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2011/01/31

与論のファンページ

 Facebookに与論島のファンページを作ってみた。

 別に島を代表しているわけじゃないんだけど試行として。しかるべき体制が組めるなら、一緒に協力しあってのつもりです。

 コミュニケーション・アイランドになることが島の力になるという考えから自然に出てきた発想です。Facebookに登録している方は、「Yoron Island」で検索してやっておくんなさい。

 島では、今宵ツイッター講座が開かれているそう。嬉しい。


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2011/01/30

『奄美の歴史入門』-「薩摩(鹿児島)と奄美の関係」

 もう少し微分しておきたい。ここは繊細に触れなければならないし、著者もそう取り扱っている。

 「薩摩(鹿児島)と奄美の関係」。

 ここで、薩摩(鹿児島)と奄美の関係について、確認しておきましょう。  一般的に、これまで奄美では、砂糖にだいひょうされるように、厳しい厳しい“大和世”よりも支配が緩やかだった“那覇世”の方がよかった、ととらえる考え方が多かったようです。「鹿児島は嫌い」という人も多いです。戦後の復帰運動の拒否理由として、「“大和世”に戻りたくない」という人もいた(134ページ参照)ほどです。明治時代には、島を離れた奄美出身者の行き先が、鹿児島方面よりも県外が6倍以上も多いという記録があります。これも、県外の仕事が多かったということもありますが、鹿児島に差別されてきたことと関係するのでしょう。おおまかに次のような理由からでしょう。

 ① 薩摩藩は、奄美を直轄地として実質的に植民地支配を行った。
 ② そのために、奄美を経済的にも文化的にも低い地域とみなした。
 ③ 明治以降の鹿児島県の一部となったため、鹿児島よりも低くみなされることが続いた。
 ④ 砂糖での利益をあげるため、厳しい生活を島民に強いた。

 確かにこういう面はありますが、薩摩藩が砂糖による蕃の利益を徹底的に追求し、奄美が地獄のようになっていくのは、幕末の4期の頃です。明治前期も同じようなことが続きますので、幕末・明治前期の約70年間は本当に奄美にとっては厳しい時代といえます。但し、“大和世”と明治前期では約300年間ありますので、300年を通して「薩摩の支配=地獄の支配」というわけではありません。“那覇世”と“大和世”とで、それぞれ派遣されてきた役人等の数を比べると、“大和世”の方が少ないのです。約300年のうち、約230年はあまり記憶に残らず、最後の約70年間の「薩摩に対する悪い印象」が、比較的時代も新しいため、人々に強烈な印象として語り継がれ、受け継がれてきたのでしょう。(『奄美の歴史入門』 麓純雄)

 ここには、強者が弱者を食らったまでのことという威圧も、昔のことをあげつらっても切りがないという頬かむりもない。奄美のことは奄美の内側から、まず語り始めなければならないという原則が貫かれていて、ぼくたちは安堵する。史実に則して事態を解釈しようとする真摯さも感じられる。

 けれど、歴史記述の誤解を解く作業が、こだわってばかりいても仕方がないという処世といつの間にかつながっている印象をぼくは持ってしまう。もっと事態の核心に触れてほしい。最後のくだり、「約70年間の「薩摩に対する悪い印象」が、比較的時代も新しいため、人々に強烈な印象として語り継がれ、受け継がれてきたのでしょう」というのは、とぼけた整理ではないだろうか。

 「最後の約70年間」は、一世紀近く前のことに属する。それなら苦難は著者の世代でいえば、祖父母たちなら濃厚な記憶として持ってきたことになるだろう。しかしそこに止まるなら、4~5世代目に移行している現在、おおらかで諦めのはやい島人のこと、「薩摩に対する悪い印象」は伝承としてしか残っていないのではないだろうか。この整理では、なぜ、「これまで奄美では」“大和世”よりも“那覇世”「の方がよかった、ととらえる考え方(これは「考え方」というより素朴な感覚というほどのものだと思う-引用者)が多かった」のか、「『鹿児島は嫌い』という人も多い」ことに、充分に答えることができないと思う。

 指摘が「砂糖」というモノに関する限り、モノが解決されれば問題は終わる。ここでの「確認」は、裏返せば、格差の課題が日増しに切実になっているとはいえ、明日の米を心配するといった絶対的な貧困からは脱することができたという現状を追認しているように見える。そしてそれは、ぼくたちの生活実感に合致する度合いに応じて、妥当な見解と見なされる基盤を持つのだ。

 しかし、「奄美は琉球ではない、薩摩(大和)でもない」と規定された二重の疎外というコトの問題は、解かれたわけではない。その関係の構造は残っていればこそ、「薩摩に対する悪い印象」が実感的であればこそ、「“大和世”よりも“那覇世”の方がよかった」という述懐も、「鹿児島は嫌い」という人もいなくなっていない。この本の最大の核心は、奄美が日本になってから約130年間と近代以降であると指摘したことであるが、もっと進めて、それならなぜ、沖縄では近代以降に日本に組み入れられたという認識は既知のものであるのに、奄美はそうではなかったのか、と問いを立てれば、ここに「二重の疎外」があり、どこでもないという関係の構造がことを見えにくくさせていると言うことができるのだ。

 この本が用いる「多角的」という視点は歴史を相対化する。ともすれば、「薩摩-奄美」という二項に囚われがちな思考枠のこわばりをほどいてくれる。けれどそれが、ぼくたちの処世である相対化の無限連鎖に連なれば、こぼれおちるものが生まれる。奄美は大変だった。薩摩も大変だった。日本だって大変だった。みんな大変だったんだよ、という処世の術に相対化の視点は合流しやすい。そこにぼくたちの諦念もあるが、同時に、ぼくたちはいつものように言葉を無くすのである。

 どこかはぐらかされた感じを持つのは、これが教科書的記述になっていることにも由来しているだろう。ただ、教科書として書かれたわけではないから、小学校の校長を経験した著者ゆえに引き寄せた筆致なのかもしれない。仮に教科書であれば配慮は必然化される。奄美の学校にも鹿児島からの移住者もいるから、子どもたちを歴史的な負荷を理由に傷つけてはならない。ただ、そうだとしてもことを隠す必要はなく、まして、実のところ教科書的記述であってもこれは教科書ではないのだ。残念なのは、現在的知見を取り入れるのは真っ当なことだとして、そのトレースに終始していることが、この本を教科書的記述に留めていることなのだ。ぼくはもっと、著者の肉声、著者自身の言葉を聞きたいと思った。


◇◆◇

※この本は、現在的知見を極力吸収し、易しい言葉で書かれたものとして、「奄美の歴史」を知る上では最良のものだということを付記しておきたい。

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2011/01/29

『奄美の歴史入門』-『名瀬市史』の現在形

 麓純雄の『奄美の歴史入門』は、奄美の歴史というよりは近代奄美の精神屈折の構造を大部に渡って展開した1963年の『名瀬市史』の現在形に当たっている。その核心は、冒頭に示される、

 「奄美はいつから『日本国』になったのでしょう?」

 という問いとその回答にある。

 それは歴史記述のあとの後段にやってくる。

 但し、政治的に日本という国が、4世紀にできた大和朝廷の勢力拡大で国が形成されていったとするなら、奄美が日本国に入るのは、厳密に言えば、明治時代からということになります。明治4(1871)年に廃藩置県が実施され、大まかには薩摩藩は鹿児島県になります。101ページにあるように、鹿児島県が「黒糖」の利益を離したくなかったため、明治12(1879)年4月に、奄美を「大島郡」として鹿児島県の一部にしてからです。

 奄美は、政治的には「日本」に入ってから、まだ130年しか経っていないのです。 (中略)

 “那覇世”は、琉球王国の支配下にあります。“大和世”も実質的には薩摩藩の支配を受けますが、建前は琉球王国領(63ページ参照)ということになります。

 ちょっとびっくりした感じになりますが、これは沖縄県も同じですし、北に目を向ければ、北海道もほとんど(江戸時代には最南部、今の函館市付近に松前藩があっただけ)の地域が同じことです。(43ページ参照)

 長い奄美の歴史の中で、「日本国」になったのは約130年前。“アメリカ世”となって、すばらしい盛り上がりやまとまりを見せた祖国復帰運動が約60年前とすれば、奄美はその当時、「日本国」になって70年しか経っていないことになります。

 また、こういうふうに考えれば、教科書で勉強している古代から平安時代頃までは、奈良や京都を中心とする近畿地方の一地方史という見方もできるのです。

 「国」という考えからすれば、奄美には、“奄美世”と“按司世”の頃は「国」という概念はありません。“那覇世”になって琉球王国に入り、明治時代になって「日本国」に入ったということです。

 このことは、奄美が自ら望み、自ら決定したというわけではありませんが、世界的には数多く見られることです。

 わたしたちは、6年生の社会科で「我が国の歴史」を勉強します。今は当然日本国の一部ですから、このような勉強をするのは当たり前のことですが、教科書は政治の中心地を主に記述しています。奄美には、教科書に出てこない歴史があることはふまえておかなければなりません。(『奄美の歴史入門』
麓純雄)

 これは解放感をもたらしてくれる認識だ。なにがなんでもいにしえから日本民族、日本国というモチーフへの固執を離れることができなかった『名瀬市史』からすれば、格段の進みゆきである。奄美の自分語りもようやく口にできるところまでやってきた。沖縄には「日本国に入って約130年」という認識はあるものの、奄美は覚束なかったのだ。そのことを思えば、『名瀬市史』から半世紀近く経て、ずいぶん遠くまで歩んできたことになる。

 この歩みを可能にしたのは、弓削政己を始めとする近年の史実発掘の努力に依るところが大きい。丹念なそしてたゆまぬ営為が奄美に「事実」をもたらしそれが部分的には実りを与えてくれた。奄美にとってそれは自らの欠如を埋めるために欠かせないものだ。

 ただ、それは同時に、ようやく何事かを考える場所に立てたということを意味するに過ぎないとも言いうる。『奄美の歴史入門』は、現在的知見に基づく奄美の史実を教えてくれるが、島人のぼくたちがそれをどのように受け止め、どのように語っていくかについて、示唆してくれるわけではないからだ。それは教科書的記述の限界でもあれば、教科書的記述の分というものでもある。著者がそれに配慮した言葉づかいをしているところもあるが、言葉はそこに回収されてはならない。空間的な関係への気遣いは「多角的」な視点と気脈を通じあい時間的な構造を抜け落ちさせ、歴史は予定調和的に平板なものと化していくのを避けられない。

 ぼくの主たる関心事から言えば、“奄美世”以前の奄美像と、歴史の関係の構造を浮かび上がらせることだ。それなしに、奄美の困難を乗り越えてゆくことは難しいと思えるからだ。


 この本で、いちばん印象的なのは引用した箇所の「ちょっとびっくりした感じ」というフレーズだった。


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2011/01/10

加計呂麻島瀬武15名の航跡

 弓削さんに『瀬武集落誌』を教えてもらった。
 そこには、清の役人から琉球王に宛てられた文書が引かれている。1768年3月18日、宮古島の者とともに、順流、佐喜波や15人が漂着したので船を修理させ、琉球へ帰国させるという内容のもの。

 この15名は実は、加計呂麻島の瀬武の者で、「順流、佐喜波」は琉球風に名前を変えたものだった。琉球の史料によれば、この15名の実名は、

 船頭の大勝、水主の安国、清三、栄幸、島安、清満、能富、池秀、金久名、対三、順統、佐喜岡、佐喜鶴、栄長、直三

 であった。琉球風に変えた「順流」は「順統」、「佐喜波」は「佐喜岡」か「佐喜鶴」のことだったのだろう。ぼくたちは、これまで、この名を変えなければならない事情を二重の疎外とその隠蔽として解いてきたけれど、『瀬武集落誌』によれば、ことのいきさつは劇的だ。

 この15名は、加計呂麻島の瀬武から宮古島に向かったのではなく、最初は喜界島へ「商売」のため渡ったものだった。ときは、1767年9月28日。清の文書の半年前である。商売を終えて喜界島を出帆したのは、10月18日夜。そこから、漂流して11日後の29日に宮古島に漂着して救助される。そして、翌1768年2月27日に宮古島を出帆して那覇に向かう途中にふたたび漂流して20日弱で漂着したのが清だったのだ。そこで彼らは名を変えて清に事情を説明する。

 清から那覇に着いたのはその年の夏。そこから15名は、二船に分乗して鹿児島に渡った。『瀬武集落誌』は、鹿児島へ渡って取り調べを受けて加計呂麻島に帰ったと考えられる、としている。

 15名の航路を辿ると、加計呂麻島→喜界島→宮古島→清→那覇→鹿児島→加計呂麻島、ということになる。『瀬武集落誌』は、「当時の船で中国まで漂着していたとは驚きである」と書くが、同感だ。同時に、喜界島から宮古島へ、宮古島から清への二度にわたる漂流は生きた心地がしなかっただろう。その苦難の規模にも驚く。『瀬武集落誌』は、瀬武から喜界島へ渡る「商売」の中味も説明している。黒糖生産のため、喜界島には材木が不足し、大島では喜界馬が必要だった。そこに奄美間交易が生まれる。

 奄美の島人たちの命運を想うとともに、これらの史実を史料から浮かび上がらせた『瀬武集落誌』の功績を島人の一人として感謝したい。

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2011/01/09

宇和寺の夜

(これはフィクションです)

 祖母の家に泊まるのは五年ぶりのことだった。
 その年の春、静かに息を引き取った祖母の葬儀のために東京から戻り、晩を親戚と一緒に過ごした。その時すでに祖母の家は改築されていて、真新しい木材の匂いがした。すべすべした柱に触ると、昔、ぼくや弟の背の印を鉛筆で引いた線が不規則な定規の目盛りのように並んでいたのを思い出した。家は長兄の叔父が継ぎ、祖母のいる時代は終わった。

 急に帰島を決めたので、予約の合間を縫って滞在したホテルから出なければならず、鍵を預かっている叔母から借りて、帰島に合流した弟と家に入った。カーテンで閉められた家の中はガジュマルの生い茂った森のなかにいるように薄暗かった。居間のカーテンを開き窓を開け、西に面した神棚を拝んだ。祖母が朝と夕方に欠かさず祈っていたその場所で。それが済むと、すぐにその場に両手を広げて寝そべった。やっぱりここがいちばん落ち着く。ぼくはそのまま動きたくなくなるのだけれど、弟は箒を取りだして、畳間と廊下を丁寧に掃きだした。怖いこわいと言って、視力検査のCの字のように曲がって動かなくなっているヤスデを集めるのだ。

 箒が畳をする音しか聞こえない。静かだった。ぼくは子どものときそうしたように、居間の縁から足を降ろして庭を眺めた。正面には珊瑚岩を積んだ石垣がある。家のぐるりを囲んだ石垣はヤドカリの棲みかで、夜、家のまわりを一周するだけでバケツ一杯のヤドカリが簡単に捕れた。腹部が魚の餌になるのだ。石垣は二段になっていて一段目のスペースに土を盛ったのだろう、そこに虎の尾や百合が植えられていた。以前は、蜜柑の木も並んでいた。庭の真ん中にも蜜柑の木はあって、円形の木陰を作った。そこにゴザを敷いて絵を描いたり工作をしたりした。その木も今はないけれど、すぐにその姿を思い浮かべることができた。蜜柑も採って食べたしグァバの実を枝から引きちぎって食べるのも楽しみだった。グァバの木は今でも実を育てている。気づくと、庭の陰が増えて午後の容赦ない陽射しがいくらか和らいできた。虫の鳴き声が聞こえてくる。西側の石垣の向こうに群生しているガジュマルやその向こうの海から運ばれてくる潮風の混じった匂いも変わらない。

 二日後に東京に戻ることになっていた。那覇を経由して飛行機に乗るわけだけれど、それまでの時間、ぼくは一度、沖縄島の北端、辺戸岬から島を見てみたかった。でも、ネットブックを開いて沖縄島の地理を弟に見せると、車の運転をする彼は辺戸まで行って南にある那覇に向かうのは遠すぎると困った顔をした。それもそうだと、船の着く本部から近い今帰仁グスクを見ることに決めた。今帰仁には縁がないわけではない。祖母の家からヤシガニも棲んでいたガジュマルの群生の向こうに親戚の住む家があったが、そこには年の近い兄弟たちがいて毎日のように遊んだ。その一つ年長の兄が今帰仁に住んだことがあって、いいところだから一度行ってみるといいと勧められたことがあったのだ。せっかくの機会だ。そこで、インターネットであちこちを調べて、現地のガイドとホテルに予約を入れた。それだけ済ませると、辺りの色は沈み始めていた。東京よりも遅い夕暮が近づいている。八時にいとこ叔父が訪ねてくれることになっていたので、それまでに夕飯を済ませようとサンダルを掃いた。石垣の門を抜けたいところだけど、その手前から通りに向かってコンクリートで舗装された道が家の改築とともに出来上がっていて、ぼくと弟はその坂をあがって通りに出た。門をくぐったほうの出口は人が通らなくなり、もう道と言えないほどに草が生い茂り歩きにくくなっている。祖父母が切り拓く前の元の姿に近づこうとしているのだ。

 十五分も歩くと、かつては銀座名を冠するほどに賑わった街に出る。ぼくたちは港に近い居酒屋に入って、ビールと海ぶどう、島らっきょう、ソーメンチャンプルー、鶏の唐揚げを頼んだ。店の中に観光客の姿はなく、客はお座敷で家族連れが夕食をとっているだけだった。壁にはオリオンビールを持ったキャンペーンガールが数十年前と変わらない笑顔を振り向けている。けれど、ここにはその笑顔に無邪気に吸い込まれる若者たちの姿はない。

 ビールをもう一杯と料理を食べ終えると、時間に間に合うように店を出た。島は薄暮に包まれようとしていた。街を出て二股に分かれる通りを坂のほうへと向かう。その坂が宇和寺の合い図のように、上り始めると静けさが増してくる。砂糖きび畑を過ぎてなだらかな坂を上がりきると、西の海が一面に広がってきた。途切れることなく連なった雲の下を沈みかける陽がオレンジ色に染めている。島には黒の色が降り始めているが、暗がりに抗うようにオレンジが雲の白を浮き立たせていて、思わず持っていたアイフォンで写真に撮った。そこから少し先にある家に着いて、ふたたび見上げると、ガジュマルに縁どられた空は薄い赤紫に染まっていた。

 八時を少し回った頃、いとこ叔父が訪ねてくれた。少し前に東京に行ったのだという。あれだけモノが溢れていれば誰だって東京に行きたくなる、と叔父は語った。島には人がいなくなる。借金も多い。売りに出されている土地も多い。「このままだといずれ大変なことになる」。いとこ叔父の言葉が夜の到来とともに重くのしかかってくる。島のためにということが念頭を離れないはずなのに返す言葉が思いつかない。

 いとこ叔父はお酒を飲まないのでそのまま酒盛りにならず、時の経過を惜しむように一時間ほどで帰った。通りに出て見送ると、濃い藍色の空にいくつもの雲が羊の群れのようにゆっくりゆっくり進んでいた。月は見えなかったが、照らし出されてほんのり光ってみえる雲たちは、まるで目的地があるみたいに揃って西へ向かっていた。さて、と弟の後を追うように坂を下ろうとした瞬間、ぼくは突然、怖くなった。祖母の家は通りを折れた道筋を入り、ガジュマルの木々に囲まれた小道を下ったところにあるのだが、通りを離れたときから空気も変わり時間が停まったように感じられた。ぼくたちが住んでいた四十年近く前、訪れる島人は、ここは昔の島みたいだと語ってくれたものだ。珊瑚礁が隆起してできた島の成り立ちの時間に歩調を合わせたような停まった場所がぼくは好きだったが、夜はその分、闇も濃かった。ぼくは、近所の子供たちと遊んで夕陽が沈んだ後に家に着く手前、真っ暗な小道を下る間が怖くてたまらなかった。日ごろ聞かされているムヌ(幽霊)のことで頭がいっぱいになるのだ。奄美大島であればケンムン、沖縄であればキジムナーといった森を棲息地にするムヌが知られているけれど、森のない島にはケンムンもキジムナーもおらず、海のムヌ、イシャトゥがいた。けれど、陸の小道にはイシャトゥは出ない。それら妖怪に近いよりは、子どもを失くした母のムヌといった、より人に近い幽霊がそこにいるかもしれないと思い、暗闇のなかを思い切って走ることもできず、家の灯りが見えると少し安心するが、玄関を開けて駆けあがるまでは恐怖が肌を離れなかった。もうそんな鬱蒼とした小道ではない舗装された坂を下っているだけなのに、その恐怖が蘇って、頭では呆れながらも昔と同じように怯えてしまったのだ。走り込むようにして玄関を締めると、途端に恥ずかしくなった。まったく、俺は大人じゃないのか。

 家のなかではテレビが点けられていた。この映画、観たかったんだよね、と弟は言った。弟は廊下を挟んだ隣りの部屋のテレビを前に、もう横になっていた。映画は、人気のあるコミックを素材にしたもので、映像化も大がかりなものだった。その晩放送されたのは、三部作られたうちの三つめ、最後のバージョンだ。ぼくは神棚のある居間の柱にもたれて、テレビに付き合った。主人公は自分たちの友達が仕掛けたらしい都市の破壊と殺傷を必死に食い止めようとしていた。ぼくは観るとはなしに映像を追いながら、遠い世界の出来事のように眺めていた。映画だからフィクションとして遠いということもあるけれど、映画がつくられている世界と自分がいま島に帰って身を置いている祖母の家の世界とがつながらない、何か異世界の文物を四角く区切って見ているような感覚だった。居間の北側には当時、ぼくたちが寝室として使っていた部屋があり、その二つの部屋は改築前と同じ間取り、大きさでしつらえてあった。そのせいもあるだろう、建物は真新しいのに、同じところにいるという実感に浸ることができた。祖母の両親と、戦争で亡くなった祖母の子たちの遺影が同じ位置に飾られているのもそう思わせてくれる要因かもしれない。変わったのは、そこに祖母の遺影も加えられていることだ。狭く開けておいた窓からは風が入ってくる。その夏中、ヤポネシアの列島の天気予報には「猛暑」という言葉が飛び交っていたが、列島の南部にある島もいつもより暑いと島の人は語っていた。それでも夜になれば、涼しい風が吹き込んでくる。風でカーテンが波打ち、涼しさを引き立てていた。映画は最後、友達の犯した事件が実は主人公も原因のひとつになっていたことが明らかになって終わった。そういう話だったんだね、と声をかけるが返事がない。襖越しで見えないので覗いてみると、弟はすでに寝ていた。よくこの状態で眠れるなと半ば感心しながらかけっ放しの扇風機を止め、テレビと部屋の灯りも消した。風はある、東京のように暑くて寝られないということはないだろう。

 十一時を過ぎていた。ぼくは服を脱いで洗濯機に放り込み、スイッチを入れて、浴室でシャワーを浴びた。ガスがうまく点かなかったが、夜の入りのあの怖さがまだ残っていて、北の隅にある浴室にも長くいたくなかったので、水で済ませた。子どもの頃は浴室は母屋にはなかった。というか、もともとは家に風呂場は無く街の銭湯まで出かけていた。小学二年の時(だったと思う)、倉庫になっていた離れに五右衛門風呂をコンクリートで固めて風呂場ができた。枯れた蘇鉄の葉で火を盛んにし朽ちたガジュマルの枝などで水を温める。ぼくは顔を火照らせながらその火を眺めて枝を放ったり、いじって空気の通りをよくしたりするのが好きだった。

 寝室の押し入れから布団を取り出して居間に引いた。薄い毛布も引っ張り出して、かけることにした。寒いわけではないが、上にかけるものがないと、うまく眠れないのだ。電気スタンドを見つけて点け、居間の明かりも消した。持ってきた本は読み終わっていたので、何か読み物はないか探しまわり、箪笥の上にコミックが置いてあったのを見つけてそれを読むことにした。女忍者の話だった。女は山の中にある雪の積もった城郭のなかに入りこんでいた。村人は女を受け容れているようにみえるが、どこか心を許していないらしい。女は使命を持っているらしく、時折、仲間と連絡を取り合いながら、情報を交換しあっている。ところが隠密の行動が城の者たちに悟られ、仲間は傷つき、女も捉えられてしまった。コミックはそこで終わっていた。続きが読みたかったが、それ一冊しかなかったので諦めるしかない。眠気は無かったが仕方がないので、スタンドの電気も消した。

 久しぶりにこの家で眠れる。こんな嬉しいことはない、と思った。けれどどういうわけか、落ち着かない。ここがいちばんそうできる場所だし、実際安らいだ気持ちでもいるのだからと目をつぶってみるが、一向に眠気はやって来ない。風の音が聞こえる。目を開けると、カーテンの裾が上にめくれては戻りを繰り返していた。風が強くなって来たようだった。石垣の門には家の守護神のようにガジュマルがあり、家の四方も同じように木々に囲まれていたし、坂を下った場所でもあったから台風のときでもそこは不思議に静かだった。今はそのガジュマルも寿命が尽きて、根元を残して切られていたので、風の通り道ができてしまったのかもしれない。風が当たり、戸がゴトッゴトッと音を立てていた。突然、ターンと音が鳴った。驚いて鼓動が高まったが、振り子の時計が時報を告げたのだ。それまでも鳴っていたはずなのに、初めて気に止めた。でもそれが十二時半なのか一時なのかは分からない。時計を見ればいいのだが、そんな気にならなかった。この時計も新調されていたが、前のも同じ三十分置きに鳴っていた。子どもの頃、夜中に目覚めたとき、布団の中で時計の音を聞いていたのを思い出したが、時計のある居間で寝ているせいか、当時よりもはるかに大きな音に聞こえた。風は止もうとしない。毛布をかぶってちょうどいいくらいだ。まだ寝付けないが、明日、決まった時間に起きる必要もない、やり過ごそう。風の音を気にしなければいい。

 ぼくは祖母のことを想った。祖母は聞き上手で相手の話を、エーヌンと言って相づちを打ちながらひたすら聴く人だった。晩年、夏に帰るとぼくのことが分からなくなっていたときはひどくがっかりしたが、数年後に行くと再び名前で呼んでくれて一気に心が晴れあがったこともあった。もう百歳を越えているのだ。そうやって現世に少しずつさよならをしていくんだよと、叔母は語ってくれた。その頃、祖母が椅子に座って、周りを見ながら、そこに来ている大勢の人たちにお茶を出してあげなさいと島の言葉で言ったことがあった。誰かいるわけでもなかったが、母や叔母たちは見えるんだねと語り合っていた。口には出さないが、死期が近づいていると感じ取ったのだと思う。ぼくはふと、今ここにも祖先の人達が集まって来ているのではないかと思った。お盆ではないけれど、久しぶりに泊っている末裔の存在を頼りに集まり、おしゃべりをしているのではないかと。ぼくには霊感のようなものが全く備わっていないから、何か見えるわけでもない。けれどそう思っても不思議と怖くなかった。もし語り合っているなら、その声を聞きたくすらあった。そこに祖母もいるなら、声を聞かせてほしかった。ぼくは耳を済ませたけれど、木の葉が揺れ枝がしなむ音しか聞こえなかった。

 風は相変わらず強い。身体はだるかったが、頭は冴えたままだ。ぼくは起きることもできずにだるさに任せて天井を見つめていた。夜の闇は濃く木目はよく見えない。暗闇に目を馴染ませていると、やがて身体が布団に吸い込まれるように下に沈んでいく感じがした。そしてふいに島の大地の上にいる感覚に襲われた。祖母の家でもなく布団の上でもなく、珊瑚礁が隆起してできた島の土の上にぼくはいる。この小さな大地は今も隆起し続けているのか、沈み始めているのか、分からない。けれど止むことなく動いている島の大地に今、いる。ぼくは巨大な珊瑚の上に浮かぶ珊瑚虫の卵のように揺られていた。

◇◆◇

 目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。横に目をやると庭にはすでに朝の陽が射しこんでいて祖母の家に泊まったんだと合点した。弟はまだ眠っていた。頭はぼんやりしていたが、洗濯物を取り出して庭の物干しに干した。島を発つ昼までに乾いてもらわなければならない。陽射しはきらめいているが、熱気を帯びるにはもう少し時間が必要だ。風は止んでいた。庭をぼんやり眺めていると、きらきらと天気雨が降ってきた。慌てて洗濯物を物干しから外して両手に抱え込んで家に入ると、すぐに雨は止んだ。そこでもう一回、干し直した。それなのにいくらも経たない内にまた天気雨が降ってくる。ぼくは同じことだと諦めて、そのままにした。

 まだ現実の世界に戻ってきた感じがしない。人の声が聞きたかったが弟はまだ眠ったままだ。ぼくは隣りの島に長期滞在している学生のことを思い出して、滅多に使わない携帯をバッグから取り出し庭先からかけてみた。何回かのコールの後、彼女は出てくれた。「方言の話せる島の人にアポが取れると聴きとりに行ってます」。彼女は方言を音韻から研究していた。何度も同じ言葉を繰り返し発声してもらいながら、音を聞き取るのだ。小さな島のなかでもシマと呼ばれる集落ごとに言葉は変わる。島の言葉は聞き取り記録する者がいなければ、話す人も少なくなる一方で人の寿命とともに消滅してゆく。とどめるということは意思なしにはできない作業になっていた。島には慣れた?と聞いてみた。慣れてきました。でも、寝泊まりしているロッジは目の前が海で、夜になると真っ暗になって波の音だけが聞こえて怖いんです、と彼女は言った。ぼくは怖いのは波の音ではなくて、島に数多いるムヌのほうだと言いかけたが、怖がらせてもいけない。「それにヤモリも鳴くんです」。ヤモリ?そういえば、ヤモリの鳴き声を聞いていなかった。旅人は決まって怖がるのだが、ぼくはあれを聞くと、帰ってきた気分になってむしろ安らいだ。昨日、ヤモリの鳴き声を聞いていない。どこにいったのだろう。

 ぼくは島に長期滞在できるなんて羨ましい、楽しんでください、と言って電話を切った。洗濯物に触って乾き具合いを確かめた。出発までに乾くのは無理かもしれない。

 声がするので、振り向くと坂の上に五十代くらいの女性が立っている。ぼくは上半身に何も着けていなかったが、そのまま坂を上がった。このきび酢を売ってもらえませんか?とその人は言った。彼女の前には百個くらいのきび酢の壺が並んでいる。家の北面の木々、石垣や豚小屋の跡、畑を更地にして、いとこがそこできび酢づくりを始めていたのだ。贈り物にしたいのでそれ用に包装してほしい。ここに来ればお願いできると思って、ということだった。これはぼくがやっているものではないんです。ちょっと待ってくださいね。そう言って家に戻り、メモ用紙にいとこの名前と電話番号を書いて彼女に渡した。ここにかければお願いできると思います。彼女はありがとうと島の言葉で言い、日傘を差して街のほうへ歩いて行った。ぼくはようやく現実の世界に戻ってきた気がした。

◇◆◇

 ときどき宇和寺の夜のことを思い出す。あの深夜の感覚を呼び起こす。それはありありと身体が覚えている。あの時、何を感じていたのだろう。そこでぼくは確かに何かを感じていたのだ。あるいは聞き取ろうとしていた。はっきりと聞き取れない発音から音を確定しようとするみたいに。ぼくはもっと感じられるはずだった。そこにはあの場所でしか触れられないものが確かにあるのだ。

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2011/01/05

クントゥグンジュウ

 1月3日、与論のクントゥグンジュウに参加した。クントゥグンジュウ。標準語にすれば、今度五十。他島ではどう言うか知らないけれど、コント55号、のようなユーモラスな響きがあって与論らしい。数えで五十歳になる年始に行われる歳祝いだ。

 案内が来ているわけでもない、ぎりぎりまで行くかどうか迷った。でもやはり行かないわけにいかなかった。歳祝いといえば、次の機会は六十一歳になる。その時のことなんて想像もできないし、亡くなっている人もいるだろうし(自分だってそうかもしれない)、これがラストチャンスだと思った。

 3時半にグスクの琴平神社に集合。二十名ほどだろうか。集まってやったのは厄払い。しまったと思った。空港で、同級生に偶然会って、格好はどうでもいいと聞いていたけれど、集った面々はみんな着物かスーツ。ぼくは、ラフでもスーツでもいいようにジャケットだけ着けてジーンズという出で立ちで臨んでいた。に、してもやはりカジュアルであった。ちょっと場違いだったかもしれない。神主さんの開口一番が、「ようこそ五十歳へ」。四十代にもまだ違和感があるというのに、なんということだ。

 雨が降ってきた。例年にない寒さが余計、染みてくる。めいめいそのままプリシアリゾートへ。神社で拝んでプリシアで飲むという寸法かと思ったが、その通りだった。事前に支払ってないので、その場で会費の一万円を渡した。そしてあとは宴、である。

 いちばん嬉しかったのは、三十七年間、一度も会っていない同級生たちに、下の名前で、しかも親しみを込めて呼ばれたことだった。当たり前のことかもしれない。けれど、ぼくは小学五年の終わりに転校しているし、幼稚園もみんなと共有していない。ぼくはみんなを思い出す術を持たないし、みんなもそうだろう。そういう者にとって、名前で呼ばれるのは望外の嬉しさだった。ぼくも、顔を見つめていると、次第に小学校のときの顔が思いだされてきた。

 前日、盛窪さんに、同級生は宝、と言われたけれど、そのことの意味が身に染みた。長い間、生まれ島の、いちばん好きな与論の卒業アルバムに載っていないことが、ひっかかっていたけれど、校区別の集合写真がすぐに用意されていた。宝物。上野君、ありがとう。写真が無くても記憶は残るということが、ほんとうの宝物だと分かったけれど、それでも嬉しい。

 同級生に、与論島に心から感謝したい。宴も、始まってみれば、与論らしいカジュアルさだった。思いもしなかった再会、会いたかったのに会えなかった人、会いたくて会えた人、いたけれど、どれも等しくかけがえがない。同級生170名?のうち、6名が亡くなったと、名前が読み上げられた。ぼくはそこに、小学校のときに亡くなったHさんの名前を加え、心に刻んだ。みんな、ありがとう。とーとぅがなし。

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