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2010/04/26

「普天間、徳之島移設を問う」1

 18日、南海日日新聞に「『圏内』は政府の詭弁」とする松島泰勝の記事。

 私は石垣島生まれの琉球人です。鳩山政権が沖縄県の「県外」として、徳之島に普天間基地を移そうとしていますが、琉球人はこのような詭弁に納得していません。徳之島は、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島と共通する歴史や文化や自然を持つ、琉球文化圏、琉球弧の仲間であり、明らかに「圏内」といえるからです。

 歴史的に日本は琉球弧、南西諸島を支配と差別の対象としてきました。今から401年前に島津藩は琉球国を侵略し、奄美諸島を直轄領にし、サトウキビ栽培を強制し、奴隷制を持ち込み、激しい収奪の対象としました。1879年に、日本政府は軍隊を導入し、琉球国王を東京に拉致して王国を滅亡させ、日本国の南の領土を拡大しました。近代において琉球人に対する同化、差別政策が実施されました。1945年の沖縄戦では日本本土を守るために琉球は「捨て石」とされ、多くの住民が戦争に巻き込まれ、日本軍による虐殺や集団死の強制が行われました。

 戦後は、日本本土が「平和で経済繁栄」するために、琉球を米軍統治下に置くことを日本政府は認めました。現在も米軍基地の75%を沖縄県に集中させるという差別政策を日本政府は続けています。

 沖縄が日本に「復帰」する前後、沖縄の経済を発展させるためとして、石油備蓄基地、精製工場を沖縄本島と海中道路で結ばれた平安座島に建設しました。日本本土では公害運動が激しくなり、日本政府は石油の国家備
蓄を確保するために、「経済発展する」と約束して沖縄に石油基地を建設したのです。しかし、現在、精製工場は閉鎖され、従業員は解雇され、環境問題も発生し、島の経済は衰過したのです。

 以上のように、日本は長い歴史をみても、琉球弧から政治的、経済的な利益を得るために利用してきたことが分かります。

 徳之島に米軍基地が建設されることで島は発展するのでしょうか。沖縄でも1995年に12歳の少女が3人の米兵に暴行され、大きな反基地運動が発生して以来日本政府は基地がある市町村に対して膨大な補助金を投下してきました。しかし、人口減少、失業率の増加、商店街の衰退、自治体の財政赤字等、地域経済は活性化していません。

 なぜなら、膨大な補助金は日本政府から提供されますが、そのカネは島を素通りし、また日本本土に帰って行くからです。公共事業の半分以上は本土大手建設業が受注しています。また、基地とリンクした補助金により建設された施設やイソフラの維持管理費は、自治体の財政負担となり、結局は赤字財政に陥ってしまい、ますます国からの補助金に依存するようになります。

 松島の言を手掛かりにすると、米軍基地による「膨大な補助金」を奄振の拡大版とみなせば、本土還流の資金と地域経済の衰退という末路は、基地誘致をしなくとも透けて見えるということもできる。


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2010/04/25

「徳之島移設、賛成島民ら20人が協議会結成」

 読売新聞報。

 米軍普天間飛行場の移設問題で、鹿児島県・徳之島への移設に賛成する島民ら約20人が22日に「誘致推進協議会」を結成し、代表者が24日、記者会見を行い、発表した。
 会長は元天城町議会議長の前田英忠氏。今後、平野官房長官に徳之島への基地機能移転を要請するとともに、長官との面会を拒否している島内の3町長に対し、面会に応じるよう求めていくという。(2010年4月24日21時44分 読売新聞)

 これももうひとつの声。

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「首相の座を危うくしている普天間基地の問題…」

 八重山毎日新聞の記事。

 首相の座を危うくしている普天間基地の問題。国内の候補地(既存基地への移転統合も)からは、どこもかしこも示し合わせたような拒否反応が▼いずれの声明も言外に、沖縄の戦後のご苦労を理解し心からの同情を禁じ得ないが、余所(沖縄での継続も)ならともかく自分の所はいやだとの本音が読み取れる。国の優遇策を当てにした誘致賛成も対立の火種を持つ。沖縄だって体験から県外ならどこでもとは言えない▼

 となると専守防衛であれ未来の戦争を想定して平時から備えなくてはならない軍事基地は始めから無いほうが無難ということになる。どんな戦争にも義はなく研究と称して核爆弾を頂点にした兵器の開発、生産、消費が人命の犠牲の上で繰り返されるだけである▼その意味で八重山諸島が国境の地でありながら今日まで基地を持たなかったことは賢明で誇っていいことかもしれない。非核平和都市を宣言、戦争反対、基地不要と意思表示し続けてきた先達の先見の明▼

 同じ戦いでも武器を持たずに競いあうスポーツや芸術文化の交流基地なら誘致にも夢がある。マラソン、武道、音楽、演劇、民俗芸能など計画次第では世界規模の祭典も可能▼くしくも本日は、石垣島ではトライアスロン大会、本島では普天間基地移設県民大会。皮肉な巡り合わせ。(仲間清隆)

 普天間基地移設県民大会の日に。奄美も一色ではないのと同様、沖縄も一色ではない。「八重山諸島が国境の地でありながら今日まで基地を持たなかったことは賢明で誇っていいことかもしれない」という声を心に留めておきたい。


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2010/04/22

『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』

 一族史に過ぎないものを奄美史として書いたのは『名瀬市史』における大山麟五郎だったが、大江修造の『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』は、その更新版である。もっとも一族史を奄美史に拡大するのは錯誤でしかないという意味では、更新される必要のないものであり、むしろ奄美にとって脱すべき課題であるというべきである。市場に流通する必然性はない。これにあるべき姿があるとすれば、一族の人々へ私家版としてあるいはコピーで渡して自身の誇りへとつないでくれるよう託すことだ。さりげなく控えめに、がこの手の生命線だと思える。

 大江は、奄美は薩摩の直轄支配にあったとしながら、間接支配であったと書いている。ぼくは、薩摩は琉球を間接支配したが、奄美は直接支配していたと理解している。なぜ、奄美は間接支配であると認識するのだろう。

 大江は書いている。

 例えば、奄美では「みしょれ」といえば「食べてください」という意味であるが、これは「召し上がれ」が耽ったものである。あるいは「おがみしょうらん」は「今日は」にあたる挨拶の言葉であるが、「拝み候」が耽った結果である。このように奄美方言は薩摩方言とはまったく異なっているから、薩摩藩の人間が奄美の人間とコミュニケーシ ョンをとることは不可能であった。すなわち薩摩藩による直接支配が困難なのである。
 さらに、薩摩藩の侵攻時、すでに奄美には優れた為政者がいた。薩摩藩はこの為政者に奄美の支配を委託した。すなわち、これまで述べたように、薩摩藩は奄美の為政者による間接支配を行ったのである。

 短絡である。奄美の方言と薩摩の方言が訛りが異なる程度のものであれば、コミュニケーションは不可能ではない。西郷はじめ多くの流人が奄美で生活することができたのは、コミュニケーションができたからである。もちろん奄美は島嶼のなかでも七島灘という難所が控えており、薩摩による日常的な通交は困難だった。しかし、薩摩武士が直接、奄美に赴き支配をしなかったのは、奄美を琉球王国の支配下であるという見かけを作ることが根本的な要因であったと思える。

 この短絡は、奄美に「優れた為政者がいた」ことを導くためのものであり、その「優れた為政者」とは田畑家であり、自分はその末裔であることを示すためと読める。その田畑家は大島北部の土地開墾事業をなしたものとして手放しに礼賛される。この本には、島役人という言葉が出てこないが、田畑家をはじめとする島役人が、島人であるにも関わらず、島人を支配する片棒を担いだ片面はあっさりと捨象されてしまう。これは、薩摩が大江が主張する奄美の黒糖の貢献を明治維新から捨象するのと同じでなくて何だろう。

 これに類する短絡は至る所で見られる。

 薩摩藩は奄美の支配に際し、必要に応じてそのつど命令を発している。そして奄美大島を領地にしたにもかかわらず、本土(薩摩藩本体のこと)との差別化を図った。これは後に明確になることだが、奄美の領地化は砂糖の収奪のみが目的であったからである。

 奄美の直接支配が過剰な薩摩部門の腹を満たすためであったとしても、「砂糖の収奪のみが目的」であったためではない。それは侵略後、見出した結果である。

 明治維新の背後には、奄美の黒糖による財源があったこと、薩摩で褒めそやされる宝暦の治水の背景にも奄美の犠牲のあったこと。こうした薩摩で語られることのない封印された歴史に光を当てようとする志はいい。しかし、表看板を支える根拠は浜の砂ほどにも支えがない。奄美の歴史は薩摩の語りによって掬い上げられないのは言うまでもないとしても、田畑家の功績で語られるわけでもない。田畑家より奄美の島人の存在の方がはるかに大きいからである。

 大江は、家紋まで持ち出して田畑家が源氏の末裔であることを信じ込もうとしている。ここで、もともとの琉球王国との脈絡に加えて日本との脈絡をつけ、それを梃に薩摩批判を可能にしている。従来、どういうわけか奄美の知識人の系譜は薩摩批判を避ける傾向を持ち、たとえば大山麟五郎は、薩摩批判へ向かうべきところで踵を返し、琉球王国に対して過剰な批判を浴びせていた。その大山の神は、島役人の言葉(これは錯誤であることが近年、弓削政己によって明らかにされたのであるが)のなかに強引に見出した日本近代ナショナリズムだった。この大山の痛ましいほどの屈折を大江は免れている。

 しかし、大江の単純図式は薩摩批判を可能にしているとはいえ、大江と同じく一族史に過ぎないものを奄美史とする魂胆をどうしても手放すことができなかったのは同根である。そして、大山の理路のほうが分かりにくいとはいえ、大山のほうが少しくぼくたちには響いてくる。それは大山の屈折が奄美に課せられる屈折の在り方と共鳴しているからである。

 また大江は、田畑家と牧家の諍いのエピソードを挙げているのだが、それによれば、怪我を負った我が子に切腹を命じて仇討ちの理由を得たとしている。それがある種、誇らしげに語られるのだが、ぼくなどは奄美にも殺伐とした武門の論理が輸入されていたのかと思えばぞっとする。大江の奄美支配者像は、奄美の美質からも遠い。

 大江の『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』は、残念ながら、島役人を奄美史のなかでどう位置づけるかという課題が現在形に及んでいることを確認するものでありこそすれ、ぼくたちが立ち止まるべきものを持っていない。どうしてここで歩みを止めることができようか。


     『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり 薩摩藩 隠された金脈』

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2010/04/21

『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』発刊

 昨日、南方新社からのお便りで、『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』が発刊されたのを知った。左源太さんおっかけの今村さんの作品だ。

 やったね。嬉しくなり、さっそくアマゾンで注文。届くのが楽しみだ。


1.概 要

タイトル:『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』
著  者:今村規子
仕  様:四六判、263ページ
定  価:1,890円(本体1,800円+税)
発行日 :2010年5月10日
発行部数:2000部
発  行:図書出版南方新社

2.著者紹介

今村規子(いまむら のりこ)
東京生まれ神奈川育ち。株式会社虎屋の菓子資料室・虎屋文庫に勤務し、史資料の保管、展示企画、機関誌発行などに携わる甘いもの好き。『遠島録』との偶然の出合いによって名越左源太に惚れ込み、また、奄美の文化の面白さに目覚めるが、あまりの奥深さに勉強が追いつかないのが目下の悩み。

3.主な構成

第1章 左源太さんと奄美
第2章 主食と野菜
第3章 魚介と肉
第4章 嗜好品と調味料
第5章 菓子


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2010/04/20

「徳之島への米軍基地移設に反対する小さな声」

 本山謙二さんからメッセージが届く。奄美の有志で徳之島への米軍基地移設問題について声明を出したというのだ。メンバーは、大島、喜界島、徳之島、エラブ、与論島の、奄美ゆかりの人々からなる。この時期、タイムリーで重要な内容だと思う。敬して紹介したい。


 「徳之島への米軍基地移設に反対する小さな声
                                               「未知のシマ会有志」

 私たちは、米軍・普天間飛行場の移設問題で、米海兵隊ヘリ部隊の「沖縄県外」の移転先として徳之島が急浮上している問題について、4月18日の「一万人集会」を機に声明(小さな声)を出したいと思います。
 この声明は、奄美の島々のように小さな声を結集させたものです。また、薩摩藩による奄美侵略401年目の始まりの声でもあります。こうした今だからこそ、非服従に徹しながら、非暴力の意思を、そして想像力を働かせ、小さな声だからこそ、大胆にあげよう!と、声明を出すことにしました。
 そもそも、辺野古への基地の移設ということ自体、沖縄への基地の一極集中という、もともとある「差別」を解消するのではなく、積極的に広げて行く方向を持つ自民党の政策でした。そして今回、米軍再編の流れのなか基地を縮小・撤退させるのではなく、民主党政権は、沖縄の「負担軽減」に名を借りて、全国各地に分散させようとしています。その候補地として、徳之島が浮上しました。

(つぶやき。その1:沖縄へ/奄美から)
 まず、考えなくてはならないこと。それは、同じ文化圏(琉球弧)にある沖縄に対し、徳之島への部隊移設問題に奄美は、どのように応えるかということ。なぜなら、私たちは、75パーセントの基地が、沖縄の島人(しまっちゅ/しまんちゅ)へ押し付けられていることを知っているからだ。これ以上、沖縄に負担を強いることはできない。そして、さまざまな声が交差する。

 「有力与党議員のそれぞれの地元ではなく、なぜいきなり奄美(徳之島)なのか?」
 「沖縄では、薩摩藩による侵略の歴史が想起され、ヤマトの琉球への差別は変わらないという論調も出ている。」

 徳之島からは、「同じ琉球諸島の島として、沖縄の痛みを分かち合える部分もあるのではないか?」という声も。
そこでまず、単純なレベルで沖縄を無視し、「反対」だと言うと、沖縄と分離し、ひたすら進められた「復帰運動」と同じ道を進むことになる。またヤマトの琉球への差別という視点に安易に同調した立場や、同じ琉球として痛みを分かち合うという立場をとれば、奄美の沖縄に対して相違する歴史や、それぞれの島の独自性は、消されてしまう。

(つぶやき。その2:未知のシマから)
 そもそも、私たちの会は、自らが「奄美」であると思う有志による集まりです。様々なきっかけからつながっていたものたちの中から、誰からともなく、自分たちの「奄美」のことをもっと知りたい、かかわりを深めたいという声が上がり、ともかく一度集まってみよう!ということから、この集まりは実現しました。そうした前提となっている「奄美」という言葉を考えるとき、一つの疑問がでてきます。それは、「奄美群島」住民の中に統一的な「奄美人」としての共通の捉え方がされているか?ということです。そこで会では、まず喜界島、奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、徳之島、沖永良部島、与論島などの島々の多様性を尊重することからはじめ、それぞれの島の「シマ人」という捉え方をしていると見るほうがより妥当ではないかということなどの理由から、当面「未知のシマの会」ということにしよう!という提案から名付けられたものです。それぞれの多様で具体的なシマからはじめ、未知へと旅する意志を持とうというものです。だからシマの声に耳を傾けたい。

(つぶやき。その3:シマの声)
 徳之島も昨今の不況の中、仕事の欲しい若い層からは賛成意見が多いと聞きます。生活かかっていますから当然の声です。「補助金が入る!土建工事が増える!航空券が安くなれば帰省しやすい!観光事業が盛んになる!」などの声が聞かれます。

 そもそも、辺野古への基地の移設ということ自体、沖縄への基地の一極集中という、もともとある「差別」を解消するのではなく、積極的に広げて行く方向を持つ自民党の政策でした。そこでターゲットにされたのが、平均所得が、全国670市中668番目であった名護市でした。そして、その名護市でもさらに所得差のある東側の辺野古への基地移設でした。その流れで考えるならば、2005年の奄美の一人当たりの平均所得、197万3千円というデータは重要な意味をもちます。(『県民経済計算』より)

 日本全体で見ると、05年の平均所得は、約288万円であり、沖縄県は、鹿児島県が約227万円なのに対し、約202万円でした。つまり奄美は、沖縄県の平均よりも低い水準であることがわかります。
 ということは、今回の移設は、まず沖縄本島のなかで、所得の低い名護市へ、そして東側の辺野古への移設。そしてより貧しい奄美の、さらに徳之島へという構図が透けて見えます。弱者の立場から考えるという民主党政権ですが、結局は、「県外移設」という名目で、より貧しい地域へと暴力的に基地を押し付けていると言えるでしょう。貧しい者への圧迫。これは、単に奄美の問題ではなく、貧困率が上昇している日本社会を考えると、明日の私たちの問題でもあります。
 そしてその地域では、辺野古で見られたように「YES!.NO!」が地域の問題として押し付けられ、人々が内部で争い、暴力的なまでに共同体に深い亀裂を与えます。こうした構造である限り、結局、最終的に残るのは「差別」と「暴力」だけと確信します。
 辺野古への基地の移設という、沖縄への基地の一極集中という、もともとある「差別」を解消するのではなく、積極的に広げて行く方向を持つ自民党の政策に反対すると同時に、米軍再編の流れのなか基地を縮小・撤退させるのではなく、より貧しいものへ負担を強いるような民主党政権のやり方にも深い憤りを持って反対します。
私たちは、基地を誘致せずに、それぞれの島々が自立することを願い、非服従に徹することで、非暴力の意思を、そして想像力を働かし、シマから「基地のない世界」を真剣に夢想しながら、小さな声だからこそ大胆にあげよう!と、今回、声明を出します。

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2010/04/18

160Q時制からの脱出

 『1Q84 BOOK 3』は、主人公の二人が1Q84年を脱出して1984年に帰還するところで終わる。入ってしまった入口を出口として逆から辿り直すことによって。

 強引な引用だけど、奄美は、奄美が160Q時制から脱出するのはいつ、どのようにだろう。仮に徳之島への基地移設問題を160Q時制から生じるものと捉えれば、隣の沖縄島も160Q時制の中にいるのが分かる。あるいは加計呂麻島の伐採計画もそうかもしれない。

 しかし二人の主人公が帰還した1984年が、もとの1984年ではないことを示唆して終わるように、160Q時制からの脱出は、現在の2010時制のなかにはないと思える。少なくとも、そこは「近代」ではない。


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2010/04/11

401年問題

 4月11日現在、普天間基地の移設問題について、その一部を徳之島に移設するという案は現実味を帯びてきた報道がなされている。

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で、米海兵隊ヘリ部隊の移転先として徳之島が急浮上している。「沖縄県外」への移転を目指す鳩山由紀夫首相の「腹案」とみられる。(「南日本新聞」)

 ぼくがこの問題でもっとも考えあぐねるのは、同じ琉球弧にあり沖縄へ親和感を抱く者として、奄美は徳之島への基地部分移設問題にどのように応えるかということだ。それは、沖縄の島人負担が相当なものであるのを知るなら、それを引き受けたい気持ちが心情的に働くということだ。少なくともそうした声がなければ、やむを得ない理由があったにせよ、敗戦後の占領統治を経て、沖縄とは分離行動を起こし、しゃにむに復帰へと躍起になった奄美を一歩も脱していないと思えるからだ。

 4月6日の南海日日新聞では、「「地元ないがしろ」と怒り」という見出しで、「徳之島へのヘリ部隊の大部分移設」へ向けた政府の行動があるとする報道を受けて、住民無視であるとする地元の反撥の声を挙げているが、ぼくが注視するのは、そこに「沖縄の痛みを分かち合える可能性」という文言だった。

 これに対し、同市の会社員男性(47)は「難しい問題。政府には早急に公式見解を示してほしい」としながらも「同じ琉球諸島の島として、沖縄の痛みを分かち合える部分もあるのではないか」と、移設に一定の理解を示した。

 ぼくはこの声を読み、安堵するように心が動く。こうした心情を奥底に持たない反対運動は虚しくすら思える。3月28日には徳之島で基地移設反対集会は4200人の規模に上ったと伝えられる。ここにぼくも行きたいと思うが、一方で、その場で弁を奮った自民党議員の小池百合子は、ツイッターで、

明日は鹿児島・徳之島へ飛びます。米軍基地の徳之島への移設反対郡民大会出席のため。徳之島町、伊仙町、天城町はすでに反対決議済み。ちなみに自民党は現行案です。

 こう言明している。「現行案」を提示する小池のツイッター・アカウント名が ecoyuri なのは鼻白むしかないが、問題は小池を反対集会の演説に立たせたということだ。ぼくが主催者なら、小池を招くことはありえない。奄美は、こうした見識を持った反対をすべきではないのか。

 しかしそれなら奄美は沖縄への親和感から基地負担を引き受けるべきかと言えば、そうすべきだとぼくは言い切れない。ぼくは基地を引き受ける徳之島から声を発しているわけではなく、地元の住民の声がまず無ければならないと思う。しかも、一個の人間性に基づいた政治的な体制は社会主義国家の推移を振り返っても、まるで反対の結果しかもたらしてこなかった。

 徳之島でも賛成の声はあるが、それももっぱら経済的な理由に依るものだ。それが理由であることは理解できるし、ある意味では、奄美が復帰運動をした際と変わらない根拠だと言えよう。近代奄美の負荷の問題は現在も終わっていない。

 政府は、普天間基地移設問題の最後の砦を「県外」と見定め、もっともやりやすそうな場所として徳之島を選択しているように見える。というか、そのようにしか見えない。しかし、徳之島は大和の異集団とみなされた、琉球(呼び方はともかく)の一員にあり、薩摩の琉球侵略によって、大和圏内に入れられながら、非大和とみなされてきたところだ。内側からみれば、徳之島への移設案は、県外だが圏内への問題を浮上させる。問題を琉球圏で処理する動きは、沖縄の基地問題を国内化させないという文脈を生み出すのだ。

 ここから見れば、日本の歴史的な負荷を、琉球を始めとする少数者に背負わせるという近代の限界を強化してまうことになるだろう。そして、島人から見れば、あの、虐げられて当たり前という諦念を永続化させて、失語を増産し奄美をふたたび沈みこませてしまうしかない。

 基地は撤去が理想である。それには段階が必要であるとして、国外、県外の選択肢がやってくる。そのビジョンは見えるだろうか。

 引用した南海日日新聞の記事の横には、17日に鹿児島で基地移設の反対集会が開かれてることが書かれている。

政府に求められているのは普天間飛行場の無条件撤去、基地のない沖縄を目指す本腰の対米交渉である。

 ここに日本が主権国家であるかどうかのひとつの部隊があり、それを改めてぼくたちは見せつけられている。奄美もどのような声を挙げるのか、試されている。これは奄美の401年問題である。


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2010/04/07

県外だが圏内で

 6日の沖縄タイムスに徳之島の情況が詳しく出ている。

 「「県境」の島 浮上に憤り 徳之島ルポ」

 候補地に突然浮上してから2カ月余り。沖縄県外移設を重視する鳩山由紀夫首相が抱く「腹案」に、島民は神経をとがらせる。

 「徳之島は『県外』といっても、『県内』が『県境』になっただけじゃないか。小さな島に負担を押しつけるのは絶対に許されない」。島の南部にある伊仙町の大久保明町長は、憤りを隠せない。

 「県内」が「県境」になっただけという表現は、「県内」が「圏内」になったと言うほうが事の本質を明らかにする側面がある。沖縄県を琉球圏に拡張したということだ。「徳之島分散案にすがる首相、地元は反発強まる」と読売新聞が書くように、鳩山首相にとっては「県外」をなんとしても実現したい苦肉の策であるかもしれないが、まるでおはじきのようだ。

 近代民族国家としての日本は、島嶼がその理念が途絶えやすい場所として島嶼制度を軽視してきたが、琉球弧はなかでも、島嶼のなかの島嶼であることによって、あるいはそれ以上に異族という見なしによって、その矛盾を負わせやすい傾向は絶えない。

 沖縄タイムスも賛成派の存在を指摘するように、鳩山首相も賛成派を梃に、あるいは当てにして正当化を図るつもりなのかもしれない。しかし、日本が主権国家であるなら、そして鳩山首相が対等な日米関係を、と謳うなら、基地の撤去という理想を道しるべにした交渉をすべきではないだろうか。冷戦後の世界にあって冷戦期の行動型しか採れていない限界がここにあるよいうに見える。

 一方、「沖縄の痛み 今わが身に」と沖縄タイムスは見出しのサブに書く。奄美は歴史を反芻しながら自問自答する。


 

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2010/04/06

「沖永良部島における米軍基地拡張反対運動」

 5日の南海日日新聞の「談論」、「沖永良部島における米軍基地拡張反対運動」。

 3月28日、徳之島で米軍基地移設に反対する4千人規模の郡民大会が開かれた。半世紀前、知名町において米軍基地の拡張を阻止した町ぐるみの反対運動があったことは、『知名町誌』にも記されていない。半世紀前の米軍基地拡張反対運動を紹介することによって、徳之島への米軍基地移設問題を考えたい。

 1956年2月5日、田皆小学校に約3千人の町民が結集し、米軍基地拡張に反対する総決起大会が開かれた。占領時代、大山頂上に米軍基地が建設されていた。第313師団(嘉手納基地)の指揮下にある大型レーダーサイト・ネットワーク(沖縄本島南部与座岳、久米島、宮古島、沖永良部島)の一つである。恒久的な軍事基地の建設を沖縄に進めていた米国は、沖永良部島の西海岸(田皆地区)に滑走路と浮桟橋の建設を計画した。

 徳之島で普天間基地移設反対の集会が開かれたのは記憶に新しい。でも、沖永良部島でもその人口からすれば大規模な「米軍基地拡張反対運動」があったのは、奄美でも同時代体験をしていなければ知られていないのではないだろうか。

 奄美の場合、自身の復帰ですら驚くべき史実として知る。沖縄の場合、沖縄復帰はきっと教育過程で知るだろう。奄美では、沖縄の復帰を教育過程で知るが、奄美の復帰は教育過程の後に自覚的な探索の結果、知ることになる。驚きは二重だ。奄美も沖縄と同じ命運を辿ったのかということと、それを今ごろ知ることになるのか、ということと。

 それだから、

 当時、砂川闘争(東京都立川市)に代表されるように、全国各地で米軍基地建設(拡張)のための土地の強制接収に反対する住民運動が起きていた。沖縄は、武装米兵によって農民が土地から追われ、農地の強制接収があいついだことによって、島ぐるみの土地闘争の最中にあった。知名町における米軍基地拡張反対運動は、現代史(戦後史)の中に位置づけるべき闘いである。

 と前利潔が書くように、穏やかな島民性が想像される沖永良部島でも米軍基地拡張反対運動があったことは知られていいことだ。

 米国が世界的に進めている米軍再編における日本の位置づけは、必要な時に日本を兵站補給、部隊展開の前進拠点にすることだといわれている。普天間基地に所属する海兵隊は上陸急襲部隊という、最前線の部隊だ。後方部隊であった沖永良部島の米軍基地の性格とは、正反対である。また米国にとってみれば、思いやり予算などで、他国には例のないほどの基地経費を負担してくれる日本国内の基地の権利を手放したくないのだろう。民主党政権は、半世紀以上も続いた自民党政権による対米従属を転換し、普天間基地の県内・県外移設ではなく、即時撤去を米国に求めるべきではないか。

 同時に、徳之島へ波及している普天間基地移設問題は、奄美にとって沖縄が他人事ではないことを感じる契機にすべきなのだと思う。


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2010/04/05

「与論島民移住100周年式典」

 与論の島人が大牟田に移住して100年になる。

鹿児島県の与論島民が、旧三井三池炭鉱があった大牟田市に集団移住して100年となるのを機に、同市で4日に開かれた式典には、大牟田を中継地に全国に散った出身者らも集まった。(谷口愛佳、沢井友宏)

 「大牟田は与論の人を育ててくれた第二の故郷」。関東一円の与論出身者でつくる「東京与論会」前会長、叶(かのう)生二さん(72)(横浜市)は式典に駆けつけ、力を込めた。

 叶さんは与論の中学校を卒業後、1953年春から4年間、大牟田で過ごした。島を離れ、炭鉱の荷役として働いていた叔父を頼った。当時、与論はまだ米領。九州に入るにはパスポートが必要で、渡航には手続きを含めて約20日間かかったという。進学のため、大牟田で中学校にもう1年通ってから高校に進んだ。

 新婚だった叔父は、叶さんを社宅の同じ部屋に住まわせ、学費など一切の面倒を見てくれた。社宅では多くの人が叶さんの方言を懐かしみ、気にかけてくれた。「みんなが我が子のように接し、支えてくれた」

 高校卒業後は就職で関東に移り住んだが、その後も何度も大牟田を訪れたという。今回も社宅跡などを訪ね、知人らと杯を重ねた。

 「移住者の苦労と島を思う気持ちがなければ、今の自分はいない。与論と大牟田という二つの故郷がもっと強く結びついてほしい」。そう期待している。

(2010年4月5日 読売新聞)

 近代以降の与論にとっての鹿児島が、むきだしの差別感情とそれが生み出す社会構造に向き合うことだったとすれば、大牟田とは、資本制社会が生み出すむき出しの階級構造とそれが生み出す差別感情に向き合うことだったろう。お互いねぎらう場を持つことが、その負性を乗り越えていくことにつながってほしいと思う。西日本新聞は、「百年祭が最後」のつもりだったが、続きへの含みある記事になっている。これが、乗り越えの意志につながればいい。

 「炭鉱支えた島人「三池移住百年祭」 与論の伝統 次代へ 誇り胸に踊り歌う 大牟田市」


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