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2010/04/22

『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』

 一族史に過ぎないものを奄美史として書いたのは『名瀬市史』における大山麟五郎だったが、大江修造の『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』は、その更新版である。もっとも一族史を奄美史に拡大するのは錯誤でしかないという意味では、更新される必要のないものであり、むしろ奄美にとって脱すべき課題であるというべきである。市場に流通する必然性はない。これにあるべき姿があるとすれば、一族の人々へ私家版としてあるいはコピーで渡して自身の誇りへとつないでくれるよう託すことだ。さりげなく控えめに、がこの手の生命線だと思える。

 大江は、奄美は薩摩の直轄支配にあったとしながら、間接支配であったと書いている。ぼくは、薩摩は琉球を間接支配したが、奄美は直接支配していたと理解している。なぜ、奄美は間接支配であると認識するのだろう。

 大江は書いている。

 例えば、奄美では「みしょれ」といえば「食べてください」という意味であるが、これは「召し上がれ」が耽ったものである。あるいは「おがみしょうらん」は「今日は」にあたる挨拶の言葉であるが、「拝み候」が耽った結果である。このように奄美方言は薩摩方言とはまったく異なっているから、薩摩藩の人間が奄美の人間とコミュニケーシ ョンをとることは不可能であった。すなわち薩摩藩による直接支配が困難なのである。
 さらに、薩摩藩の侵攻時、すでに奄美には優れた為政者がいた。薩摩藩はこの為政者に奄美の支配を委託した。すなわち、これまで述べたように、薩摩藩は奄美の為政者による間接支配を行ったのである。

 短絡である。奄美の方言と薩摩の方言が訛りが異なる程度のものであれば、コミュニケーションは不可能ではない。西郷はじめ多くの流人が奄美で生活することができたのは、コミュニケーションができたからである。もちろん奄美は島嶼のなかでも七島灘という難所が控えており、薩摩による日常的な通交は困難だった。しかし、薩摩武士が直接、奄美に赴き支配をしなかったのは、奄美を琉球王国の支配下であるという見かけを作ることが根本的な要因であったと思える。

 この短絡は、奄美に「優れた為政者がいた」ことを導くためのものであり、その「優れた為政者」とは田畑家であり、自分はその末裔であることを示すためと読める。その田畑家は大島北部の土地開墾事業をなしたものとして手放しに礼賛される。この本には、島役人という言葉が出てこないが、田畑家をはじめとする島役人が、島人であるにも関わらず、島人を支配する片棒を担いだ片面はあっさりと捨象されてしまう。これは、薩摩が大江が主張する奄美の黒糖の貢献を明治維新から捨象するのと同じでなくて何だろう。

 これに類する短絡は至る所で見られる。

 薩摩藩は奄美の支配に際し、必要に応じてそのつど命令を発している。そして奄美大島を領地にしたにもかかわらず、本土(薩摩藩本体のこと)との差別化を図った。これは後に明確になることだが、奄美の領地化は砂糖の収奪のみが目的であったからである。

 奄美の直接支配が過剰な薩摩部門の腹を満たすためであったとしても、「砂糖の収奪のみが目的」であったためではない。それは侵略後、見出した結果である。

 明治維新の背後には、奄美の黒糖による財源があったこと、薩摩で褒めそやされる宝暦の治水の背景にも奄美の犠牲のあったこと。こうした薩摩で語られることのない封印された歴史に光を当てようとする志はいい。しかし、表看板を支える根拠は浜の砂ほどにも支えがない。奄美の歴史は薩摩の語りによって掬い上げられないのは言うまでもないとしても、田畑家の功績で語られるわけでもない。田畑家より奄美の島人の存在の方がはるかに大きいからである。

 大江は、家紋まで持ち出して田畑家が源氏の末裔であることを信じ込もうとしている。ここで、もともとの琉球王国との脈絡に加えて日本との脈絡をつけ、それを梃に薩摩批判を可能にしている。従来、どういうわけか奄美の知識人の系譜は薩摩批判を避ける傾向を持ち、たとえば大山麟五郎は、薩摩批判へ向かうべきところで踵を返し、琉球王国に対して過剰な批判を浴びせていた。その大山の神は、島役人の言葉(これは錯誤であることが近年、弓削政己によって明らかにされたのであるが)のなかに強引に見出した日本近代ナショナリズムだった。この大山の痛ましいほどの屈折を大江は免れている。

 しかし、大江の単純図式は薩摩批判を可能にしているとはいえ、大江と同じく一族史に過ぎないものを奄美史とする魂胆をどうしても手放すことができなかったのは同根である。そして、大山の理路のほうが分かりにくいとはいえ、大山のほうが少しくぼくたちには響いてくる。それは大山の屈折が奄美に課せられる屈折の在り方と共鳴しているからである。

 また大江は、田畑家と牧家の諍いのエピソードを挙げているのだが、それによれば、怪我を負った我が子に切腹を命じて仇討ちの理由を得たとしている。それがある種、誇らしげに語られるのだが、ぼくなどは奄美にも殺伐とした武門の論理が輸入されていたのかと思えばぞっとする。大江の奄美支配者像は、奄美の美質からも遠い。

 大江の『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』は、残念ながら、島役人を奄美史のなかでどう位置づけるかという課題が現在形に及んでいることを確認するものでありこそすれ、ぼくたちが立ち止まるべきものを持っていない。どうしてここで歩みを止めることができようか。


     『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり 薩摩藩 隠された金脈』

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