「与論島民移住100周年式典」
与論の島人が大牟田に移住して100年になる。
鹿児島県の与論島民が、旧三井三池炭鉱があった大牟田市に集団移住して100年となるのを機に、同市で4日に開かれた式典には、大牟田を中継地に全国に散った出身者らも集まった。(谷口愛佳、沢井友宏)「大牟田は与論の人を育ててくれた第二の故郷」。関東一円の与論出身者でつくる「東京与論会」前会長、叶(かのう)生二さん(72)(横浜市)は式典に駆けつけ、力を込めた。
叶さんは与論の中学校を卒業後、1953年春から4年間、大牟田で過ごした。島を離れ、炭鉱の荷役として働いていた叔父を頼った。当時、与論はまだ米領。九州に入るにはパスポートが必要で、渡航には手続きを含めて約20日間かかったという。進学のため、大牟田で中学校にもう1年通ってから高校に進んだ。
新婚だった叔父は、叶さんを社宅の同じ部屋に住まわせ、学費など一切の面倒を見てくれた。社宅では多くの人が叶さんの方言を懐かしみ、気にかけてくれた。「みんなが我が子のように接し、支えてくれた」
高校卒業後は就職で関東に移り住んだが、その後も何度も大牟田を訪れたという。今回も社宅跡などを訪ね、知人らと杯を重ねた。
「移住者の苦労と島を思う気持ちがなければ、今の自分はいない。与論と大牟田という二つの故郷がもっと強く結びついてほしい」。そう期待している。
(2010年4月5日 読売新聞)
近代以降の与論にとっての鹿児島が、むきだしの差別感情とそれが生み出す社会構造に向き合うことだったとすれば、大牟田とは、資本制社会が生み出すむき出しの階級構造とそれが生み出す差別感情に向き合うことだったろう。お互いねぎらう場を持つことが、その負性を乗り越えていくことにつながってほしいと思う。西日本新聞は、「百年祭が最後」のつもりだったが、続きへの含みある記事になっている。これが、乗り越えの意志につながればいい。
「炭鉱支えた島人「三池移住百年祭」 与論の伝統 次代へ 誇り胸に踊り歌う 大牟田市」
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