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2011/02/14

「奥山辺戸山の猪のど真ん中」

 竹内は、与論でもっとも早く人が住みついたとされる赤崎から、インジャゴーの水源を頼って麦屋に住んでいるショウ、キン、サキマサークラのシヌグについて、概観している。


16日
・ショウ、キン、サキマの各サークラごとに、それぞれのサークラの座元を中心に際場に集まり、サークラを建て、カミミチ(神路)の整備や祭事に使用するものの準備を行う。

・すべての準備が終わったところで、シニグ神の依り代に神酒をささげ、祈願して終わる。

17日
・各サークラごとに氏子が、赤崎のアーサキウガンで神迎えの儀式を終えた後、集まる。
・座元が神の依り代の石に神酒を捧げ、祝詞を奏上し、神酒が参加者にまわされる。
・大人たちが祭事を行っているあいだ、子どもたち(男子)がダンチクの束を持って、氏子全員の家々をまわり、家の中央の柱を「フーベーハーベー」と唱えながら右周りに三回まわって神棚にある供え物をもらって立ち去る。ヤーウチハライ。
・際場では一定の時間を見計らって各サークラが連絡を取り合い、合流してカミミチを通り、東方の海が見えるパンタに向かう。
・パンタに着くと、そこにある石の近くにシニグパタをたて、その周りを右回りに「フーベーハーベー」と唱えながら三回まわる。
・フイジというところでも同様の祭儀を行ったあとにウーニヌムイ(大峯山)に向かう。
・ウーニヌムイで、ショウサークラの座元によって、弓と矢による儀礼を行う。沖縄の国頭の方向に矢を向け、「ウクヤマピドウヤマヌシーシヌマーマンナー」(奥山辺戸山の猪のど真ん中)と唱え事をして矢を放つ。
・赤崎に近いシトゥパトゥという所で酒宴。
・その間に三人の若者が選ばれ、赤崎のアマンジョーの近くの海に行き、ダンチク、シニグパタ、弓矢などを、「ワープニトゥウラプニトゥワープニャーパイベーク(私の舟とお前の舟と私の舟の方が速い)」と唱えて海に流す。・再びシトゥパトゥに戻る。

18日
・休み

19日
・サークラに集まり、後片付けと宴。

 このグループのシヌグで関心を惹かれるのは、農耕以前の狩猟採集時代の祭儀の面影を宿していることである。竹内は、

 このグループ以外にも弓矢を使って祭儀を行うサークラはいくつかあるが、それらは稲作にかかわるものである場合がほとんどであり、このショウサークラのグループだけが何故猪狩りなのか疑問が残る。(『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』竹内浩、2009年)

 と書くが、これは疑問ではなく、このグループの歴史の深さを物語っているとみなせるのだと思う。

 弓と矢の儀礼では、「ウクヤマピドウヤマヌシーシヌマーマンナー」(奥山辺戸山の猪のど真ん中)と唱えられる。なぜ、「奥山辺戸山」なのだろうか? それはシヌグが同様に行われる沖縄の安田からシヌグが伝承されたことの証であるかもしれない。また、安田の人々と麦屋の人々との類縁を示すものかもしれない。狩猟の意味を大きくするために山のない与論ではなく、森深い沖縄島北部を指したのかもしれない。どちらにしても、またどちらでもないにしても、沖縄北部との関連がここで示唆されている。


※ちなみに、インジャゴーからは素晴らしい発見があった。丹念な観察が実ったものだ。
 「与論町のマンゴー農家で県希少野生動植物保護推進員の竹盛窪さん(58)が、10年ほど前から藻を観察していた」

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