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2010/03/28

「米軍基地徳之島移設反対群民大会」

 minamikaze123さんがツイッターで中継してくれた「米軍基地徳之島移設反対群民大会」。

 「全国運動に 奄美の同朋よ、今結集を!!」と呼びかけている。

米軍基地移設反対集会すでに 人 人 集結しています

米軍基地徳之島移設反対群民大会

米軍基地徳之島移設反対群民大会 2

米軍基地徳之島移設反対群民大会 3 報道各社も集結この模様は本日中に全国に報道されます。島は断固売らない!

米軍基地徳之島移設反対群民大会 4

米軍基地徳之島移設反対群民大会 5

米軍基地徳之島移設反対群民大会 6

 この場での発言ではないが、群島の議長会長の言。

 群島の議長会長を務める町田末吉・与論町議会議長は、「奄美は一つ、との思いから群島民の危機感は強い。沖縄の痛みは承知しているが、集会などの行動で、奄美の思いを強く内外に訴えたい」と述べた。(反対の動き広がる 西之表で集会「静かな郷土残す」3月27日 読売新聞)

 「沖縄の痛みは承知している」という発言は、与論らしさが出ているが、ここに言及できるなら、沖縄の負軽減、解消も、同時に言及してほしいと思う。


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2010/03/26

「何をされようがたたかれようが」

 普天間基地問題で、徳之島や馬毛島が具体的な移設先として浮上してきている。

 平野博文官房長官は25日午後、鹿児島県の伊藤祐一郎知事と首相官邸で会い、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題に関して「地元を守る立場は理解するが、沖縄の負担は全国に分散しないといけない」と沖縄の負担軽減に理解を求めた。具体的な移設先には言及しなかった。

 伊藤氏は徳之島や馬毛島など鹿児島県内への移設断念を求める要請書を渡し、「県民は絶対反対で基地を受け入れる状況にない」と重ねて撤回を求めた。面会には徳之島を抱える地元首長らも同席した。

 平野氏はこれに先立ち連合沖縄の仲村信正会長とも面会。県内移設は容認できないとする仲村氏に「何をされようがたたかれようが、政府の責任で決断する。日本全体の問題だ」と語った。(「「沖縄の負担を全国に分散」普天間移設で官房長官が鹿児島知事に」産経新聞3月25日)

 「何をされようがたたかれようが」。歌謡曲か。今更になって開き直られても困惑するというものだ。そういう態度なら前政権と変わらないではないか。いや沖縄県外にする点で、前政権と異なるということだろうか。しかし、「日本全体の問題だ」と言いつつ、沖縄の周辺島嶼にするところ、同根の発想と思わざるを得ない。近代国家にとって周縁は中心を維持するための緩衝帯という発想を型通りになぞっている。


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2010/03/22

与論なまじら歴史

 もともとは珊瑚。それが積もってゆっくりゆっくり浮上したので琉球孤のなかでも遅まきに仲間入り。浮いては沈み、沈んでは浮きを繰り返したため、ハブは島の主になれなかった。代わりに島の主になったのはアマン(ヤドカリ)であり、今も人、牛を抑えて島の最大生息数を誇る。

 島が浮いたころ、アマミクとシニグクの二神が、ハディピキパンタに舟を引っかけたのがきっかけで本格的な島となる。

 島の名はユンヌ。寄りものが集まるとか、弓の形をしているとか、諸説さまざまだが、ユンヌの由来は不明。一説にはユナ(砂)から来た砂の島だという。

 内外からユンヌと呼ばれてきたが、琉球王府と薩摩藩が漢字をあてることになって、ユンヌでは適切な漢字がないため苦労する。與留濃などと表記してみるが座り悪く、当時、地名の語尾に「論」や「連」と付けるのが流行ったのにあやかり、由論となり、五母音化して「与論」で落ち着いた。

 近代も「与論」で登場する。しかし、そのときには既に奄美諸島の一部だったが、島民はピンと来ておらず、奄美に含まれていることを知ったのは戦後であった。いまも、島民は奄美と言われてもピンと来ないという。

 奄美の復帰以降、日本の最南端の島として位置づけられる。脚光を浴びたのは沖縄の日本復帰運動が激化して与論に訪れる人が多くなったときだ。極度の人見知りの島民はこのとき、旅人と一夜で仲良くなる方法として、与論献奉を編み出すが、現在もその効力は衰えていない。なお、大和の人をヤマトゥンチュと呼ぶが、歓待の意を込めて、タビンチュ(旅人)と呼ぶことが多くなるのもこの頃と思われる。

 与論は「東洋に浮かぶ一個の真珠」としてその美しさの呼び声が高くなる。このタイミングで、与論はヨロンと改名したらしい。ヨロンへの改名と機をいつにして、東京都ヨロン町とも呼ばれるようになる。このときヨロンは東京近海まで近づいたと思い込んでいる人もいるが定かではない。また、あまり知られていないが、ヨロンへの改名と同時に、ヨロン島(とう)と呼称も変更している。

 このころからヨロンの浮遊癖は露わになり始める。海外ブームが流行りになると、ヨロンは、モルジブやプーケットの近くにあると言われ始めたが、これも定かではない。島民に聞いても、「周りはいつも海だよ」と言うだけで一向にはっきりしない。

 所在不定に業を煮やした町は、独立を画策。1983年、ついにパナウル(花と島の)王国として独立。ギリシャのミコノス島と姉妹契約を結ぶ。勇んだ独立だったが、パナウル王国の知名度はいまひとつ上がらず、世間は今もヨロン島と呼びならわしている。しかし王国府はこれを認めず、パナウル王国は依然、独立を主張し続けている。

 ヨロン島の知名度も一定のまま、観光も下火となり、静かな島を取り戻しつつあった1997年、映画『めがね』によって、ヨロン島は、「この世界にあるどこかの南の島」と位置づけられ、ふたたび所在不定癖が再発する。今回は、海外というにとどまらず、「この世界のどこか」と、ますますはっきりしなくなった。パワースポットが流行るのを横目に島はたそがれスポットとして脚光を浴びつつあるという。

 現在、パナウル王国府では、「この世界のどこか」に対応する改名をすべきかどうか検討に入りつつあるというが、これも定かではない。


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2010/03/21

「ヨロンマラソンに見る手づくりの奄美発信 」

 関西奄美会誌に寄稿した文章です。

◇◆◇

 3月7日、19回目を数えるヨロンマラソンが行われた。心配された通り、雨のなかのスタートで、ヨロンマラソンならではの、あのヨロンブルーの海をいつも目の端に見ながら走る楽しみは半減してしまったが、ランナーも応援の島人たちも朗らかに盛り上がっていた。

 トップランナーが見事なタイムで走り抜ける。途中、足にきて歩き出すランナーもいる。後半になると陽が射し始めて明るくなってきた。でも逆にランナーには気温の上昇が負担になるかもしれない。沿道では子どもたちも「がんばれー」と声をかける。大人たちは踊る。ゴール目前になると、子どもたちが併走してランナーを迎える。一人ひとりのゼッケンが呼びあげられて、拍手のなかゴール。そして一人ひとりに赤土を焼いたメダルがかけられる。ランナーたちは笑顔で抱き合ったり記念写真を撮ったり。ヨモギエキスの足湯でケアしているときの表情は充実そのもの。

 これでヨロンマラソンは終わらない。ゴール傍の浜辺で完走パーティへ。与論出身のシンガー、川畑アキラの唄で盛り上がり、与論献奉で有泉を飲み交わす。気づくとみんな檀上へあがって踊っている。島人だけでない。ランナーも走った後の疲労も何のその、一緒に踊りまくって宴の愉しみを分かち合うのだ。付け加えれば、ヨロンマラソンの始まりはランのスタートではない。前日には砂美地来(さびちら)館で前夜祭が行われている。しばしば島を訪れる人も見たことのない数の人が供利港を降り、そのランナー達を迎えての宴。なんとマラソン前夜にも関わらず、お構いなしに酒を飲む。本当に明日、走るのだろうか。そんな盛り上がりなのだ。

 ヨロンマラソンは、ふつう思われているマラソンとは一味、違う。前夜に宴で迎え、当日も宴で労う。小さな島はマラソンの距離を満たさない。ちょうど二周して、42.195キロになるが、外から見れば平べったい島のコースは意外にアップダウンがきつく、走る環境はなかなかシビアなものだ。けれど、今回はあまり拝めなかったが、走る間いつもあの青い海が控えているし、沿道から応援だけでない、食事の誘いだってある。満腹でゴールって一体どういうことだろう、とちょっと可笑しい。走り通すのは厳しいことだけれど、あたたかでゆるい雰囲気を楽しめるのがヨロンマラソンなのだ。何度も走っているritoucom さんはそんなヨロンマラソンを「笑顔になれる大会」と呼びたい、と語った。

 ところでぼくはヨロンマラソンのとき東京にいた。でもこの模様を便りや想像で書いているのではない。ぼくが目にし耳にしたものを書いている。というのも、当日、何台かのWebカメラがトップランナーの様子や沿道の応援風景をリアルタイムで配信し続けていたのだ。おかげでぼくは東京にいながら、ランナーの息遣いや応援のさまをその場にいるように感じることができた。魅力を加えたのは、沿道で応援している島人たちの会話が聞こえてきたこと。たとえば、「これ、誰にみせてるの?与論の人?」「タビ(本土)の人が楽しんでるじゃないかな。日本全国、あいや世界中よ」。そんな素朴な会話が楽しかった。

 それだけではない。ツイッターで、コースのあちこちからスタッフがリアルタイムにつぶやいていたのだ。ときには画像が添えられて、ランナーの途中の様子やゴール直後の感想がつぶさに届いてきた。なかには、コースの途中、自分でつぶやくランナーまでいた。映像と画像と声とつぶやきと。これらのおかげで、ぼくは東京にいながらヨロンマラソンを前夜祭から完走パーティまで満喫することができたのだ。ぼくだけではない、島を遠く離れた出身者や愛好者が楽しんでいた。与論が、ヨロンマラソンが、遠く広く発信された瞬間だった。

 偶然、今回のヨロンマラソンではタレントの参加を追ってテレビ局が入り、収録も行われた。しかしその放送は14日、一週間経ってからのものだった。スポットはタレントに当てられたものでヨロンマラソンの速報性を求めたものではなかったから、その時間差は自然なことだ。けれど、テレビ放送のおこぼれのように、束の間、背景の与論やヨロンマラソンが見えるのを待つ必要はない。手づくりで、リアルタイムに豊かに与論島を表現することはできる。そんな新しい島発信の可能性を見せてくれたのが、今回のヨロンマラソンだった。

 与論島だけのことではない。広く知られている沖縄や屋久島ではなく、知る人ぞ知る奄美だからこそ、今回のヨロンマラソンのように出身者や愛好者のクチコミによって知られていくのが似合っている。なかでもツイッターは、出身者と愛好者が一緒になった会話の共同体を広げる力を持っている。与論つながりのツイッター、奄美大島つながりのツイッター、喜界島つながりのツイッターと、各島の発信が広がってゆけば、奄美全体がツイッターでつながることも難しくはない。げんにそれらは既に生まれつつあると言っていい。それぞれの島独自の発信を大切にしながら、奄美全体の発信につなげてゆく。その広がりのなかで生まれるコミュニケーションが交流を生み、その交流が来島を生んでゆく。ぼくたちは今、手づくりでそれができる地平に立っているのだ。

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2010/03/18

奄美会話共同体

 「村」を旧来の閉じた村落共同体の意味にしたくないから、『ビジネス・ツイッター』に倣って、ヴィルと表現してみる。

 与論ツイッターヴィルができ、喜界ツイッターヴィルができ、大島ツイッターヴィルができ、していけば、それぞれのフォロワーが交わるところに、奄美ツイッターヴィルができる。奄美は諸島全体の共同体をつくることが苦手だけれど、ツイッターを介して、ここに外に開かれた奄美会話共同体が成立する。なんてね。

   『ビジネス・ツイッター』

Bt

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2010/03/17

「江戸立コースの前提としての薩摩藩の奄美諸島分割支配と道之島の役割」

 弓削政己の考察、「江戸立コースの前提としての薩摩藩の奄美諸島分割支配と道之島の役割」は、ぼくの知りたいことに急接近している。

3、まとめ

1)島津氏は、もともと、「大島」支配を計画していた。結果的には、この「大島」は今日の「奄美諸島」である。
2)島津氏の領土支配について、当初は琉球も含めた支配という懸念を琉球側はもっていたと考えられる。

3)そのため、琉球国保全のため、琉球古来の領土意識から、古来の領土の伊平屋島一島を割譲して、支配を免れようという意識。そのことが、『歴代宝案』の「一指舎てずんば肩背の全きを保ち難し、と。挙国の官民、奈んともする無し。(王府は)議して、北隅の菓壁一島を割き、民の塗炭するを扱う。」と、与論島ではなく伊平屋島が古来の琉球領土の「北隅」という文言に現れていると考えられる。
4)琉球尚寧王、琉球側の領土認識は、「古来の伊平名以南の琉球領土」と「奄美諸島を含めた領土」という二通りの意識がある。

5)ここで指摘できるのは、島津氏は、「琉球古来の領土以外の島々を支配した」といえる。前提として「大島」=与論島・沖永良部島を含む領土が奄美諸島という島津氏、薩摩藩側の認識があったと考える。
6)ただ、琉球古来の領土の一部をなぜ割譲しなかったのかという明確な根拠はまだない。ただ、幕府の自明勘合貿易復活政策と関係しているかもしれないという問題意識を保留しておきたい。
7)奄美諸島を巡る「領土意識」について、内部の主体、大和側、琉球側からの変動という点から、今後の検討が必要であろう。

 「結果的には、この「大島」は今日の「奄美諸島」である」というときの、この「結果的」というニュアンスは難しい。島津氏が「大島」支配というとき、それは、奄美大島のみを指していたのか、それとも今日の奄美諸島を指していたのか。弓削は「結果的」に奄美諸島としているが、ここには「大島」が「大島」一島と奄美諸島がどちらも指しうることを意味している。それは現在の「大島郡」の感覚と同じである。しかしその「大島」のみではない諸島の範囲は、厳密に与論島までを含む現在の奄美諸島の範囲であったのか。その辺りの島々というときの周辺は、曖昧ではなかったのかとも思える。

①「疎かに日本の薩摩州の倭奴他魯済(大将平田太郎左衛門尉増宗)・呉済(副将樺山権左衛門尉久高)等、党を鳩(あつ)め海島に流毒し属地に肆蔓(はびこる、ほしいままにおごる)す、と警報するを聞き・・・、三月内、先ず葉壁山(伊平屋島)・奇佳山(喜界島)等の処、蜂号(のろし)を連放するに拠り、虚惨(悲惨な状況)を伝報す。」
②議して北隅の葉壁一島を割き、民の塗炭するを抷う。(『歴代宝案』訳注本第1冊p539 沖縄県教育委員会1994)

 しかし弓削は、「葉壁山(伊平屋島)・奇佳山(喜界島)等の処」と、伊平屋と喜界島「等」としていること、また、「北隅の葉壁一島」という表現を根拠に、「大島」とは、現在の奄美諸島の範囲を指していると仮説しているように見える。

 ここでもうひとつ、琉球には、古来からの領土として「北隅」を伊平屋としていることから、琉球にとっても、伊平屋島までが古来の領土観としてあっただろうとする。ここで「古来」とは、ぼくには中山のもともとの勢力範囲とみなせば、理解しやすいと思える。その挟み撃ちとして、沖永良部島、与論島は「大島」の範囲とされたのではないかという可能性は残る。

 一方、俯瞰した視線からいえば、喜界島、奄美大島からはじまる諸島のまとまりは与論島で終わり、沖縄島からまた始まる。その感覚は現在の奄美諸島の範囲を決定する補助線となったには違いないと思える。

 細部にわたり正確にことを把握していこうとする弓削の志向性に助けられて、不明な領域を探る手がかりを持ち始めている。


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2010/03/16

「支配背景に琉球の領土観」

 琉球大学「江戸立」探検隊についての南海日日新聞記事(3月4日)。

琉球王国の「江戸立」(えどだち)を追体験する琉球大学「江戸立」探検隊が奄美大島入りし3日、奄美市名瀬の県立奄美図書館で名瀬フォーラムを開いた。「琉球と奄美の歴史」をテーマに講演、討論会があり、弓削政己氏(奄美郷土研究会)は、「薩摩藩政下で与論以北が直轄支配になった背景に琉球側の領土、領域意識がある」と問題提起した。

 単純だが繊細な問題。

 講演は弓削氏と町健次郎氏(瀬戸内町立図書館・郷土館)が登壇した。弓削氏は琉球王府の文書「歴代宝案の咨文を基に直轄、間接支配を考察。そこには「一指舎てずんば肩背の全きを保ち難し、北隅の葉壁一島を割き、民の塗炭するを拯う」との一文がある。「王府は薩摩側に伊平屋島を譲って、民を苦しみから救う」との意味。
 弓削氏は「琉球側は島津氏が琉球を含めて支配するのではないかとの懸念を持っていた。王府には伊平屋島以南の領土と奄美諸島を含めた領土という2つの領土観がある。かつて王府が攻め取った奄美を薩摩の領土と したのではないか」との見解を示した。

 ここはもう少し言葉が必要だと思う。攻め取ったという意味では、沖縄島内部も同じことだからだ。ただ、領土観の濃淡はあっただろうと思う。

 町は「奄美呼称の来歴とその周辺と題して講演した。「奄美」とい地名は明治期の海軍地図から出てくること、開闢神話とも関係していることを紹介。「奄美という地名は日本と琉球を自在に結び付けて解釈できる呼称だった」と指摘した。

 これは昨日、見たとおりだ。

 討論会には学生たちも積極的に参加した。①奄美世、按司世、那覇世など奄美の時代区分は、現在の研究ではどのような解釈をしているのか②奄美は本土と沖縄から二重の阻害を受けていた。その脱出口として日本復帰があったのではないか③琉球は薩摩に対して被害者意識があるが、奄美を支配した。見方によって立場が変わる。歴史観の共有が必要-との質問、意見があった。  「江戸立」探検隊は名瀬フォーラムに先立ち、薩摩軍が奄美大島攻めの拠点とした深江ケ浦や奄美博物館、群倉(大和村)なども見学した。4日は鹿児島市でシンポジウムを開く。

 この質問に対する回答も聞いてみたい。特に、「奄美は本土と沖縄から二重の阻害を受けていた。その脱出口として日本復帰があったのではないか」については。(^^;)


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2010/03/15

「『奄美』呼称の来歴とその周辺」

 町健次郎が、「『奄美』呼称の来歴とその周辺」のなかで引いている原田兎雄の考察は面白い。

 2・琉球の時代 ○原田兎雄「三位一体の神(下)」『南島研究』(第42号 南島研究会 2001年) 「大胆な言い方を許していただくなら、アマミキヨとシネリキヨの開闢神話は、もともと沖縄のものではなく、奄美大島の神話だったのではあるまいか。尚真によって、アマミキヨ神話と、アマミの地名とが、奄美大島から収奪されたのだと、私は推測している。アマミキヨが天降ったのは、奄美大島のアマミ嶽である。日本歴史で阿麻弥の名が出てくるのは、天武天皇11年(689・紀29)である。ところが琉球の歴史の中には、大島の地名はあっても奄美の地名はない。この単純明快な事実は、人為的にアマミの神話と地名が削除されたことを示しているのではないか。久米島も、八重山諸島も、尚真によって、その開闢神話が収奪されたはずである。」

 奄美の開闢神話が尚真によって収奪されたという可能性はありうると思う。共同体を支配するとき、支配共同体は在地の神話、民話を消去するよりは、それをわがものとして吸収し、支配共同体のものにしてかぶせてしまうという方法は、アジア的共同体の支配形態のものである。ただ、地名については疑問が残る。地名を収奪するには島人から言葉を奪わなくてはならないが、実質的にはそれはできないと思える。あるいは、大島を全体でひとつの島と認識した在地勢力のみにアマミの地名が語られ、それが収奪されたのならありうるのではないか。

 また、奄美という地名が、近代以降、いつ使われるようになったのかについても、町の資料から読み取ることができる。

O「「あまみ」といふ名」『奄美大島』(大正14年11月創刊号 奄美大島社)                          (『奄美大島縮刷版 上巻』1983 奄美社) 「「大島」といふ地名はところどころにあるので陸海軍をはじめ一般にわが大島をあまみ大島と呼ぶことがはやって来た、あまみといふ名は古いが一般に使われるようになったのは近来のことだ。斉明紀には「海見」、天武紀には「阿麻珊」と記してゐるが、「奄美」といふ文字は元明記から見江てゐる、阿摩弼姑(あまみこ)といふ女の神様が海見嶽(まみたけ)に天降つたといふのが大島開闢の傳説になってゐる、これが「あまみ」の名稱の起りだといふ。」

 「はやってきた」という説明は面白いが、近代国家を近代国家たらしめる条件のひとつであった国軍によって大島に「奄美」が冠されるようになったというのは必然の流れにまっすぐに沿っている。資料によれば、明治7年の海軍系資料に『大日本海岸実測図』に「大日本奄美大島海峡西部図」として「奄美」の表記が見られる。また、明治31年の『大日本帝国全図』にも「奄美大島」の表記が見られる。

 7世紀、南下した大和勢力によって「アマミ」と表記された奄美は、国学イデオロギーをもとに支配権を持った明治国家により再び見出され、他の大島との区別という要請から、近代初期に「奄美」と表記されるようになった。

 町の研究のおかげで、雲がひとつ取り払われる気分だ。


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2010/03/14

『天秤の魔術師 アルキメデスの数学』

 斎藤憲の『よみがえる天才アルキメデス』を読んだとき、回転放物体の体積を求めるのに、どうしてこんな図が登場するのか不思議だったが、それは研究者にとっても同じだったようで、『アルキメデスの数学』の著者も、こんな天秤は見たことがないと実際に作って見せている。

Adb1


 高さと半径が同一の円柱と回転放物体があり、円柱の端を支点に、二つの物体は釣りさげられている。軸は円柱に貫かれて、回転放物体はその重心まで軸が伸びている。そんな図だ。この釣り合いから、回転放物体の体積が、半径と高さを同じくする円柱の体積の2分の1であることを証明するのだ。

 しかし、驚くのはまだ早く、注記を見ると、アルキメデスの頭のなかではこの天秤があったのではなく、回転放物体は軸に取り付けられている。それを図示してみる。

Archimedes_3

 アルキメデスの頭のなかにはこの図があった。そしてこれは研究者が読み解いたものだが、パピルスに書かれた図は実はたったこれだけのものだ。

Zuban1

 ぼくたちが微積分で、円柱や回転放物体を無限に輪切りにしたイメージで理解を進めているが、それと同様のことを、微積分がない時代にアルキメデスはやっている。

 比例と正方形の大きさとその一辺を直径(半径)とする円の大きさの比は、長さを変えても共通でること、重心の求め方など、当時、分かっていたことだけをもとにアルキメデスは考える。回転放物体を無限に細かく輪切りにしたときのひとつの円を、回転放物体の重心の位置に置き、その円と同じ高さの位置にある円柱を細かく輪切りにしたときのひとつの円がその位置で釣り合う。言葉で書くと追えなくなるが、その無限小の釣り合いを繰り返すことで、この釣り合いを証明するのである。

 この証明は、『アルキメデスの数学』のほんの入り口に過ぎず、このあとにも証明は続き、研究者は素っ気ない定理の記述のなかから、アルキメデスがどう考えようとしたのかを明るみに出そうとしている。その過程はとても刺激的で、本書が「天秤の魔術師」、と銘打たれているが伝わってくる。

 ぼくたちは、安易に、

 V=1/2πr2(乗)h

 という公式で、回転放物体の体積を知っているつもりになり、それを微積分の考え方から導いている。

 しかし、微積分でそれが求められるということは、微積分がないと出来ないことを意味しないことを教えられる。山への登り方は様々にあるということ以上に、徒手空拳で自分の考え方で登るということ、その内在的なプロセスそのものが重要である。改めてそう感じさせてくれる本だ。

『天秤の魔術師 アルキメデスの数学』

Archimedesbook

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2010/03/13

多島域フォーラムのシンポジウムを聞いて

 2月13日の多島域フォーラムのシンポジウム、「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成」を聞くことができた。

 「多島域フォーラムシンポジウム「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」」

【日 時】平成22年2月13日(土)13:30~17:00
【会 場】鹿児島大学共通教育棟2号館1階211教室
【内 容】
●基調講演
 豊見山和行(琉球大学教育学部)
  「島津氏の琉球侵略400年を振り返る -近世東アジア海域・陸域の変容と交流-」
 弓削政己(奄美郷土研究会)
  「奄美諸島史における歴史意識と認識 -東アジアを含む研究課題-」
●パネリスト
 杉原 洋(鹿児島大学法文学部)
   薩琉40年議論から見えてきたもの
 原口 泉(鹿児島大学法文学部)
   薩摩から見た琉球・奄美 -幕末の薩流関係-
 前利 潔(知名町役場)
   <琉球諸島>と奄美諸島 -道州制議論の前提的考察-

 豊見山和行は、1623年の「大島置目条々」で、奄美は大型船の建造は禁じられたが、中小型船はあり、薩摩との交易は禁じられたが琉球とはそうではなかったので、交易を維持していた。また、時代とともに、薩摩への交易の触手も伸ばし、支配域を抜け出す動きがあったと指摘。

 弓削政己は、400年に新たな問題意識も提出されたが、それは従来の修正に過ぎず、奄美像の全体観には至っていないと、いつになく厳しい指摘を行った。たとえば、「大島代官記」の「序」は、島役人が書いたものではないのに、ここ40年、島役人が書いたものと議論されてきた。それに端を発して屈折した議論がなされてきた。そのこと砂上の楼閣ではなく、そうならざるをえない課題はあるが、しかし、それは歴史学のなかでは砂上の楼閣と言わなければならない。

 パネルディスカッションで、得に印象に残ったのは原口泉。鹿児島大学という場所柄がそうさせたのか、言いたいように口にしていた。空虚な饒舌に変わりはなかったが。当時の国家間の関係や力学のなかで捉えなければ、薩摩が琉球がといっても水かけ論でしかない、などと。ある種の歴史家は、思考や口吻が為政者に似てくる。そこにふつうの人の姿は見えない。その亜種を見るようだ。


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2010/03/10

ツイッター島づくり

 ヨロンマラソンで映像とツイッターによるリアルタイム中継は、いままでにない世界を開示させてくれた。少なくともぼくには。

 ツイッターでの島づくりを試みてみようと思う。

 ぼくだけでできることではなく、ツイッターだけでできることでもないのはもちろんだが、可能性を追求してみたい。遠くにいるぼくでもやれることだから。


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2010/03/09

あまみ庵、移転のこと

 「ドリトル先生アフリカ行き」のように、あまみ庵、2階へ縮小移転を読んだ。

 「※ みなさま、長い間、大変おせわになりました。」

実は、1階をたたんで、4~5月に2階に縮小移転する計画。 家賃、水光熱、人件費が追いつかない。 都市計画の工事もこの夏から始まりそう。 「あまみ庵」の寿命もそう長くはないだろう。

 そうは書いているけれど、はいそうですか、と言うわけにもいかない。長引く不況、しかも出版不況の波を奄美が受けないわけはないから、気になっていたことだけれど、直面してほしくない事態だった。

でも、2010年03月05日(朝日新聞・鹿児島) 「奄美の歴史子どもたちに/副読本を制作へ」

ここに辿り着くこと!
それが、ワンに与えれた奄美での仕事のひとつ、だったのかも、やぁ

 それはそうだろうけれど、それだけではない。してもらいたいことへの期待はまだまだ尽きない。捲土重来の一歩であってほしい。

 このセールが、次の一歩への一手となりますように。



 

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2010/03/08

南米ですか?

 南米ですか?と言われた。
 イラン、イタリア、マレーシア、東南アジア、アイヌは言われたことあるけど、南米は初めてだった。
 まあどこも自分のルーツの一部と思えてならないところばかりなのではあるが。

 と、今日はツイートのようなブログ。


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2010/03/07

ヨロンマラソンがリアルに迫ってきた。

 今回のヨロンマラソンは、インターネットのライブ中継に加えてツイッター中継もあった。昇龍橋やトップランナー周辺、そしてゴールでのライブ中継。ツイッターも何箇所からか中継してくれた。おかげでライブ感満点で、ぼくも間近で観たような気がして嬉しかった。

 ライブ中継では、ランナーの姿はもちろんだが、中継ポイントでの与論の人の姿や会話が聞こえてきたのがよかった。たとえば、こんな具合い。

「これは与論の人が見てるわけ?」「タビ(本土)の人が楽しんでるんだと思うよ」(昇龍橋中継所の会話)。
「これはどこに流れてるわけ?」「日本全国。いや世界中よ、世界ぢゅう」(昇龍橋中継所の会話)。

 これは楽しい。

 ツイッターでの中継具合も、時系列は逆だが、ここで読むことができる。

 #yorontou のタイムライン

 つぶやきと映像とで、ヨロンマラソンを遠くからも充分、楽しめた。ヨロンマラソンならではの良さもこれまで以上に伝わったと思う。

 これからの島の育て方の一端に立ち会ったのではないだろうか。感動的だった。

 今ごろは、完走パーティと、イベントとしてのヨロンマラゾンはまだ終わらない。


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2010/03/06

「奄美の方言残そう」

 ぼくは、「奄美の方言残そう」ではなく、「使おう」だと思っているけれど、かるたのアイデアはいいですね。遊びの中でしか吸収できないものは多いから。

 与論でも、両親を「あちゃ、あんまー」とは呼ばなくなっている。でもそういう教育のなかで育った五十代の方が、「やっぱり子どもにあちゃ、あんまーって呼ばれたら嬉しいよね」と言った言葉を思いだす。そうだと思う。


 島唄やかるたで交流(「南海日日新聞」2月25日)

 奄美市の東城小学校(石原茂仁校長)で18日、島口大会がありました。児童が島唄を歌って八月踊りなどを発表。島口かるた遊びを通して郷士の方言に親しみました。  島口大会は「方言の日の18日にちなみ実施。児童自身が郷士の文化に触れながら島口に親しめるよう、いくつかの遊びを組み合わせて行いました。

 初めに6年生が「うがみしょーり。きょうは島口の良さを学び、これから皆で使えるようにしましょう」とあいさつ。皆で「千鳥浜」と「稲すり節」を歌い、5、6年生が八月踊りを踊りました。
島口かるたは5、6年生が島口でかるたを読み上げ、1~4年生が意味を考えながら札を探します。次々に札が読み上げられると、子どもたちは先生と一緒に「どぅしって何?」「きょらねせは?」などと考えながら接戦を繰り広げました。

 最後に石原校長が島口であいさつ。「奄美語は昨年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)によって消滅の危機にある言語と分類されました。こうした取り組みを続けることで、方言が使える子どもが増えたら素晴らしいことです」と呼び掛けました。
 堂園優花きん(6年)は「島ロはあまり分からないけど、かるたを作りながらいろいろな単語を覚えられて面白かった」と感想を話しました。

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2010/03/05

「島人が主体となって完成させる」

 「奄美の歴史子どもたちに/副読本を制作へ」。朝日新聞の記事(2010年03月05日)。

 どうせ教科書なんか読みはしない、という意味ではこれもその候補。でも、だから要らない、のではなく、その程度のものと見なされるほどに、奄美の歴史が知られたものになるための、これは一歩だ。

 この記事のなかで最も重要であり、ゆるがせにできないのは、「執筆者には郷土史家も加わり、「島人が主体となって完成させる」」ことだ。この軸がぶれたら、ぼくたちは最初の扉を開くことができないだろう。ここは嬉しい言明だ。

 ただ、ぼくが気になるのは次の個所だ。

「私たちは子どものころ、薩摩藩に虐げられたことだけ教えられて育った。しかし、それだけでは島を誇れる子どもは育たない。奄美の黒糖が明治維新に貢献したことも教えることで、胸を張って奄美を誇れる子どもを育てたいと思った」

 奄美の黒糖が明治維新に貢献したと指摘するのはいい。しかし、それは奄美が強いられたことの意味を浮かび上がらせるもので、いずれ消極的な評価に留まるしかない。「虐げられただけではなかった」と、ことさらに言いたげな今の奄美だが、いずれ虐げられたことには変わりない。しかし、その圏外に自然と文化の大きな広がりがあったことを指摘してほしい。そこで初めて、奄美を積極的に評価できるだろうからである。


 奄美群島の12市町村でつくる奄美群島広域事務組合は、地元中学生を対象にした初めての歴史副読本の制作を決めた。昨年は薩摩藩による琉球侵攻400年の節目の年。島内外から上がった「奄美の歴史の再構築を」との声に応えた形だ。島の教育関係者は「島の歴史を学ぶことで、自分たちの島に誇りを持てる子どもたちを育てたい」と意気込む。島人が中心となってつくる副読本は、2012年度からの使用を目指している。(斎藤徹)


 奄美市教育委員会などによると、副読本の制作話は昨年持ち上がった。薩摩藩が奄美群島を含む琉球王国を侵略した1609年から数えて400年の年だったことから、島内外で400年前の出来事を再検証するシンポジウムやイベントが盛んにあった。

 そんな中、「正規の教科書では触れられることのない奄美の歴史を学ぶ機会が必要なのでは」との声が島の教育関係者の間で生じた。


 副読本制作を提唱した奄美市の徳永昭雄教育長は「私たちは子どものころ、薩摩藩に虐げられたことだけ教えられて育った。しかし、それだけでは島を誇れる子どもは育たない。奄美の黒糖が明治維新に貢献したことも教えることで、胸を張って奄美を誇れる子どもを育てたいと思った」と語る。

 奄美地域限定という理由から奄美の12市町村が予算を出し合う。中学校の歴史の授業で使う予定だ。薩摩藩統治時代の歴史のほか、中世や琉球王国統治時代、明治時代や敗戦後の米軍統治時代と、現在解明されている奄美の歴史を網羅したい考え。


 執筆は学識経験者や歴史学者ら5人程度で行い、奄美群島内の小中学校の社会科教員15人程度が編集委員を務める。4月以降、執筆に着手し、編集会議を重ねて12年度から使い始めることを想定している。

 執筆予定者の一人で、奄美の考古学に詳しい中山清美・奄美博物館長は「薩摩藩の侵攻前と後で奄美がどう変わったのか、我々奄美の人間の視点でとらえたい。島の文化や自然への影響も検証したい」と意気込む。執筆者には郷土史家も加わり、「島人が主体となって完成させる」という。


 同市教委によると、奄美では98%の子どもが進学や就職で高校卒業後に島を離れる。徳永教育長は「島を離れた時に島のことを知らないままであってはいけない。島で生まれ育ったアイデンティティーの確立のためにも、よい本をつくりたい」と話している。

 昨年、郷土教育の充実を求める陳情を12市町村に行った奄美市の薗博明さん(75)は「鹿児島県による奄美侵略の歴史検証が一切されていない中で、奄美がまとまって副読本をつくることは大変喜ばしい。これまで顧みられることがなかった鹿児島県の明治以降の奄美政策についてもきちんと書いてもらいたい」と話している。

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2010/03/04

ケンムン=イシャトゥ!?

 「「妖怪ケンムン現る!?」と、南日本新聞に記事。

 「妖怪ケンムン現る!? 砂浜に謎の足跡/奄美市名瀬」

 奄美市名瀬朝仁の貝浜(けばま)で、点々と続く丸いくぼみが見つかった。規則的な並びは人が歩いた跡のよう。竹筒で突いた足跡を残すとされる妖怪ケンムンのものではないかと話題を呼んでいる。
 ケンムンは毛むくじゃらで身長は低く、ガジュマルの木に住むとされる。郷土史家の故恵原義盛氏は著書「奄美のケンモン」で「足跡は竹筒を砂に印したような形」と記す。
 発見したのは、ケンムンの存在を信じて情報交換などをする「ケンムン村」村民の有馬康文さん(65)=同市名瀬長浜町。1月20日午後2時ごろ、直径5センチほどのくぼみが20センチ間隔で、山側から波打ち際まで約25メートル続いているのに気付いた。

 有馬さんは「すぐにケンムンと思った。イザリ(夜漁)をしに来たのではないか」と想像する。貝浜はもともと「ケ浜」と書き、ケンムンが目撃されることから名前が付いたとの説も残る。
 ケンムン村村長で奄美博物館長の中山清美さん(59)は「ケンムンのものと信じることが大事。自然と共生していたかつての環境が戻れば、ケンムンも帰ってくる」と話している。

 この記事に機に、guutei さんあナイスなツイートをしている。

 「奄美では、真顔でケンムンとの遭遇譚を・・」


 ところでぼくが注目したのは、ケンムンについて、「イザリ(夜漁)をしに来たのではないか」と推測していることだ。ケンムンはイザリもするのか。

 というのも、与論には森がないから、ケンムン=キジムナーはいない。しかし、同様の妖怪存在として、イシャトゥはよく知られているし、遭遇譚も多い。そしてこのイシャトゥはもっぱら海で悪さをするのだ。この奄美大島での話を受けると、イシャトゥはイザリをするケンムンが海上存在に変態したものかもしれない。これは楽しい。


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2010/03/03

ツイッターをやるようになって

 ツイッターは初期と前期とで印象が変わる。ぼくも初期、なぜこの人の一日をぼくが追わなければならないのだろうと腹立ち紛れに思っていた。ところが、つわものに言わせれば、100人をフォローするまではそのよさは分からないとのこと。そこで、フォローしてくれた人に返すという消極的なやり方でフォロワーを増やしていった。

 どれくらいだろう。やはり100人くらいだったのか、あるときからタイムラインを眺めるのが楽しみになった。さまざまな人がさまざまな情報や、どちらかといえばポジティブな気分を伝えてくれるのが面白いのだ。情報についてはもはや、地震も天気も電車遅延もスポーツの結果もビジネス情報もツイッターで真っ先に知るようになっている。それは、気づくよりも早く気づくというようなスピードで時間差がなく、リアルタイム上に並んでいる相当の人の数を思い浮かべることができる。

 また、自分がフォローした人は何らか、関心を共有しているので、届く情報やメッセージの中身にすぐに入っていくことができる。ここで共有している心地いい気分は、高橋源一郎の言葉を借りれば、

「誰かの「つぶやき」を聞いたり(見たり)するのは、その「つぶやき」の意味を知りたいというより、自分とその相手の位置の違いを知りたいからなのかもしれない。あるいは、自分が(相手が)どこにいるのかを知りたいからなのかも。」(「日本文学盛衰史」「群像」高橋源一郎)

 ということかもしれない。

 mixiからツイッターへ流れてきた人は、mixiウザイと言い、ツイッターの関係のゆるさを歓迎し、ブログからツイッターへ流れてきた人は、その文字数制限にブログより楽とつぶやく。ぼくはにとってブログは、日記ではなく読書録や考えたことを記す場所だから、ツイッターはブログの代替物にはなりえないが、それでも、ニュースや感情を共有したいときはツイッターを頼るようになってきた。

 ぼくは、メール、ブログの延長戦にツイッターを見つめ、テキスト文化の行方に関心があるが、メールやブログと相違があるとしたら、ツイッターがヤポネシアに受容されているのは、問答歌や相聞歌の歴史と響き合っているのではないかということだ。

 まだしばし、観察していきたい。

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2010/03/02

「『アイヌ』なる状況」

 この文章は1973年、いまから37年前のものだ。しかしここにある認識は現在に射程を持っている。

 「アイヌ」なる者が生み出す共同的意識、つまり「アイヌ」なる者の自らの内にある〈日本〉とは何か? それは例えばしばしば耳にする「アイヌであることに誇りを持とう!」という類の発想にも潜んでいる。

 誤解を避けるために、敢えて言っておこう。「アイヌであることに誇りを持とう!」と叫ばざるをえない心情がどのようなものか、私は知っている。否、知っているというよりも、その心情はむしろ私の心情である。「おまえはアイヌである」という宣告によって、自分の全ての性向・所作・容姿・能力等が予め決められており、遂に人々に伍すことは不可能だ、と思い込んでしまった者が、たとえそれがどんなものであっても、誇りとなりえそうなものが提示されれば、一気にそれへ雪崩れてしまうのを、私の心情から遠いものであるかのようには振舞えない。

 ぼくたちも同感する。奄美であることに、与論であることに誇りを持とう、と。そういう心情を訴えたい気持ちは他人ではない。

 けれども、ある主張の底にある心情が尤もなものだからという理由で、その主張の当否を不問に付したり、かえって心情を宜しとするが故に、その主張を積極的に肯定するとしたら、私は無限にセンチメンタルな、被害者意識の怪物にならざるをえないだろう。「アイヌ」に関わる発言が、己れが「アイヌ」であるということにだけ正当性を確保していたり、「シャモ」であるということだけで罪責を担っていたりするのを、非としなければならない。今や徐々に声高に発言する者が増えてきているが、少なからぬ者たちの発言には、単純な被害←→加害の図式が潜んでいる。それこそ、断罪←→贖罪という、素朴であるが故に模糊たる心情レベルへ、質されるべき問いと解かれるべき答えとを、移し消してしまうものであろう。

 この認識は現在も自明のものになってはいない。共同性を口にすることが即座に正当性やあるいは劣位を含意してしまう。それが「質されるべき問いと解かれるべき答え」を見えなくさせてしまう。

 さて、「アイヌであることに誇りを持とう!」という言いかたに潜む発想とは何か?一言で言えば、己れが所属する血統集団に何らかの価値を付与して、己れがそれに所属するというそのことだけで、己れの存在に価値を付託せんとする発想である。これはこの〈日本〉の根幹的な発想の一つと全く同じである。よしや、この発想が、所謂人種差別・民族差別のどの場合にも見られ、必ずしも〈日本〉独自のものでないとしても、発想の具現のしかたー例えば政治制度の権威の頂点に天皇を乗せ続けていることや、天皇の権威牒由来の説かれかたのように-は、〈日本〉の〈日本〉たる所以であると言ってよいはずであろう。

 だから、「アイヌ」であるそのこと自体は、別段誇るべきことでも卑しむべきことでもない、ということを確保しておかない限り、「シャモ」であるそのこと自体を「アイヌ」に誇り続けてきた〈日本〉の側にある人々と、「誇り高い」「アイヌ」とは、全く同じ列に組みするのであって、遂には血統の優劣を競いあうことでしか、相互の関係を整えてゆけなくなるに至るだろう。そのとき、「アイヌ」は「シャモ」の発想-この〈日本〉の発想をもった「アイヌ」でしかない。

 「「アイヌ」であるそのこと自体は、別段誇るべきことでも卑しむべきことでもない」。ぼくもそう思う。しかし、「「シャモ」であるそのこと自体を「アイヌ」に誇り続けてきた〈日本〉の側にある人々と、「誇り高い」「アイヌ」とは、全く同じ列に組みする」とは必ずしも言いきれない。「アイヌであることに誇りを持とう!」という発想は、それが共同化されてゆけば、ナショナリズムとして他との優劣を競う関係を持ちたがるが、その根底には、自分を育んだ共同性に対する素朴な信頼感や愛情が潜んでいるのであり、それは否定されるべきでも特異なことでもなく、自然なことである。

 だから、「「アイヌ」は「シャモ」の発想-この〈日本〉の発想をもった「アイヌ」でしかない」とは言い切れない。この発想の根底はむしろ普遍的なものだと言うべきである。

 このような〈日本〉の発想を不知不識に抱え込んでいる者こそ、〈日本〉の意識へ同化しつつある者である。この〈日本〉の施政者たちが推し進めてきた同化政策の真底の恐ろしさは、ここにあるのだ。この〈日本〉に屈服せず、抵抗し、打倒しようという意図の下に、様々のことばで「アイヌの復権」が叫ばれているが、自らの内に浸透している〈日本〉を対自化できない限り、それらの主張は、敵とみなしている当の相手の裏返しにすぎない論理だということを知りえない。例えば、「アイヌ共和国」という轟感的なアドバルーンを掲げた者へ追従する「アイヌ」なる者たちには」次のように言っても何のことかわからないだろう。即ち、君たちの「アイヌ共和国」にも必ず「異民・異族」は創り出されるだろう、と。

 佐々木の内省にぼくは共感するけれど、内なる「日本」を対自化せよというメッセージはアイヌをがんじがらめにしてしまう。この発想は日本のものだとしても、ひとつ日本のものだけではない。共同性のある段階では誰もが持つ普遍的なものだ。「君たちの「アイヌ共和国」にも必ず「異民・異族」は創り出されるだろう」そのことは真理だと思うし、それゆえ琉球共和国であれ奄美の独立であれ、そこに積極的にコミットを躊躇させる理由がそこにある。しかし、それを希求せざるをえない必然性を持つ段階はある。ぼくたちはもっと底のほうからゆったり構えていく必要があるのだ。


『幻視する“アイヌ”』(佐々木昌雄)

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2010/03/01

「文学が語る『薩摩侵攻400年』」

 大橋愛由等の<奄美ふゆ旅>の報告(「南海日日新聞」2月19日)。

(前略)翌日(1月19日)は和泊町歴史民俗資料館を訪れ、先田光演氏が迎えてくれた。さっそく去年からの研究成果を聞いてみたのである。
 去年先田氏は、『薩摩侵攻四〇〇周年記念藩政時代の沖永良部島の詳録』(和泊町)という告料・解説集を刊行Lで「薩摩侵攻400年」を考える沖永良部からの祖点を再構築した。藩政時代の資料を読み直すことで、「先田史観」ともいうべき視座を展開している。

その大きな特徴として表れているのは、沖永良部からの「薩摩世」に対一する評価である。島は、1609年の軍事侵略以降、薩摩の支配を受けながらも、薩摩と琉球に「両属」することになるのだが、沖永良部は、「両属」することによって、薩摩・琉球の両方の特質を吸収して積極的に島独自の社会や文化を形成していった。その例として、沖永良部の各地で見られる「ヤッコ踊り」は、薩摩から踊りの様式を、琉球から歌詞を取り入れ島で独自に阻噂して発展させたことを挙げる。こうして沖永良部島にかって「両属」は負的側面ばかりではなく、むし久「両属を活用した」(先口氏)と積極的に評価して、「400年語り」は各島ごとに差異があることが確認できるのである。

 以前にも指摘したことだが、薩摩と琉球への「両属」という視点は、両者からの政治的な否定という本質を踏まえなければ、ふやけた視界を得るしかないと思っている。奄美の置かれた関係の絶対性は、「あれもこれも」ではなく、「あれでもなくこれでもなく」だからである。

 しかし、「両属」の視点が沖永良部島から出ていることに根拠があるとしたら、黒糖収奪が南ニ島で遅れたように、沖永良部島と与論島は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という規定のうち、「奄美は琉球ではない」という規定は北の島々に比べて弱かったということはできる。また同様の理由で「奄美は大和ではない」という規定も緩和を受ける。その二重の疎外の強度の低さが、両方の文化の吸収という余地を生んだと捉えることはできるだろう。

 『薩摩侵攻四〇〇周年記念藩政時代の沖永良部島の詳録』は、ぜひ読んでみたい。

(中略)奄美大島に到着すると、奄美市名瀬にある西和美さんの店「かずみ」に行く。もうすぐ2枚目のソロアルバムの収録に入るという和美さんのうたを聴くと、大島に来たのだという実感が沸々とわいてくる。

 そこに、詩人で本紙の文芸時評を担当している仲川文子さんらが到着。詩人仲間として語り合い、話題は奄美の文学全般に及んだ。わたしからは、奄美に旅立つ直前に神戸文学館(神戸市灘区)で「神戸震災文学を語る…詩・短歌・俳句・川柳」とのテーマで、シンポジウムを開催したこと触れ、震災にかかわる文学の評価と課題を整理する意味でも有効であったと報告。そうした意味で、奄美に大きな足跡を残した島尾ミホさん亡き後の「奄美文学」のありようについて語るイベントやシンポジウムが設定されてもいいのではないかと提案したのであるかそして、今年夏に行われるカルチュラルタイフーンでも、「奄美文学」をテーマにすることを予定していることもあり、「400年語り続編」は文学がらみで進めていきたいと思っている。(図書出版まろうど社代表)

 ポスト島尾ミホの奄美の文学の行方はぼくも関心がある。ぼくは、無謀かもしれないけれど、与論島の文学という視点からも接近してみたい。


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