先住者と農耕技術者の交流-クルパナサークラ
与論のシニグで最も想像力をかきたてられるのは、クルパナ、ティラサキのサークラが関わる、祖霊の「迎え」を祭事として行うのではなく、「迎え」られる集団が存在することである。そこに、与論の先住者と農耕技術を携えてやってきた後続者との接触が祭事として保存されているのではないかと思えるからだ。
クルパナサークラの人たちは、旧暦七月十七日のシニグ本祭の当日、クルパナウガンでの祭事を行ったあと、山葡萄やかずらなどを身に巻きつけた姿(祖先神でもある農耕神への化身と考えられている)の座元(シニグ祭祀を行うサークラと呼ばれるグループの主宰)を先頭に、サトゥ(朝戸・麦屋の西区地区・城など古くから集落が開けた地域をサト(里)と呼び、それ以外の地区をパル(原)という)の、ターヤパンタ(与論で最も標高の高い地域の一画で、高千穂神社もこの地に隣接して建てられている)に向けて出発する。途中のウローを越えてマシキナイキ(増木名池)を通る。マシキナイキでは水嵩が増していうるときでも必ず池の中を通らなければならない。そこが祖先神が通ったカミミチだからである。池を渡り、ユフイという所に着いて、そこで祭事を行い、そして一休みする。
「ユフイ」は、与論方言で「休憩」のことをいうので、このことから、この地名がついたのであろう。ユフイで一休みしたあと、ムッケーシニグ(迎えシニグ)のユントゥクサークラからの合図で再びターヤパンタへ向かう。ターヤパンタでは、ユントゥクサークラの人たちの出迎えを受けて、合同の祭祀があり、酒宴も盛大におこなわれる。(『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』竹内浩、2009年)
クルパナサークラが北の黒花から、増木名池を通り、ターヤパンタでユントゥクサークラと以前はシニグに加わっていたプサトゥサークラと合流して祭事を行い、その後、合同で南進し、海岸で送りを行う。竹内はこの一連の流れを、農耕技術者(クルパナサークラ)を先住者(ユントゥクサークラ、プサトサークラ)が迎え入れた経緯がこの3グループのシニグには示されているのではないかとしている。ぼくも漠然とそう見なしてきたが、仮説として書物の形にされたのはこれが初めてではないだろうか。
クルパナサークラもティラサキサークラも島の北にあり、クルパナウガン、ティラサキウガンからのシヌグの神道のルートを抽象化すれば下図のようになる。
このルートは、与論における先住者と後住者の接触と交流を物語るものであると同時に、与論における農耕技術の伝来と定着の処理を示すものである。
竹内は、また、寺崎にせよ黒花にせよ、農耕技術を伝えたのは沖縄の人々であったことを、与論に残された遺物から仮説している。それならなぜ、南の海岸ではなく北の海岸からなのかという疑問に対しては、南風の強い時期に出発した人々が南のリーフからは島に入れず、北の入りやすいリーフの裂け目(口)を選んだからだとしている。これは、珊瑚礁の海と風に関する洞察を踏まえた仮説ではある。北から入ってきたからといって北からやってきたとは限らない。なるほどそうなのだが、本当にそうなのかということになると、未定としなければならないとぼくは思う。
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コメント
あまんの 歳さんに 次号「かなし」の原稿の相談がありました。 マニュさんにもお願いしたいとのことでした。よろしく。 私は 与論の伝説の盗人、ピンギヤマの洞窟について調べてみたい。
今日 浩先生にお会いしました。
先生の仮説に異論のある 聞き取りをしています。
私は 北からの大和ことばを持った民を考えています。
ネッチエーサークラとプカナ・サトゥヌシの言葉(発音)の違いがひっかります。
聞き取りでは、 クヌパナさーくらの神迎えの行事は 知恵ある権力者が もっともらしいいいわけをつくり、一族の土地を取得するための方便だったとのことです。 このことは 初公開ですが いかがですか・・・?
仮説は 面白い。
投稿: 泡 盛窪 | 2011/02/12 22:44
泡盛窪さん
そういうことはありうると思います。民話を自分たちのものに吸収し、神話化して権力の基盤とすることは神話のなかに見られる構造ですから。
ニッチェーとプカナの発音の違い、教えてください。
投稿: 喜山 | 2011/02/13 11:00