与論なまじら歴史
もともとは珊瑚。それが積もってゆっくりゆっくり浮上したので琉球孤のなかでも遅まきに仲間入り。浮いては沈み、沈んでは浮きを繰り返したため、ハブは島の主になれなかった。代わりに島の主になったのはアマン(ヤドカリ)であり、今も人、牛を抑えて島の最大生息数を誇る。
島が浮いたころ、アマミクとシニグクの二神が、ハディピキパンタに舟を引っかけたのがきっかけで本格的な島となる。
島の名はユンヌ。寄りものが集まるとか、弓の形をしているとか、諸説さまざまだが、ユンヌの由来は不明。一説にはユナ(砂)から来た砂の島だという。
内外からユンヌと呼ばれてきたが、琉球王府と薩摩藩が漢字をあてることになって、ユンヌでは適切な漢字がないため苦労する。與留濃などと表記してみるが座り悪く、当時、地名の語尾に「論」や「連」と付けるのが流行ったのにあやかり、由論となり、五母音化して「与論」で落ち着いた。
近代も「与論」で登場する。しかし、そのときには既に奄美諸島の一部だったが、島民はピンと来ておらず、奄美に含まれていることを知ったのは戦後であった。いまも、島民は奄美と言われてもピンと来ないという。
奄美の復帰以降、日本の最南端の島として位置づけられる。脚光を浴びたのは沖縄の日本復帰運動が激化して与論に訪れる人が多くなったときだ。極度の人見知りの島民はこのとき、旅人と一夜で仲良くなる方法として、与論献奉を編み出すが、現在もその効力は衰えていない。なお、大和の人をヤマトゥンチュと呼ぶが、歓待の意を込めて、タビンチュ(旅人)と呼ぶことが多くなるのもこの頃と思われる。
与論は「東洋に浮かぶ一個の真珠」としてその美しさの呼び声が高くなる。このタイミングで、与論はヨロンと改名したらしい。ヨロンへの改名と機をいつにして、東京都ヨロン町とも呼ばれるようになる。このときヨロンは東京近海まで近づいたと思い込んでいる人もいるが定かではない。また、あまり知られていないが、ヨロンへの改名と同時に、ヨロン島(とう)と呼称も変更している。
このころからヨロンの浮遊癖は露わになり始める。海外ブームが流行りになると、ヨロンは、モルジブやプーケットの近くにあると言われ始めたが、これも定かではない。島民に聞いても、「周りはいつも海だよ」と言うだけで一向にはっきりしない。
所在不定に業を煮やした町は、独立を画策。1983年、ついにパナウル(花と島の)王国として独立。ギリシャのミコノス島と姉妹契約を結ぶ。勇んだ独立だったが、パナウル王国の知名度はいまひとつ上がらず、世間は今もヨロン島と呼びならわしている。しかし王国府はこれを認めず、パナウル王国は依然、独立を主張し続けている。
ヨロン島の知名度も一定のまま、観光も下火となり、静かな島を取り戻しつつあった1997年、映画『めがね』によって、ヨロン島は、「この世界にあるどこかの南の島」と位置づけられ、ふたたび所在不定癖が再発する。今回は、海外というにとどまらず、「この世界のどこか」と、ますますはっきりしなくなった。パワースポットが流行るのを横目に島はたそがれスポットとして脚光を浴びつつあるという。
現在、パナウル王国府では、「この世界のどこか」に対応する改名をすべきかどうか検討に入りつつあるというが、これも定かではない。
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コメント
ゆる~い語りが心地いい
投稿: kemo | 2010/03/22 21:18
kemoさん
ありがとうございます。もっと楽しくしていきます。(^^)
投稿: 喜山 | 2010/03/31 23:00