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2010/02/17

「近代化への出発」2

 弓削政己による「近代化への出発」、続き。

 ■実現しなかった「大島県」構想

 奄美諸島の行政官庁名・区域はめまぐるしく変わったが、その変遷を表「近代(明治初智の奄美諸島の行政変遷」としてまとめた。ただ、このめまぐるしさには、明治政府と県との奄美を巡る攻防があった。以下、結論的に1大支庁・4支庁制度と金久支庁、および種子島に郡役所が新設された背景について触れておきたい。

 弓削によれば、明治初期の奄美における行政のめまぐるしい変遷の背後には、政府と県による攻防があった。

 1875(明治8)年6月12日に大島大支庁・喜界島支庁・徳之島支庁・沖永良部島支庁・与論島支庁が設達された理由は、当時日本が赤字貿易であったことだ。その第2の輸入品が砂糖であり、大蔵省は貿易赤字対策として国内の砂糖増産を計っていた。奄美諸島の砂糖増産は鹿児島県下では望めないとして、独立県の「大島県」を設達しようとした。その提案は大久保利通内務卿の反対で実現されなかった。逆に大山県令は、「表」にあるように鹿児島県下の行政区として1大支庁・4支庁制を提案し、大久保内務卿を通して決定されたのである。

 「奄美諸島の砂糖増産は鹿児島県下では望めない」として、大蔵省は「大島県」を構想する。これは大久保利通の「否」によって実現されなかったが、代わりに「大島大支庁・喜界島支庁・徳之島支庁・沖永良部島支庁・与論島支庁が設達された」。相変わらず、文脈がうまく飲み込めないのだが、大蔵省案は否定されたものの、鹿児島県としても砂糖増産を目論むから、与論という小さな島まで「支庁」を置く案が通った、ということだろうか。

 金久支庁設置は、奄美の行財政を奄美島民の地方税、国の支出、奄美内の県施設の収入からなる鹿児島県財政から切り離した「分離経済」「独立経済」との関係があった。

 県当局は、分離経済を実施したら、奄美諸島は「忽チ言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当野という認識で反対をしていたが、県議会の多数は分離経済を求めた。その折衷案上して行政運営費を国が負担する長崎厳原支庁の例に倣って金久支庁が設麿されたのである。

 県当局は「独立経済」にすれば奄美は、「言うべからざる惨状に陥る」のは当然との認識から反対するが、議会の多数は独立経済を求めた。その折衷案として、「行政運営費を国が負担する」ことになり、その施行のために「金久支庁」が設置される。

 その後、金久支庁の行政運営費が余った。時の島司の森岡真は、1887(明治20)年8月奄美の地方税が5400円余ったが、このような地方税を「内地事業へ補翼(ほよく)」するよりは、奄美諸島で使用する「分離経済」がよいとの考えを上申(「大島一件」)、そして、結果的・本質的には疲弊をもたらす分離経済の方向をとった。

 余った行政運営費を「内地費用」に充てるよりは奄美に、という経緯で、独立経済を島司は受け入れた。

 この解説でぼくたちはようやく、「独立経済」突入の契機を知る。しかし、ことはある意味、成り行きだったということではないか。

 種子島へ郡役所を県は新たに遷したが、国は鹿児島裕山北大隅郡役所の管轄区域に編入の指示を出していた。県は甑島の風災害による甑島島民の移動が離島同士の種子島へ設置をした方がスムーズにいくという考えであった。政府方針に反した措置をとった渡辺千秋県知事は1889(明治22年4月「処分伺」を政府に提出したが、政府はやむをえないということで処分をしなかった。

 このように、奄美諸島の行政編成は、当時の国際貿易への大蔵省の対応、政府部内の考え、県内の方策などとの関連、また、1884(明治17)年、瀬戸内への支庁設置の3度にわたる「移転請願」運動という奄美諸島内部の動きも孕みながらの単なる名称変更ではなかった。このような背景を抱えながら、奄美諸島の近代は歩み始めるのである。(奄美郷土研究会)

 ぼくたちは、弓削のこのたびの論文により、。高江洲昌哉の「近代日本の地方統治と『島嶼』」でもなかなか理解に至らなかった、「独立経済」突入の契機を知ることができた。「独立経済」ではやっていけない。しかし、それを県議会の多数が望み、奄美のためのことができないのであれば、国庫負担の余剰も出たこともあり、独立経済を選択するしかない。つづめていえば、そういうことになると思える。



 

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