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2010/09/25

「田中一村 新たなる全貌」

 秋分の日に、千葉市美術館で「田中一村 新たなる全貌」を観た。田中一村については、未明を彷徨っている奄美をその絵によって広場に出して紹介してくれたという恩義の他には、中央画壇に受けいられず背を向け、奄美大島に移住し、無名のまま世を去ったという来歴から、癇癪持ちの孤独で孤立した画家という印象を抱いてきた。いまもそれ以上の知識を持ち合わせているわけではない。

 「新たなる全貌」で初期の作品群から辿って驚くのは、「花」と「鳥」のモチーフで貫徹されていることだ。繰り返しくりかえし飽くことなく何度もなんども花と鳥は描かれる。なるほど「花鳥」とはこれを指すのかと、伝統の実態を初めて観る想いだった。水墨画として描かれたものなどを合わせれば、これらは当時の日本画の暗黙のしきたりであったのかもしれない。たとえば、「花」の系列に属する竹の葉の図を観てみると、一番手前のものは濃い色で描かれ、その後方の葉はやや薄く塗られている。そのもっと後ろになるとさらに薄くなり、その後ろにまでいくと、さらに薄くというよりぼかして溶かされてゆく。これは立体感を出すためだろうが、それ以上に、竹の葉の気配を浮かび上がらせるためにそうしているのではないか。それは山水画や水墨画として描かれた山や岩などの自然が空や海と溶け入るように境界をぼかされているのと似ている。

 それに対して「鳥」はあくまで精緻だった。目の周りの毛も一本たりとも描き逃すまいとする執念が付きまとう。初期の代表作である「白い花」でも、左下にたった一羽、描かれた虎つぐみが作品のアクセントをなしているというより、虎つぐみを描きたくて、画面一杯の白い花とその樹木は選ばれたのではないかと思える迫真があった。真横、正面、そして羽繕い。そうした向きが好まれながらも、鳥の存在感は他を圧倒していた。奄美大島は鳥を追って辿りついたのではないかと思えるほどだった。彫の深さは南の島人のものだと思ってきた一村の顔も、むしろ鳥に似ているように見えてくる。

 一村にあっては、人よりも鳥、人よりも樹木であった。千葉の田園風景を描いた作品では、農夫もしばしば登場し、展示の解説には彼らへの優しい眼差し、愛情が感じられるとあるのだが、観る者には、それらは添え物であって、描きたいのは人物を取り巻く大きな自然物たちであり、鳥なのだ。鳥と人とが横並びに描かれるときもそうで、軍鶏と闘わせている農民の場面でも、人の抽象と軍鶏の具象の差は歴然としている。これはなにも、一村が人に冷淡であったというのではない。彼の関心は、花と鳥に向けられていた。むしろ、鳥を大きく描く時、どこかでこんな人物に会った気がするという擬人化が施されるのだ。あの、立ち姿の軍鶏やガジュマルに止まる梟などがそうだ。

 田中一村の絵を初めて直に観たのは、十数年前、奄美パークの展示においてだった。その時の印象は「暗い」ということだった。ぼくなどが思い描く亜熱帯の自然は、なんといっても陽光に照らされた明るさである。熟したアダンの実はオレンジに輝いてるはずなのに、一村のアダンの実はオレンジが後退してむしろ黄として塗られる。これでは淋しい、これはぼくの感受する亜熱帯の自然ではない。そう感じられてくきた。一村の描く奄美の自然は、奄美の歴史のように暗くさびしく、自然を通して奄美の歴史を描いたのではないかと思えてくる。しかし、この見なしはたぶん当たっていない。

 一村が大島へ移住したのは人生の後半期であり、その年齢に、あふれ出るような生命がみなぎっている昼間の原色の世界は、浸透圧で内部が一気に占拠されてしまいそうでバランスが取れないから、色落ちした自然を描いたのかもしれなかった。あるいは、闇が迫る夕暮れ時を彼が好んだからかもしれず、山水画や水墨画にもなじんだ来歴が色を落とさせたのかもしれなかった。

 けれど、晩年の代表作「不喰芋と蘇鐡」(クワズイモとソテツ)はそうではない。そこに強烈な陽光こそ差し込んではいないが、蘇鉄の葉は、これからピンと葉を伸ばす前の弱く柔らかい幼さを保っている。クワズイモの葉も陰影のある緑が際立っている。同行の友人は、アンリ・ルソーの絵に似ていると見せてくれたが、その通りの緑の存在感だった。実の赤も深く、朽ちる前のものは毒々しいほどだ。蘇鉄の雌花、雄花の赤茶も黒ずんではいない。ここには確かに奄美の自然がある。

 そしてこの絵には、あれほど執心して止まなかった鳥の姿もない。生涯の作品を辿ってくると、鳥の不在は作者の抑制が効いていることを教える。鳥がいてはならない、鳥に頼ってはいけない、と一村は思ったはずである。植物の葉の向こうには海に浮かぶ立神が見える。そして解説によれば、絵を描いているこの場所は、御嶽(ウタキ)に当たっている。ここは島の人にとっては、立神という中心地を臨み、神事を行う聖地の境界なのだ。一村は島人の視点に同化してこの作品を描いている。資格のある者だけに許される神事の場所に居座り描くことはともすれば冒涜を感じさせただろう。しかし、この作品はそう感じさせない。それは、クワズイモの実が成長し朽ちるまでの循環を曲線に配置し、かつ同居することのない蘇鉄の雌花と雄花を左右に配して時間を凝縮させたことと、地霊的な場の力に負けまいとして湧き出た原色の力とが、聖地の重みと拮抗しているからだと思える。一村は自身に残る生命のほとばしりをこの絵に移しこんだだろう。ここでは、その初期に後景をぼかして自然を空間に溶解させる技法は見られない。むしろ、自然はその輪郭を際立たせている。

 田中一村は、花鳥画の伝統をついに出ることはなかったのだろうか。いや、彼は出ることの代わりにどこまでもその中にのめり込み、鳥や植物たちと語り合う世界に近づいていった。一村自身が自然との同化を感じればこそ、描くものたちを空間に溶解させる必要はなかったのだ。そしてそうするのに奄美大島という舞台はこのうえなくふさわしかった。

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2010/09/21

与論島、2010年夏(2)

 8月24日から28日までの与論は、7月のときより涼しく、寝苦しさは全くなかった。もっともどちらにしても東京の寝苦しさに比べれば快適だった。こんどは角部屋で一面が真西を向いていて、朝の静かな礁湖や陽の沈みを眺めることができた。朝の海は深い青緑で、そこにさざ波がアクセントを幾重にも重ねて少し重たく感じる。けれど東から昇った太陽が光を西側の海に差し込むと、途端に緑が透き通って軽くなり、命が宿ったように輝きだす。それは日中、雲が風に流されて陽射しが戻るときもそうだ。透明度の高い海は、光が織り成す発色の舞台でもある。

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 ぼくはいつものように溜め息をつく。こんなに美しい島じゃなかったら、もう少し、ありていの、あるいは心揺さぶられることのない景色だったら、いつまで経っても止むことのない恋焦がれる気持ちにならずにすんだろうに。どこかに行きたいという欲求を全て回収するほどに生まれ島に執着することもなかったろうに、と。もちろんこれは身贔屓で世間知らずな想いで、この世界には与論よりも美しい島や場所はいくらでもあるだろう。けれど、こんな小さな島に生まれてしまった不思議は、ぼくを惹きつけて止むことがない。

 島はそれぞれに個性が強い。陸伝いではなく、海が隔てるということは島の独自性を育む。徳之島は勇ましく沖永良部島は勤勉で、与論はおっとりしている。よく言われることだし、島人に会えばそれがよく当たる占いのように符号するのが面白いくらいだが、今までは、それは島の地形とともに醸成されてきたものだと思ってきた。けれど、「道之島」と称されたように、辺戸岬からは与論島が見え、与論からは沖永良部島が見える。初期の島人は、漂着も多かったろうけれど、航海技術にも長けていたはずだ。すると、与論に着いた人が、沖永良部島や辺戸岬まで行こうとしなかったのにも理由が無くてはならない。そしてその理由のひとつには、この島でいい、この島がいい、という想いもあったのではないだろうか。そうだとしたら、島人の個性も、地形とともにという以前に、そこにとどまった人たちのなかに既に宿されていたのかもしれない。

 8月の与論も海三昧だった。三年前と同様、子どもたちが岩の上から海に飛び込んで遊んでいると、ウシヤカが釣りに連れて行ってくれるという。勇んで『めがね』海の寺崎に向かい、ローボートで浮上したリーフに向かった。子ども二人を乗せ、ウシヤカとぼくとでボートを漕いだ。目標の珊瑚岩を指さすと、ウシヤカは下の子に、あの岩に先頭が合っているか、右を強くか左を強くか教えてね、と言い、「もうちょっとこっち」という子どもの声に従いながら、ぼくたちは内海を漕いでいった。途中。ウシヤカは、「今度は何も言われなくても目標に合った漕ぎ方をするからね」と言ってしばし指示なしに漕いでみせたあと、「きみが、さっきその方向でいいと言ったとき、おじさんはそのとき見える浜辺の岩を見つけてね。それを目印に漕いでたんだよ。年を取るとね、そんな知恵がついてくるんだよ」と言うのだった。こんな言葉を多くもらえば、子どもは大人になりやすいに違いない。そのやりとりは珠玉の場面のように思えた。

 リーフまで二百メートルくらい。そのリーフも五十メートルくらいの幅があって、外海と内海を隔てている。そこで、荒々しい外海に向かって釣竿を投げ、大物を狙う組と内海で唐揚げの美味しいニーバイ(ハタ)を狙う組とに思いおもいに分かれて楽しんだ。そこで釣れた魚を持ち帰り、浜辺で焼いて食べるのが島の最高の愉しみ方だと、親戚の叔父は教えてくれたが、その通りだと思う。その日の収穫は夜のバーベキューの楽しみにして、浜辺ではウシヤカが亀の産卵場所を十か所ほど点検して、もうすぐ砂浜からアカウミガメの子が出てくるはずなのだが、とつぶやいた。ある日、海から上がると黒い塊が辺り一面を覆っていた。見ると、小亀たちだった、と。ぼくは民話のようにその話を聞いていた。

 相変わらずぼくは、iPhone を片手に、心動かされるものがあると立ち止まって撮った。朝の起きたばかりの海、すれすれに見ると空と溶け合っている透明な海、真っ赤な夕暮れ、なだらかな山の稜線のような木々の緑、島の主アマン。島は世界であり宇宙であるとぼくは思っているけれど、その与論バージョンの特徴は何だろう。島には山らしい山がなく視界を遮るものが少ない。いつも目の端に海を感じることができる。与論は島の小ささと低地との引き換えに、空であれ海であれ、全面をひとり占めすることができる。巨大な自然と直につながっていると感じられてくる。それが与論ならではの世界であり宇宙なのではないか。島尾敏雄が「不思議な広さ」と呼んだのはそのことではないかと思った。

 二回の滞在とも、オオゴマダラと出会うことができた。いつも思うのだけれど、あの優雅なゆったりした舞いが島の止まっていると思えるほどゆるやかな時間の流れを律しているように思えてくる。だからオオゴマダラが島から姿を消したときは、時間の流れが不安定になるのではないかという心もとない気持ちもやってきた。花と珊瑚の島を与論は自称しているけれど、蝶の島でもあってほしい。

 最後の夜だけ、育った家に泊まることができた。祖母の他界以来だから、五年ぶりのことだ。夕暮れになると、ヤモリの鳴き声が聞こえてくる。それを聞いて心の底から、帰ったんだなあと思う。ぼくにとってはヤモリの声は帰島の印であり合い図なのだ。夜は町議をしている親戚の叔父が訪ねてくれた。そこでもぼくはツイッターを勧めてその場で登録までしてしまった。二回の滞在の間に三人目である。町議の問題意識から聞く島の経済は重苦しいもので、先行きの不安を否応なく駆り立てられる。このままいけば何かが起こるという叔父の言葉が重くのしかかってくるのだ。叔父を見送ったら、なんだか怖くなった。叔父の話のことではない。それまで何も感じなかったのに、育った家も新築でこんもりガジュマルの茂る森のなかにあるわけでも無くなったのに。それでも、道筋を折れてくだってゆくと、少年の頃、家の明かりが見えるまでのほんの短い間、後ろが怖くて走りだしたくなった記憶が蘇って縮こまってしまった。風が強く雨も降りだし、これ以上なく安心できる場所にいるのに怖くて寝つけない、変な夜を過ごした。

 上の子を熱中症にさせてしまうという失敗もやらかしてしまった。けれど、子どもの看病で病院のベッド脇の椅子に寝たことと、下の子とカヌーで礁湖を漕ぎまわったのがいちばん幸せな時間だった。親戚の子たちとも戯れてかけがえのない時間を頂戴した。島との付き合い方はもう数十年、変わっていない。短い滞在期間のあいだを惜しむように堪能するだけだ。潮の匂いを嗅ぎ、潮風を浴び、陽射しによって変化する海の色に見とれ、星を仰ぎ、月光の世界の色に馴染み、夕闇のなかに引き込まれそうになり、島言葉の世界に浸った。できるだけ深く島の空気を吸い、島の海に浸っていたかった。そして心を置いたまま、身体を東京に運んでいる気がする。ぼくは東京に居ながらにして島にコミットできる方法を掴みかけてもいるのだけれど、当面はまだ未決のまま進むしかない。与論は船で発つつもりだった。沖縄島からの与論航路は経験があるが、与論から沖縄島へ船で渡ったことはない。ぼくは、あの北緯27度線を海上からまたいでみたかった。今帰仁へ行く予定を立てて、28日、曇り空のもと、フェリー波之上に乗り与論島を後にした。

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 [与論島、2010年夏。画像一覧]

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2010/09/20

与論島、2010年夏(1)

 2010年の夏は、二度も与論に帰る機会に恵まれた。一度目は7月16日から19日まで、那覇出張が終わった後の週末と祝日を利用して。二度目はほぼひと月空けて8月24日から28日まで、子どもたちを連れて。7月の出張の際には、8月の予定も立っていたけれど、それでも那覇まで行って与論に行かないなんて考えられなかった。結果としての二度の帰島は、何年も行けなかった年もあることを思えば、望外のことだった。

 7月16日、那覇空港を飛び立った琉球エアコミューターはいつものように三十分ほどの飛行時間で与論上空に差しかかった。そこで時間調整のためか、乗客へのサービスを兼ねてなのか分からないけれど、飛行機は円弧を描いて与論島をぐるりと一周してくれた。おかげで着陸前に島の東西南北を眺められたのだけれど、山のない低地にはどこを見ても家屋が散在していて、島の自然の許容能力を上回る人口膨張が起きやすかった歴史の背景に想いが走った。

 空港からの道すがら、三年前に帰ったときには完成間際で工事中だった与論唯一(だと思う)のイタリアン・レストラン、アマンでパスタをいただいた。あんとに庵さんが奥の壁面に描いていた絵の完成した姿に見入ったり、オーナー夫妻の載った雑誌を読ませてもらったりして、島の新しい、それでいて、らしい表情に触れた。そこで与論情報誌の構想を聞いて心が弾んだ。

 夏の与論、何はともあれ泳ぎたい。ところが、ホテルに到着すると事前に送った荷物が届いていない。那覇からの船便は天候に左右されやすいので時間も定かではない。仕方がないので、部屋でしばらく荷物の到着をぼんやり待っていたのだけれど、陽もまだ高く、いても立ってもいられなくなって、パンツ一丁で泳ぐことにした。浜辺は目の前だし、なにしろ小さい頃から泳ぎ慣れた場所だ、遠慮することはないと勝手な理由をつけて海につかった。浜辺の後方の半面はホテルが占有し今ではそのホテルのプライベートビーチのようになってしまい、珊瑚も姿を消してしまったけれど、ここに身を浸すのが本来なのだと思わせてくれるようなフバマの海の穏やかさは変わらない。これが味わえるから夏は格別なのだ。

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 予定は入れていなかった。いつものことだけれど、島を感じたかった。朝、起きると、ウドゥヌスーの浜から茶花港を横切り、役場の先にあるアイショップまで歩いて自家製のパンと飲み物を買い、イチョーキ長浜の端っこに座って海を眺めながら食べた。涼しさの残る朝は成長期前の少年少女のように初々しい。道も砂も焼けついていないから、裸足で歩いた。蝶やアダンやハイビスカス、偶然にかかった虹、人気のない浜辺、漁船などに目がとまると、足を止めて、iPhone で撮っていった。気に入ったものはその場でツイッターに投稿すると、返事をしてくれる人もいるので、その無音のおしゃべりが楽しくなり、撮っては投稿を繰り返した。見なれた光景や風物なのだけれど、原色鮮やかな亜熱帯の息吹はいつも新鮮だ。おまけにその画像をパソコンの向こうで見てくれる人がいると思うと、余計、撮りたくなった。@guuteiさんには、与論でのツイートは俄然、生き生きしていると指摘されて苦笑した。その通りだと自分でも思ったからだ。

 それにしても静かだった。浜辺に一人という光景をしばしば目にした。象牙色のやわらかな砂浜にいて、雲が過ぎると緑と青がきらきら輝く海を独占するのは贅沢な時間だろう。親戚に寄る前に、とその家近くの品覇で泳いだときもそうだった。パラソルを広げて、日焼け除けに帽子を被った女性がじっと海を眺めたりデジカメで撮ったりしていた。品覇では、iPhone はつながりそうになかったので、投稿は諦めて浜辺の写真を撮り、あとは浜辺の端から端までを泳いでみた。島の出身といっても、ぼくはフバマとその前に広がる礁湖を偏愛していて他の海で泳いだことがほとんどない。そこは半円を描いた入江に近い海岸線を描いていて珊瑚礁の湖が大きく広がっている。外海から浜辺までの距離があるから、波は島の時間の流れのようにそっと浜辺にやってくる。その静けさを好んできたので、品覇も初泳ぎだった。浜辺の端まで辿りついて海からあがり、珊瑚岩伝いに歩くと、内側にくり抜いたようなスペースがあった。そこから覗き込むと、岩がいくつか重なっている暗がりの向こうにひときわ透明な青の海色が輝いて見えた。美しい眺めだった。近くでは、海の独り占めをぼくに邪魔された女性が、砂に字を書いて(そう、砂には文字を書きたくなる)、遠くをみて飽きずに海を撮っていた。声をかけて、ここにとてもいいスポットがあると伝えると、島の人ですか?と聞いてきた。彼女は、足を海につけ、教えた場所でカメラに収めて、いいですね、と言った。千葉から来て今日、帰るのだという。沖縄の離島は何箇所も行っているけれど、ここが最高ですと彼女は言ってくれた。思った通りだったけれど、映画『めがね』を観て来たくなったそうだ。あの映画は、現実と映画が地続きだから、島に来れば女主人公の妙子が味わったのと同じ心持ちになれるだろう。彼女もきっとそう感じたのだと思う。

 島の人に聞けば、『めがね』以降、女性の一人旅は目立っているという。それから、心の元気の無くなった人も。以前のように、持て余した生命力を発散するために二十代の都会っ子が大挙してやってくるのも悪くはないけれど、静かな(一人)旅のほうが与論には合っている。与論情報誌を構想しているアマンのオーナー夫婦はそれをヨーロッパ風と称したけれど、そうなのかもしれない。与論島はギリシャのミコノス島と姉妹盟約を結んでいる。ぼくは二十年以上前にそれを聞いた時、恥ずかしいことをしてと感じたけれど直感的な先見だったのかもしれないと初めて思った。もっとも、島には宮古島のオトーリと並んで、酒を回し飲みする与論献奉があって、今回も、ぼくを島の人と知っていて、島に来たらケンポウをして大騒ぎしなきゃと言うウジャ(おじさん)もいる。ぼくはやれやれまったく、と思うのだ。

 島の民俗者、盛窪さんには、新しく知ったという貴重な場所に案内してもらった。島の南岸の岩場、すぐに海に面しているというのに、地下水が流れ出るところなのか、真水の溜まる岩のくぼみがあり、神事が行われるということだった。聞き返したのにメモしていなくて名前を覚えていない。名の知れたものだけが島の民俗ではなくて、名の知れない当事者たちの口承だけで保たれた信仰が数多くある。その場も神事にふさわしい美しさと厳しさを保ているように思えた。あまった時間は盛窪宅にお邪魔した。造園を学んだ方の屋敷らしく庭には名前も分からない植物が所せましと茂っていてちょっとした植物園になっている。以前、オオゴマダラの金の蛹もそこで見せてもらった。家にあがらせてもらい、ツイッターのやり方をお伝えした。考えてみれば、札幌から那覇までツイッター講座の旅をしてきたわけだから、与論でもそれをしているのは可笑しくもあればいちばんやりたいことのようにも思えた。ぼくがそういう立場にあるなら、与論をコミュニケーション・アイランドとして構想して、ネット対話のできる人口を増やし与論好きのネットワークを広げ、来島につなげようとするだろう。そんなことを夢想した。

 夜は、ツイッターで帰島を知った小学校の同級生と飲んだり、食事を兼ねた与論情報誌のミーティング、いやミーティングと称した夜の宴に出させてもらったり、叔母の出ている島の食材だけを使った料理教室に行ってご馳走になったりした。帰り道は星が鮮やかだった。手を伸ばしても届かないけれど、もうちょっとと錯覚する距離に星たちはあり、それが空いっぱいに広がって心を開かせてくれた。島は宇宙だ、と思った。

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