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2010/05/03

『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』

 『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』は、大島が中心なので、身近ではないものもあるけれど、多くが与論でもそうしていたに違いないと思われるものや、自分たちも食べたり話に聞いたことのある食の話題が満載なのが楽しい。

 ごく私的な素材を挙げれば、たとえば、酢。

 酢

 『遠島録』 に酢が出てくるのは一回だけ、藁永三年五月八日、小宿の藤由気さんの家に初めて着いた時のご馳走メニュー(八九頁) の中に、魚の切り身に「酢かけ」とあるものです。刺身に酢をかけたものと思われますが、奄美では現在も同じ食べ方をします。はじめは、ちょっとびっくりしましたが、沖縄でも酢醤油を使いますし、刺身にレモンを添えたり、スダチやカボスを絞るのは一般的なことですから、考えてみれば特に珍しがる必要はないのかもしれません。

 これなど、ぼくは驚かれたことに驚いた経験のある口で、刺身は酢をかけて食べるものだと思っていた。島を離れて醤油をかけて食べたことの方が圧倒的に多くなっているが、今でも島で「酢かけ」の刺身にありつけると、やっぱりこっちのほうが美味しい、刺身はこうでなきゃ、などと思ってしまう。

 『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』は、「主食と野菜」、「魚介と肉」、「嗜好品と調味料」、「菓子」と、幕末奄美の食が丹念に網羅的に記されているので、体験に通じるものから、蘇鉄を調理したものなど、見たことはあるが食べたことはないものまで、目の前に出されたように楽しめる。

 今では与論のレストランのメニューにもあるから昔からある風になっている鶏飯。ぼくは大島で初めて食べたのだが、その時に薩摩の役人をもてなすために編み出されたものという豆知識を得て、それ以上の認識を持っていなかったが、今村は、和食の系譜、外来の系譜をどちらも辿っていて、ぽんと飛び出してきた食ではないだろうことを示唆している。

 チキンライスが伝来した時代ははっきりしませんが、江戸時代には広く食べられていたのは確かでしょう。その後の変遷について想像をたくましくするならば、冷や飯を食べることが減るのに伴って徐々に汁かけ飯が衰退、鶏飯もあまり作られなくなったが、奄美や沖縄では、その風土と歴史の中で、工夫を重ねて作りつがれ今に至った、という印象です。残った理由としては、おもてなし料理としての地位を確立したことがあげられるでしょうか。また、鶏の脂たっぷりのご飯というのは、日本人にはちょっと重たかったのかもしれず、白米にチキンスープをかけるアレンジがポイントになったかもしれません。豚の炊き込みご飯からのアレンジである、という伝承もありますので、より「あっさり」と軽く作る工夫があったのでは?などと考えたくなってしまいます。

 こうした広い食の系譜のなかで考察されると、薩摩の役人の接待料理という浅薄な理解しかなかった者には、鶏飯がさらに美味しくなること請け合いである。

 今村の視線は優しい。

 鶏は、日記に七回登場しており、そのうち明らかに料理として出てくるのは五回です。この日、船頭さんが煮ていた鳥の汁は、トリンシルと呼ばれるスープだと思われます。素麺を入れたりもするそうです。美曝しそうですね。
 別の日にも帰り際に、ほかの人と同じように肉を分けて貰った左源太さんは、ただただ申し訳なく思った、と日記に記しているのですが、捕らえた宍を皆で分けることは、現代でも行われているようです。しとめた人、狩りに参加した人はもちろんのこと、見物に訪れた人達にも何分かの分け前が渡されます。なんともやさしい習慣ですね。

 今村は時折、彼女のブログのように、読者に話しかける。ぼくたちは思わず、うんうんと頷く。奄美の書物といえば、ぼくもそうだが、苦難にあえぐ奄美像か、その反動として、意外にそうでもなかったとする無理やりな逆像にであうことがしばしばだが、薩摩の役人の目を通してとはいえ、ここにはそうした通念を立ち止まられるものがある。

 それは、薩摩武門の常からすれば、ありえないほど等身大の視線を奄美に向けた名越左源太という人物の残した書が原典になっていることはもちろんだが、それこそ、おっかけのように左源太の見聞きしたことに寄りそう今村の共感力に寄るところが大きい。批評や協働による作品形成ではときにあることだが、相手にほれ込み、その相手になりきって、思わず余剰の何かを加えることがある。左源太と今村は異性だから、なにきるというより、相方としてよりそい、漫才のボケとツッコミのように、今村が合いの手を入れていく。もちろん、左源太がボケ役である。このかけあいのようなやりとりを文中から思わせる優しさはこの本の本領であり、読む者は自然に、奄美を好きになっていくのではないだろうか。

 一方で『遠島録』に砂糖が頻繁に出てくることも事実です。また、『遠島録』にも登場する島の役人、美應統さんにまつわる数々の伝承の中には、畑仕事や砂糖製造を手伝いに来た親戚の子どもたちに、砂糖や砂糖黍をたくさん土産に持たせた、というものがあります。これらは、富裕な島人たちに限られた例外的なことであったのだろうとは推察されます。しかし、砂糖を使ったお菓子や料理が伝統的に存在することなども考え合わせれば、厳しい支配下にあってもなお、島の人たちはしたたかに、砂糖のある暮らしをしていたのではないかとも思うのです。

 ぼくは奄美は、まだ内側からしか開かない扉を持っていると思っている。ときに、奄美は思っているほど過酷ではなかったとか、薩摩には薩摩の事情があったと言われることがある。そういうとき、こだわり過ぎていることに内省が働くのと同時に、それを言うために捨象されるものの前に立ちつくしてしまう。それを言うために、多くのことをぼくたちは知り、解決していかなければならない。そう考えるからである。それは内側からしか開かない。外側から相対化されても、鎮まるものではない。

 だから、第一義的には奄美の人の手によってなされなければならないものだ、とぼくは思う。しかし、では内側から開くとは出身者にしかできないかと言われれば、そうではない。ただ、多くの場合、そうはいかない。内在が不足しているのに容易く相対化されやすいからだ。『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』は、出身者の手によるものはないが、内側からそっと扉を開ける手になっているのが嬉しいところだ。それは、左源太おっかけの今村が、好奇心と好きという眼差しで奄美の食を通過し、またその途上にあるからだと思う。次の報告が楽しみである。

P.S.
想像に難くないが、この本を読むと、お腹がすくし、奄美料理が食べたくなる。ご注意を(笑)。

9784861241819


 

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コメント

>ぼくは奄美は、まだ内側からしか開かない扉を持っていると思っている。

ほんのつい最近、島出身者の方に突っ込まれた言葉でした。タイムリーそれを言われると、何も言えなくなっちゃいますが。実際そうなんだろうなぁ…

美味しそうな本の紹介、ありがとうございます!!
鶏飯、1度だけ食べて虜になりました~
レシピ知りたいくらいです(*^_^*)

投稿: kemo | 2010/05/03 21:33

kemoさん

レシピにもなりますよ。^^

> それを言われると、何も言えなくなっちゃいますが。

そんなことないですよ。
自分の切実さを代用品で語ると、余計なお世話になることもあるということです。

投稿: 喜山 | 2010/05/04 10:11

偶然手にした「幕末奄美の食……」。関東在住の身には、まさか蘇鉄が食足りうるとは驚きでした。豊富な注釈は情報を整理しただけのデーターベースを思わせましたが、読み進むうちに貧しい食材をいかに生かすか、人々の生きる工夫と努力の大切さを書いたものであることが分かりました。その貧しさの中で菓子まで作っちゃう、たぶん酒と同じで菓子を作る動物は人間だけなのでしょうね。

投稿: トヨチャン | 2010/05/15 12:46

トヨチャンさん

お返事遅れてごめんなさい。

そうなんです。蘇鉄は、台風にも強いですし食用にもなったんです。ぼくも食べたことはありませんが、赤い実が積まれているのを幼少の折の記憶で覚えています。

お菓子まで作るんですもんねえ。

投稿: 喜山 | 2010/05/30 16:25

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