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2011/03/12

反復のなかで

 去年から今年にかけては、1995年から96年の再来のようだと、常々感じてきた。言ってみれば、95・96年は、インターネットという新しい世界がPCを舞台に始まり、10・11年は、ソーシャルネットという新しい世界がPCに加えて、それ以上にモバイル(スマートフォン)を舞台に始まろうとしている。再来だと思うのは、これまでになかった新しい世界が感じさせてくれる高揚のことだった。インターネットは、今までつながらなかったものがつながるという点で、そしてソーシャルネットは、つながるというだけでなく、それが場所を選ばなくなり、かつ人間関係化されるという点が、新しさの中味だ。

 でもぼくは、その高揚のなかで、もうひとつのことが再来にカウントされるとは思ってもみなかった。言うまでもなく、阪神・淡路大震災のことだ。あのときぼくたちは、もうこれまでのようにはいかないという、社会の大きな曲がり角を感じた。地震がもたらした甚大な被害に、ぼくたちは不安定で暴力的な地面に上にいるという不安を改めて感じた。それがここでふたたび来ようとは。つい昨日、発生し、「東北地方太平洋沖」という名で呼ばれようとしている地震は、M8.8という観測史上最大の、やはり大地震と言うべきものだ。今回も、不安定な地面を感じさせるものであり、それは関東にいるぼくも東京に住んで以降、最大の揺れとして実感することになったが、今回、暴力的なのは地面というだけでなく、海だった。津波は街をさらってしまい救助はまだ始まったばかりだ。島のみんなも津波を避け高台の施設に避難したと聞く。

 そして書きたくはないけれど、思い起こさずにはいられないのが、95年に起こり衝撃を与えたもうひとつの出来事、オウム真理教による地下鉄サリン事件のことだ。あそこでぼくたちは、無差別に無辜の人が殺傷されることがありうる社会になったということを思い知らされた。阪神・淡路大震災とオウム真理教地下鉄サリン事件と。不安は地面だけでなく、人間にも及び、敗戦から半世紀経ったあの年、日本の社会は大きな曲がり角を迎えたと感じざるを得なかった。

 あの時、ぼくたちは自分たちが間違っていたのではないかと感じたと思う。それは、経済的な豊かさは精神的な豊かさ、幸福を必ずしももたらさないということだったはずだ。はずだ、と言うのは、こと地震に関していえば、研究も備えも、ぼくたちは学ぶものを持ってきたと思うのだが、経済的な豊かさが精神的な豊かさに直結しないということに対して、脱却できたとは到底思えないからだ。

 ただ、反復のなかで可能性は感じる。思い出せば、阪神・淡路大震災のとき、各種メディアが断絶された状況のなかで、パソコン通信や当時、まだ耳新しかったインターネットが、被災の状況を伝えていたのだった。今回、電話もメールもつながらないなかで、ツイッターやFacebookといったソーシャルネットのメディアが、安否の確認や励ましに使われている。ぼくもゆうべ、都心からの徒歩帰宅のさなか、ツイッターで状況を把握したり励まされたりして助けられた。スマートフォンの電池が切れたあとは、ふだん使わない携帯を取り出してまでアクセスしないではいられなかった。つながっているという実感がほしかった。

 相互扶助が途絶えそうになったところでオウム真理教による地下鉄サリン事件は起きたとすれば、今回の反復のなかで、少なくとも取り戻そうとしているものがある。それは反復ではなく、回復だったと歴史に記せるようにしたいと思う。散乱した本を片づける気になれずに夕方まで過ごしてしまったが、その前に書いておきたかった。



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2011/03/06

ヨロンマラソン-世界一ゆるくてあったかいマラソン

 いままで、世界一きれなマラソンと称揚したり、去年は、「ヨロンマラソンに見る手づくりの奄美発信」と書いたりしたけれど、今年はまた去年よりも、東京にいてヨロンマラソンを堪能することができた。

 先導車からの中継は車が先に行き過ぎているのか、ランナーがなかなか見えなかったけれど、島の意外なアップダウンやそれでも全体的にはとても平坦なさまが分かったし、昇竜橋付近の中継は今年も和やかで笑わせてくれたし、ゴール地点では、スタート間近の緊張感のなさ、ゴール寸前の併走のあったかさなどが、きれいな画像とクリアな音声で伝わってきた。

 ツイッターも去年よりずっと盛り上がった。ざっと目で数えて、 #yorontou のタグは今日だけで290にも上った。言葉と映像と音声がリアルにヨロンマラソンの中味を伝えていた。小さな島の発信として見事だったと思う。植田さんたちのおかげで満喫することができた。

 それにしても、昇竜橋近辺からランナーが駆け昇ってくる映像は、太平洋を背景にすると、与論が広大に見えてくるのだった。小さな島の大きな光景。これも見どころのひとつだったと思う。いまごろは完走パーティで盛り上がっていることだろう。乾杯だ。


 走っても歩いてもヨロンマラソン。
 途中で食べても飲んでもヨロンマラソン。
 海を堪能しても踊ってもヨロンマラソン。
 前夜祭があるのもヨロンマラソン。
 一緒に騒いで、お帰りなさいと声かけるのがヨロンマラソン。
 広大な海の上をを走るのがヨロンマラソン。
 世界一ゆるくてあったかいのが、ヨロンマラソン。


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2011/03/02

サークラの分布

 『与論島―琉球の原風景が残る島』をもとに、各サークラの分布図を概観してみる。数少ない与論の書物を読みながら、サークラのことになると、位置関係が分かっていないので、ちんぷんかんぷんになってしまうのだ。

 まず、高橋・竹は、サークラを4系統に分けている。

1.ショウ(ショウ・キン・サキマ)
・与論に最も早く定住したと言われるグループ。

2.プカナ・サトゥヌシ
・プカナ、サトゥヌシが、ショウより遅れて定着したことは確からしいが、ニッチェーより先なのかどうかは不明なところがあるが、両者は近接し移住地も似ていることから、類似した集団として整理。

3.ニッチェー(ニッチェー、プサトゥ、ユンクトゥ、クルパナ)
・ショウに対して後住であるが、プカナ・サトゥヌシに対する居住・移住の関係からみて、さらに後ではないかと推定。プサトゥ、ユンクトゥ、クルパナはニッチェーからのわかれサークラではなく、独立。

4.グスクマ(グスクマ、メーダ、ホーチ、クチピャー、ミーラ、伊伝、供利、金久、トゥマイ)
・1,2,3の後のグループ。グスクマ、メーダ、クチピャー、ミーラは城周辺。伊伝、供利、金久、トゥマイは、西へ展開。


Photo

<注>
・クルパナ、プサトゥ、ユンクトゥは、北部に独立してあるのではなく、サトゥ地区のなかにあるが、移住先のみ記入。
・ティラサキは、本にないのだが、かつてはあったものとして記入。
・円の大きさは、もとのサークラグループと移住先で大小の二種類にしているが、ニッチェーだけは移住先の密度が高く、勢いやや大きくしてしまった。

 ここに竹内浩のシニグにおける合同祭事の知見を重ねてみる。

 「シヌグ集団とそのグループ」より。

◇合同祭事

1.ショウ、キン、サキマ

2.ニッチェー、スーマ(サトゥヌシ)、フカナ

3.ユントゥク、プサト
・クルパナに対し、ムッケーサークラ(ターヤパンタで迎える)

4.メーダ、グスクマ
・ティラサキに対し、ムッケーサークラ(ターヤパンタで迎える)

5.ホーチ、クチピャー

 すると、ショウのグループは、居住・移住と合同祭事について矛盾がないのに対して、ニッチェーは、居住・移住の同一性からいえば、別系統と分類されるプカナ、サトゥヌシと合同祭事を行っている点が特徴的である。また、ニッチェーと同じグループに入るとされるプサトゥ、ユンクトゥ、クルパナは合同祭事を行っている。グスクマのグループについては居住・移住と合同祭事について矛盾がない。

 ニッチェーは、その前と後のサークラに対して独特の位相を持っている。各サークラを歴史の時間の流れに置き換えてみると、ニッチェーは、アージ・ニッチェーの伝承の通り、按司の時代を象徴すると思われる。


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2011/03/01

「かゐふた」とは与論島のこと

 また棚からぼた餅的知見なのだが、おもろに書かれる与論島の古名「かゐふた」について、さらりと触れられている。「かゐふた」の「ふた」は部落・集落のことである、と。

 ところで、「ふた」という言葉が用いられる場所は、この我謝杜のほかに、与論島、安須杜、新城(粟国か渡名喜?)である。それに加えて、「ふた(部落)」に名の轟く国王が謳われる。この用例は決して恣意的なものではないはずであり、安須杜が国土創世の最初の場所であることを考えれば、これら『おもろさうし』に「ふた」の名で現れる土地は、「あまみやふた」「しねりやふた」と等価ではないにしても、それに匹敵する意味を持つ土地ではないかと思われる。

 つまり琉球王国にとっての「始原の土地」としての意味があるのではないかということである。ことに、与論島は琉球王国の成立に深くかかわっているのかもしれない。それは、その北隣にある沖永良部島を念頭に置いてのことである。沖永良部島は倭寇の牧としての性格を持っていたと考えられる場所であり、しかもおもろのなかでは八幡神にかかわりの深い「月しろ」が謡われるのである。辺戸安須杜に伝わる「島渡りのウムイ」のなかで、この部落の祖先は沖永良部島から与論島を経てやって来た人々だと謡うことの意味は重要である。(『琉球王国誕生―奄美諸島史から』吉成直樹、福寛美、2007年)

 貝の蓋みたいに平べったいと冗談めかした意味解きしかできてこなかったので、「ふた」が部落・集落の意味という解説だけでも収穫というものだ。残るは、「かゐ」。何かの集落と言いたいわけだ。

 しかし、解説によれば、「ふた」名がつく地名は重要で、琉球王国にとって始原的な意味を持ったのではないかという指摘がされている。ぼくは戸惑うばかりなのだが、仮にある確かなことが言われているとして、ぼくたちは与論の何にそれを求めればいいだろう。それは、記録を残さぬ倭寇よろしく消えてしまったと見なせばよいのか、現にあるたとえば、ニッチェー・サークラなどに関与を見ればいいのだろうか。たとえば、沖永良部から与論を経て辺戸へ伝わるという伝承や古謡はないだろうか。想像はめぐる。

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