与論島、2010年夏(1)
2010年の夏は、二度も与論に帰る機会に恵まれた。一度目は7月16日から19日まで、那覇出張が終わった後の週末と祝日を利用して。二度目はほぼひと月空けて8月24日から28日まで、子どもたちを連れて。7月の出張の際には、8月の予定も立っていたけれど、それでも那覇まで行って与論に行かないなんて考えられなかった。結果としての二度の帰島は、何年も行けなかった年もあることを思えば、望外のことだった。
7月16日、那覇空港を飛び立った琉球エアコミューターはいつものように三十分ほどの飛行時間で与論上空に差しかかった。そこで時間調整のためか、乗客へのサービスを兼ねてなのか分からないけれど、飛行機は円弧を描いて与論島をぐるりと一周してくれた。おかげで着陸前に島の東西南北を眺められたのだけれど、山のない低地にはどこを見ても家屋が散在していて、島の自然の許容能力を上回る人口膨張が起きやすかった歴史の背景に想いが走った。
空港からの道すがら、三年前に帰ったときには完成間際で工事中だった与論唯一(だと思う)のイタリアン・レストラン、アマンでパスタをいただいた。あんとに庵さんが奥の壁面に描いていた絵の完成した姿に見入ったり、オーナー夫妻の載った雑誌を読ませてもらったりして、島の新しい、それでいて、らしい表情に触れた。そこで与論情報誌の構想を聞いて心が弾んだ。
夏の与論、何はともあれ泳ぎたい。ところが、ホテルに到着すると事前に送った荷物が届いていない。那覇からの船便は天候に左右されやすいので時間も定かではない。仕方がないので、部屋でしばらく荷物の到着をぼんやり待っていたのだけれど、陽もまだ高く、いても立ってもいられなくなって、パンツ一丁で泳ぐことにした。浜辺は目の前だし、なにしろ小さい頃から泳ぎ慣れた場所だ、遠慮することはないと勝手な理由をつけて海につかった。浜辺の後方の半面はホテルが占有し今ではそのホテルのプライベートビーチのようになってしまい、珊瑚も姿を消してしまったけれど、ここに身を浸すのが本来なのだと思わせてくれるようなフバマの海の穏やかさは変わらない。これが味わえるから夏は格別なのだ。
予定は入れていなかった。いつものことだけれど、島を感じたかった。朝、起きると、ウドゥヌスーの浜から茶花港を横切り、役場の先にあるアイショップまで歩いて自家製のパンと飲み物を買い、イチョーキ長浜の端っこに座って海を眺めながら食べた。涼しさの残る朝は成長期前の少年少女のように初々しい。道も砂も焼けついていないから、裸足で歩いた。蝶やアダンやハイビスカス、偶然にかかった虹、人気のない浜辺、漁船などに目がとまると、足を止めて、iPhone で撮っていった。気に入ったものはその場でツイッターに投稿すると、返事をしてくれる人もいるので、その無音のおしゃべりが楽しくなり、撮っては投稿を繰り返した。見なれた光景や風物なのだけれど、原色鮮やかな亜熱帯の息吹はいつも新鮮だ。おまけにその画像をパソコンの向こうで見てくれる人がいると思うと、余計、撮りたくなった。@guuteiさんには、与論でのツイートは俄然、生き生きしていると指摘されて苦笑した。その通りだと自分でも思ったからだ。
それにしても静かだった。浜辺に一人という光景をしばしば目にした。象牙色のやわらかな砂浜にいて、雲が過ぎると緑と青がきらきら輝く海を独占するのは贅沢な時間だろう。親戚に寄る前に、とその家近くの品覇で泳いだときもそうだった。パラソルを広げて、日焼け除けに帽子を被った女性がじっと海を眺めたりデジカメで撮ったりしていた。品覇では、iPhone はつながりそうになかったので、投稿は諦めて浜辺の写真を撮り、あとは浜辺の端から端までを泳いでみた。島の出身といっても、ぼくはフバマとその前に広がる礁湖を偏愛していて他の海で泳いだことがほとんどない。そこは半円を描いた入江に近い海岸線を描いていて珊瑚礁の湖が大きく広がっている。外海から浜辺までの距離があるから、波は島の時間の流れのようにそっと浜辺にやってくる。その静けさを好んできたので、品覇も初泳ぎだった。浜辺の端まで辿りついて海からあがり、珊瑚岩伝いに歩くと、内側にくり抜いたようなスペースがあった。そこから覗き込むと、岩がいくつか重なっている暗がりの向こうにひときわ透明な青の海色が輝いて見えた。美しい眺めだった。近くでは、海の独り占めをぼくに邪魔された女性が、砂に字を書いて(そう、砂には文字を書きたくなる)、遠くをみて飽きずに海を撮っていた。声をかけて、ここにとてもいいスポットがあると伝えると、島の人ですか?と聞いてきた。彼女は、足を海につけ、教えた場所でカメラに収めて、いいですね、と言った。千葉から来て今日、帰るのだという。沖縄の離島は何箇所も行っているけれど、ここが最高ですと彼女は言ってくれた。思った通りだったけれど、映画『めがね』を観て来たくなったそうだ。あの映画は、現実と映画が地続きだから、島に来れば女主人公の妙子が味わったのと同じ心持ちになれるだろう。彼女もきっとそう感じたのだと思う。
島の人に聞けば、『めがね』以降、女性の一人旅は目立っているという。それから、心の元気の無くなった人も。以前のように、持て余した生命力を発散するために二十代の都会っ子が大挙してやってくるのも悪くはないけれど、静かな(一人)旅のほうが与論には合っている。与論情報誌を構想しているアマンのオーナー夫婦はそれをヨーロッパ風と称したけれど、そうなのかもしれない。与論島はギリシャのミコノス島と姉妹盟約を結んでいる。ぼくは二十年以上前にそれを聞いた時、恥ずかしいことをしてと感じたけれど直感的な先見だったのかもしれないと初めて思った。もっとも、島には宮古島のオトーリと並んで、酒を回し飲みする与論献奉があって、今回も、ぼくを島の人と知っていて、島に来たらケンポウをして大騒ぎしなきゃと言うウジャ(おじさん)もいる。ぼくはやれやれまったく、と思うのだ。
島の民俗者、盛窪さんには、新しく知ったという貴重な場所に案内してもらった。島の南岸の岩場、すぐに海に面しているというのに、地下水が流れ出るところなのか、真水の溜まる岩のくぼみがあり、神事が行われるということだった。聞き返したのにメモしていなくて名前を覚えていない。名の知れたものだけが島の民俗ではなくて、名の知れない当事者たちの口承だけで保たれた信仰が数多くある。その場も神事にふさわしい美しさと厳しさを保ているように思えた。あまった時間は盛窪宅にお邪魔した。造園を学んだ方の屋敷らしく庭には名前も分からない植物が所せましと茂っていてちょっとした植物園になっている。以前、オオゴマダラの金の蛹もそこで見せてもらった。家にあがらせてもらい、ツイッターのやり方をお伝えした。考えてみれば、札幌から那覇までツイッター講座の旅をしてきたわけだから、与論でもそれをしているのは可笑しくもあればいちばんやりたいことのようにも思えた。ぼくがそういう立場にあるなら、与論をコミュニケーション・アイランドとして構想して、ネット対話のできる人口を増やし与論好きのネットワークを広げ、来島につなげようとするだろう。そんなことを夢想した。
夜は、ツイッターで帰島を知った小学校の同級生と飲んだり、食事を兼ねた与論情報誌のミーティング、いやミーティングと称した夜の宴に出させてもらったり、叔母の出ている島の食材だけを使った料理教室に行ってご馳走になったりした。帰り道は星が鮮やかだった。手を伸ばしても届かないけれど、もうちょっとと錯覚する距離に星たちはあり、それが空いっぱいに広がって心を開かせてくれた。島は宇宙だ、と思った。
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コメント
ため息、出ちゃいます。この写真たち。。。
でも、写真よりずっと実物の方がいいんだもんなぁ…
行きたい気持ちをさらに刺激され。
2回も行けたなんてステキです☆
女性のひとり旅、珍しくないんですね~
エネルギー不足の人も。
押しつけがましくないところがいいんですよね。
おすそ分け、ありがとうございました!!
投稿: kemo | 2010/10/05 11:09