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2010/03/17

「江戸立コースの前提としての薩摩藩の奄美諸島分割支配と道之島の役割」

 弓削政己の考察、「江戸立コースの前提としての薩摩藩の奄美諸島分割支配と道之島の役割」は、ぼくの知りたいことに急接近している。

3、まとめ

1)島津氏は、もともと、「大島」支配を計画していた。結果的には、この「大島」は今日の「奄美諸島」である。
2)島津氏の領土支配について、当初は琉球も含めた支配という懸念を琉球側はもっていたと考えられる。

3)そのため、琉球国保全のため、琉球古来の領土意識から、古来の領土の伊平屋島一島を割譲して、支配を免れようという意識。そのことが、『歴代宝案』の「一指舎てずんば肩背の全きを保ち難し、と。挙国の官民、奈んともする無し。(王府は)議して、北隅の菓壁一島を割き、民の塗炭するを扱う。」と、与論島ではなく伊平屋島が古来の琉球領土の「北隅」という文言に現れていると考えられる。
4)琉球尚寧王、琉球側の領土認識は、「古来の伊平名以南の琉球領土」と「奄美諸島を含めた領土」という二通りの意識がある。

5)ここで指摘できるのは、島津氏は、「琉球古来の領土以外の島々を支配した」といえる。前提として「大島」=与論島・沖永良部島を含む領土が奄美諸島という島津氏、薩摩藩側の認識があったと考える。
6)ただ、琉球古来の領土の一部をなぜ割譲しなかったのかという明確な根拠はまだない。ただ、幕府の自明勘合貿易復活政策と関係しているかもしれないという問題意識を保留しておきたい。
7)奄美諸島を巡る「領土意識」について、内部の主体、大和側、琉球側からの変動という点から、今後の検討が必要であろう。

 「結果的には、この「大島」は今日の「奄美諸島」である」というときの、この「結果的」というニュアンスは難しい。島津氏が「大島」支配というとき、それは、奄美大島のみを指していたのか、それとも今日の奄美諸島を指していたのか。弓削は「結果的」に奄美諸島としているが、ここには「大島」が「大島」一島と奄美諸島がどちらも指しうることを意味している。それは現在の「大島郡」の感覚と同じである。しかしその「大島」のみではない諸島の範囲は、厳密に与論島までを含む現在の奄美諸島の範囲であったのか。その辺りの島々というときの周辺は、曖昧ではなかったのかとも思える。

①「疎かに日本の薩摩州の倭奴他魯済(大将平田太郎左衛門尉増宗)・呉済(副将樺山権左衛門尉久高)等、党を鳩(あつ)め海島に流毒し属地に肆蔓(はびこる、ほしいままにおごる)す、と警報するを聞き・・・、三月内、先ず葉壁山(伊平屋島)・奇佳山(喜界島)等の処、蜂号(のろし)を連放するに拠り、虚惨(悲惨な状況)を伝報す。」
②議して北隅の葉壁一島を割き、民の塗炭するを抷う。(『歴代宝案』訳注本第1冊p539 沖縄県教育委員会1994)

 しかし弓削は、「葉壁山(伊平屋島)・奇佳山(喜界島)等の処」と、伊平屋と喜界島「等」としていること、また、「北隅の葉壁一島」という表現を根拠に、「大島」とは、現在の奄美諸島の範囲を指していると仮説しているように見える。

 ここでもうひとつ、琉球には、古来からの領土として「北隅」を伊平屋としていることから、琉球にとっても、伊平屋島までが古来の領土観としてあっただろうとする。ここで「古来」とは、ぼくには中山のもともとの勢力範囲とみなせば、理解しやすいと思える。その挟み撃ちとして、沖永良部島、与論島は「大島」の範囲とされたのではないかという可能性は残る。

 一方、俯瞰した視線からいえば、喜界島、奄美大島からはじまる諸島のまとまりは与論島で終わり、沖縄島からまた始まる。その感覚は現在の奄美諸島の範囲を決定する補助線となったには違いないと思える。

 細部にわたり正確にことを把握していこうとする弓削の志向性に助けられて、不明な領域を探る手がかりを持ち始めている。


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