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2011/02/27

「琉球」に対する親疎

 『琉球王国誕生―奄美諸島史から』から得られる知見。

 大宰府の管轄下にあった喜界島の機能は、十世紀~十一世紀には南九州を活動の場とし、九州西海岸から対馬、さらには朝鮮半島を繋ぐ交易路を熟知していた人々の関与する拠点へと変質したと考えられる。それは以下の大宰府管内襲撃事件のルートなどからの推定である。

 十~十一世紀代には、『小右紀』などに記される「奄美嶋人」「南蛮人」「南蛮賊人」などによる大宰府管内襲撃事件が起き、「貴駕島」に下知が発せられる。大宰府管内襲撃事件では管内の海夫など四百人余りが略奪されており、鉄器や構造船うぃ使用していたと考えられる。こうした状況から推して、下知を発せられた、当の喜界島の勢力が変質していく状況があったと考えれば理解しやすい。この時期、すでに「倭寇的世界」が形成されていたとする指摘がある。

 十二世紀前後を境にして、文献に記録される「キカイガシマ」の「キ」の表記が「貴」から「鬼」にかわる。この変化は、こうした活動する人々の変化によるものであろう。(『琉球王国誕生―奄美諸島史から』吉成直樹、福寛美、2007年)

 書き留めておきたいのは、この知見の吟味ではなく、この知見を梃子にしたときに感じるある納得についてだ。

 与論島がその所属を言う場合、鹿児島は当てはまらず奄美も疎遠で、沖縄ではないとしたら、自然と琉球という言葉を呼び寄せると思う。少なくともぼくはそうだ。しかし、奄美は琉球ではないか、という素朴な実感が、大島北部では反発する人もいるのをあるとき知った。「琉球jは、ここでは受けない」、と。

 また、奄美は、「琉球、薩摩、アメリカに征服されてきた」というフレーズに出会うこともある。ぼくはこの三者は全く位相が異なり同列に論じることはできないと思うし、そう言うならどうしてここに「日本」が入らないのだろうと不思議になるのだが、それにしても、「琉球」に対する反発は不思議だった。琉球が武力制圧したという史実があるにしても、だ。

 しかし、吉成の考察をもとにすると、こういうことは言える。奄美北部は、大和勢力の圏内にあった(あるいは影響力を弱めているとはいえ、与論も)。しかし、ある時期から倭寇的勢力の支配圏内に入った。しかし、沖永良部、与論以南は、それとは別の倭寇的勢力が入り、沖縄島へ渡り、琉球王国を築いた。するとこうなる。奄美北部からしてみれば(島によって濃淡はあるだろう)、大和勢力、倭寇的勢力の交替があり、その上に琉球は別の勢力として発ち現れた。ところが与論では、弱い大和勢力の上に倭寇的勢力がはいり、その延長で琉球になった。与論では、琉球に征服されたというより、琉球になった、という表現の方がしっくりくる。

 こうした経緯を踏まえると、勢力の交代劇は奄美北部のほうが多くあり、かつ、琉球勢力は他者としてやってきたことになる。そうだとすれば、「琉球」に対する距離感が与論と異質であることは頷けてくるのである。

 ただ、そうだとしても氷解できないものは残る。ぼくが、「琉球」というとき、政治勢力を全く意味せず、自然や文化の同一性を想起しているからだ。仮に倭寇的勢力が琉球の同一性をもたらしたのだとしても、その深層にはもともとあったものが貌を出しているからだ。

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