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2010/05/30

南海日日、五月読み

 たまりに溜まった南海日日新聞を読んだ。というより、目を通した。「徳之島」と「加計呂麻島」の字には気になって目がいくが、全体から受け取るのは島に流れるゆったりとした時間で、それが愉しい。地方紙ならではのよさだと思う。

 5月2日。

-徳之島で反対運動が高まった背景は。
 「厳しく痛めつけられてきた歴史がある。江戸初期に薩摩藩の侵攻を受けて多くの島民が殺され、その後の薩摩支配下で黒糖の利益を搾取され続けた。『黒糖モノカルチャー』経済で自然災害に弱く、餓死者や疫病による死者を出す悲劇も味わった。島民はこうしたDNAを受け継いでいる」
 「戦後、徳之島を含む奄美群島は米軍統治下に置かれ、断食など激しい島民運動の末、1953年にようやく日本復帰を果たした」
-基地移設問題で首相らの対処の仕方は。
 「徳之島の過酷な歴史に対する認識が甘い。(頭越しに進める)〝空中戦のやり方に、島民はばかにされたと思っているはずだ。沖縄の基地負担の軽減は必要だが、徳之島案については(話し合いの)入り口を間違えた」  国政選挙などで保岡興治氏と徳田虎雄氏の両派が激しく展開した『保徳戦争』に見られるように、島民の政治意識は一筋縄ではいかない。そのことを踏まえず、簡単に移設先にできると思っていたのではないか」
-島の経済振興の観点からはどうか。
 「日本復帰後、土建突出型の振興策でなんとか生活できるようになったが、今は状況がまったく異なる。ハード偏重が島の経済自立を助けなかったという教訓から、島民の価値観は変わった」
 「豊かな原生林や黒糖焼酎、島唄など徳之島固有の魅力を発信し、地域循環型の産業でやっていけるという認識があると思う。補助金や交付金と引き換えに(基地を)受け入れるという論理はもう通用しない」

 徳之島の基地一部機能移転をめぐる原口泉のインタビュー記事。真っ当なことを言っていて驚いた。当事者でない場合は(本当は当事者でもあるのだが)、ゆがまずに済むという標本のようだ。ここで、国のやりかたとして評していることを、薩摩、鹿児島に当てはめても重なる部分が多い。

 5日。福島義光による「三池争議と与論出身者」の記事で与論島が出ている。大牟田での経験値には、出版物で知る概説の範囲を出るものではない。叔父が、大牟田の与論出身者は主張するのが遅すぎたと憤っていたのを思い出した。

 8日。一面大見出しの「徳之島 受け入れ拒否」の文字が大きく太い。同日、徳之島出身の盛岡茂美が、「シママブリよ、声高に叫べ」と題する寄稿を寄せている。今回の問題は島外の出身者たちをも動かしている。

 16日。ぼくも参加した東京でのデモが記事になっている。「銀座で『基地ノー』」。千人デモ。イエローTシャツにプラカード。当日、演説をしたのはどなたか知らなかったが、記事のおかげで関東徳州会、徳之島町会、関東伊仙町会の方々だった。

 17日。山川和子の「奄美に『院内助産院』の設立を」という寄稿記事。産婆さん。いてほしいと思う。

 18日。11年前、ギリシャ人の船乗りがハワイ沖から流したラブレターが大島に届いたという記事。安達征一郎の「待ちぼうけの人生」みたいだ。そこでは、異国の少女の助けを求める瓶入りメッセージを受け取って、少女の住所を知るべく三通目の奇跡を待つことに人生を費やした島人のエピソードが出てくる。こんどの手紙は、無事、差出人に連絡できたそうだ。それにしてもギリシャ。与論の姉妹都市契約も、あながりこじつけではないかもしれない。

 20日。花井恒三の紹介する記事。4月30日の沖縄タイムスの「名乗るべし鹿児島県民」。

「薩摩により歴史上収奪されてきた徳之島を新基地にしてはならない、鹿児島県民こそふるさとを基地移設候補地として挙げるべきではないか」

 これを書いているのは、指宿の琉球山川交流の会代表の永田和人。鹿児島からもこうした声があるのに驚いた。syomuさんが、挑発のそぶりまで見せながら、「鹿児島本渡移転案」を提示して、議論の糸口をつかもうとしているのに通じる(「米軍基地移転問題、“鹿児島本土移転案”に対するざっくばらんな鹿児島県人の討論スレ」)。

 22日。小湊フワガネク遺跡の記事。高梨修のコメントが熱意とともに伝わってくるようだ。

 24日。喜山康三寄稿の「普天間移設、二重分断のわな」。二重分断というのは、「沖縄対全国」、「徳之島内対立」の二重の対立軸を指す。市町村議会の「移設反対」の主張は、二重分断のわなを招くものであり、「国外移設」を主張すべきであったとするもの。

今年は薩摩侵攻401年目に当たる。奄美はかつて琉球であった。薩摩藩(日本)の侵略や太平洋戦争後「日本政府や米軍の思惑による日本復帰時期のずれがなければ、今以上に同胞として密接な関係を続けられたのだ。

 こういう想いには、与論人らしさがにじみ出ていると思う。

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2010/05/23

基地移設の引き換え条件にしてはならない

 ちょっと時間が経ってしまったが、「普天間移設:徳之島受け入れ7条件「すべてのむ」官房長官」と題した20日の毎日新聞記事。

 徳之島の基地移設推進派が示した要望7項目。

 16日朝、鹿児島市内のホテルのスイートルーム。平野氏は移設賛成派の住民14人と会談し、移設受け入れに向けた7項目の要望を記した紙を受け取った。一通り目を通した平野氏は「移設と振興策は別だが、7項目はすべてのむ」と言い切った。

 ペーパーに記された7項目は(1)徳之島3町合計で約250億円の借金(公債)棒引き(2)航路・航空運賃を沖縄並みに抑制(3)燃料価格を沖縄・本土並みに引き下げ(4)沖縄県が対象の黒糖製造工場への交付金を鹿児島県にも適用(5)医療・福祉・経済特区の新設(健康保険税の免除)(6)奄美群島振興開発特別措置法の所管省庁を国土交通省から内閣府へ移す(7)看護学校、専門学校の設置--だった。

 平野氏は会談で、奄美群島向けの10年度政府予算(奄美群島振興開発事業予算)が前年度比29%の大幅減となったことを謝罪、来年度予算編成での対応を約束した。徳之島へのドクターヘリ配備にも言及し、今後、徳之島の地元3町長や伊藤祐一郎県知事と振興策を詰める意向も示したという。

 借金の棒引きは別にして、これらの項目は、基地移設とは関係なく、島嶼としての奄美が実現すべく働きかける事案だと思える。それを、基地移設と引き換えの条件にするのは、筋違いであり自身の首を絞めるようなものではないか。困難の引き受けなしに、奄美は奄美の未来を築けないなら、歴史は進まないし奄美本来の困難は継続されるままである。


◇◆◇

 ブログへのコメントの返事をなかなか返せなくて申し訳ありません。時間をとって近いうちに必ずお返事いたします。



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2010/05/16

徳之島基地移設反対デモ行進に参加

 昨日5月15日、徳之島への基地移設反対デモに参加した。少し前、主催者に参加を呼びかけられたとき、「徳之島に基地は造らせない」のメッセージに加えて、「普天間基地撤去」のメッセージも添えてほしいとお願いしたが、県外=徳之島を意味する現在、それは難しいとの回答だったので、参加は止めようと思っていた。けれどいまはツイッターがある。違和感や賛同できないことを感じれば、ツイッターに書けばいい。それを読む人の多寡ではなく、そう表明できることが重要だと思えたので、思いなおし、参加した。

 弁護士会館前に集合と聞いていたが、隣の日比谷公園で昼を取り、飲み物のベンダーを探していると、公園内にみんなが集合しているのに出会い、合流できた。そこから北へ向かい、銀座の数寄屋橋交差点を横切り、東京駅の前を通り常磐橋を渡ると、その道脇の公園が終点だった。

 参加者は、昔会ったことがあるような懐かしい顔つきの、明らかに島の人だとわかる顔が多かったが、奄美に何らかの縁があって、参加している方もいるようだった。六十代以上の方も目立った。島への想い募ってのことだろう。

 デモは穏やかなものだったと思う。日比谷公園内でシュプレヒコールの練習をする。主催者は、コールの中味を繰り返すようお願いしていたと思うが、声は揃うものの、続く参加者たちは「阻止せよ」、「縮小せよ」などの文末しか声にしない。主催者の意図とは違うものの、声は揃う。勝手だが一致するという、これは徳之島流か。

 行進中、街道でたまたまデモ行進に出くわした人たちの目線は冷淡ではなかった。連日の報道で徳之島の問題は周知のものになっているだろうし、こうした行動を理解できるからだろう。むしろ、偶然出会ったデモを撮ろうとする人もいた。リゾートバスから手を振る人もいれば、親指を立てて応援する金髪の外国人もいた。記者が、参加者の一人に声をかけて熱心にメモを採っていた。共同通信の記者だった。ぼくが気づいたのは、あとはNHKのカメラだったが他にもメディアは来ていたらしい。

 カメラを向けられた参加者が笑顔で応じると、隣の参加者が「笑顔じゃダメだよ、怒った顔にしなきゃ」と談笑。行進者もそれを見かけた人も、穏やかな空気のなかで動いていったと思う。これは現状の事態が、あいまいで不確定な要素が多いために生まれる空白感も寄与していただろう。しかし、同日、平野官房長官は鹿児島で徳之島の住民との面談を行うことになっており、政府からの働きかけは目に見えるものになっている。いつ深刻さを増すやもしれないという不安や、こうした行動は今回だけではなく始まりに過ぎないかもしれないという予想を持ちながら、それでも島の人同士が連帯できる機会が嬉しい、そんな内面ではなかったろうか。

 好奇心でカメラを向けた街道の人に笑顔を向けるのは、ぼくは悪いことではないと思う。そこに相互理解の契機もあるかもしれない。デモ行進の実行とそこに高齢をおして参加していること自体で、もう何事かである。そういうぼくも、まっとうなデモ行進者というより、ひたすらiphoneでツイッターを打ち続ける、伏し目がちの不真面目な参加者だった。けれど、ぼくはぼくで、ツイッターで、よぎる想いを吐き出せる解放感は代えがたいものだった。ぼくのツイートに、リプライやRTしてくれる人もいて、デモ参加による孤立感もなかった。デモの渦中にいながら、自分の見聞や感想を発信し、ほぼリアルタイムに外にいる人たちと会話できることで、デモと関係なく普通の日常を送っている人、遊んでいる人とつながれるのが、よかった。

 在鹿児島の奄美の人たちから送られたというチラシのなかに、「沖縄と共に最後まで闘おう」というメッセージのものがあって、それはぼくが持つのにふさわしいだろうと感じ、それを手に歩いた。3本ほどだろうか、国旗を掲げながらの行進に、ぼくは違和感が抜けなかったが奄美っぽさが出ていた。しかし、いきさつは知らないけれど、シュプレヒコールのひとつが「普天間基地を撤去せよ」とメッセージされていたのは、徳之島への基地移設反対は普天間基地撤去とセットでなければ大きな意味を持たないと考えてきたぼくには共感できるもので、メッセージを口にできないということはなかった。

 沖縄の普天間基地県内移設反対集会からモチーフをとったのだろうか、Tシャツ、首からかけたプラカード、横断幕は黄色で統一。その黄色の列が、少し風はあったが、晴れ渡った空のもと、その空の色に溶けいるような青の高層ビルの谷間を抜けていった。常磐橋を渡り曲がり角から後方をみると、思っていた以上の長い列が続いていて驚いた。報道では800人とされていたが、それ以上に感じる長さだった。終点の公園では、去年、「奄美と沖縄をつなぐ」でも唄ってくれた徳之島のHiroさんが、用意していた三線で奏で始める。すると、自然に人の輪ができ踊る。島の人はこれがないと終われないよなあと感じ入る。締めのワイド節も、昨日は穏やかな音色だった。


Demo1
Demo2Demo3

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2010/05/08

「奄美の『自分さがし』-アマミンチュとしての自覚-」3

 「奄美はあるのか」と、須山は奄美固有の問いを投げかける。

 高橋・喜山の両者に共通するのは,日本・沖縄・薩摩といった外部の影響を強調する観点である。高橋のいう境界性は,一方に琉球・沖縄を置き,もう一方に日本やヤマトや鹿児島を置く。その二項対立の狭間の存在として奄美や沖永良部島を描き出す手法である。喜山もまた,琉球対薩摩を基本的な分析軸として議論を展開している。
 高橋は奄美の立ち位置を「曖昧」といい,喜山は奄美の状況を「失語」と表現した。しかし,2人ともが奄美のことを論じようとして,結局は他者であるヤマトや琉球や薩摩を論じている。それこそが失語の実態であると喜山にしかられるかもしれないが,両者の説明様式はそろって他律的である。奄美以外の要素についてどれだけ綿々と語っても,奄美そのものを語らなければ,奄美の姿は見えてこないであろう。ただ,この2人の論客をして,このような見方をさせてしまうことこそが,400年にわたる被支配の根深さを端的に示すのかも知れない。

 そう、根深い、とぼくは言いたげなわけだ。

 「失語」や「暖味」,不明確性や空虚感は.消去法に基づいた語り方の結果あらわれた問題であるともいえる。しかしそうではなく,地域をより積極的に観察すれば,地域に関するさまざまな語りを兄いだすことが可能である。自分たちの足許,奄美という場所にもっと目を向けよう,ということを筆者は主張したい。

 ぼくも内側からの視点を持ちたいと考えるものだ。言い訳めくが、内側から語るのに他者を語るのは内側を無価値と思いこんできた慣性を止めるための労力でもあれば、内側からしか開かない扉へ向かうための道筋だとも言える。自己からみた自己像の不在というだけではない。他者からみた自己像の不在も、他者へ向かわせる動因にもなっている。

 喜山は「個々のシマ/島こそが主役である」というのが奄美的態度であると主張するが,シマと島を区別しない表現は,彼がシマと島の重なりが大きい与論島出身者であるから言えることであろう。奄美が奄美らしさを回復するためにシマに回帰するというのは,正当な姿勢であるように見える。しかし,そうするにはシマの衰退は進行しすぎたといわざるを得ない。シマが蓄積してきた豊かな語りは現在急速に失われつつある。

 シマ/島は急速に失われている。そう、だからぼくたちの焦慮も深い。一方、須山が言うように、他者からの奄美発見が広がり、奄美は他者からみた自己像を知りつつある。そうなれば、ぼくたちは自己による自己像に向き合いやすくなるだろう。そのとき、シマ/島は実態であるというより、掘り下げるべき像へ転化するのだと思える。それは沖縄の音楽に反応するように身体的なものかもしれない。

 まるで言い訳するようにしか須山の書評に対してないが、対話の緒が開かれることが何より嬉しいことだ。

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2010/05/07

「奄美の『自分さがし』-アマミンチュとしての自覚-」2

 喜山荘一の『奄美自立論』は「奄美を語ることができない」という絶望的な心情から書かれた。同書は学術書ではなく,奄美出身者が自らの故郷について省察と発言を繰り返して得られた論考である。

 そう、これは学術書ではない。
 須山は「二重の疎外」について、

 A/Bという二項対立では,AでなければBである。すなわち琉球でないならば大和,大和でないならば琉球であるはずなのに,2つの否定が同時になされたために論理矛盾が生じた。その矛盾が顕現した地域が奄美である。「二重の疎外」の意味内容はこのようなことであろう。

 と、説明している。奄美の困難の核心はこの二重否定による空無にあると思える。一方これは政治的な規定であり、島人の生活からみれば、多層的に現れた。

 政治 薩摩
 宗教 琉球
 文化 琉球
 経済 薩摩/琉球
 自然 琉球(亜熱帯珊瑚礁として)

 このことが本土の人びとに理解されないこと,それ以上に自分たち奄美の人間がその歴史を知らなかったことが,喜山のいらだちを生んだものと思われる。その状況を説明するためには,いささかエキセントリックな言辞を弄する必要があったのであろう。レトリックに依存した論理の展開に無理を感じるものの,論理の行く先を見きわめたいという気分を,読者に抱かせる力量のある文章である。

 ときにエキセントリックなのは、必要からではなく切実だからである。それが言い訳めくとしたら、単に柄が悪いということだ(苦笑)。

 喜山の奄美論の背景には,薩摩に対する峻烈な怒りがある。そして怒りの対象としての薩摩を象徴するのが,歴史学者の原口虎雄である。原口は『名瀬市誌』全3巻を編纂し,奄美の姿を丹念に採集した研究者である(名瀬市誌編纂委員会1968,1971,1973)。その原口を喜山lは,薩摩的史観で奄美を睥睨したと批判する。蕃山の批判はあまりに先鋭で,原口に気の毒なくらいである。しかし,奄美が自分自身で語るすべをもたなかったことが,原口という薩摩人による語りを許したという点では同意できる。喜山は,奄美の自家製の語りが必要なのだという。そしてその語りの基盤に文化的共同体としての琉球を認め,「奄美は坑球である」というテーゼを復活させるべきであると主張する。

 エキセントリックさの極みは原口批判に現れているだろう。「気の毒なくらい」に見えることすら、言われなければぼくにはなかなか分からない。しかし、怒りが怒りである所以は、語る術を持たないことが「原口という薩摩人による語りを許した」からではなく、それを知りつつ拍車をかけるように原口はさらに口をふさぐことをしたからだと、ぼくが考えているところにある。

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2010/05/06

「奄美の『自分さがし』-アマミンチュとしての自覚-」1

 駒澤大学の須山聡教授から『奄美自立論』の書評をいただいた。正面から取り上げてもらう機会は当然ながら少ないので、感謝である。

 須山は「奄美は自らの帰属を自ら決定する機会を持た」ず、現在、「深刻なアイデンティティの危機」にあるとして、

 2006年そして2009年に,本土に暮らす2人の奄美出身者が奄美を見つめ直す著作を刊行した。高橋孝代『境界性の人類学-重層する沖永良部島民のアイデンティティ-』と,喜山荘一『奄美自立論-400年の失語を越えて-』である。高橋は沖永良部島で高校卒業までを過ごした,文化人類学を専門とする研究者である。与論島出身の喜山は研究者ではないが,ブログを通じて与論島・奄美に関する議論を展開している。

 と、高橋と私の二著を取り上げている。

 2人はともに1960年代に生まれた,米軍統治を経験したことのない世代である。したがって,彼らは生まれたときから本土の日本人と同様の政治的権利を有してきたはずである。その彼らが,本土と日本人に対して違和感や相容れない感覚を抱き,沖縄の音楽や言葉に身体的な共感を感じた経験を吐露している。これらの著作には,日本人でありながら日本の枠組みに入り切れていない奄美の人びとの迷いや苦悩が表現されている。いわば奄美出身者の「自分さがし」の記録がこの2著である。しかし著者らはただ思い悩むだけではなく,真撃で客観的な分析と懸命な省察の中から,それぞれの奄美像を見いだそうとしている。

 「沖縄の音楽や言葉に身体的な共感を感じた経験」は、『境界性の人類学』を読んだとき、同じであることに驚いた個所だった。それと同時に、自分が書く段になった際には、『境界性の人類学』が沖永良部発の奄美論であるとするなら、与論発の奄美論を書きたいモチーフも生んだ。与論は沖永良部と多く重なるところがあるが、またそれゆえ差異も気になるからである。

 須山は、高橋の引く、「鹿児島/沖縄」「日本/沖縄」「奄美/沖縄」という境界に対し、

 3つの境界がどのように導かれたかを高橋は明示的に示していない。おそらく筆者の20年弱にわたる生活体験が,「参与観察」の役割を果たしたのであろう。そのなかからこれら3つの境界が,ほぼ自明のものとして立ち現れたものと考えられる。これら3つの境界は議論の前提として提示されその妥当性が厳密に検証されることはない。

 と指摘するが、そう言われて初めてぼくもこれらが自分にとって自明の概念になっているのに気づく。生まれ島に対して、奄美、沖縄、鹿児島、日本は、自己であるとともに他者として世界観をいつも揺るがせる存在だった。それは所与の条件だったと思える。

 高橋は境界域に特徴的に見られるこのようなアイデンティティを「ボーダーアイデンティティ」と名づけた。沖永良部島には複数の境界がオーバーラップし,それらが複合しているが,だからといって住民のアイデンティティが境界によって引き裂かれたり,混乱しているのではない,と高橋は主張する。例えば日本復帰運動に見られるように,政治的には沖縄を拒否する心性が働こうとも,島民はエイサーに興ずることができる。政治的なアイデンティティと文化的なアイデンティティのありようは乖離しているが,島民はそれに無自覚であり,そこにある矛盾を矛盾と感じない。輻輳するアイデンティティを島民はありのままに受け入れている。

 ぼく個人は、「アイデンティティが境界によって引き裂かれたり,混乱しているのではない」とは言い切れない。分裂や混乱はむしろ常態である。しかしそれはぼくが島を離れた個人であることを自覚せざるをえないことからくる自己意識なのかもしれない。ぼくからすれば、島民は「輻輳するアイデンティティを島民はありのままに受け入れている」というより、アイデンティティに対して距離があるのだと思う。

 与論の場合でいえば、与論は沖永良部よりもさらに薩摩色は希薄化する。ここは西郷隆盛の訪れなかった島だ。その無色化ゆえに沖縄へのシンパシーも率直なものとして現れることもあれば、屈折のない分、鹿児島に属することへも当然のことと見なすこともある。アイデンティティは島の共同体のなかでは潜伏してこと極まらなければ先鋭化されない。


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2010/05/05

「辺野古への基地建設を許さない実行委員会」メール署名の依頼

 「緊急署名 沖縄の民意に応えてください」と題するメール署名の依頼をいただいた。下記に転載する。期限は今日中。


皆さま、

〆切ぎりぎりになって恐縮ですが、以下の署名をお願いします。

勝方=稲福 恵子

【転送・転載大歓迎】ーーーーーーーーー

● 連休中に【緊急署名・沖縄の民意に応えてください】にご賛同下さい!!
● メールでの署名を心から呼びかけます!!

◆メールでの署名集約の期限は5月5日(水・休日)です。どうか、ご協力を!!

みなさん! 普天間基地をめぐる情勢が急速に煮詰まってきました。沖縄では4月25日、普天間基地の「県内移設」に反対する県民大会に9万人もの人びとが参加し日本政府に「県民の総意」を鮮明に示しました。しかし鳩山政権は大会の成功を表向き「民意の一つ」とか「重く受け止める」としながら、「沖縄の民意」に応える気はまったくありません。

それどころか、大会の翌日にはワシントンで日米外務・防衛実務者会議を開き、対米交渉を加速させ始めました。鳩山首相は徳之島に影響力を持つ元衆議院議員、徳田虎雄氏に会って、沖縄との県境にある徳之島が「最大1000人」の米海兵隊を受け入れることを要請しました。徳田氏は拒否しましたが、首相はなお徳之島移設を断念していません。さらに首相は連休中の5月4日に沖縄を訪問し仲井真県知事に「県内移設受け入れ」を要請します。

鳩山首相の「腹案」は、米国政府が日本政府に強硬に履行を迫っている現行案=「キャンプ・シュワブ沿岸域案」を少し「修正」し、それを名護市民、沖縄県民に呑み込ませようというものです。その「修正」とは、くい打ち桟橋やメガフロート(鋼鉄製の箱をつなぎ合わせるもの)の上に1800メートルもの滑走路を建設することです。そうなればサンゴが群生しジュゴンの食料である海草(うみくさ)が育つ広大な海域に滑走路でフタをすることになり、海底の生態系が決定的に破壊されてしまいます。

鳩山首相はもはや「最低でも県外」の公約を忘れたかのようです。しかし私たちはそういう姿勢を許さず、「沖縄の民意に応える」ことを強く求める必要があります。鳩山政権による新たな「琉球処分」を阻止しましょう。
以下に改めて緊急署名の呼びかけを記します。連休中に寄せられる署名は、5月7日(金)に首相に提出されます。どうかご協力下さい。心から訴えます。

辺野古への基地建設を許さない実行委員会(連絡先:本メール末尾)

【緊急署名 沖縄の民意に応えてください】

◆鳩山首相への要請事項◆

1.今こそ、沖縄の民意を最優先してください。
2.名護市辺野古への「移設計画」を断念してください。
3.普天間基地の無条件返還を実現してください。

◆要請の趣旨◆

沖縄の悲願は、一貫して「基地のない平和な島」の実現です。

1995年9月、沖縄で起きた米兵によるレイプ事件に対する島ぐるみの怒りに直面して、日米両政府は96年4月、普天間飛行場の「返還」を合意しました。しかしそれは、沖縄本島東海岸沖に代替基地(海上施設)を新設することでした(同年12月、SACO最終報告)。◆96年9月の沖縄県民投票では、89%が「基地の整理・縮小」を求める意思を明確に示しました。◆さらに97年12月の名護市民投票では、過半数が「辺野古への海上ヘリ基地建設NO!」を表明しました。

しかし、自民党政権は、沖縄の頭越しに辺野古への基地建設を強行しようと、莫大な経済振興資金をもって沖縄の人々を懐柔しようとしました。◆それに対し2008年7月、沖縄県議会は「辺野古への新基地建設に反対する」意見書を採択、日本政府、米政府、沖縄県知事に突きつけました。◆09年8月の衆院選では、沖縄県の選挙区・比例区で自民党・公明党が全敗し、◆今年1月24日の名護市長選挙では「辺野古・大浦湾の美しい海に新たな基地は造らせない」と主張した稲嶺進候補が当選しました。

数々の世論調査でも、沖縄の世論は一貫して「普天間の県外・国外移設」が多数を示してきました。沖縄の民意が「基地の新設」にも「県内移設」にも絶対反対であることは、今や誰の目にも明らかです。
私たちは、鳩山政権が「沖縄の民意」を正面から受け止め、実現すべきことを、鳩山首相に対して強く要請します。

辺野古への基地建設を許さない実行委員会

【メール送信による署名の方法】

◆署名は個人・団体(グループ)を問いません。
○ 署名していただける方は、氏名と住所をお知らせ下さい。
○ 団体(グループ)署名の場合は事務所の所在地ないし連絡先を記して下さい。

● 署名の連絡先は次の通りです。
henoko.no-hutenma.out@mbn.nifty.com
上記メールアドレスは署名専用です。

◆鳩山首相への署名提出は【5月7日(金)】ですが、賛同の期限は【5月5日(水・休日)】です。署名の集約と整理に時間がかかりますので、【5月5日(水・休日)】までにご連絡下さるようお願いします。

【協力のお願い】署名される方にお願いします。このメールをできればみなさんの友人やお知り合いの方々に至急ご転送下さい。またご関係のメーリングリストやそれぞれのブログ、ホームページでご紹介下さい。どうか、よろしくお願いします。

◆〔個人情報の保護とこれまでの署名数について〕
署名者の氏名と住所および署名団体名とその事務所の所在地や連絡先をインターネット上で公表することはありません。ただし署名の件数については、署名簿の提出後、手書きの署名数と合わせて、みなさんに報告します。
この緊急署名運動は今年2月に始まり、これまでの首相官邸前金曜日行動で計約2万4000筆が首相に提出されました。

●辺野古への基地建設を許さない実行委員会
090-3910-4140(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)
Fax 03-5275-5989(市民のひろば)
URL:http://www.jca.apc.org/HHK/NoNewBases/NNBJ.html


Help URL : http://help.yahoo.co.jp/help/jp/groups/
Group URL : http://groups.yahoo.co.jp/group/rawa-j/
Group Owner: mailto:rawa-j-owner@yahoogroups.jp


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・移行手続: http://rd.yahoo.co.jp/egroups/050616info/2.html
・ガイドライン: http://rd.yahoo.co.jp/egroups/050616info/3.html

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OCST(Okinawan Cultural Studies in Tokyo)メーリングリストのメンバーのために掲示板を設置しました。沖縄関連の有益な情報、研究会・講演会・展示会などの開催通知、意見交換などを随時掲載していただきたいと思います。
http://bbs8.aimix-z.com/gpwbbs.cgi?room=ocst
掲示板へ入室するのにはIDとパスワードが必要です。
USER:ocst PASS:okinawa

このグループから退会するには、次へメールをお送りください。
ocst-unsubscribe@googlegroups.com
その他のオプションについては、次の URL からグループにアクセスしてください。 http://groups.google.co.jp/group/ocst?hl=ja

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「普天間、徳之島移設を問う」2

 南海日日新聞に「『圏内』は政府の詭弁」とする松島泰勝の記事の続き。ぼくの怠慢で、3週間近くも前の記事だが、問題の本質は変わらない。

 私が住んだことのあるグアムでも現在、基地機能の強化が行われていますが、工事を行う企業、労働者の大半は島外に拠点を置いています。基地経済は島を植民地経済にします。

 徳之島に予定されているのはヘリコブター基地ですから、地元雇用も多くないでしょう。米軍基地はアジア憤輿世界情勢によって増減lされるという不安定性を持っています。基地依存の経済が形成されても、基地の削減時は一気に基地はなくなるでしょう。その時、島経済は大混乱となります。基地と補助金は「アメとムチ」に例えられますが、実際は「アメ」ではなく、「毒、麻薬」です。一度依存すると、それから脱して正常に戻るのが大変困難です。その意味で、徳之島は重要な選択を迫られています。

 基地により島外から投下されたカネによる小さな「経済効果」によって、多くの島の宝を失うことになります。その最大のものは、島の自治力の減退です。島外からカネが投じられ、カネの使い方を島外企業が決める。不労所得が入り、勤労意欲がなくなり、遊技場などで遊ぶ人も増えてくる。自らの頭を使い、互いに協力し合って島の自立を実現しようとする自治の力が失われたら、島は植民地そのものになってしまいます。

 徳之島では騒音問題が心配されていますが、基地は多くの被害を人間に与えます。暴行、殺人、ひき逃げ、酒気帯び運転、強盗、市街地へのヘリコプター墜落等、あらゆる犯罪や事故を米兵、またその家族が起こします。
その根底には米兵による民族差別があると思います。優越意識を持った米兵やその家族と同じ島で生活するのは精神的にもストレスが高まります。

 その他、基地内で使用される有毒物質の土壌汚染、川や海の汚染もあります。さらに、面積が狭い島では住民が移動できる場所も大きく限定され、島生活での閉塞感が高まります。

 もし戦争になったら、米軍基地のある徳之島は敵国から狙われる存在となります。ミサイルを撃ち込まれるかもしれません。敵軍が上陸したらl狭い島ですから住民も必ず戦争に巻き込まれ、多くの犠牲が出ます。狭い島々での戦争は必ずこの日ようになります。琉球、太平洋諸島における戦争の経験が示しています。l防衛省は離島防衛を重視し、海洋基本法を制定することで海や離島を守ろうと日本政府は考えています。

 つまり南の島々に日米両軍の基地、拠点を置く動きが活発に進められているのです。日本の最西端、与那国島にも自衛隊を配僻しようと鳩山政権は狙っています。琉球弧を戦場にしようとしています。「沖縄戦」のように、日本本土を守るために、琉球弧に戦場を限定しようという国家戦略です。

 琉球弧の全住民は、基地にリンクした補助金が「アメ」という幻想、「県外」という幻想を打ち破り、日本本土のために琉球が犠牲になるような歴史に終止符を打つ必要があると強く思います。

 「基地経済は島を植民地経済」にするという提言は、沖縄の経験から生まれた言葉だ。ぼくたちがその経験を生かすとしたら、充分にシミュレーションしなければならない。

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2010/05/04

「米軍基地の県内移設に反対する鹿児島県民総決起集会」チラシ

 5月8日に鹿児島で計画されている普天間基地県内移設に関する決起集会のチラシをいただいたので紹介する。

 ただ、チラシに付されているメッセージ案には違和感を抱かざるを得ない。

 「徳之島は鹿児島の宝」って、一体いつそうなったのか?
 実行委員会は、鹿児島発のものだろうか? そうなら、徳之島を「宝」扱いしたためしがあったのか、と半畳を入れたい。奄美発のものなら、このメッセージは鹿児島に向けているように見える。そうでなければ、窮地に至っては鹿児島に寄りそうという、あまりにご時勢主義ではないだろうか。

 それ以上に、なぜここに、「沖縄の米軍基地に反対する」という言葉が無いのだろうか。

 残念だが、このメッセージ案?には、切実さを感じない。いや、切実に違いないけれど、底が浅く見えてしまう。当日、そうではないことを願う。


Tokunoshima1
Tokunoshima2

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2010/05/03

『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』

 『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』は、大島が中心なので、身近ではないものもあるけれど、多くが与論でもそうしていたに違いないと思われるものや、自分たちも食べたり話に聞いたことのある食の話題が満載なのが楽しい。

 ごく私的な素材を挙げれば、たとえば、酢。

 酢

 『遠島録』 に酢が出てくるのは一回だけ、藁永三年五月八日、小宿の藤由気さんの家に初めて着いた時のご馳走メニュー(八九頁) の中に、魚の切り身に「酢かけ」とあるものです。刺身に酢をかけたものと思われますが、奄美では現在も同じ食べ方をします。はじめは、ちょっとびっくりしましたが、沖縄でも酢醤油を使いますし、刺身にレモンを添えたり、スダチやカボスを絞るのは一般的なことですから、考えてみれば特に珍しがる必要はないのかもしれません。

 これなど、ぼくは驚かれたことに驚いた経験のある口で、刺身は酢をかけて食べるものだと思っていた。島を離れて醤油をかけて食べたことの方が圧倒的に多くなっているが、今でも島で「酢かけ」の刺身にありつけると、やっぱりこっちのほうが美味しい、刺身はこうでなきゃ、などと思ってしまう。

 『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』は、「主食と野菜」、「魚介と肉」、「嗜好品と調味料」、「菓子」と、幕末奄美の食が丹念に網羅的に記されているので、体験に通じるものから、蘇鉄を調理したものなど、見たことはあるが食べたことはないものまで、目の前に出されたように楽しめる。

 今では与論のレストランのメニューにもあるから昔からある風になっている鶏飯。ぼくは大島で初めて食べたのだが、その時に薩摩の役人をもてなすために編み出されたものという豆知識を得て、それ以上の認識を持っていなかったが、今村は、和食の系譜、外来の系譜をどちらも辿っていて、ぽんと飛び出してきた食ではないだろうことを示唆している。

 チキンライスが伝来した時代ははっきりしませんが、江戸時代には広く食べられていたのは確かでしょう。その後の変遷について想像をたくましくするならば、冷や飯を食べることが減るのに伴って徐々に汁かけ飯が衰退、鶏飯もあまり作られなくなったが、奄美や沖縄では、その風土と歴史の中で、工夫を重ねて作りつがれ今に至った、という印象です。残った理由としては、おもてなし料理としての地位を確立したことがあげられるでしょうか。また、鶏の脂たっぷりのご飯というのは、日本人にはちょっと重たかったのかもしれず、白米にチキンスープをかけるアレンジがポイントになったかもしれません。豚の炊き込みご飯からのアレンジである、という伝承もありますので、より「あっさり」と軽く作る工夫があったのでは?などと考えたくなってしまいます。

 こうした広い食の系譜のなかで考察されると、薩摩の役人の接待料理という浅薄な理解しかなかった者には、鶏飯がさらに美味しくなること請け合いである。

 今村の視線は優しい。

 鶏は、日記に七回登場しており、そのうち明らかに料理として出てくるのは五回です。この日、船頭さんが煮ていた鳥の汁は、トリンシルと呼ばれるスープだと思われます。素麺を入れたりもするそうです。美曝しそうですね。
 別の日にも帰り際に、ほかの人と同じように肉を分けて貰った左源太さんは、ただただ申し訳なく思った、と日記に記しているのですが、捕らえた宍を皆で分けることは、現代でも行われているようです。しとめた人、狩りに参加した人はもちろんのこと、見物に訪れた人達にも何分かの分け前が渡されます。なんともやさしい習慣ですね。

 今村は時折、彼女のブログのように、読者に話しかける。ぼくたちは思わず、うんうんと頷く。奄美の書物といえば、ぼくもそうだが、苦難にあえぐ奄美像か、その反動として、意外にそうでもなかったとする無理やりな逆像にであうことがしばしばだが、薩摩の役人の目を通してとはいえ、ここにはそうした通念を立ち止まられるものがある。

 それは、薩摩武門の常からすれば、ありえないほど等身大の視線を奄美に向けた名越左源太という人物の残した書が原典になっていることはもちろんだが、それこそ、おっかけのように左源太の見聞きしたことに寄りそう今村の共感力に寄るところが大きい。批評や協働による作品形成ではときにあることだが、相手にほれ込み、その相手になりきって、思わず余剰の何かを加えることがある。左源太と今村は異性だから、なにきるというより、相方としてよりそい、漫才のボケとツッコミのように、今村が合いの手を入れていく。もちろん、左源太がボケ役である。このかけあいのようなやりとりを文中から思わせる優しさはこの本の本領であり、読む者は自然に、奄美を好きになっていくのではないだろうか。

 一方で『遠島録』に砂糖が頻繁に出てくることも事実です。また、『遠島録』にも登場する島の役人、美應統さんにまつわる数々の伝承の中には、畑仕事や砂糖製造を手伝いに来た親戚の子どもたちに、砂糖や砂糖黍をたくさん土産に持たせた、というものがあります。これらは、富裕な島人たちに限られた例外的なことであったのだろうとは推察されます。しかし、砂糖を使ったお菓子や料理が伝統的に存在することなども考え合わせれば、厳しい支配下にあってもなお、島の人たちはしたたかに、砂糖のある暮らしをしていたのではないかとも思うのです。

 ぼくは奄美は、まだ内側からしか開かない扉を持っていると思っている。ときに、奄美は思っているほど過酷ではなかったとか、薩摩には薩摩の事情があったと言われることがある。そういうとき、こだわり過ぎていることに内省が働くのと同時に、それを言うために捨象されるものの前に立ちつくしてしまう。それを言うために、多くのことをぼくたちは知り、解決していかなければならない。そう考えるからである。それは内側からしか開かない。外側から相対化されても、鎮まるものではない。

 だから、第一義的には奄美の人の手によってなされなければならないものだ、とぼくは思う。しかし、では内側から開くとは出身者にしかできないかと言われれば、そうではない。ただ、多くの場合、そうはいかない。内在が不足しているのに容易く相対化されやすいからだ。『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』は、出身者の手によるものはないが、内側からそっと扉を開ける手になっているのが嬉しいところだ。それは、左源太おっかけの今村が、好奇心と好きという眼差しで奄美の食を通過し、またその途上にあるからだと思う。次の報告が楽しみである。

P.S.
想像に難くないが、この本を読むと、お腹がすくし、奄美料理が食べたくなる。ご注意を(笑)。

9784861241819


 

7.小説、批評はどこに | | コメント (4) | トラックバック (0)

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