沖永良部島、与論島、辺戸
吉成直樹と福寛美による『琉球王国誕生』では、意外にも与論島が琉球王国成立にとって重要な場所として登場する。
第一尚氏の尚徳が倭寇であるとすれば、第一尚氏の樹立者である尚巴志もまた倭寇であったはずである。しかし、第一尚氏とは、権力闘争の絶えない都市的な国家であったと考えられる。正史や『歴代宝案』に記述される系譜は信頼しがたい面があり、尚徳は尚巴志と系統の異なる倭寇の可能性もある。その場合、どのような存在が考えられるだろうか。
朝鮮の文化要素が濃厚に認められることは、ことに朝鮮との関係が緊密であった対馬との関係を想像させる。この第一尚氏は、奄美諸島を迂回しつつ、沖永良部島を足がかりに与論島、沖縄本島北部の辺戸などを経て、北から南下したと考えたい。というのは、『おもろそうし』のなかで、倭寇の守護神である「月しろ」を謳うのは、沖永良部、佐敷、知念、首里城であり、第一尚氏の本拠地であった佐敷が「月しろ」に結びついていることは、「月しろ」が第一尚氏に結びついていることを示しているからである。また、伊波普猷の琉球語と壱岐方言の類似などの指摘を踏まえると、壱岐の勢力も根深く展開したに違いない。
沖縄島北端の辺戸部落に伝えられている「島渡りのウムイ」は沖永良部島を始原の地として設定しており、やがて辺戸部落に人々が渡来したことを謳うのである。与論島に「とから遊び」を謳うおもろがあることを考えると、与論島に定着した勢力もトカラ列島を経た倭寇であった可能性がある。『琉球王国誕生―奄美諸島史から』(吉成直樹、福寛美、2007年)
結論のみ拝借するのは気が引けるが、ここにおける議論を踏まえて、倭寇が沖縄諸島に鉄器や稲作をもたらしたとすれば、寺崎や黒花から入ったのがこの倭寇勢力であり、彼らが与論で支配勢力となった時期のあることが想定される。与論の創世神話が、アマミク、シニグクを創世神とし、寺崎サークラのカミミチを居住地の変遷として語るのも、その勢力が在地の民話を、アマミク、シニグクの神話として編んだと考えることができる。
沖縄島への鉄器、稲作勢力が、沖永良部島、与論島を渡って辺戸に渡ったとする言い伝えが、淡い納得をもたらすのは、こうした経緯が沖永良部、与論の持つ沖縄島への親和感と符合しているからである。また、与論の英雄伝説のアージ・ニッチェーやウプドゥー・ナタがたびたび琉球へ渡り、また、サービマートゥイは、沖縄島北部、奥の恋人に会いに行くという民話が残されているのもその背景をなしている。面白い議論だ。
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コメント
おはようございます。
この説に 強く魅かれます。
神がかり的に 私の遺伝子が 北からの説を説きたがっています。
シニグ旗を立てるところから、 私の集落、古里を見下ろす時、北から上陸したであろう民のことを体で感じる。
北から東の海上を航海する船に思いをはせる姿を英雄伝説として蘇らせた。
運命的な出会いは 妻 真弓。
彼女の母は 長島の生まれ。
海流に乗って 流されてきたのをつなぎとめてしまった
安田、佐敷、知念の高台に立つと血が騒ぐ。
暗示にかかったように・・・。
投稿: 泡 盛窪 | 2011/02/26 05:24
西区、赤佐・朝戸の方言の違いには誰もが気がついているが、論説したのをあまり知らない。
そろそろ、 やりましょうか・・・・。
東区のアマンジョウあたりが 先住民。
遺跡の時代とするとして。
インジャーゴ、しーしちゃーごー、いんだごーやウプンジュあたりは 稲作文化を知っていた民族が住み着いたのではなかろうか。
赤崎あたりの先住民とは インジャゴーの民俗との交流があって、 再移住していると思われる。
インジャゴーあたりにも 先住民を住んでいたとの証明は 遺跡の調査によるが 現代の言葉からすると もっと面白い発見が あるいは 説があったほうが面白い。 与論郷土研究会では だちあかないので マニュさんと やってみまっしょうか・・・?
もっと 本を読んで 情報を教えて下さい。
現地調査は私にさせてください。
投稿: あわ | 2011/02/26 05:41
盛窪さん
やってみたいです。ぼくも、与論の民がいつどこからやてきたのか、最も知りたいことです。
「血が騒ぐ」のには意味があると思います。
投稿: 喜山 | 2011/02/26 09:04
あの与論という島のなかで、先住民といわれる人々と、あとからきた来訪者とは、はじめにどのような接触があったのか?。そのはじめての接触の時に闘争はなかったのか?。結果的に現在のように「ユンヌンチュ」として和合した経緯なども知りたいですね。
それにしても「与論島クオリア」は面白いです。
とてもよい刺激になります。ありがとうございます。
投稿: 川内 | 2011/02/26 17:36