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2011/05/05

『薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考』

 水間さんの紹介文で買って読んだままにしてあったのが、『薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考』。はや二年前のことになる。2009年5月2日、徳之島で行われた「薩摩藩奄美琉球侵攻四〇〇年記念事業」という、「侵攻」と「記念」の同居に違和感のあるタイトルの講演、シンポジウムを再録したものだ。

 その際は新聞や参加者から直接聞いたことをもとに、いくつか記事を書いた。

 「歴史越え連携構築 薩摩藩侵攻400年シンポ」
 「奄美との交流訴える」

 当時、音声と新聞要約とでしか分からなかった講演、シンポジウムの内容が活字になるのは嬉しい。改めて目を通してみて、やはり弓削政己が重要な講演を行ったのに気づく。

 弓削政己の基調講演「薩摩による直轄支配と冊封体制下の奄美諸島」は、タイトルそのものにその重要性は宿っている。弓削は講演の終盤、奄美の風習、風俗は、従来のものに加え、「藩の直接支配の影響」と「冊封体制の中国との交易の温存のため」という二つの側面を見るべきだと主張している。特に、「直轄支配との関係だけで理解しない方がいい」、と。

 ぼくは、『奄美の歴史入門』で、麓純雄が、奄美は日本になってから130年しか経っていない(『奄美の歴史入門』-「薩摩(鹿児島)と奄美の関係」)と指摘したときと同じようにはっとした。奄美はもともと日本だという思いこみがあるように、奄美は1609年以降、薩摩、鹿児島だという思いこみも、それに安堵するのであれ反撥するのであれ、あるのではないか、ということだ。弓削によれば、それは1891(明治24)年の『奄美史談』が描いた歴史像に依るところが大きい。『奄美史談』が、直轄支配で全てを解釈した奄美史像であるため、だ。

 奄美が琉球であり続けた経緯について、弓削は琉球からの要請を挙げている。明との冊封体制を維持するために名目だけでも琉球王国の一部にしてほしい。また、冊封使が来る際は、400人から500人もの中国人が訪れ、半年から一年、滞在することを踏まえると、奄美からの食糧調達もこれまで通り必要になる。貢ぎ物を琉球へ持っていかなければならないのだから。

 いま、詳しく書く余裕がないのだが、弓削の講演録を読みながら、ほぐす糸を手繰り寄せられそうな気がしている。ぼくは、1609年以降の奄美を、二重の疎外とその隠蔽として理解してきた。これは、ことの成り立ちに添えば、隠蔽のための二重の疎外であり、薩摩が奄美の直接支配を隠すために「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を強いてきたのだった。ただ、その政治的規定の覆いのもとにある島人たちの社会は、「薩摩の植民地としての奄美」と「琉球としての奄美」の二重性が広がっていたということだ。ぼくは、この二重の疎外に対して奄美は、「奄美は大和である」という身も蓋もない自己投身の結果、「奄美は琉球である」ことを抑圧しておりそれは自己欺瞞であると書いてきたし、いまもそれはそう思っている。けれど、そうした政治的な自己規定のさまがどうあれ、薩摩の影響を受けた奄美と琉球的な奄美との二重性は実態として脈々としてきた。その内実を捉え返すことで、奄美像をもっとのびやかにできるのではないか、と思えた。それが活字から得た収穫であり、弓削の講演から学んだことである。


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