高神と来訪神の混淆
中沢新一のいう対称性人類学から与論のシヌグを眺めてみると、祭儀は明確に分離しにくい形態を持っている。
まず、ティラサキウガンやクルパナウガンで眠り、夢による吉兆の告げを受け取るところは、「高神」的である。しかし、そこからパンタへ、「山葡萄やかずらなどを身に巻きつけた姿」で向かうところは来訪神の面影を宿している。ここは、安田のシヌグのほうが、
山中で男たちは半裸の上にワラのガンシナ(鉢巻状の輪)と帯をし、それに山のシイなどの木の枝や羊歯の葉をさして頭から身体まで緑の葉で被う。特に頭にはその頃に赤い総状の実をつけるミーハンチャ(和名ゴンズイ)の枝をさして飾る。身の丈より高い木の柴枝をもつ。((「与論島のシヌグとウンジャミ」小野重朗、1974年)
と、より来訪神の性格を露わにしている。
次に、山のない与論の代替物であるパンタでの儀礼は、ふたたび「高神」的である。
この、どちらか分離できない混淆された現れは、多神教的な宇宙観をゆるやかに開陳しているのかもしれない。これは、為政者の統治が強力に現れることのなかった与論であればこそ、あいまいな共存がありえたということだろうか。
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