根の島としての与論島
『琉球王国誕生―奄美諸島史から』は、与論島を注視している。挙げているのはこの、おもろ。
巻五-二三七
一玉の御袖加那志
げらゑ御袖加那志
神 衆生 揃て
誇りよわちへ
又奥武の嶽大主
なです杜大主
又かゑふたに 降ろちへ
厳子達に 取らちへ
「かゑふた」は、与論島の古名。
二三七では「玉の(げらへ)御袖加那志」である神は「奥武の嶽大主」「なです杜大主」として与論島に降ろされ、兵士たちに何かをとらせる。二三五では同名の神が始原の首里城で国王に「上下の戦せぢ」を奉る。二三七で「厳子たち」が手にしたのは、まさに「上下の戦せぢ」であろう。巻五の始原構築おもろ群のなかで、このおもろ群はとくに難解である。ただ、琉球王国は与論島に始原世界と、武力の根源をみていたことは確実である。そのために、与論島はおもろで「根の島」と呼ばれていたのではないか。(『琉球王国誕生―奄美諸島史から』吉成直樹、福寛美、2007年)
与論は「始原世界」と呼ばれるにふさわしい空気を漂わせるが、「武力の根源」にはおよそ似つかわしくない。それは現在の感覚だから、当てにはならないのだが、「武力」とは縁遠い世界だとしか思ってこなかった。そう思うのは、それに見合う言い伝えや伝承を耳にしたことがないのだ。こうしたことが言われるからには、何か、「武力の根源」に触れる何かが、体感的にか伝承としてか残っているはずだと思える。それは何だろう。
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