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2010/02/03

『あんご愛加那』

 小説『あんご愛加那』は、西郷隆盛の島妻であった愛加那の半生を描いている。

 ここに西郷隆盛は影のような存在としてしか登場していない。たとえば、奄美のぼくたちがよく知る、大島に遠島された直後に、露骨な蔑視を島人に浴びせた、そのことは描かれない。また、大島商社の設立に関与したことも書かれない。いかしそれは、西郷が鹿児島でそうであるのと同じように美化されているのとは違っている。この作品にあって愛加那が直接知っている範囲が、西郷の全体像なのだ。だから、愛加那に会う前に、島人に蔑視を浴びせたことはもちろん、大島商社設立や西南戦争などの政治的なことはなおさら、知りえないことになる。

 その分、西郷隆盛は半身としてしか登場しないことになる。しかし、この作品で西郷は半身というより影、である。そうなるのは、作者が西郷という人物を捉えきれないことも作用していると思える。作者は、西郷を正面から捉えているわけではない。だから、愛加那との愛情の交し方もパターン化されたものとなって固有の深みを覗かせてくれないのだ。西郷の全体像は誰も捉えきれたことがないのだからと去ってしまいたいが、愛加那の葛藤を通じた情念からはもう少し、西郷評を切り込ませてほしかったところだ。

 『あんご愛加那』でリアルなのは、なんといっても愛加那の心理である。特に、母としての愛加那の心理だ。その心理に切実である度合いに応じて、子の菊次郎と菊草はリアルな人物像となっているし、正確にいえば、菊草は母に寄りそった時間が菊次郎に比べて長く、また幾分は母の分身的な存在である分、菊次郎よりリアルだ。ぼくたちは、この作品で、愛加那の母としての心理劇を追うことになるだろう。

 奄美の歴史や風土について、ぼくたちが期待するほど、深い見識で支えているわけではない。なにしろ、「トウトウガナシ」はこの作品では「呪文」として終始、言及される。まあ呪文には違いないのだが、尊称や感謝としての含意がそがれるのは、作品のニュアンスとして惜しいと言わざるを得ない。

 ただ、深く知るわけではない切り口からは、時折、はっとする視点が投げ掛けられる。

 郷中では「親に口応えをするな」とか「年長の者を敬い、幼少の者をいじめるな」とか「先輩の 教えにそむくな」ということは教えるものの、「人を差別してはいけない」ということは教えなかった。武士の社会は身分差別によって組織化されていたからだ。そのため郷中の仲間はよってたかって菊次郎をいじめた。

 郷中教育は、長幼の序とその絶対化を教えても、「人を差別してはいけない」とは教えない、というのは端的に見事にその内実を言い当ててくれている。そして同時に、それが西郷の子である菊次郎や菊草にも及んだからこそ、大島に心の赴くままに帰るわけにいかなくなった背景も感じられてくる。近代奄美のぼくたちの物語は、愛加那の子たちの物語に原像があるのかもしれない。

 菊草に会いたがる母に対し、周囲が、鹿児島に行けばいいと言ってみる。愛加那は答える。

 愛加那はうつむいて首をふり、手の甲のハヅキを撫でる。
 明治九年にハヅキは禁止され、ハヅキ大工も廃業して藍を刺すことが出来なくなった。それに六十路を目前にした愛加郡の手は骨や血管が浮き上がり、しわが増えて浜昼顔の四つの花は定かではない。それでも島の女の愛加郡にとって、ハヅキは今も命から二番目の大事な心の財産なのである。ハヅキを隠して本土で暮らすわけにはゆかない。
 子どものころ菊草は淋しくなると身体を寄せ、ハヅキを指差して口ずさんだものだ。
「これがアンマでこれがジュウ、これがヤンメでこれが菊……」
 その声が耳の奥によみがえり、小さな指の感触が思い出されて涙がこみ上げる。
「ワンは島のあんご。ウラも菊草も島で生まれ、島で育ったシマンチユ。自問の家を守るためにいとこの丑熊を養子にした。苦しい時はいつでも戻って来しょーれ。菊ももうジュウにもヤンメにも会えたのじゃから、いつでも帰ってくるように伝えてしょーれ」

 この作品では、入墨としてのハヅキが、奄美と鹿児島を分かつ文化の差異の象徴として現れる。西郷も、ハヅキを忌み嫌い、許容しない態度でそれには接していたのだった。そう、描かれているのにはリアリティがある。

 ぼくは、ここに描かれるように、実際も、遠島された徳之島で愛加那と子どもたちと西郷が面会できたのかを知らない。また菊次郎の帰省もここにあるようなものかどうかを知らない。けれど、結局はそばにいたい者を奪われて孤独に過ごさざるを得なかった愛加那の寂しさは伝わってくる。それは島を離れることを宿命のように背負い続けている者には今も他人事ではない物語だ。

 しかし愛加那の孤独は掬われることなく終わるのではない。菊次郎の死後二年経って、若者が愛加那の墓に詣で、その後、墓石が送られる。そこには「龍愛子の墓」と記されている。そう、若者は菊次郎の息子、愛加那の孫だった。これもぼくは史実かどうかを知らない。けれど、孫が掬いあげるのはまっとうな結末だと思う。それは、島尾敏雄、ミホ夫妻を孫の手が受け止めているのを思い出させる。


    『あんご愛加那』

Angoaikana

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