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2011/02/28

天・雨・海

  『琉球王国誕生―奄美諸島史から』は、ぼくたちをわずらわせて止まないアマミク、シニグクの語源についても考察している。

 吉成はまず、内間直仁の議論を引いている。

 「あまみ」「しねり」は、「あま-み」「しね-り」である。「しね」は、「てた(太陽)」「かは(日)」と対をなすことから、村山七郎が指摘するように「光」、あるいは外間守善が指摘するように「太陽・日神・照り輝いて美しいもの」を意味する。

 「しね」と対をなす「あま」は、「海人」にも「天」にも通じるが、「しね」が「光・太陽」であるとするなら、「あま」は「天」と解するのが妥当ではないか。

 吉成はこれを踏まえた上で、「天」と「光」が対であることはしっくりこないものが残る、として、「あま」は「雨」ではないかとする可能性を指摘している。「あま」を「雨」と解すれば、稲作に必要な「雨」と「光」となるから。そちらのほうが理解しやすい、と。

 そうかもしれない、と思う。

 この本の仮説では、奄美北部の倭寇勢力を避けて、アマミク・シニグク勢力は南下しているから、アマミクと奄美は関係ないだろうとしている。だが、当の奄美もまた、「あま」なのだ。奄美は、657年の「日本書紀」に「海見」と書かれたのが活字の最初である。すると、「あま」には、「天」と「雨」の他に「海」も考えられるから、奄美の「あま」は、アマミクと分離して考えることができるなら、「海」と解してみることもできる。今のところ、ただのあてずっぽうだけれど。

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2011/02/27

「琉球」に対する親疎

 『琉球王国誕生―奄美諸島史から』から得られる知見。

 大宰府の管轄下にあった喜界島の機能は、十世紀~十一世紀には南九州を活動の場とし、九州西海岸から対馬、さらには朝鮮半島を繋ぐ交易路を熟知していた人々の関与する拠点へと変質したと考えられる。それは以下の大宰府管内襲撃事件のルートなどからの推定である。

 十~十一世紀代には、『小右紀』などに記される「奄美嶋人」「南蛮人」「南蛮賊人」などによる大宰府管内襲撃事件が起き、「貴駕島」に下知が発せられる。大宰府管内襲撃事件では管内の海夫など四百人余りが略奪されており、鉄器や構造船うぃ使用していたと考えられる。こうした状況から推して、下知を発せられた、当の喜界島の勢力が変質していく状況があったと考えれば理解しやすい。この時期、すでに「倭寇的世界」が形成されていたとする指摘がある。

 十二世紀前後を境にして、文献に記録される「キカイガシマ」の「キ」の表記が「貴」から「鬼」にかわる。この変化は、こうした活動する人々の変化によるものであろう。(『琉球王国誕生―奄美諸島史から』吉成直樹、福寛美、2007年)

 書き留めておきたいのは、この知見の吟味ではなく、この知見を梃子にしたときに感じるある納得についてだ。

 与論島がその所属を言う場合、鹿児島は当てはまらず奄美も疎遠で、沖縄ではないとしたら、自然と琉球という言葉を呼び寄せると思う。少なくともぼくはそうだ。しかし、奄美は琉球ではないか、という素朴な実感が、大島北部では反発する人もいるのをあるとき知った。「琉球jは、ここでは受けない」、と。

 また、奄美は、「琉球、薩摩、アメリカに征服されてきた」というフレーズに出会うこともある。ぼくはこの三者は全く位相が異なり同列に論じることはできないと思うし、そう言うならどうしてここに「日本」が入らないのだろうと不思議になるのだが、それにしても、「琉球」に対する反発は不思議だった。琉球が武力制圧したという史実があるにしても、だ。

 しかし、吉成の考察をもとにすると、こういうことは言える。奄美北部は、大和勢力の圏内にあった(あるいは影響力を弱めているとはいえ、与論も)。しかし、ある時期から倭寇的勢力の支配圏内に入った。しかし、沖永良部、与論以南は、それとは別の倭寇的勢力が入り、沖縄島へ渡り、琉球王国を築いた。するとこうなる。奄美北部からしてみれば(島によって濃淡はあるだろう)、大和勢力、倭寇的勢力の交替があり、その上に琉球は別の勢力として発ち現れた。ところが与論では、弱い大和勢力の上に倭寇的勢力がはいり、その延長で琉球になった。与論では、琉球に征服されたというより、琉球になった、という表現の方がしっくりくる。

 こうした経緯を踏まえると、勢力の交代劇は奄美北部のほうが多くあり、かつ、琉球勢力は他者としてやってきたことになる。そうだとすれば、「琉球」に対する距離感が与論と異質であることは頷けてくるのである。

 ただ、そうだとしても氷解できないものは残る。ぼくが、「琉球」というとき、政治勢力を全く意味せず、自然や文化の同一性を想起しているからだ。仮に倭寇的勢力が琉球の同一性をもたらしたのだとしても、その深層にはもともとあったものが貌を出しているからだ。

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2011/02/26

根の島としての与論島

 『琉球王国誕生―奄美諸島史から』は、与論島を注視している。挙げているのはこの、おもろ。

巻五-二三七

一玉の御袖加那志
 げらゑ御袖加那志
 神 衆生 揃て
 誇りよわちへ
又奥武の嶽大主
 なです杜大主
又かゑふたに 降ろちへ
 厳子達に 取らちへ

 「かゑふた」は、与論島の古名。

 二三七では「玉の(げらへ)御袖加那志」である神は「奥武の嶽大主」「なです杜大主」として与論島に降ろされ、兵士たちに何かをとらせる。二三五では同名の神が始原の首里城で国王に「上下の戦せぢ」を奉る。二三七で「厳子たち」が手にしたのは、まさに「上下の戦せぢ」であろう。

 巻五の始原構築おもろ群のなかで、このおもろ群はとくに難解である。ただ、琉球王国は与論島に始原世界と、武力の根源をみていたことは確実である。そのために、与論島はおもろで「根の島」と呼ばれていたのではないか。(『琉球王国誕生―奄美諸島史から』吉成直樹、福寛美、2007年)

 与論は「始原世界」と呼ばれるにふさわしい空気を漂わせるが、「武力の根源」にはおよそ似つかわしくない。それは現在の感覚だから、当てにはならないのだが、「武力」とは縁遠い世界だとしか思ってこなかった。そう思うのは、それに見合う言い伝えや伝承を耳にしたことがないのだ。こうしたことが言われるからには、何か、「武力の根源」に触れる何かが、体感的にか伝承としてか残っているはずだと思える。それは何だろう。


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2011/02/25

沖永良部島、与論島、辺戸

 吉成直樹と福寛美による『琉球王国誕生』では、意外にも与論島が琉球王国成立にとって重要な場所として登場する。

 第一尚氏の尚徳が倭寇であるとすれば、第一尚氏の樹立者である尚巴志もまた倭寇であったはずである。しかし、第一尚氏とは、権力闘争の絶えない都市的な国家であったと考えられる。正史や『歴代宝案』に記述される系譜は信頼しがたい面があり、尚徳は尚巴志と系統の異なる倭寇の可能性もある。

 その場合、どのような存在が考えられるだろうか。
 朝鮮の文化要素が濃厚に認められることは、ことに朝鮮との関係が緊密であった対馬との関係を想像させる。この第一尚氏は、奄美諸島を迂回しつつ、沖永良部島を足がかりに与論島、沖縄本島北部の辺戸などを経て、北から南下したと考えたい。というのは、『おもろそうし』のなかで、倭寇の守護神である「月しろ」を謳うのは、沖永良部、佐敷、知念、首里城であり、第一尚氏の本拠地であった佐敷が「月しろ」に結びついていることは、「月しろ」が第一尚氏に結びついていることを示しているからである。

 また、伊波普猷の琉球語と壱岐方言の類似などの指摘を踏まえると、壱岐の勢力も根深く展開したに違いない。
 沖縄島北端の辺戸部落に伝えられている「島渡りのウムイ」は沖永良部島を始原の地として設定しており、やがて辺戸部落に人々が渡来したことを謳うのである。

 与論島に「とから遊び」を謳うおもろがあることを考えると、与論島に定着した勢力もトカラ列島を経た倭寇であった可能性がある。『琉球王国誕生―奄美諸島史から』(吉成直樹、福寛美、2007年)

 結論のみ拝借するのは気が引けるが、ここにおける議論を踏まえて、倭寇が沖縄諸島に鉄器や稲作をもたらしたとすれば、寺崎や黒花から入ったのがこの倭寇勢力であり、彼らが与論で支配勢力となった時期のあることが想定される。与論の創世神話が、アマミク、シニグクを創世神とし、寺崎サークラのカミミチを居住地の変遷として語るのも、その勢力が在地の民話を、アマミク、シニグクの神話として編んだと考えることができる。

 沖縄島への鉄器、稲作勢力が、沖永良部島、与論島を渡って辺戸に渡ったとする言い伝えが、淡い納得をもたらすのは、こうした経緯が沖永良部、与論の持つ沖縄島への親和感と符合しているからである。また、与論の英雄伝説のアージ・ニッチェーやウプドゥー・ナタがたびたび琉球へ渡り、また、サービマートゥイは、沖縄島北部、奥の恋人に会いに行くという民話が残されているのもその背景をなしている。面白い議論だ。


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2011/02/19

高神と来訪神の混淆

 中沢新一のいう対称性人類学から与論のシヌグを眺めてみると、祭儀は明確に分離しにくい形態を持っている。

 まず、ティラサキウガンやクルパナウガンで眠り、夢による吉兆の告げを受け取るところは、「高神」的である。しかし、そこからパンタへ、「山葡萄やかずらなどを身に巻きつけた姿」で向かうところは来訪神の面影を宿している。ここは、安田のシヌグのほうが、

 山中で男たちは半裸の上にワラのガンシナ(鉢巻状の輪)と帯をし、それに山のシイなどの木の枝や羊歯の葉をさして頭から身体まで緑の葉で被う。特に頭にはその頃に赤い総状の実をつけるミーハンチャ(和名ゴンズイ)の枝をさして飾る。身の丈より高い木の柴枝をもつ。((「与論島のシヌグとウンジャミ」小野重朗、1974年)

 と、より来訪神の性格を露わにしている。

 次に、山のない与論の代替物であるパンタでの儀礼は、ふたたび「高神」的である。

 この、どちらか分離できない混淆された現れは、多神教的な宇宙観をゆるやかに開陳しているのかもしれない。これは、為政者の統治が強力に現れることのなかった与論であればこそ、あいまいな共存がありえたということだろうか。

 ※対称性人類学からみた琉球弧


 

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2011/02/17

安田と与論のシヌグ

 小野重朗は、与論のシヌグと沖縄安田のそれを比較している(「与論島のシヌグとウンジャミ」1974年)。

 沖縄安田のシヌグ。

・部落のアシャギが清められ、アシャギマーという庭にシヌグ旗が立てられる。
・午後、部落の男たちは、三つの山に分かれて登る。北のササ、西のメーバ、南のヤマナス。

 山中で男たちは半裸の上にワラのガンシナ(鉢巻状の輪)と帯をし、それに山のシイなどの木の枝や羊歯の葉をさして頭から身体まで緑の葉で被う。特に頭にはその頃に赤い総状の実をつけるミーハンチャ(和名ゴンズイ)の枝をさして飾る。身の丈より高い木の柴枝をもつ。扮装を終ると列を作って山に向かって坐り、太鼓を合図に山の方を拝み、次は反対側に向いて海の方を拝む。次には円陣を作り、回りながら、木の柴枝で強く地面を叩き「スクナーレー、スクナーレー」と唱える。

 これで山の行事は終り、メーバー山からの太鼓の合図で、三つの山から同時に出発し列を作って山を下る。先頭に太鼓打ち、それから小さい子供を前に順に列を作って、「エーヘーホー」と唱えながら山を下る。

・山を下ったところで、主婦たち酒などの飲み物を用意してサカンケー(坂迎え)を行う。
・サカンケーの後、三つの列はアシャギ近くに集まっている女性たちを左回りにまわりながら、エーヘーホーを唱えながら、一回りすると合い図で、手に持っていた柴枝を振り上げて人々の体を叩きあう。
・また回っては叩き、を三回繰り返す。
・次にアシャギの前に行き、男女の神役の人たちを同じように叩く。
・昔は、その次にそれぞれの家々をまわって叩きまわっていた。
・部落の東にある海辺に行き、山の方を向いて砂浜に座り、太鼓の合図で礼拝し、次に海に向かって礼拝する。
・それから。海に入り、身にまとっていたものや柴枝を流してしまう。
・流れ川に行って身をすすぐ。アシャギマーに戻る。

・午後四時ころ、アシャギとニードーマ(根所で火の神を祀る)とで供え物をし農年と部落の安全を祈る。
・「田草取り」「ヤーハリコー」「ウスデーク」。

 小野は、与論のシヌグと比較して、「安田のシヌグはシヌグの古形をよく留めており、与論のシヌグは後次的な高度の展開を経た形をもつと言うことができよう」としている。

 ひとくちに、それは、安田の方が農耕以前のシヌグの原型をよく保存しているということだ。与論のシヌグは、農耕祭儀に比重を移し、かつ島全体が関わる共同祭儀化している点で、為政者の関与を思わせる。

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2011/02/15

シヌグ類型の意味

 小野重朗は、「与論島のシヌグとウンジャミ」(1974年)で、シヌグをグループとして「迎え」るものと祖霊神を「迎え」るものの二類型があるとして、どちらが古いかと問いを立てている。

 (前略)AとBの二つの類型の相違点をみると、Aにはパルシヌグがあり、パンタ儀礼にそれを迎える行事があるのに対して、Bにはそれが欠けていることが明らかであり、その他の点についてはほとんど、あるいは全く同じであると言ってもよいであろう。AとBとが全体にわたって異同の点が交錯しているというのではなく、BはAの一部を欠除した形であるということは、その相違点であるパルシヌグがあり、それを迎える行事があるという部分はさほど古くない時代に消失したか、添加されたかどちらじゃであろうと考えさせる。消失したというのはAからBになったということであり、添加されたというのはBからAになったということである。事実はそのどちなのだろうか。

 私はAのパルシヌグとそれを迎える行事の部分が消失してBとなったものと思う。

 小野に従えば、以前はどのサークラも、ティラサキ、クルパナのサークラ集団のように、「迎え」のパンタ儀礼を持っていたことになるが、これは問いそのものが抽象化の罠だと思う。与論はこの二つの類型が多数存在するほど、広大な面積もなければ人口もない。農耕技術の伝来が主に二集団であり、彼らとの交流をはじめに行った集団との間によって、「迎え」を包含したシヌグが形成されたとするのが自然な観方だと思う。

 その余は、農耕以前の儀礼を色濃く含んだ先住者主体のグループと、農耕技術受容以降の人口と居住地拡大とによって生まれたグループで構成されている。


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2011/02/14

「奥山辺戸山の猪のど真ん中」

 竹内は、与論でもっとも早く人が住みついたとされる赤崎から、インジャゴーの水源を頼って麦屋に住んでいるショウ、キン、サキマサークラのシヌグについて、概観している。


16日
・ショウ、キン、サキマの各サークラごとに、それぞれのサークラの座元を中心に際場に集まり、サークラを建て、カミミチ(神路)の整備や祭事に使用するものの準備を行う。

・すべての準備が終わったところで、シニグ神の依り代に神酒をささげ、祈願して終わる。

17日
・各サークラごとに氏子が、赤崎のアーサキウガンで神迎えの儀式を終えた後、集まる。
・座元が神の依り代の石に神酒を捧げ、祝詞を奏上し、神酒が参加者にまわされる。
・大人たちが祭事を行っているあいだ、子どもたち(男子)がダンチクの束を持って、氏子全員の家々をまわり、家の中央の柱を「フーベーハーベー」と唱えながら右周りに三回まわって神棚にある供え物をもらって立ち去る。ヤーウチハライ。
・際場では一定の時間を見計らって各サークラが連絡を取り合い、合流してカミミチを通り、東方の海が見えるパンタに向かう。
・パンタに着くと、そこにある石の近くにシニグパタをたて、その周りを右回りに「フーベーハーベー」と唱えながら三回まわる。
・フイジというところでも同様の祭儀を行ったあとにウーニヌムイ(大峯山)に向かう。
・ウーニヌムイで、ショウサークラの座元によって、弓と矢による儀礼を行う。沖縄の国頭の方向に矢を向け、「ウクヤマピドウヤマヌシーシヌマーマンナー」(奥山辺戸山の猪のど真ん中)と唱え事をして矢を放つ。
・赤崎に近いシトゥパトゥという所で酒宴。
・その間に三人の若者が選ばれ、赤崎のアマンジョーの近くの海に行き、ダンチク、シニグパタ、弓矢などを、「ワープニトゥウラプニトゥワープニャーパイベーク(私の舟とお前の舟と私の舟の方が速い)」と唱えて海に流す。・再びシトゥパトゥに戻る。

18日
・休み

19日
・サークラに集まり、後片付けと宴。

 このグループのシヌグで関心を惹かれるのは、農耕以前の狩猟採集時代の祭儀の面影を宿していることである。竹内は、

 このグループ以外にも弓矢を使って祭儀を行うサークラはいくつかあるが、それらは稲作にかかわるものである場合がほとんどであり、このショウサークラのグループだけが何故猪狩りなのか疑問が残る。(『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』竹内浩、2009年)

 と書くが、これは疑問ではなく、このグループの歴史の深さを物語っているとみなせるのだと思う。

 弓と矢の儀礼では、「ウクヤマピドウヤマヌシーシヌマーマンナー」(奥山辺戸山の猪のど真ん中)と唱えられる。なぜ、「奥山辺戸山」なのだろうか? それはシヌグが同様に行われる沖縄の安田からシヌグが伝承されたことの証であるかもしれない。また、安田の人々と麦屋の人々との類縁を示すものかもしれない。狩猟の意味を大きくするために山のない与論ではなく、森深い沖縄島北部を指したのかもしれない。どちらにしても、またどちらでもないにしても、沖縄北部との関連がここで示唆されている。


※ちなみに、インジャゴーからは素晴らしい発見があった。丹念な観察が実ったものだ。
 「与論町のマンゴー農家で県希少野生動植物保護推進員の竹盛窪さん(58)が、10年ほど前から藻を観察していた」

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2011/02/13

カミミチの経路と創世神話の同一性

 竹内は、シヌグにおけるカミミチの経路と創世神話の同一性に着目している。

 このティラサキサークラのカミミチの経路は、何故か前章で述べた与論の創世神話「シマヌカミヌパナシ」の島ができるまでの話とよく似ている。「シマヌカミヌパナシ」は、最初にできた東方のハジピキパンタと後でできたミーラダキがつながって与論の島はできた。というところで終わっているが、これにはまだ続き談があって、アマミクとシニグクの二人は最初の頃、ハジピキパンタに家を建てて住んだが、風あたりが悪く、生活するのに適さなかったので、クニガキに移り、さらにフカナに移って住みついた。というのである。

 (中略)創世神話のこの話は、さきに述べたティラサキサークラの人たちが、ティラサキを出発してから、ハジピキパンタを経由して、ミーラの一画にあるサトゥのターヤパンタに至るカミミチの経路と全く同じである。(『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』竹内浩、2009年)

 カミミチは、ウガンから目的地まで最短経路を取るわけではなく迂回しており、それが厳格に守られることからも、経路そのものに意味があり、居住の変遷を記憶したものだと受け取ることができるが、竹内はさらに、与論の神話において創世神が辿る経路と全く同一であることから、ティラサキウガンから来た人々によって創世神話も作られたのではないかとしている。

 この、カミミチと創世神話の同一性はとても面白い。ここには、神話がただの作り話ではなく、伝承として島人の記憶を封じ込めたものであり、支配勢力によって既存の民話を包含させたものであるという構造が見やすい形で提示されているのではないだろうか。


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2011/02/12

先住者と農耕技術者の交流-クルパナサークラ

 与論のシニグで最も想像力をかきたてられるのは、クルパナ、ティラサキのサークラが関わる、祖霊の「迎え」を祭事として行うのではなく、「迎え」られる集団が存在することである。そこに、与論の先住者と農耕技術を携えてやってきた後続者との接触が祭事として保存されているのではないかと思えるからだ。

 クルパナサークラの人たちは、旧暦七月十七日のシニグ本祭の当日、クルパナウガンでの祭事を行ったあと、山葡萄やかずらなどを身に巻きつけた姿(祖先神でもある農耕神への化身と考えられている)の座元(シニグ祭祀を行うサークラと呼ばれるグループの主宰)を先頭に、サトゥ(朝戸・麦屋の西区地区・城など古くから集落が開けた地域をサト(里)と呼び、それ以外の地区をパル(原)という)の、ターヤパンタ(与論で最も標高の高い地域の一画で、高千穂神社もこの地に隣接して建てられている)に向けて出発する。

 途中のウローを越えてマシキナイキ(増木名池)を通る。マシキナイキでは水嵩が増していうるときでも必ず池の中を通らなければならない。そこが祖先神が通ったカミミチだからである。池を渡り、ユフイという所に着いて、そこで祭事を行い、そして一休みする。
 「ユフイ」は、与論方言で「休憩」のことをいうので、このことから、この地名がついたのであろう。

 ユフイで一休みしたあと、ムッケーシニグ(迎えシニグ)のユントゥクサークラからの合図で再びターヤパンタへ向かう。ターヤパンタでは、ユントゥクサークラの人たちの出迎えを受けて、合同の祭祀があり、酒宴も盛大におこなわれる。(『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』竹内浩、2009年)

 クルパナサークラが北の黒花から、増木名池を通り、ターヤパンタでユントゥクサークラと以前はシニグに加わっていたプサトゥサークラと合流して祭事を行い、その後、合同で南進し、海岸で送りを行う。竹内はこの一連の流れを、農耕技術者(クルパナサークラ)を先住者(ユントゥクサークラ、プサトサークラ)が迎え入れた経緯がこの3グループのシニグには示されているのではないかとしている。ぼくも漠然とそう見なしてきたが、仮説として書物の形にされたのはこれが初めてではないだろうか。

 クルパナサークラもティラサキサークラも島の北にあり、クルパナウガン、ティラサキウガンからのシヌグの神道のルートを抽象化すれば下図のようになる。

Shinugu_4

 このルートは、与論における先住者と後住者の接触と交流を物語るものであると同時に、与論における農耕技術の伝来と定着の処理を示すものである。

 竹内は、また、寺崎にせよ黒花にせよ、農耕技術を伝えたのは沖縄の人々であったことを、与論に残された遺物から仮説している。それならなぜ、南の海岸ではなく北の海岸からなのかという疑問に対しては、南風の強い時期に出発した人々が南のリーフからは島に入れず、北の入りやすいリーフの裂け目(口)を選んだからだとしている。これは、珊瑚礁の海と風に関する洞察を踏まえた仮説ではある。北から入ってきたからといって北からやってきたとは限らない。なるほどそうなのだが、本当にそうなのかということになると、未定としなければならないとぼくは思う。


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2011/02/08

シヌグ集団とそのグループ

 『辺戸岬から与論島が見える』を頼りに、シヌグ集団とそのグループを整理してみる。


◇合同祭事

1.ショウ、キン、サキマ

2.ニッチェー、スーマ、フカナ

3.ユントゥク、プサト
・クルパナに対し、ムッケーサークラ(ターヤパンタで迎える)

4.メーダ、グスクマ
・ティラサキに対し、ムッケーサークラ(ターヤパンタで迎える)

5.ホーチ、クチピャー


◇単独祭事

6.ミーラ

7.イジヌ

8.トゥムイ

9.ハニク

10.トゥマイ


 詳細の前に、大雑把に、1、2が農耕以前の先住者、3、4が農耕伝来者、そして以降は、サトゥ(里)内での居住地の拡大と、パル(原)への居住地の拡大を示すものと仮定してみる。あくまで、詳細に入る前の眺めとして。


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2011/02/07

『辺戸岬から与論島が見える』

 竹内浩著、『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』(2009年)は、与論島の歴史を知る上で最良のテキストだと思う。残念ながらこれは私家版なので、市場には流通していない。与論島がテーマなので読者も少ないかもしれない。けれど、島人が現代の知見を取り入れながら、しかし現在の言説の通念に惑わされず自らのこだわりを貫いた島語りであるという点で、ぼくには宝物のように思える。

 それはシヌグの分析に明らかだし、与論は薩摩の統治を受けたこともあるが、琉球との文物の交流のなかで、その文化を育んできたということを、思考枠が先行することなく、内側からの語りで自然にひとつの世界観にしている。そういうところに現れている。

 著者は、2008年に4万円でパソコンを購入し、ほとんど手習いで文字入力を覚え、2009年にこれを完成させている。内容は与論の人らしく静かな語り口だが、この努力には島への愛情と執念が宿っているのを疑えない。著者は、「おわりに」で、

 私の予想をこえて自身の思いを書き過ぎたように思える。

 と書くが、それこそがこの本の価値なのだ。このような与論の語りを、ぼくも書きたい。と思った。なお、『辺戸岬から与論島が見える』という、復帰前の沖縄の声のような書名は、与論はそれ自体で実態を浮かび上がらせることはできず、関係、特に沖縄島北部との関係のなかで浮かび上がってくるという方法を託したものだ。

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2011/02/06

ウドゥヌスー=御殿の後

 私家版『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』を読んでいて、愉快になった。

 現在、茶花漁港となっている所が当時アガサミナト(赤佐港)とよばれていた茶花の泊地だが、その後背地で、現茶花自治公民館のあたりは、番や蔵なども置かれていて、今でもこの地域を「ウグラ(御蔵)」といっている。又、このウグラの地から、港とは反対の北側には「ウドゥンヌスー」という砂浜があるが、この地名は、「ウドゥンヌウッスー(御殿の後)」の語が転化した地名だと思われる。『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』(竹内浩、2009年)

 ぼくは、以前、苦し紛れに「ウドゥヌスー=布団の洲?」と仮説したことがあった。書いた本人も「笑ってやってください」としているが、それから四年、ぼくの認識は進まなかったのだから、「御殿の後」という鮮やかな謎解きが嬉しい。ウドンヌウッスーは、転訛すれば、容易にウドゥヌスーになる。地名の付け方としても自然な流れだ。

 ただ、これが地名の由来であるとしたら、18世紀頃のことだから、それ以前の地名もあったのかもしれない、という想像が働く。あるいは、当時、宇和寺は未開の地であったとしたら名は無かったかもしれない。でも漁撈の民であれば、ウドゥヌスーで休息した島人もあったろうから、名はあってもおかしくない。そんな想像が広がってゆく。

 わがフバマは、小さな浜の意で謎はどこにもないが、ウドゥヌスーは長年、意味の分からないままだった。それがやっと氷解した。竹内さんに感謝である。

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