名はそれでいい。キャリアもモチベーションも自分の言葉にしなくていい。これって、島の人だからかな、と与宇は思う。小さい頃、どうして島にはTVに出てくるようなモノがないの?と聞いたことがあった。母は、「ここはおこぼれが最後に回ってくるところなの」と言った。母は子どもに言うには難しい言葉で、でも淡々と語ったので、それが諦めなのか憤りなのか分からなかった。けれど、結婚と同時に東京を引き上げて、島に帰り、やれ商品開発だ島起こしだとあれこれ手を出す母を与宇は気に入っていた。格好いいとすら思っているかもしれない。あ、でも、と与宇は思う。百貨店は慣れたいものリストに入れておこう。

 アニエス・ベイのシャツとカーディガンのおかげで自分に色がついた気はしてきた。でも、肝心なのは自分の見る世界が色を持つことだ。できれば、鮮やかに。東北、と与宇は思った。

(もちろんフィクション)
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年5月 | トップページ | 2011年11月 »