« 「薩摩侵攻401年」展望 | トップページ | 「経済の近代化」2 »

2010/02/21

「経済の近代化」1

 ふたたび、弓削政己が奄美の史実認識を塗り替えようとしている。

 近世期、各藩は財政確立のために専売制など経済統制を実施した。例えば、熊本藩は1774(安永3)年櫨専売制実施、九州各藩も樟脳、紙、櫨蝋、莚、苧、茶、明礬、石炭、鶏卵を専売、統制した。その多くが「国産」「物産方」「国産会所」「産物会所」などの組織を設置してきた(『相模女子大学紀要25号)。ところが近代になり1869(明治2)年6月、政府は「商会所廃絶」の太政官布達を出した。そのため、変更をしながら専売制・統制を続けようとした。

 たとえば、熊本藩も近代以降、専売制を維持しようとした。

 ■商社との対立、県外他地域でも

 鹿児島県も同年、「琉球産物方」と奄美諸島黒糖専売の管轄役所の「三島方」を廃止し、島津家の出資金98万円を資本金として「生産方」を設立。さらにそれを引き継いで、翌1870(明治3)年に「国産会社」を設立して、薩摩藩の従来の専売の茶、養蚕の一部自由売買、黒糖の専売制などを続けてきた。奄美諸島の黒糖取引も各島の商社設立以前は、「国産会社」の専売下にあった。

 隣の宮崎の場合、島津氏の支藩佐土原藩も明治初夏佐土原商社を設立。飫肥藩は1869(明治2)年の「物産居」設立で専売制を継続、その2年後の71(明治4)年物産局は「物産会社」となった。この佐土原藩では、1872(明治5)年の第1次一揆で、「商社廃止ノ事」「(商社代表薩人)魚住源蔵、当地二おいて売買差止ノ事」が起こった(『宮崎県百姓一揆史料』、宮崎県総合博物館『研究紀要』第6号)。つまり、百姓の大豆購入を仕切っている商社を廃止。百姓の櫓・槍は「勝手次第売買と自由売買となったが「百姓からの買い上げ値腰が「下値」(安い価格)であったため、その改善を要求したのだ。

 当事者の一人、魚住源蔵は後の徳之島商社の商人の一人であった(『徳之島沿革概要』)。奄美諸島でも同年夏、太、基の両与人職と国産会社との黒糖自由売買交渉以後、丸田南里らの「勝手世運動」、黒糖自由売買連動が起きている。このよろ一な動きが他地域でも起こってきた。旧慣同様な専売制志向の県およびそれと結びついた商人らと百姓との対立は、内容に違いがあるにしても、奄美諸島だけの運動ではなかった。そのことを前提に、奄美諸島の自由売買運動を新しい知見で概観する。(「南海日日新聞」2月12日)

 宮崎でも商社による専売制が敷かれ、買い上げ価格の改善を求める一揆が起こっていた。ことは奄美だけではなかったのだ。弓削がここで最も強調したいのも、「旧慣同様な専売制志向の県およびそれと結びついた商人らと百姓との対立は、内容に違いがあるにしても、奄美諸島だけの運動ではなかった」ことであるに違いない。

 むろん、奄美では、奄美だけが専売制が敷かれてきたと言われてきたわけではない。しかしそれは比較対象を欠いてきた。そのため大島商社は相対化される契機がなく、奄美の被った困難が絶対視される傾向を生んできたのは否めない。だから、弓削の指摘は奄美にとって鎮静剤になるのである。

 一方、ぼくはここで、あの、みんな同じだったという歴史の回収思考に委ねようとは思わない。他地域との差異と同一をめぐる新たな知見を手にしたことで、奄美にとっての事態がどのような強度を持っていたのか、その固有性を精緻にする手掛かりとして弓削の史実更新を受け取るのだ。


|

« 「薩摩侵攻401年」展望 | トップページ | 「経済の近代化」2 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「経済の近代化」1:

« 「薩摩侵攻401年」展望 | トップページ | 「経済の近代化」2 »