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2010/03/02

「『アイヌ』なる状況」

 この文章は1973年、いまから37年前のものだ。しかしここにある認識は現在に射程を持っている。

 「アイヌ」なる者が生み出す共同的意識、つまり「アイヌ」なる者の自らの内にある〈日本〉とは何か? それは例えばしばしば耳にする「アイヌであることに誇りを持とう!」という類の発想にも潜んでいる。

 誤解を避けるために、敢えて言っておこう。「アイヌであることに誇りを持とう!」と叫ばざるをえない心情がどのようなものか、私は知っている。否、知っているというよりも、その心情はむしろ私の心情である。「おまえはアイヌである」という宣告によって、自分の全ての性向・所作・容姿・能力等が予め決められており、遂に人々に伍すことは不可能だ、と思い込んでしまった者が、たとえそれがどんなものであっても、誇りとなりえそうなものが提示されれば、一気にそれへ雪崩れてしまうのを、私の心情から遠いものであるかのようには振舞えない。

 ぼくたちも同感する。奄美であることに、与論であることに誇りを持とう、と。そういう心情を訴えたい気持ちは他人ではない。

 けれども、ある主張の底にある心情が尤もなものだからという理由で、その主張の当否を不問に付したり、かえって心情を宜しとするが故に、その主張を積極的に肯定するとしたら、私は無限にセンチメンタルな、被害者意識の怪物にならざるをえないだろう。「アイヌ」に関わる発言が、己れが「アイヌ」であるということにだけ正当性を確保していたり、「シャモ」であるということだけで罪責を担っていたりするのを、非としなければならない。今や徐々に声高に発言する者が増えてきているが、少なからぬ者たちの発言には、単純な被害←→加害の図式が潜んでいる。それこそ、断罪←→贖罪という、素朴であるが故に模糊たる心情レベルへ、質されるべき問いと解かれるべき答えとを、移し消してしまうものであろう。

 この認識は現在も自明のものになってはいない。共同性を口にすることが即座に正当性やあるいは劣位を含意してしまう。それが「質されるべき問いと解かれるべき答え」を見えなくさせてしまう。

 さて、「アイヌであることに誇りを持とう!」という言いかたに潜む発想とは何か?一言で言えば、己れが所属する血統集団に何らかの価値を付与して、己れがそれに所属するというそのことだけで、己れの存在に価値を付託せんとする発想である。これはこの〈日本〉の根幹的な発想の一つと全く同じである。よしや、この発想が、所謂人種差別・民族差別のどの場合にも見られ、必ずしも〈日本〉独自のものでないとしても、発想の具現のしかたー例えば政治制度の権威の頂点に天皇を乗せ続けていることや、天皇の権威牒由来の説かれかたのように-は、〈日本〉の〈日本〉たる所以であると言ってよいはずであろう。

 だから、「アイヌ」であるそのこと自体は、別段誇るべきことでも卑しむべきことでもない、ということを確保しておかない限り、「シャモ」であるそのこと自体を「アイヌ」に誇り続けてきた〈日本〉の側にある人々と、「誇り高い」「アイヌ」とは、全く同じ列に組みするのであって、遂には血統の優劣を競いあうことでしか、相互の関係を整えてゆけなくなるに至るだろう。そのとき、「アイヌ」は「シャモ」の発想-この〈日本〉の発想をもった「アイヌ」でしかない。

 「「アイヌ」であるそのこと自体は、別段誇るべきことでも卑しむべきことでもない」。ぼくもそう思う。しかし、「「シャモ」であるそのこと自体を「アイヌ」に誇り続けてきた〈日本〉の側にある人々と、「誇り高い」「アイヌ」とは、全く同じ列に組みする」とは必ずしも言いきれない。「アイヌであることに誇りを持とう!」という発想は、それが共同化されてゆけば、ナショナリズムとして他との優劣を競う関係を持ちたがるが、その根底には、自分を育んだ共同性に対する素朴な信頼感や愛情が潜んでいるのであり、それは否定されるべきでも特異なことでもなく、自然なことである。

 だから、「「アイヌ」は「シャモ」の発想-この〈日本〉の発想をもった「アイヌ」でしかない」とは言い切れない。この発想の根底はむしろ普遍的なものだと言うべきである。

 このような〈日本〉の発想を不知不識に抱え込んでいる者こそ、〈日本〉の意識へ同化しつつある者である。この〈日本〉の施政者たちが推し進めてきた同化政策の真底の恐ろしさは、ここにあるのだ。この〈日本〉に屈服せず、抵抗し、打倒しようという意図の下に、様々のことばで「アイヌの復権」が叫ばれているが、自らの内に浸透している〈日本〉を対自化できない限り、それらの主張は、敵とみなしている当の相手の裏返しにすぎない論理だということを知りえない。例えば、「アイヌ共和国」という轟感的なアドバルーンを掲げた者へ追従する「アイヌ」なる者たちには」次のように言っても何のことかわからないだろう。即ち、君たちの「アイヌ共和国」にも必ず「異民・異族」は創り出されるだろう、と。

 佐々木の内省にぼくは共感するけれど、内なる「日本」を対自化せよというメッセージはアイヌをがんじがらめにしてしまう。この発想は日本のものだとしても、ひとつ日本のものだけではない。共同性のある段階では誰もが持つ普遍的なものだ。「君たちの「アイヌ共和国」にも必ず「異民・異族」は創り出されるだろう」そのことは真理だと思うし、それゆえ琉球共和国であれ奄美の独立であれ、そこに積極的にコミットを躊躇させる理由がそこにある。しかし、それを希求せざるをえない必然性を持つ段階はある。ぼくたちはもっと底のほうからゆったり構えていく必要があるのだ。


『幻視する“アイヌ”』(佐々木昌雄)

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