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2010/02/28

「『宣言』で知事に公開質問」

 19日、「鹿児島県の歴史認識を問う奄美の会」は、知事伊藤に向けて、鹿児島・沖縄県の交流拡大宣言に対する鹿児島の歴史認識を問う公開質問状を提出した(「南海日日新聞」2月20日)。

 鹿児島県の歴史認識を問う奄美の会(奄美代表・薗博明さん)は19日、伊藤祐一郎県知事に対し、「交流拡大宣言」に関する公開質問状を提出した。昨年11月の沖縄・鹿児島交流拡大宣言が住民の頭ごなしに行われたことを問題視した上で交流事業の内容などを質問。鹿児島側の歴史認識についても回答を求めた。

 公開質問は県大島支庁を通じて提出した。質問は①「沖縄・鹿児島連携交流事業」と「交流拡大宣言」②鹿児島県の歴史認識③県知事との話し合い-の3点。交流拡大宣言については「県当局は奄美で準備を進めながら開催日ぎりぎりまで告知しなかったのはなぜか」「宣言には『鹿児島県の過去400年の出来事や成果を踏まえ』とあるが、それを明らかにしてほしい」「交流事業の中身を示してもらいたい」と質問。

 歴史認識については近世から現代まで奄美の民衆が経験した事例も踏まえて質問。「鹿児島県と奄美の将来を共に考えていくため」県知事との話し合いを求めた。公開質問は回答期限を3月31日と指定した。

 「問う会」は昨年発足した「交流拡大宣l言の中止を求める会」を改称した。この日、大島支庁記者クラブで会見した奄美代表の薗さんは[島津の侵略400年の時間的区切りは終わったが、提起された課題は何も解決していない」と指摘した。

 鹿児島側(仙田隆宜代表)とも連携しながら問題に取り組んでいく方針を示した。

 ぼくたちが身にまとっている諦念と摩擦回避の習性からすれば忘れて終わろうとしてしまいがちになるが、忘れない、として公開質問状を提出するのは意義がある。ここには知事との「話し合い」も提起されており、対話への通路を開こうとしているのも注目される。

 奄美と鹿児島との矛盾を最大限に引き受けた在鹿児島の奄美から、この問いが発せられていることが何より重要なことだと思う。


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2010/02/27

「代替案『容認やむなしか』 復帰の付属書に明記」

 20日の南海日日新聞は、徳之島への基地移設問題について、反対派、容認派の動きを伝えている。ぼくはその隅にあった記事が目に止まった。代替案、「容認やむなしか」とあるのだ。なぜか。

 奄美の行政分離期に群島政府知事・中江実孝氏の秘書を務めた久保和二さん(81)=大阪府吹田市=は19日、日本復帰の際の返還協定の付属書に盛り込まれた「(米国側は)群島内に新たな施設及び区域を設けることを認めるよう要求することができる」との規定に触れ、「仮に徳之島が(普天間基地の)代替地に決まった場合は容認せざるを得なくなるのではないか」と指摘。「規定を念頭に置いてこの問題に対処することが肝心だ」などと話した。

 久保さんは、奄美市名瀬の県立奄美図書館会議室であった復帰運動史に関する勉強会(10人出席)で講師を務めた。席上、久保さんは返還協定の付属書について①奄美群島の全領海を含む上空の自由な使用を認める(領海領空権の保護)②基地新設のため米当局者の現地視察を日本政府への通告のみで認めること-などの内容を飽きたかにした。

 その上で久保さんは「(反対運動も)この規定を頭に入れて行うことが大切。(規定は)早く削除すべきと思う」などと訴えた。

 奄美群島の返還協定は1953年12月24日に衆院で承認された。国会の承認を必要としない付属事には「日本政府は復帰後の奄美群島の行政に際し沖縄の基地機能の推嘩強化のために米国が必要とする要求に対してはこれを認める」ことが明記されている。(「南海日日新聞」2月20日)

・奄美群島の全領海を含む上空の自由な使用を認める(領海領空権の保護)
・基地新設のため米当局者の現地視察を日本政府への通告のみで認めること

 これはまるでいざとなれば奄美への基地誘導が可能であることを示しているように見えるではないか。この付属書が現在も有効であるのかをぼくは知らない。けれど、この群島政府知事、中江実孝の秘書を務めた久保さんの証言は、この問題に新たな視点をもたらしてくれる。

 奄美にとっても、戦後の問題も復帰の問題も終わってはいないということだ。


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2010/02/26

「『普天間』の徳之島移設問題」

 「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」の松島泰勝さんが「普天間」の徳之島移設問題について、インタビューに答えている(「南海日日新聞」2月18日)。

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設候補地として徳之島が浮上した問題が波紋を広げている。徳之島の3町長は15日、「移設に断固反対」を決議した。反対運動が広がりを見せる一方、反対以外の立場を表明する住民もいる。基地問題や住民自治に詳しい龍谷大学(京都)の松島泰勝教授に「徳之島移設問題」を聞いた。

 松島さんが言うのは、沖縄の現状に学べということだと思えた。

-普天間基地の徳之島移設問題を知ったとき、どう感じたか。

 「本紙記事で徳之島への移設が取りざたされていることを知った。徳之島に基地が建設されることで、住民生活に大混乱が生じることを民主党政権は予想できないのだろうか。人間が生きる島であるという基本的なことを忘れており、『友愛』を語る資格はない。普天間基地の代替施設建設は米軍が求めていること。日本政府は、米軍の手先となって動いており、自国民に対する人間の情が欠けている。しかも民主党議員は『徳之島の人が東京に行って官房長官に会え』と、上から見下した言い方をしている。島の人間をバカにした発言であると、怒りがこみ上げてきた」

 民主党政権の態度は煮え切らない分だけ、前政権と異なり、その分、長い目でみなければという思いが過ぎるが、それも事態の切迫感の前には霞んでしまうのは否めない。

-基地の島・沖縄の実態は。全国の町村が基地を受け入れない理由は何か。

 「沖縄島、伊江島に米軍基地が集中している。爆音や土壌汚染、米軍機の事故、軍人による事件が日常的に発生しています。1995年には少女が3人の米兵にレイプされ、2004年には沖縄国際大学に普天間基地のヘリコプターが墜落した。昨年末も読谷村で住臣が米軍車両に轢かれて死亡した。全国の市町村が受け入れない理由は、毎日不安におびえ、最悪の環境の由で過ごさなければならず、人間としてまともな生活ができないことを沖縄の実態から知っているからだろう」

 加えるに市民エゴと沖縄への無関心あるいは低関心。市民エゴは一概に否定するものではないが。

 -米軍基地の誘致で地域経済は活性化するのか。

 「普天間基地移設先と当れた名護市や、その他の池絶島北部地域に対して196年からさまざまな基地関連の振興開発資金が投下された。インフラが整備され、真新しい施設が建設された。公共事業が実施されている間は景気が浮揚するが、短期的なものでしかなく、常に外からの投下資金を必要とする依存的な経済構造となる」

 これと同じ構造を、奄美は奄振で知っているとは言えるだろう。

 「さらに、インフラや揃設の維持管理費は市町村の負担になるため、財政的に厳しい状態に陥っている。名護市の商店街はシャッター通りとなり、沖縄平均(全国最大の失業率)よりも牛一業率が高く、その他の沖縄島北部地域でも過疎化が深刻になっている。基地の誘致で地域経済は活性化するのではなく、かえって外部資金に依存した経済が形甜され、自治の力を奪い、経済活力が減退するというのが沖縄の実態」

 しかしその奄振が心もとなくなってきたのが、反対運動一色にならない契機をなしていると思える。

-徳之島の地域振興はどうあるべきか。

 「徳之島には、アマミノクロウサギをはじめ貴重な動植物、長寿社会、多様な農産物など多くの宝がある。地産地消を促進し、有機農産物のインターネット販売等のほか、エコツアー(環境と観光)、ブルーツアー(漁業と観光)、グリーンツアー(農業と観光、ウェルネスツアー(健康と観光)等の観光業も発展するのではないか」

 「高齢化の進んでいる日本において徳之島は『楽しく豊かに生きる長寿の島』としてモデルになる可能性もある。しかし、基地が建設されると島の高良の多くは破壊される。また基地依存経済において、多くの利益を得るのは島外の企業や人、政治家などであり、カネが島の中で循環しないというのが沖縄の経験だ。沖縄での失敗を徳之島で繰り返さないことを強く望む」(聞書手・久岡 学)

 ぼくたちは松島さんの心ある声を受け止めつつ、徳之島、そして奄美の生きる道を掘り下げなければならない。

僕の印象は一人の徳之島二世としての印象ですが、もしこの印象が当たっていれば島で暮らしている人たちの切実さはどれほどのものだろうかと心配します。昨年12月に島に墓参りに行った時もやはり街の印象は人が少なくなったなーという空気でした。でもそれは徳之島だけのことではなく奄美諸島全体のことで、それは寂しさではなく、程よい状態になったのかもしれません。ただそれを寂しいと感じる島の声が上がり、一人でも多くの徳之島の島んちゅを増やすためには産業がないといけない。それは農業では満たされない、大きな産業が無ければならないという声が切実さを伴って米軍普天間飛行場移設の話と結びついたら、それは『徳之島自立論』になる可能性はあると心配するわけです。(「徳之島への米軍普天間飛行場移設が『徳之島自立論』につながる可能性」

 内省する奄美の声に納得を与えられるものを得るためにも。


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2010/02/25

「Yay Yukar Park」65、が届いた

 計良さんから「Yay Yukar Park」、ヤイユーカラ・パークが届く。

 ぼくはいつものように、アイヌ刺しゅうのデザインを見る。なんとなく見入ってしまうし、与那国島で見たデザインと似ているので、南と北がつながるようで心地いいのだ。

 計良さんは、唐獅子に書いた「奄美が見えますか?」の記事を引いて、書いている。

 我々に見えていないのは奄美だけではない。自らに問いかけなければならないことが、あまりにも多すぎる。だからこそ、「見えますか?」と問い続けなければならないだろう。(「Yay Yukar Park」65)

 恐縮するのだけれど、自分に引き寄せれば、ぼくたちもまた自らのことに追われて見えないことは多い。自分たちを見つめ、可視化していくことが、他が見えてくることにつながると信じたい。


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2010/02/24

「鹿児島奄美会誌」、到着

 『鹿児島奄美会誌』が手元に届いた。526ページと相当のボリュームだ。
 このなかにぼくがいるという実感はあまりない。けれど、このなかには両親の苦労が込められている。そうは思える。

 本誌の発行によって、鹿児島の地で、生活苦にも敢然と立ち向かい、奄美同胞として、協力しながら郷土愛をはぐくみ、子弟の教育と生活の向上、事業の発展に勤しんできた先人達を思い起こし、今後とも奄美出身者がますます発展する糧となれば幸甚のいたりであります。

 「鹿児島の地で、生活苦にも敢然と立ち向かい」というところ、胸に迫る。中を開いてみると、身内の顔も見えた。いつか、鹿児島内奄美の生に思いをはせるとき紐解くだろう。大事にしたい。


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2010/02/23

「南海日日新聞に望む」

 南海日日新聞に、「若者が帰って来れる環境を」と題した景況アンケートの結果が出ている。「南海日日新聞に望む」という項目の記事が印象に残った。

 南海日日新聞に望む

奄美の方向性を示し、もっと地元ニュースを「社として奄美の方向性を示してもらいたい」「独自のテーマによる特集記事を増やしてほしい」「島内の企業をもっとアピールするような記事を」「いろんな人が奄美にはいるんだということが分かる記事をさらに多くしてほしい。いろんな考えを持って、いろんなことに挑戦している人がいることを紹介してほしい」「もっと地元のニュースを多くしてほしい。今はインターネットの普及で対外的なニュースはいつでも見られるから」「地域、行政、民間、企業の連携を図り、奄美をアピールする態勢をつくってほしい。いろいろな物事に賛否両論はあるが、前向きの論説が必要だと思う」「諸団体や会議等で表面に出てこない建設的な意見なども取り上げ、社説として掲載し、問題意識へのカンフル剤にしてはどうか」「住民のニーズをもっと吸い上ぼてほしい」。

ネットや紙面を活用したアンケート調査を定期的に。ネットの充実宅明日まで待てないニュースをネットでいち早く流してほしい。これからの新聞社はネット社会との共存だと思う」「もう少し島外の経済記事がほしい。広告料金を安くしてほしい」「多くの人が喜んでもらい、購読者が増えるよう努力して」「ホームページ、携帯サイトがみすぼらしい。デジタル人が少ないのでは。部数減少に対応していない」「お客さんへのPRに(新聞を)使っている。購読層を取り込むためのレイアウト、価格の値下げを(今でも安いが)」「コーナ上を減らして広告費を抑えて」

 5年ほど前、週刊誌の担当者とディスカッションしたとき、週刊誌が読まれなくなっている。週刊誌の記事をWeb化してそこで有料化したい、と。こう聞かれたので、ぼくはそんなことをしても誰も会員になりませんよ、と応答したことがあった。今になってようやくWebは作られたが、何の変哲もない週刊誌の紹介サイトになっていた。これだけなら5年前にすぐにやれたでしょうと聞くと、こうするのにもこれだけ時間がかかった、担当者は病になった、という返事。当時、記者の高い給与を確保するために思い切ったことができないと言われたのをよく覚えている。

 また昨日、電通の「日本の広告費」によれば、2009年、ネットの広告費が新聞を抜いたことが明らかになった。

 (TV)>(ネット)>(新聞)>(雑誌)>(ラジオ)

 しかもこのなかで伸びているのはネットだけである。新聞が特権的だった時代は終わり、改めて新聞のよさを見直すときにに来ているわけだ。


 さて、この「南海日日新聞に望む」の声に触発されて思ったこと。
 奄美から遠く離れている身としては、南海日日新聞は、地元の動向、空気を知る大切な媒体だと思う。この新聞の読者を奄美の住民だけでなく、島外で奄美に関心を寄せる人々もはっきり視野に入れたらどうだろう。

 紙面は、全国紙に共通するものは要らず、地元の情報に特化する。できれば、奄美大島メインではなく、他島の情報も増やしてほしい。いまはブログやツイッターなどで、島外でも地元の動向、空気を知ることはできる。しかし、インターネットを見ない方も多いだろうから、ブログやツイッターの記事を、新聞に掲載する。新聞に掲載されるのは嬉しいことだから、発信者へは承諾のみで買い上げはしない。そうすれば、ブログやツイッターは新聞の敵役ではなく共存者になるのではないだろうか。

 紙面は、広告掲載だけではなく、クーポン券なども入れて販促紙にする。この期間に島に来てくれればプレゼント、と島外者への販促も入れる。

 南海日日新聞が、奄美と奄美外を含めた奄美圏紙になる、というイメージだ。



 


 

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2010/02/22

「森林伐採 対立の火種」

 去年、400年問題について追っていた斎藤徹による記事だ。

 この問題をの行く末を決めるのは島の人だ。しかし、この問題の解決を島の人だけの問題だとすることはできない。広く多くの人に知ってもらうということは、島の人だけに解決を任せない一歩になる。瀬武が総意で賛成しているのが事実としてだが、ここでの構図は、チップ工場が地元の雇用を生むが、加計呂麻島全体の自然を損ない旅人を減らし、別の雇用を奪う可能性を持っている。

 島外を巻き込みながら、加計呂麻島全体が生きる道が模索されなければならないのだと思える。


森林伐採 対立の火種 加計呂麻島
2010年02月22日


チップ工場建設予定地ではすでに整地作業が始まっている=8日、加計呂麻島

 奄美群島の加計呂麻(かけろま)島。映画「男はつらいよ」の舞台にもなり、「にほんの里100選」に選ばれた風光明媚(ふう・こう・めい・び)な島が揺れている。大規模な森林伐採計画が持ち上がっているからだ。鹿児島市の企業が今夏の操業開始をめどに、紙の原料となるチップ生産に乗り出す事業計画書を瀬戸内町に提出。35年間かけて島の森林面積の4分の1で伐採する内容が盛り込まれている。地元では「雇用につながる」「景観や水源の破壊につながる」と賛否の声が上がっており、島を二分する対立が懸念されている。(斎藤徹)

 島北部の瀬武(せ・たけ)集落につながる県道沿い。数十本の木が伐採され重機で整地された場所がある。ここに木材を細かく砕いて紙の材料になるチップの生産工場が計画されている。近くの桟橋は建設資材で埋められている。

 「島に雇用が生まれれば、ちょっとは夢のある島になると思う」。1月29日、島内で開かれた住民説明会。チップ工場を計画している鹿児島市の「大東海運産業」の担当者はこう強調した。

 同社によると、ここ数年の中国や東南アジアでの紙需要の高まりで製紙原料の輸入材が入手しづらくなり、国産のチップが見直されているという。屋久島で50年間チップ工場を操業してきた実績を持つ同社が新たに目をつけたのが加計呂麻島だ。昨年10月に現地の関連会社の法人登記を済ませ、用地買収を進めている。

 地元の瀬戸内町に提出した事業計画書では、伐採や工場の要員として計約30人を地元優先で採用。チップを生産するため35年間で森林1700ヘクタールから木を切り出す。伐採後は若木を植林するという。

 「働く場があれば、若者も戻ってくる。島を元気づけるためには工場は必要」。瀬武集落の川畑義夫区長(74)は歓迎する。同地区の人口はわずか26世帯44人。65歳以上の割合を示す高齢化率は60%にのぼる。会社側は雇用のほか住民の生活支援も約束した。集落の総意として賛同しているという。

 同社の伐採計画面積は島の森林約6900ヘクタールの4分の1を占める。「大規模伐採で島がハゲ山だらけになるのではないか。森の動植物にも影響が出る」と、危機感を抱く住民たちは今月初め、「森林伐採に反対する加計呂麻住民の会」を結成、島外者も含め10日間で2200人の署名を集めた。

 「山の保水力を増やすには老木を切って山を再生させたほうが良い。伐採はむしろ島の山を守ることにつながる」とする同社の主張に、飲食店を営む橋口満廣さん(53)ら住民の会側は「伐採は飲み水の水源にも影響を及ぼすのでは」と納得しない。

 Iターン者を含む観光業者も不安を募らせている。島のたたずまいにほれ込み10年前、東京から移り住んだ観光ガイドの寺本薫子さんは「にほんの里100選に選ばれてから観光客も増えてきた。多くの人が『心が落ち着く。また訪れたい』と言ってくれる。島の魅力が失われる」。

 中立的な立場の住民の間にも「大多数の島民に知らせないまま計画を進めていた会社側の対応が島民の疑心暗鬼や島民同士の対立を招いた」とする指摘がある。国政選挙のたびに島を二分した対立の新たな火種になることへの警戒感を強めている。

 許認可権を持つ町当局の姿勢はどうか。今のところ「事業計画書を精査している段階」として、行政手続きを粛々と進めるにとどまっている。計画書に問題がなければ、町は今後、有識者らが加わった審議会に開発の是非などを問うことにしている。

 これに対し、環境問題に取り組んでいる「瀬戸内町環境守る会」会長で元町議の内山忍さん(83)は「町はリーダーシップをとり事態を収拾する方向に持っていくべきだ。後追い行政では混乱は増すばかりだ」と手厳しい。
 当然のことながら、伐採計画は加計呂麻島全体にかかわる問題と重く受け止める町幹部はいる。その一人は「島民の合意なしに事業を進めることはしない。100選に選ばれたことや世界自然遺産を目指していることも考慮した上で判断することになる」と慎重な構えを見せている。

 「にほんの里100選」事務局の森林文化協会によると、「100選」に選ばれた地域で大規模な開発計画が浮上しているのは、加計呂麻島だけだという。

 「にほんの里100選」選定委員で京都大学大学院の森本幸裕教授(景観生態学)の話 老木を伐採して若木を植えれば保水力が増すという会社側の説明は乱暴だ。保水力は地質と土壌の厚さなどが大きな要因。皆伐は土壌侵食を招いて保水力の長期的低下を招く恐れもあるが、帯状伐採などの方法をとれば影響は緩和できる。計画は企業とその雇用者に経済的メリットが生まれるが、「にほんの里100選」で評価された一級の自然観光資源をいかせば、島民だけにとどまらず幅広い人々が関心を寄せるだろう。それを踏まえた上で、町や島民は今後の方向性を選択するべきだ。

 加計呂麻島 大島海峡を挟んで奄美大島の南に位置する面積約77平方キロの島。リアス式海岸と豊かな自然に恵まれている。主な産業はサトウキビ栽培や真珠養殖。映画「男はつらいよ」最終作「寅次郎紅の花」のロケ地になり、山田洋次監督は故・渥美清さんが演じた主人公「フーテンの寅さん」が「今も暮らしている」と語っている。昨年1月に「にほんの里100選」(朝日新聞社・森林文化協会選定)に選ばれた。人口1490人(1月末現在)。

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「経済の近代化」2

 その弓削が披歴する新たな知見から浮かび上がるのは、島役人の二重性である。

 ■1874年春に大島商社の専売制

 もともと、鹿児島県の「産物品建」(明治2年)の総入金の49・7%は黒糖であり、県歳入中の島々砂糖は、その17.4%(明治4)を占めるほど比重が高かった(『鱈児島県史』3巻)。1072(明治5)年9月11せ琉球が県の支配地から分離され「琉球藩」となった。それは県の税収減を意味する。

 鹿児島県の支配地から沖縄が分離されたことは、「県の税収減を意味する」。この指摘は重要である。鹿児島県にとってそれは奄美からの税収増への欲望の契機となっただろうからである。

 同年5月、県は大蔵省の当面1年限りの専売制許可を背景に、夏には大島の太、基と国産会社との専売制を結ばせようとした。しかし、島役人らは「島中歎願二付」という状況を背景に奮闘して、黒糖自由売買となった。「壬申(注・明治5)9月」付で、「鹿児島県庁」は「諸島詰在番」へ「勝手売買申付侯」と「申渡」があった(宮崎県文書センター所蔵)。それは1873(明治6)年】春の島民との取引から始まり、砂糖一斤=真米五合替えで、入手品物も安かったと感じていた。この県の申渡は、1875(明治8)年8月の「名瀬方伊津部村百姓中」は「壬申年…御年貢唐外は、勝手商売之段、御布告承知奉り候」と知っていた(『御廻文留写』)。

 しかし、1873(明治6)年3月30日付で、大蔵省も島民の黒糖自由売買を認めたが、大山県令は、前年に黒糖自由売買を認めながら、逆に「鹿児島商人某等ヲ遣ハシ、旨ヲ与人二諭シ「与人」(戸長)と「恣ニ一手売買ノ契約」を結んだ。大蔵省布達は「人民」に知らせなかった。そして、旧藩時代と同じく「脱糖取締役ヲ置キ、密売ヲ禁」じた。「大島商社是ナリ」という(『奄美史談』)。大島商社と島民との取引は、1874(明治7)年春の砂糖から実施。
この経過をみると、県の専売制の計画を島役人が承諾し実施されたのである。この時、島役人には、大島商社からの品物の注文権、保管権、島民への頒布権を与えられた(『意見書』)。さらに大蔵省通達は「人民」に知らされなかったが、役人層は知っていた可能性がある。

 これまで大島商社との契約のために上鹿した「太、基」の両島役人は、ただ判子を持って印を押してきた子どもの使いのように描かれてきたと思える。島中からの嘆願を背景にした奮闘もあったが、どうしても受動的な印象はぬぐえなかった。実は、両島役人は子どもの使いではなく、奄美のために奮闘したのである。

 しかし、それだけではなかった。島役人は同時に、「品物の注文権、保管権、島民への頒布権」が与えられた。つまり島役人としての奄美への支配力も維持できる手段を確保したのである。これは、薩摩藩支配の構造の形態の維持を意味した。ここに、島役人が、奄美の島人としては奄美のために奮闘し、だが奄美の実質支配権者としての島人としては藩政時代からの特権を保持しようとした二重性が現れる。しかも、弓削によれば、勝手売買に関する大蔵省通達は、島人の知るところではなかったが、島役人は知っていた可能性がある。島役人は奄美のために奮闘したかもしれないが、尽力はしたとは言えなかった、ということだ。

 そして、島津家か県か不明であり、実現はされなかったと考えられるが、黒糖増産2年計画で、数年後黒糖増産見込みであるとして、1876(明治9)年、政府に15万8千余円の拝借金を願い、黒糖取引を拡大する計画を持っていた(「鹿児島県大島開墾ニ関スル島津家願書)。また、大島商社ではなく他商人、船頭・水夫などと取引をした場合の罰則規定まで設けられていた。

 ■「薬糖」で抵抗、専売制を廃止

 大島島民は抵抗の一手段として、黒糖を「薬糖」と称して蓄えて、密かに他商人などと品物を交換し、1876(明治9)年1月から8月までの抜糖は6万斤余になるという(『鹿児島県史料四』)。また、自由売買運動の中で自由売買を実施すると大島商社との取引より1.5倍以上の利益があると試算をする(『御廻文留等写』)。運動の結果、1878(明治11)年5月18日、岩村県令は翌年からの大島商社との一手販売(専売)を廃することを決定した(「柿原意見書」)。

 他の島では、国産会社取引であったが、1873(明治6)年徳之島商設立、翌年沖永良部島商社設立、喜界島は「国産会社-生産会社」と取引をし、1875(明治8)年5月、喜界島商社が設立され商社との取引となった(『鹿児島県芝第三巻、『徳之島沿革概要』)。このような経過を経た商社体制確立と奄美諸島の島民との商取引が、近代奄美諸島の経済的出発であった。(奄美郷士研究会)

 この、黒糖を「薬糖」と称して大島商社に抵抗したという指摘もすがすがしい気持ちにさせてくれる。奄美の島人の、これは知恵である。


 ※下記は、明治5年9月、鹿児島県から各島庁詰役人への「勝手売買申付」文書。

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2010/02/21

「経済の近代化」1

 ふたたび、弓削政己が奄美の史実認識を塗り替えようとしている。

 近世期、各藩は財政確立のために専売制など経済統制を実施した。例えば、熊本藩は1774(安永3)年櫨専売制実施、九州各藩も樟脳、紙、櫨蝋、莚、苧、茶、明礬、石炭、鶏卵を専売、統制した。その多くが「国産」「物産方」「国産会所」「産物会所」などの組織を設置してきた(『相模女子大学紀要25号)。ところが近代になり1869(明治2)年6月、政府は「商会所廃絶」の太政官布達を出した。そのため、変更をしながら専売制・統制を続けようとした。

 たとえば、熊本藩も近代以降、専売制を維持しようとした。

 ■商社との対立、県外他地域でも

 鹿児島県も同年、「琉球産物方」と奄美諸島黒糖専売の管轄役所の「三島方」を廃止し、島津家の出資金98万円を資本金として「生産方」を設立。さらにそれを引き継いで、翌1870(明治3)年に「国産会社」を設立して、薩摩藩の従来の専売の茶、養蚕の一部自由売買、黒糖の専売制などを続けてきた。奄美諸島の黒糖取引も各島の商社設立以前は、「国産会社」の専売下にあった。

 隣の宮崎の場合、島津氏の支藩佐土原藩も明治初夏佐土原商社を設立。飫肥藩は1869(明治2)年の「物産居」設立で専売制を継続、その2年後の71(明治4)年物産局は「物産会社」となった。この佐土原藩では、1872(明治5)年の第1次一揆で、「商社廃止ノ事」「(商社代表薩人)魚住源蔵、当地二おいて売買差止ノ事」が起こった(『宮崎県百姓一揆史料』、宮崎県総合博物館『研究紀要』第6号)。つまり、百姓の大豆購入を仕切っている商社を廃止。百姓の櫓・槍は「勝手次第売買と自由売買となったが「百姓からの買い上げ値腰が「下値」(安い価格)であったため、その改善を要求したのだ。

 当事者の一人、魚住源蔵は後の徳之島商社の商人の一人であった(『徳之島沿革概要』)。奄美諸島でも同年夏、太、基の両与人職と国産会社との黒糖自由売買交渉以後、丸田南里らの「勝手世運動」、黒糖自由売買連動が起きている。このよろ一な動きが他地域でも起こってきた。旧慣同様な専売制志向の県およびそれと結びついた商人らと百姓との対立は、内容に違いがあるにしても、奄美諸島だけの運動ではなかった。そのことを前提に、奄美諸島の自由売買運動を新しい知見で概観する。(「南海日日新聞」2月12日)

 宮崎でも商社による専売制が敷かれ、買い上げ価格の改善を求める一揆が起こっていた。ことは奄美だけではなかったのだ。弓削がここで最も強調したいのも、「旧慣同様な専売制志向の県およびそれと結びついた商人らと百姓との対立は、内容に違いがあるにしても、奄美諸島だけの運動ではなかった」ことであるに違いない。

 むろん、奄美では、奄美だけが専売制が敷かれてきたと言われてきたわけではない。しかしそれは比較対象を欠いてきた。そのため大島商社は相対化される契機がなく、奄美の被った困難が絶対視される傾向を生んできたのは否めない。だから、弓削の指摘は奄美にとって鎮静剤になるのである。

 一方、ぼくはここで、あの、みんな同じだったという歴史の回収思考に委ねようとは思わない。他地域との差異と同一をめぐる新たな知見を手にしたことで、奄美にとっての事態がどのような強度を持っていたのか、その固有性を精緻にする手掛かりとして弓削の史実更新を受け取るのだ。


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2010/02/20

「薩摩侵攻401年」展望

 2月11日、沖永良部島でえらぶ郷土研究会例会が開かれ、そこで「薩摩侵攻401年」も話題にのぼった(「南海日日新聞」2月12日)。

 【沖永良部総局】えらぶ郷士研究会(先田光演会長)の第7回例会は11日、和泊町の和泊字公民館であった。町内外の3氏が発表し、会員ら約30人が参加。野鳥の生息に適した環境保全の重要性や「薩摩の琉球侵攻401年」の展望などを考えた。
 南海日日新聞の久岡学記者は取材者の視点で薩摩侵攻400年を語った。研究者への取材や琉球新報との連載企画を回顧。奄美内外で約40回開かれた関連行事の意義に触れ、「島の人々は差別体験から歴史を語りがちだが、圧政や搾取だけでは語れない歴史がある。
奄美にとって400年問題は過去のものではなく、今を考える問題。401年目の今年は近現代の問題を掘り下げ、未来への指針にしたい」とまとめた。

 日本野鳥の会の中村麻理子さんは昨年6月に沖永良部島で県内初の繁殖を確認したセイタカシギ(県絶滅危惧Ⅲ類)の観察結果を報告した。繁殖地は和泊町谷山の洪水調整池。中村さんは「水生昆虫を食べる鳥にとって水辺は貴重な生息環境。少しでもこのような場所を残してほしい」と語った。
 先田会長は与論島へ赴任した薩摩藩役人の子孫(県本土在住)と島妻の孫らが交わした書簡などを紹介。「猿渡家文書」を基に交流の様子を解説した。

 薩摩侵略にまつわる問題だけではなく、動植物のことも取り上げられているのが印象的だ。学ぶことに意欲的な沖永良部らしい幅の広さだと思う。「猿渡家文書」に関する先田光演の解説を特に聞きたかった。



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2010/02/19

「この〈日本〉に〈異族〉として」

 この文体、ぼくは好きだ。佐々木昌雄の『幻視する“アイヌ”』で、まず、「この〈日本〉に〈異族〉として」を読んだ。

 共同体の意識の構造が当人の意識に照り返ってゆき、それは特異であると双方から認められ決定づけられると、もし、その決定が価値と結びつき、特異であることがマイナスの価値を有する、と共同体が宣言するとしたら、当人もそれを受け容れざるをえないだろう。たとえ、それが心底からの苦渋であったとしても。だから、或る誰かの苦渋とは、しばしば、実は共同体にとって苦渋であり、逆に言って、共同体の苦渋は、その苦渋を全身で負わねばならぬ誰かもしくは誰らかを、必ず生みだすだろう。

 〈異族〉であることを掘り下げるよりは、〈同族〉である見なしを受け取るために、挙措を換えたり別の〈異族〉を強調したり沈黙してきた系譜に属する者も、「特異であることがマイナスの価値を有する、と共同体が宣言するとしたら、当人もそれを受け容れざるをえないだろう」という苦渋は共有している。

 しかし、前述の主張を改めて私が記したのは、自分の感性の豊かさを誇示するためではない。貧しい感性しか持ちえない私は、ただひょんなことからこの〈日本〉に怨みを抱いており、そのことが、辛うじて前述の主張を私の内に叩きこんだのである。怨みは一私怨に過ぎぬかもしれない。ただ、形容句のない私から始まらねばならなかったはずの私を、この〈日本〉において〈異族〉であると決定してくれた以上は、そのことによって惹起された私の情念でもって〈日本〉に対そうと思う。遂には、与えられた〈異族〉として存在せねばならないとしても、この共同体の望む〈異族〉としては、私は存えまい。だから、私の在り方は〈日本〉が強いているそれではなく、別の形であり〈日本〉の内の〈異族〉であってはならない。〈日本〉に〈異族〉として在りながら〈日本〉の内の〈異族〉としては在らぬことを、私は選びたい。そのために、非力な私は私怨を力の源として、まず〈日本〉の意識の構造に、たとえ微小であろうとも傷を負わせたいと願っている。このような動機を明らかに告白しておいて、以下に〈異族〉として在る者の論理を展開してゆこうと思う。

 わたしは〈異族〉を選んだのではない。〈異族〉であることを強いられた者だ。しかし、それを強いるのであれば、わたしは私怨で応えよう。強いられた〈異族〉であっても望まれている〈異族〉ではありえない。〈異族〉を抽出せずにおかない意識の構造を傷つけたい。それがわたしの〈異族〉の論理の根拠だ。

 これはまっとうな立ち姿と言うべきだと思う。

 つまり、私の現在の在り様から言えば、「言語、信仰、風俗習慣そのはか各種の文化内容の全部もしくは大部を共有」するのは、〈日本族〉とである。そして、「同一の歴史と伝統と運命」を「共有」するのは、〈異族〉とも〈日本族〉とも双方であり、さらには「〝われわれ″という共通の集団帰属感情」を〈異族〉とだけ「共有」する。この事実は、私が、そして〈異族〉が、「同一性」を失い、〈日本族〉への〈同族〉化がゴールに近づきつつあることを示している、と言えるかもしれない。そうだとすれば、私は〈異族〉の「民族性」を喪失しつつ、〈日本族〉の「民族性」を獲得しつつある者ということになるだろう。冗談ではない、と〈異族〉はここで言わねばならない。どうしても拒否せねばならない。

 民族性あるいは同化の定義にしたがえば、自分は〈異族〉の「民族性」を喪失しつつ、〈日本族〉として同化しつつある存在ということになる。しかし、冗談が言いたいわけではない。こう訴える佐々木の否定にも反論の声が返ってくる。

 何を言うのか、事実として、アイヌの日本人への同化は進展してきたじゃないか、おまえたちはもはや純血の者も少なく、自らの言語を使える者すら殆どいなくなったし、自らの信仰は自らの手で捨て去られ、その風俗習慣も大部分は死んだに等しい、このような現状で、なお、自ら〈異族〉であると言い張るのか、むしろ〈同族〉化したところから出発すべきではないか、と説く人々は少なくない。しかも、非常に良心的な、善意に充ちた人々が、その中には多いのだ。

 この善意は、「人類は一つ」とする理念から繰り出されるが、それは、「過去に埋もれていった人々のかかえこんでいた心情を不問に附して、専ら現在から未来へ向かう展望に期待をこめ、過去のあれこれはせいぜい罪意識といった自らの心情の内で解消されてしまうため、極めて倫理的なことばでしか外化されないからである」。

 同化が完了しつつあるという判断は、先に挙げた民族学・文化人類学の範囲で考える限り、真実であろう。私はその判断自体を云々するつもりはない。ただ、その同化とは何であったかが明瞭にされていなければならない、と考えるだけである。同化の完了という結果だけから論理を出発させるのは、何よりも既成事実を作ってから論理を組みたてようとする荻滑な政治屋の思考と同じであろう。

 とにかく、背後にどのような「理想」や「しあわせ」があるのか遂に知られないが、先の主張は次のように言い直すことによって葬りさろう。最も近い朝鮮半島からでも、中国大陸からでも、あるいはシベリアでもヨーロッパからでもいい、そこに住む人々をこの列島に大挙招き寄せて、自らは彼らと混血し、彼らの共同体の中に或る層を形成して、〈日本〉という名を永久に地上から消してしまうのが「理想」であり「しあわせ」であるのなら〈日本族〉よ、さあ、やりたまえ!

 佐々木は啖呵を切らざるを得ない。
 〈異族〉の根拠とは何か。それは〈同族〉との対関係で存在している。〈同族〉が〈同族〉である限り、〈異族〉は〈異族〉であり続ける。〈同族〉のなかに同化したとしても、その内部で別の階層に追いやられるだろうし、仮に一人として〈異族〉を抜け出したとしても、自らの内の〈異族〉意識を消しさることはできない。

 それは法の下でも同じだ。そう言って佐々木が引き合いに出すのは、この論考が発表された1973年には、まだ存在していた「北海道旧土人保護法」のことだ。驚くことに佐々木は、「私自身は存廃いずれの論にも加担するものではない」と言い切る。それは、「北海道旧土人保護法」がいまだに存在していること自体、共同体の虚弱さを示しているが、そうであるなら、法が撤廃されたとして、〈異族〉としてのアイヌが消えるわけではないからである。佐々木は腹を据えている。そこからみれば、日本はこう見える。

 もとより、この〈日本〉の行政機関には「旧土人」に対して補償を支払おうとする思いすらないだろうし、さらに厳密に言うなら、いかなる行政措置も全き補償たりえないだろう。かつてのアイヌ共同体が消滅している以上、失われた時間がもつはずだったものは回復のしようもないからである。けれども、やはり補償という発想についてどう考えるかは、各々明らかにざれねばならない。その理由は、補償という発想への対し方は、過去の歴史への対し方を示すものであって、過去から現在への過程を不問に付したままで、現在から未来へ向かおうと試みることは虚妄に等しいからである。例えば、先の旭川人権擁護委員連合会の要望決議文は、明治二十四年以降について「沿革」を云々しているが、それ以前については触れていない。「もうそんな昔のことは」などと言うのであれば、次に述べる北海道を開拓地として考える〈日本〉の意識の枠内にあるのだし、〈異族〉との関わりが明治二十四年から始まると考えるのであれは、その時点を選んだ根拠が問われねばならないだろう。

 「かつてのアイヌ共同体が消滅している以上、失われた時間がもつはずだったものは回復のしようもない」というのは辛い諦念である。失われた共同体はみかけ上、都市生活者と同じように見えるが、土地を出たことと追われたこととは根本的に違う。

 佐々木の考える〈異族〉の根拠は何か。

 私が理解する限り、この法の存廃問題は現在の「旧土人」の在り様を云々することだけでは、何一つ解きえない。現在の「旧土人」の在り様を問うてゆけば、必ず〈異族〉そのものの問題に展がってゆくだろう。その場合、倫理的な発想から入ってゆくのは各々の勝手にせよ、その発想の枠の内に居る限りは、基底へ至らない。倫理だけでは現実は露わにならないし、善意だけでは人間は救われないことは言うまでもない。〈異族〉に関わる問題を解くのは、〈異族〉の根源を明らかにし、それを絶つことにしかないと断言しよう。それ故、〈異族〉の側に在る者として言わねばならないことは、〈異族〉が〈異族〉同士で同じ〈血〉を認め合い、確かめ合っても何程のこともない、という、ある意味では辛い覚醒である。今、〈異族〉で在ることから逃れられないからといって、自らの存在理由を問い、自らの在り方を問うて、答えを〈異族〉なる〈血〉の内に見出さんとしても徒労である。答えがあるとすれは、自らの在り様がこの〈日本〉の在り様と異なり、対立し、その構造を揺さぶることにあるだろう。私が、この〈日本〉に〈異族〉として在る、と告げねばならない所以は、ここにしか無い。

 〈異族〉同士の血の連帯を求めるのではなく、〈異族〉を〈異族〉たらしめている構造を揺さぶること。その揺さぶること自体に自分の〈異族〉の根拠を置く。この佐々木の拠点は〈同族〉なしにはあり得ないというのっぴきならない、離れるわけにいかない関係であり、息つく余地がないと感じさせる。しかし離れればいいと言う権利は誰にもない。

 ぼくたちは別の個所に躓く。「〈異族〉に関わる問題を解くのは、〈異族〉の根源を明らかに」すること。そう、それはその通りだ。しかし、その末に、「それを絶つことにしかない」と言うのはどうしてだろう。ぼくならここは、「〈異族〉に関わる問題を解くのは、〈異族〉の根源を明らかに」することである、あるいは明らかにしそれを開くこと、とは言うかもしれない。けれど、それを「絶つ」とは言わない。「絶つ」とはどういうことか。消滅の宿命を歩むということだろうか。ぼくは、「〈異族〉が〈異族〉同士で同じ〈血〉を認め合い、確かめ合っても何程のこともない」と言い切ることはできない。それはぼくが苛烈な諦念の手前にいる者だから、その余地を言っているのに過ぎないのだろうか。

 「〈異族〉に関わる問題を解くのは、〈異族〉の根源を明らかにし、それを絶つことにしかないと断言しよう」。ぼくはこの断言に留保を置きつつ、また機会を見て、『幻視する“アイヌ”』を読みたいと思う。


『幻視する“アイヌ”』

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2010/02/18

「近代化への出発」3

 せっかくだから弓削の作成した表から、与論島の経緯を追ってみたい。

1875(明治8)年
・与論島支庁、設置。

1879(明治12)年
・郡役所出張所、設置。

1880(明治13)年
・郡役所出張所、廃止。沖永良部管轄に。

1887(明治20)年
・瀬利覚を立長に
・中間を那間に

・1村。立長村。

1908(明治41)年
・1村。与論村。


 なんと、与論は21年間、「立長村」と呼ばれていたことがあった。この間、島名は「立長島」だったのだろうか。まさかね。

 大島がぶつかっている近代化をまるで余波のように受け取りながら、確実に奄美としての近代のなかに取り込まれていく姿を見るようだ。


 P.S.今日は方言の日。ゆんぬんちゅちち、あわりしちあいちきちゃいやー。なぐりゃー。


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2010/02/17

「近代化への出発」2

 弓削政己による「近代化への出発」、続き。

 ■実現しなかった「大島県」構想

 奄美諸島の行政官庁名・区域はめまぐるしく変わったが、その変遷を表「近代(明治初智の奄美諸島の行政変遷」としてまとめた。ただ、このめまぐるしさには、明治政府と県との奄美を巡る攻防があった。以下、結論的に1大支庁・4支庁制度と金久支庁、および種子島に郡役所が新設された背景について触れておきたい。

 弓削によれば、明治初期の奄美における行政のめまぐるしい変遷の背後には、政府と県による攻防があった。

 1875(明治8)年6月12日に大島大支庁・喜界島支庁・徳之島支庁・沖永良部島支庁・与論島支庁が設達された理由は、当時日本が赤字貿易であったことだ。その第2の輸入品が砂糖であり、大蔵省は貿易赤字対策として国内の砂糖増産を計っていた。奄美諸島の砂糖増産は鹿児島県下では望めないとして、独立県の「大島県」を設達しようとした。その提案は大久保利通内務卿の反対で実現されなかった。逆に大山県令は、「表」にあるように鹿児島県下の行政区として1大支庁・4支庁制を提案し、大久保内務卿を通して決定されたのである。

 「奄美諸島の砂糖増産は鹿児島県下では望めない」として、大蔵省は「大島県」を構想する。これは大久保利通の「否」によって実現されなかったが、代わりに「大島大支庁・喜界島支庁・徳之島支庁・沖永良部島支庁・与論島支庁が設達された」。相変わらず、文脈がうまく飲み込めないのだが、大蔵省案は否定されたものの、鹿児島県としても砂糖増産を目論むから、与論という小さな島まで「支庁」を置く案が通った、ということだろうか。

 金久支庁設置は、奄美の行財政を奄美島民の地方税、国の支出、奄美内の県施設の収入からなる鹿児島県財政から切り離した「分離経済」「独立経済」との関係があった。

 県当局は、分離経済を実施したら、奄美諸島は「忽チ言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当野という認識で反対をしていたが、県議会の多数は分離経済を求めた。その折衷案上して行政運営費を国が負担する長崎厳原支庁の例に倣って金久支庁が設麿されたのである。

 県当局は「独立経済」にすれば奄美は、「言うべからざる惨状に陥る」のは当然との認識から反対するが、議会の多数は独立経済を求めた。その折衷案として、「行政運営費を国が負担する」ことになり、その施行のために「金久支庁」が設置される。

 その後、金久支庁の行政運営費が余った。時の島司の森岡真は、1887(明治20)年8月奄美の地方税が5400円余ったが、このような地方税を「内地事業へ補翼(ほよく)」するよりは、奄美諸島で使用する「分離経済」がよいとの考えを上申(「大島一件」)、そして、結果的・本質的には疲弊をもたらす分離経済の方向をとった。

 余った行政運営費を「内地費用」に充てるよりは奄美に、という経緯で、独立経済を島司は受け入れた。

 この解説でぼくたちはようやく、「独立経済」突入の契機を知る。しかし、ことはある意味、成り行きだったということではないか。

 種子島へ郡役所を県は新たに遷したが、国は鹿児島裕山北大隅郡役所の管轄区域に編入の指示を出していた。県は甑島の風災害による甑島島民の移動が離島同士の種子島へ設置をした方がスムーズにいくという考えであった。政府方針に反した措置をとった渡辺千秋県知事は1889(明治22年4月「処分伺」を政府に提出したが、政府はやむをえないということで処分をしなかった。

 このように、奄美諸島の行政編成は、当時の国際貿易への大蔵省の対応、政府部内の考え、県内の方策などとの関連、また、1884(明治17)年、瀬戸内への支庁設置の3度にわたる「移転請願」運動という奄美諸島内部の動きも孕みながらの単なる名称変更ではなかった。このような背景を抱えながら、奄美諸島の近代は歩み始めるのである。(奄美郷土研究会)

 ぼくたちは、弓削のこのたびの論文により、。高江洲昌哉の「近代日本の地方統治と『島嶼』」でもなかなか理解に至らなかった、「独立経済」突入の契機を知ることができた。「独立経済」ではやっていけない。しかし、それを県議会の多数が望み、奄美のためのことができないのであれば、国庫負担の余剰も出たこともあり、独立経済を選択するしかない。つづめていえば、そういうことになると思える。



 

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2010/02/16

「近代化への出発」1

 南海日日新聞で、「薩摩侵攻401年目の視座」と題して「シマジマの海路」の連載が始まった。待望のものだ。
 まず、弓削政己による「近代化への出発」。

 薩摩藩支配下の奄美諸島は、廃藩置県後の1869(明治2)年2月、藩全体の旧来の職員・職制は改廃された。奄美諸島の代官は、大島を「(一等)在番」、喜界島、徳之島と与論島を含めた沖永良部島を「(二等)在番」とし、「代官所」は「在番所」と名称変更行政した。鹿児島からの詰役人は旧藩の「見聞役」が「検事」に、「附役」が「筆者」となり、ついで1873(明治6)年には検事・筆者は、それぞれ「監督掛」「附属」となった。しかし、詰役人は1875(明治8)年6月までに引き上げられた。

 薩摩藩支配の象徴である「詰役人」は、明治8年に引き上げられた。

 ■大島に大支庁、4支 庁を設置

 官庁名は、1871(明治4)年8月、知政所を鹿児島県庁と改め、行政区を大区・小区とし、1873(明治6)年7月27日付、鹿児島県権令大山綱良名で、県内の「大区」に「戸長役所」設置を布告した。なお、同年8月に県は県内生六つの支庁に区分した。第6支庁である奄美の支庁は設置されなかったようだという見解もあるが、トカラの七島を奄美諸島の第6支庁所管としたとある点から、第6支庁は設置されたと考えられる。

 1875(明治8)年6月12日、鹿児島県は名瀬方伊津部・金久(現奄美市名瀬)の金久に設置されていた名瀬方管轄の「名瀬方戸長役所ヲ廃し」て、そこに大島全体を管轄する「大支庁」を建設し開庁した。他の四島は「喜界島支庁」「徳之島支庁」「沖永良部島支庁」「与論島支庁」とし、奄美諸島に「1大支庁」「4支庁」を置いた。この時初めて与論島に沖永良部島管轄から分離lされて、個別の行政官庁の与論島支庁が設置されたのである。

 与論が沖永良部管轄から離れて独立した行政官庁が置かれたのは明治8年。「与論島支庁」。

 しかし、大支庁は1878(明治11)年6月までには廃止され「支庁」となり、他の4カ所の支庁と同じ名称となった。つまり5支庁の官庁制度になった。

 同年7月22日布告の郡区町村編成法により、鹿児島県令宕相通俊は、奄美諸島は「従来、国郡の名称がないので、(郡区町村編成法の)施行に差支える」ということで、「大島外四島国郡名御足メ相成度儀二付上申」をし、岩村県令の上申をうけて、内務省は当初、4島を大島郡、喜界郡、徳ノ島郡、沖永良部郡、与論郡と各島を郡とすることを「追伸」したが、与論島は村数が6しかないことで、結局、政府は翌1879(明治12)年4月8日、太政大臣三傑実美、右大臣岩倉具視名で「大隅国大島郡」となった。

 奄美が「大島郡」の名称になったのは、明治12年。高江洲昌哉の「近代日本の地方統治と『島嶼』」で見たように、郡名について鹿児島県の案はなく、名づけは元老院によるものだった。

 同時に「本年六月三十由限、大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島各支庁廃止候条、此旨布達候事 明治十二年末月廿五日 鹿児島県例岩村通俊」と甲第90号布達で5支庁を廃止、7月1日名瀬方金久村に「郡役所を開庁し、1郡に1郡長として、支庁長は郡長となった。廃止された4島の支庁は、「郡役所出張所」とされた。

 その後、与論郡役所出張所は1880(明治13)年7月廃止され、1883(明治16)年6月限りで大島以外の3島の郡役所出張所は廃止された。

 1885(明治18)年10月19日、名瀬方金久の郡役所が廃止され、その前の17月17日に、「金久支庁」が設置され、10月21日に開庁した。これまで諸書に「明治18年7月15日に至って、大島郡名瀬方金久に再び支庁が設置され」たと記述されているが、誤記である。

 そして、「鹿児島県公報」に「告示墾ハ十三号本県金久支庁ヲ自今大島島庁ト改称ス 明治十九年十一月十三日鹿児島県知事渡辺千秋」とあの攻一るように、翌1886年11月13日、金久支庁は「大島島庁」と改称され、支庁長は島司となった。

 その後1926(昭和元)年7月1日に「大島支庁と支庁長」に改められた。この金久支庁が設置れた時、行政管轄は、旧熊毛郡、旧護謨郡と川辺郡のうち十島も含まれた。それが1888(明治21)年4月1日から市制・町村制が定められたため、行政区として翌年4月1日から、旧熊毛郡、旧護謀郡は熊毛郡・護謨郡を1区域とした種子島に新設された郡役所所管となり、大島郡から分離された。

 大島郡が現在の奄美と同じ範囲になったのは、明治21年。この間の変遷はめまぐるしく、何度たどってもなかなか頭に入ってこない。おさらいすれば、大支庁、支庁の設置は、大島県構想の挫折の次の展開であり、金久支庁設置は独立経済の前触れだった。


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2010/02/15

ドラえもんの与論語

 gacchikoさんのツイッターで知った話。最近、最新情報も電車遅延も地震も火事も雨も雪もツイッターで知るようになっている。ファースト・アクセスの認知経路だ。

 で、知ったのは、ドラえもんが与論語をしゃべったということ。これ、聞きたかったなあ。

 「ドラえもんが島言葉しゃべった 声優がアテレコイベント」

「ワナー ウラチャガ シッカイ ハミンシャイドー」。ドラえもんが鹿児島県・与論島の島言葉でしゃべっている。何を言っているのか分かるかな?

 14日に同島であったイベント。ドラえもんの声役の水田わさびさんが映像に合わせて方言を話し、子どもたちものび太やジャイアンに扮して物語を演じた。

 「ドラえもんと島言葉で話ができるなんて夢みたい」と子どもたち。感激したドラえもんも思わず冒頭の言葉を叫んだ。意味は「ぼくはみんなのことが大好きだよ」。

 あの声を思い出して共通語と与論語を並べてみると、自ずとニュアンスの違いが感じられてくる。

 「みんな」は、老若男女を問わない響きがあるが、「ウラチャ」は、目上の人には使わない言葉だから、ドラえもんが同級生から後輩を前にしている感じがする。「大好き」の程度はあまり変わらない気がするが、「大好きだよ」がフランクな感じがあるのに対し、「シッカイ ハミンシャイドー」には照れが伴って聞こえてくる。そのように発語されているからだが。

 もうひとつ、ツイッター上では、『魔女の宅急便』バージョンも紹介されていて、

キキ: 「どうしよう。パーティの招待状もらっちゃった」
オソノ:「素敵じゃない。 いってきなさいよ」
 ↓
キキ: 「いちゃしゅらが。パーティぬ招待状ぎてぃえーしが」
オソノ:「ゆかむね。いじみちきい」

 これは島の人は笑えるよね、なんか。なんというか、このニュアンスの違いはどう説明できるだろう。悩むなあ。
 「素敵じゃない」が、「ゆくむぬ」かあ。いい訳かもしれない。(^^)



 

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「反対以外の組織も始動」

 2月3日の南海日日新聞一面に、徳之島への基地移転問題の記事が載っている。反対表明と運動のことがメインだが、ぼくは「反対以外の組織も始動」の個所が気になった。

 一方で、移設問題に反対以外の立場で動く「基地問題を考える会」(森五十次世話人)も活動を開始していを森世話人は「3町長の拙速な反対表明は不可解。まず国の説明を阻くべき」と語る。現在、3町で各10人ずつの有志を目標に組織作り中。勉強会などを経た後、3町長に要望書を提出する予定という。

 反対一色なら言うことはない。けれどそうではないのだ。
 朝日新聞により詳細に載っている。

 「南北600キロ/普天間移設揺れる島」

 問題が明るみに出てから1週間。移設に賛成の声もじわりと出始めた。天城町でホテル業を営む宮田益明さん(63)は「島の10年後を考えると、今のままでは経済浮揚は難しい。基地は願ってもないチャンス」と言い切る。

 徳之島の基幹産業はサトウキビ。昨期の生産量は奄美群島最大の約27万トン。だが、農家1戸あたりの生産農業所得は150万円前後に過ぎない。昭和30年に5万人を超えていた人口は、現在約2万6千人と減り続けている。

 基地の整備や5千人以上と言われる基地関係者の転入だけでなく、国による振興策も考えられ、「働き口も増え経済振興につながる」というのが賛成派の見立てだ。徳之島観光連盟会長も務める宮田さんは「感情論ではなく、島の置かれている現状を冷静に考えなければ」と話す。

 組織化の動きも進む。徳之島町の自営業森五十次さん(65)は、自営業者や土建業者らを集めて「基地問題を考える会」をつくる計画だ。「基地に反対する人の思いも理解できる。だが、基地ができたらどんなメリットがあるのかを政府から聞くだけでも意味があるのではないか」。近く3町長に対し、政府・与党との話し合いの場に着くよう要請する予定だ。

 この半世紀で人口は半分近くに減っている。経済振興にまたとない機会という捉え方だ。ぼくも年末年始を与論で過ごし、中心になる商店街でシャッターが増えているのに驚いた。徳之島も同じ状況なら、こうした声が出てくる根拠のあることは分かる。

 奄美の命運を大きく左右する問題であり、今後も注視していきたい。


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2010/02/14

「「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ」」メモ

 昨日、「「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ」」にパネラーとして参加してきた。すぐに報告できるようにツイッターで随時、ツイートしてみた。しかし、安里さん、東さんの話を聞きこんでしまう瞬間もあり、満足にレポートできていない。

 でも雰囲気や流れの一端は伝わると思うので、再掲する。

 『ヒロシマ独立論』の東さんも、『凌辱されるいのち』の安里さんもお会いするのは初めてで、お二方もおっしゃっていたが、本の印象と本人の印象は違う。会うと親しみが湧くのがよかった。それはぼくもその通りだと思った。

 ディスカッションのなかで、奄美とぼくは言うけれど、それは自分の共同性の大枠を伝えるためにそう言っているだけで、実はリアリティはさほどない。奄美人という言葉は日常的に定着していないから。ぼくなら与論人(ゆんぬんちゅ)というところまで最小単位にしなければならない。その分、ときどき、沖縄人と言えることが半分、うらやましくなることもあると発言した。

 それを受けて安里さんが、こうして分かってもらえると思う場では、沖縄人と言うけれど、そうでないところでは、どう思われるだろうという意識が先立ってなかなか言えないのだと、応えていた。

 ぼくは、ああやはり両者ともにアイデンティティについて、過敏にならざるを得ないのだなあということに改めて思い至った。ただ、安里さんは親戚にそっくりで、懇親会の場では、すぐに馴染んでしまったのだけれど。

 琉球弧の地図をつくろうと思ったら、奄美と沖縄は別々に作成されているので、ひとつなぎのものにすることができないのに気づいたとおっしゃった。それは、広島も、周辺の島や県境にフォーカスしようとすると同じ問題に突き当たる、と。これには、ぼくも「奄美と沖縄をつなぐ」イベントで、同様のことに突き当たったので、強く同感したのだった。

 参加してくれたみなさん、司会の早尾さんに感謝。

◇◆◇


元麻布でシンポジウムの準備中にゃま。

ディアスポラ研究は、単なる移住ではなく、やむにやまれない気持ちで移り住む人たちのことを考える場。 #CAPP
posted at 14:12:28

司会、早尾さん。『ヒロシマ独立論』の東琢磨さん、『陵辱されるいのち』の安里英子さん、喜山の紹介。 #CAPP
posted at 14:28:06

安里英子さんから。琉球共和社会の可能性。国家としての独立という意味ではなく、国家を無化する方向での自立を考えたい。 #CAPP
posted at 14:33:10

琉球弧の地図。簡単かと思いきやそうはいかなかった。奄美と沖縄が一緒に載っている地図はなかった。 #CAPP
posted at 14:38:30

安里さん。島尾敏雄の構想したヤポネシア論。いまもっと意味を持っているのではないか。アイヌの先住民族が国会で認められた。驚きだった。 #CAPP
posted at 14:41:48

安里さん。復帰前の沖縄。アメリカに帰属すべきか、日本に帰属すべきか、という議論が大真面目になされていた。その後、復帰運動が起こっていく。 #CAPP
posted at 14:59:00

安里さん。谷川健一は、島尾敏雄の琉球弧に対して、一個いっこが独立なんだと考えて、「沖縄連合共和国」という構想を持っていた。これはヤポネシアの思想への反対ではなく、徹底だった。 #CAPP
posted at 15:03:44

安里さん。沖縄の面白いところは、一方では破壊されながら、一方では、手付かずのまま残っている。伝統的社会を見つめなおしながら未来を構想することがまだ可能であることだと思う。オナリ神信仰は、男女が双方いなければ成り立たないという風に見ることができる。複数の主権性。 #CAPP
posted at 15:08:27

えーーっ。why? QT @guutei 鹿児島大学でいま薩琉400年シンポをやっています。喜山さんのお名前も頻繁に出てきます
posted at 16:16:44

東さん。普遍というものを見直す装置として音楽を捉えた。そのなかで沖縄とであった。沖縄と広島は、戦争の惨禍をあびたという点では共通していた。『ヒロシマ独立論』は、もともと「ヒロシマ幻視行」というタイトルだった。 #CAPP
posted at 16:30:10

東さん。『ヒロシマ独立論』は、国連に託しすぎていた。憲法案を書いたが、法の言葉になってしまっていた。どういうふうに言葉を作り直していけばいいのかを課題にしている。 #CAPP
posted at 16:33:02

東さん。シマには、アイランド、テリトリー、ストライプの3つの意味がある。 #CAPP
posted at 16:40:48

東さん。誤解を恐れずにいえば、広島は歴史のない民の場所。権力の歴史がない。 #CAPP
posted at 16:46:54

東さん。谷川雁は「広島の役割は東西冷戦の終結とともに終了した。」と言った。広島の核廃絶運動の限界は、核兵器廃絶、オバマ万歳になってしまっている。 #CAPP
posted at 16:53:34

東さん。広島核廃絶絶対主義、あるいは、広島例外主義と言われたりする。実は今も変わらぬ軍都っぷりなのである。 #CAPP
posted at 17:00:55

ディアスポラ研究会、終了。おつかれさまでした。パチパチパチ。
posted at 17:52:01

中華料理屋さん、「花」にて、ディアスポラ研究会の懇親会。楽しい話、美味しい中華なう。
posted at 19:07:42

安里さんは、親戚とそっくり。
posted at 19:08:09

斎藤憲さんと久しぶりの再会。出されたばかりの『アルキメデスの数学』をいただく。恐縮。
posted at 19:12:44

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「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」

 昨日、ツイッターで、鹿児島大学で「薩琉400年」のシンポジウムをやっている最中だとツイートが入った。ぼくも「「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ」の最中で、もうすぐ出番だったのだが、全く知らなかったので、慌ててWebで検索してしまった。

 「多島域フォーラムシンポジウム「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」のご案内」

 内容を知りたい。どこかでレポートが出るといいのだが。教えてくれたguuteiさんに感謝。


 「多島域フォーラムシンポジウム「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」のご案内」

鹿児島大学 多島域フォーラム シンポジウム 「薩琉400年: 東アジア島嶼圏の形成 -総括と展望-」

趣意書

鹿児島(薩摩藩)と沖縄(琉球王国)が「侵略・侵攻」等とされる、軍事的・強制的措置にしても、深い関係が構築されてから、400年がたった。やがて琉球弧はヤマト世(ゆ)を迎え、東アジア圏の中の島嶼として、画期を迎えていくことになる。それはその後の薩摩・奄美・沖縄の歴史のみならず、明治維新にも影響を及ぼすし、戦後の米軍統治・本土復帰・国土軸や道州制議論においても、この琉球弧をどう認識するかということが、繰り返し具体的課題として登場してくる。

これらの問題の起点について、この1年間各地で多様な催しがあり、議論が尽くされた。その史実蓄積・再認識・新展望についても目を見張るべき成果が具体的に蓄積された。大学・学会の役割として、その総括作業も意義深い取り組みである。今回のフォーラムは、この直接的当事者である、琉球と奄美の立場・視座からの総括と展望を聞き、また鹿児島・薩摩の歴史と重ねながら、未来志向的な展望についても、会場参加者も交えて議論することを目指すものである。

日時:平成22年2月13日(土)13:30~17:00
会場:鹿児島大学共通教育棟1階211教室
主催:鹿児島大学多島圏研究センター

基調講演

豊見山和行(琉球大学教育学部)
「島津氏の琉球侵略400年を振り返る
-近世東アジア海域・陸域の変容と交流-」
弓削政己(奄美郷土研究会)
「奄美諸島史における歴史意識と認識
-東アジアを含む研究課題-」

パネリスト

杉原 洋(鹿児島大学法文学部)
薩琉40年議論から見えてきたもの
原口 泉(鹿児島大学法文学部)
薩摩から見た琉球・奄美 -幕末の薩流関係-
前利 潔(知名町役場)
<琉球諸島>と奄美諸島 –道州制議論の前提的考察-

問い合わせ先: 多島圏研究センター 〒890-8580 鹿児島市郡元1-21-24
Tel.099-285-7394, Fax.099-285-6197

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2010/02/13

今日、「『400年語り』で奄美は姿を現したのか」。

 今日は、ディアスポラ研究会シンポジウム、「「独立/自立/自治」を考える--沖縄、奄美、ヒロシマ」に出かけてきます。

 「『400年語り』で奄美は姿を現したのか」と題して、2009年からの問題意識を継続して語りたいと思っています。

 港区の麻布台にて、14時からです。現場でお会いできる方がいらしたら嬉しいです。


【日時】:2010年2月13日(土)14:00-17:30 【会場】:東京麻布台セミナーハウス2階大会議室 (港区麻布台1-11-5/日比谷線神谷町駅から東京タワー方向へ徒歩3分) 【入場】:無料、一般参加可

【プログラム】
開催趣旨説明:早尾貴紀=司会(15分)
報告
安里英子(30分)
喜山荘一(30分)
東琢磨(30分)
休憩(15分)
総合討議(90分)


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2010/02/12

「一集落一辞書で保存を」

「一集落一辞書で保存を」(南海日日新聞2月1日)
 【徳之島総局】かごしま地域文化創造事業奄美地区(徳之島ブロック実行委員会など主催)lの発表会が31日、徳之島町生涯学習センターで開かれた二島瞑・方言からみる奄美の歴史と文化」がテーマ。講演や島唄・島口発表などがあり、家庭など日常生活での方言使用や伝統芸能保存の大切さを確認した。

 奄美市名瀬出身の田畑千秋大分大学教授が「奄美諸島の歌と言葉の存在価値」と題し講演。ユネスコが発表した直界の消減の危機にひんする言語リスト」に奄美語が入っていることを説明した田畑教授は「言葉は文化の基盤。喝徳之島の言葉を録音や一集落一辞書にして保存することが望まれる」などと述べた。

 「1シマ1辞書」というのは正確なフォーカスだ。与論の『与論方言辞典』は、約15700余の見出し項目があるが、これも島の人に言わせれば、あれは東区の言葉だから、となる。シマが奄美の他の島に比べてゆるやかな与論ですらこうなのだ。「1シマ1辞書」。すごいことである。


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加計呂麻島の伐採計画、現段階で島住民の58%が反対を表明

 「加計呂麻島の伐採問題を考える」によると(ツイッターでmizumaさんに教えてもらったのだけれど)、今日、伐採に対する反対署名が瀬戸内町に提出されている。

「森林伐採に反対する加計呂麻住民の会」が加計呂麻島での署名を第一次署名として2010/02/12に瀬戸内町へ提出しました。現在の署名総数2203名、加計呂麻島の住民分は871名です。(10日間で集まった数のみ)

 提出分の60%が島外から集ったもの。そして、加計呂麻島の現人口が、1490人だから、加計呂麻島住民の過半数を上回る58%が、既に反対を表明したことになる。

 「加計呂麻島の伐採問題を考える」では、反対署名用紙をDLできるようにしている。

 さらに第二次署名として反対署名にて趣旨、反対署名用紙をダウンロードできるようにしてあります。署名を集めている場所(署名できる場所)のリストも作成中です。

 「奄美・加計呂麻島なんでもありBLOG」さんのテープ起こしによる「チップ工場説明会」の議事録は、昨日に「その16」で完了して、全部を読むことができる。


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2010/02/11

「奄美群島情報サイト しーま」

 奄美諸島をテーマにした情報サイト、「しーま」がオープンしている。

地域サイト「しーま」開設

 奄美の情報を発信し地域振興につなげようと、地元の若者有志が組織した「奄美群島を元気にする委員会」(深田小次郎会長、5人)が1日付で、インターネットの地域情報サイト「しーま」を正式に立ち上げた。企業や団体のホームページ(HP)以外に、個人の「プロどもサイトに盛り込んでいるのが大きな特徴。深田会長らは「地元住民や本土の奄美関係者、〝奄美ファン″も含め多くの人に愛用してもらい、島の活性化に役立てたい」と意気込んでいる。(「南海日日新聞」2月2日)

 いまいくつのブログが開設されて与論のものがいくつあるか分からないのだけれど、これからブログを始めたい方には格好の場所ができたと思う。「てぃーだ」ができたとき、奄美は入ってないのが残念だったので、これは嬉しいことだ。


「奄美群島情報サイト しーま」
Shima

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2010/02/10

『糸満漁業の展開構造 沖縄・奄美を中心として』

 琉球新報の記事。

 「『糸満漁業の展開構造 沖縄・奄美を中心として』 漁民の証言、後世に記録」

 中でも奄美を本格的に取り上げたのは、本書が最初ではないかと思う。93ページを費やす「第三章 奄美における糸満漁業の地域展開」は、奄美に進出した糸満漁業の消長や定住の過程について、奄美本島や離島別に詳細な分析がなされている。

 特に南部三島(与論島、沖永良部、徳之島)を地理的条件や中国貿易との関係で、糸満漁民が琉球王朝時代から使用していた可能性を指摘している点に注目した。中国に送られた膨大な海産物の産地が、沖縄だけでなく奄美にまで及んでいたことは、意表をつかれた思いがした。

 いやいや今ごろ驚いてもらっちゃあ困りますよ(笑)。与論でも、糸満は漁法としても糸満売りの話としても身近ですよ。


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2010/02/09

『凌辱されるいのち』

 安里英子は、「従軍慰安婦」や「朝鮮人軍夫」の問題に直面したとき、動揺する。

 私はその時々の都合で沖縄人になり、日本人になってはいないか。たしかに心情的に日本を拒否する心を沖縄の人々はもっている。沖縄戦における全人口の四分の一に及ぶ住民の犠牲。その責任は日本軍・日本政府にある。戦後の今でも、在日米軍基地の七五%が沖縄に存在しているという現実。誰も日本政府を信じてはいない。沖縄人は常にヤマト(日本) に「怨念」を感じている。
 そのため、沖縄人が自らのアイデンティティを問うとき、支配者である日本と被植民地である沖縄(私)との関係でしか思考してこなかった。すくなくとも私はそうであった。高校生の時以来、悩みつづけた「わたしは、何者だ?」という命題、すでに答えをだしたはずの命題。だが長い精神的屈折をへて得た自らのアイデンティティは、今、崩れようとしている……。(『凌辱されるいのち』

 被害の側なのになぜ責任があるとしなければならないのか。しかし個々、具体的には加害者として振る舞う場面があった。そのことをどう受け止めればいいのか。

 しかし、たいていの沖縄の人々にとって戦中・戦後の責任問題は、そう簡単ではない。日本軍によって多くの犠牲者を出した沖縄が、なぜ日本国家の責任までとらなければならないのかという心情は、「その当時子どもだったから」、あるいは「まだ生まれていなかったから」責任はない、という回避と違い、アイデンティティの問題がからんでくるだけにきわめて複雑なものがある。

 ただ、私自身のことでいえば、私自身のこれまでのアイデンティティを形成する過程をこう解析する。多くの被害を受けてきた民族の場合、奪われた主体を回復あるいは確立する過程において過剰な自己主張がなされる。それなしには主体の回復はあり得ないわけだが、しかし、一方で排他的な要素も生み出し、利己的にさえおちいる場合がある。つまり自己を主張するあまりに他者が見えなくなることが、しばしばある。幸い、私はこれまで、女性たちの国際的ネットワークや、様々な市民レベルの国際会議や集会に参加する機会が数多くあり、その交流の中で多くのことを学んできた。

 同様のことに、寄りそうように別の形で向き合うことがある者には切実さがやってくる。

 どう考えればいいだろう。自国の民衆に戦争を強い、他国の民衆に害を及ぼした責は国家にある。国民はその責任を果たす国家をつくらなければならない。一個人としては、自分の判断でやれることを行う。それは契機に従う。また、その行為は当為として強いられることではなく、自分に関わることで他人に当為を求めない。

 ぼくはそう、考えてきた。練り上げてきたというより、自分の漠然とした構えを言葉にすると、こう言えるのではないかというものだ。ここから、では自国の民衆であることを近世に、あるいは近代に強いられた者はどうなるのか、また、責任を国家が果たしているは言い難いと思えるときにどうなるのか。しかもそのことを自国の民衆であることを強いられた経緯の者はどうすればいいのか。そういう問いがやってくるが、安里が向き合ったのも同様のことだと思える。

 自国の民衆であることを強いられ、かつ国家がその責を果たしてないと感じられる場所では、「独立」の議論が起きるのは必然的だ。

 そもそも沖縄の独立とは何なのか。実は、この原稿を書きはじめるついさっきまで数人のメンバーとこの議論をしてきたばかりである。毎年沖縄の施政権が日本に返還された五月一五旦別になると、在日沖縄人(彼らは自らをそう呼ぶ)の幾人かが帰ってきて基地の周りを行進するのだが、合間をぬって三々五々集まっては独立論をテーマに議論することも恒例になってきた。議論の中でそれぞれが思い思いに沖縄の自立や独立への思いを語る。

 ぼくは「在日沖縄人」という自称を持っていない。奄美は「沖縄」ではなく、「奄美」という共同性も持っていない。それは自他に認知、受容されていない。しかし仮に「奄美」という共同性があったとしても、在日奄美人とはぼくは言えない。在日与論人ということであれ。それは日本人であることが自明だからではない。在日与論人ということで、非日本人としての印が浮上してくるからでもない。本当に在日と言わなければならない、在日朝鮮人の立場を考えれば、それはどうしても腰の軽いものになると思えるからだ。

 しかし、仲間たちとの議論の中では、戦後の自治論は一つの拘束のようなものがあると指摘された。それは当時の議員たちが、戦前の日本教育を受けてきた者ばかりで発想はその枠内でしかない、ということである。沖縄の自治、あるいは独立のモデルはもっと自由に日本の枠を越えてアジアへと広がるべきではないか、と。私たちのこのような議論を新崎盛時氏は「居酒屋論議」として批判したが、私はむしろこのような自由な議論を、しばらく楽しんで聞いていたいと思う。

 ぼくも「居酒屋論議」という批判も妥当ながら、その議論ができるならそうすべきだと思う。それは未来への構想を養うものだ。

 独立論が、実行性のある自治運動に発展するにはまだまだ自由な議論を重ねていく必要がある。性急に政治課題へともっていくとかえって民族主義的方向へ向かってしまいかねない危険怪もある。しかしヤマト政府の沖縄への重圧と利用がこれ以上続けば沖縄の鬱積した思いはどう爆発するかわからない。言葉にならない多くの沖縄の民の思いを、ヤマトの人々はもっとしっかり受け止めるべきだろう。

 漠然とした構えからいえば、ぼくなら「ヤマトの人々」は「ヤマトの政府」と言うだろう。

 米軍再編にともなう日本政府による、ますますの沖縄差別(植民地化)は、沖縄内部の独立への指向を熱くさせるものがある。ただ、今のところ「沖縄独立」論はきわめて心情的で、共通の政治的課題にはなっていない。沖縄独立論とヤポネシア論、反復帰論の違いは、沖縄の民族国家を目指すか、国家をも超える「自治社会」を目指すかという点にある。九六年の日米特別委員会(SACO)で、普天間基地の返還が決定され、その代替基地としての名護市辺野古への新基地建設計画が進められて以来、沖縄は再々内国植民地としての辛苦をなめさせられている。そのため、排他的な沖縄民族主義が声高になっている。極端な民族主義は他との連帯を拒む。しかし、広くアジアの視点にたつとき、私たちはいまこそ、民族主義を超え、ヤポネシア論や反復帰の思想に学び、発展させるべきではないだろうか。

 この「反復帰論」を梃子にした「自治」の議論にたどり着くところで、ぼくは、「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」の松島泰勝が展開している「自治」の意味を受け取ることができいたように思えた。


   『凌辱されるいのち―沖縄・尊厳の回復へ』

Inochi

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2010/02/08

「方言の発音は南方系」

 島尾伸三が1月30日、名瀬で講演している。(南海日日新聞1月31日)

沖縄大移動市民大学で講演

沖縄大学移動市民大学・in奄美大島「奄美と琉球-その魅力」が30日、奄美市名瀬の県立奄美図書館で始まった。写真家の島尾伸三さんがシマユム衣文化の成り立ちや現状について講演し、「単語だけ見ると日本語のルーツと言われるが、発音は南方系のものが残っている」などと語った。 同大の「清ら島づくり南西諸島高大連携プログラム」の一喝第1部は緒方修教授が講話後、奄美高校生が手話コーラスを披露した。

 島尾さんは子ども時代の思い出やアジアの旅行経験を織り交ぜながら語った。奄美と沖縄の三線の弾き方の違いも引き合いに出しつつ、「昔は誰でも簡単な唄を歌っていた。今はショービジネス化され、子どものころの唄は消えた」と変わりゆく島唄文化を惜しんだ。

 驚いた時に発する「はげー」の「げー」部分など、奄美方言にはのど付近で発音する「グロッヌル音」が存在するとし、「広東語やベトナム語、マレー語にもある」と指摘。音譜は基本語彙が共通であれば同一とみなすが、「奄美と沖縄は一つの言葉でもさまざまな方言があり、一致しない」と語った。
 さらに日本語が国内で標準語化していることから「各地の方言が淘汰され、複雑な感情表現ができなくなってしまう」と警鐘を鳴らした。

 この講演、聞きたかったなあ。与論では、「はげー」は「あっしぇ」となり、口蓋化しているように、島によって言葉は「一致しない」多様性を持っている。また、「方言が淘汰され、複雑な感情表現ができなくなってしまう」のは、複雑な言い回しがなくなるからではない。たとえば単語、「はげー」ひとつとっても、方言でなくては開けない世界があるからだ。

 島尾は、どうあっても本土日本語と関連づけたがってきたこれまでの奄美、沖縄の言葉に対して、南方とのつながりを思い出させようとしている。それはほっとさせてくれるものだ。


◇◆◇

加計呂麻島大規模伐採計画に関する新情報。

 「屋久島から加計呂麻チップ工場問題について」(あまみ便りblog)


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2010/02/07

「「奄美と沖縄をつなぐ2009」を写真で振り返る。」

 gacchikoさんが、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントのスライショーを音楽に載せて作ってくれた。時の流れは激しくもうずっと以前やったことのようなのだが、映像を通じて当日の興奮が身体にしっかり刻まれているのを思い出させてくれる。多謝。

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 ※昨日の、「加計呂麻島で大規模伐採計画」で紹介した「奄美・加計呂麻島なんでもありBLOG」の「「チップ工場」説明会」は、テープ起こしによる記事だ。やったことのある人は分かると思うが、テープ起こしは地味で地道な作業だ。ふつうは報酬があってやるものだが、ボランティアでやるのは気骨の折れることなのだ。去年、400年イベントでその都度、参加できた誰かがやってくれないかと願ったが一つもなかった。どれほどの想いでやっているか伝わってくるというもの。現在、「その8」まで進んでいる。まだ完了していない。

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2010/02/06

「加計呂麻島で大規模伐採計画」

 加計呂麻島で大規模な伐採計画が持ち上がっている。

鹿児島の企業が説明会
環境保護で反対意見続出

 鹿児島市に本社を置く海運会社の関連企業が、製紙原料となるチップの生産を目的に、瀬戸内町加計呂麻島の中西部に位患する大規模な山林買収と伐採を計画している。計画地は瀬武集落内でシイの原生林を含む山林。29日夜、瀬相集落の集会所で説明会があった。参加者からは潰境保護の観点などから、伐採を疑問視する声や反対意見が続出。会社側は「これまでに屋久島で約50年にわたってチップ生産を手掛けている中で、そうした不都合は発生していない」と実績を強調、理解を求めた。(「南海日日新聞」1月31日)

 いままでなら、この件について現段階で知りうるのは、このリード文に続く詳細記事の範囲に限られただろう。しかし、ぼくはこの計画をツイッターで知り、ブログでさらに詳細を、そして在住者や加計呂麻島に心を寄せる人たちの声を知ることができた。事態の詳細を伝えるのが役場でもなく新聞記者でもない。心ある一個人の営為なのだ。そのおかげで知りうる事態の概略を共有することができる。今の段階では知っていることが力になるのだから、敬意を込めて紹介したい。


「奄美・加計呂麻島なんでもありBLOG」

 ・「加計呂麻の「椎の森」皆伐計画について」(2/1)
 ・「加計呂麻島、全島民向けの説明会を望みます。」(2/2)
 ・「とほほ・・・」(2/3)
 ・「チップ工場の件で役場へ行ってきた。」(2/4)
 ・「チップ工場で雇用が出来る。でも、そのお金で子供を育てたくない。」(2/5)

 ・「「チップ工場」説明会 その1」(2/5)
 ・「「チップ工場」説明会 その2」(2/5)
 ・「「チップ工場」説明会 その3」(2/6)
 ・「「チップ工場」説明会 その4」(2/6)
 ・「「チップ工場」説明会 その5」(2/6)

 ・「ちょっとぼやき」(2/6)
 ・「製紙会社、環境への取組みのページ」(2/7)
 
 ・「「チップ工場」説明会 その6」(2/7)
 ・「「チップ工場」説明会 その7」(2/7)
 ・「「チップ工場」説明会 その8」(2/7)
 ・「「チップ工場」説明会 その9」(2/8)
 ・「「チップ工場」説明会 その10」(2/8)
 ・「「チップ工場」説明会 その11」(2/9)

 ・「加計呂麻出身の方のブログのご紹介」(2/11)

 ・「「チップ工場」説明会 その12」(2/11)
 ・「「チップ工場」説明会 その13」(2/11)
 ・「「チップ工場」説明会 その14」(2/11)
 ・「「チップ工場」説明会 その15」(2/11)
 ・「「チップ工場」説明会 その16」(2/11)


「savekakeroma @ ウィキ 加計呂麻島の伐採問題を考える」

 ・「加計呂麻島の危機?!」(in 沖縄 in奄美 でしたが さらに南へ移動しました。)

 ・「加計呂麻(かけろま)島ってご存知ですか?」(陽だまりのエッセンス)

 ・「加計呂麻の森が危ない」(Optimistic)

 ・「加計呂麻島の伐採問題によせて」(東京シマ暮らし)

 ・「加計呂麻島伐採問題、現地視察」(徒然なる奄美)

 ・「奄美・加計呂麻島で行われようとしている自然破壊の蛮行」(あなたの子どもを加害者にしないために)

 ・「ウソでしょ!加計呂麻島の森の47%を伐採する計画!」(海辺のさんぽCafe)

 ・「武甲山を見て加計呂麻島を憂う」(カフェあまんゆ)

 ・「第3509号 加計呂麻島危うし!」(坂之上の昼下がり )

 ・「加計呂麻島の半分がハゲ山になる!?」(シマ巡り)

 ・「加計呂麻島の山がなくなる!?」(奄美の家日記)

 ・「海や、山うかげ」(かなしゃる島blog)

 ・「加計呂麻島、木材チップ工場建設問題の続報!」(海辺のさんぽCafe)


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2010/02/05

「打診に揺れる徳之島」をめぐる山本太一議員のツイートat徳之島

 届いた先週の南海日日新聞に「普天間移設」をめぐる記事。

世界遺産運動へ影響懸念も
経済不振、人口減で危機感

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設候補地の一つに浮上した鹿児島県・徳之島。地元では米軍誘致の経済効果に期待の声が上がる一方、希少生物アマミノクロウサギがすむ徳之島など奄美群島が世界自然遺産登録を目指してきた経緯もあり、一部の住民は移設反対に動きだした。

 昨日、自民党の山本一太参議院議員が徳之島入りし、町長や町議と話した内容をツイッターで発信していました。まだ、ツイッターを見てない方も多いと思うので載せます。途中、登場する平沢議員をぼくはこのところ信頼していませんが、そのまま伝えます。

 今日の南海日日新聞にきっと記事が載っていると思うので、あわせて。

 「ichita_y」

羽田空港。鹿児島行きフライトの搭乗口にいる。少し早めに空港に到着。さっと、ソバを食べた。平沢さん、まだ、来ていないのかなあ?

先ほど、鹿児島空港に着いた。空港内の待合室でつぶやいている。目の前では、平沢勝栄衆院議員が東京の秘書(?)と電話で話している。ここで、30分ほど休んでから、徳之島行きの飛行機に乗る。2人とも、徳之島に行くのは初めて。

徳之島3町の町長を含む関係者との意見交換会がスタート。カメラも入っている(オープン)なので、ツイートする。

宮城町長から、経緯についての説明が続いている。民主党からのアプローチを詳細に報告。3町長とも、米軍受け入れには大反対だ、と。

続けて、伊仙町長からも報告。民主党某代議士から「官房長官に会って欲しい」という依頼あり。東京で会ったら「要請に行く」ように思われてしまうので、断った、と。「ぜひ、官房長官に会ってくれ」と牧野代議士から3回、言われた、と。

会議室には、約20名の議員。その他、3町の関係者もいる。米軍が来るいうことは大変なこと。来るのはヘリだけではない。演習場等もいると町長。

 町長の発言が続いている。「一部、経済効果等で賛成する人もいるが、長期的に考えるとマイナス。米軍が来て場所が取られ、多くの人間が来ると農業も畜産も成り立たなくなる!」と強調。

まるで、徳之島が米軍受け入れに賛成しているかのような情報も東京に伝わっている懸念もある。島の宝(農業や闘牛等)を大事にしようと説明すれば、基地に反対する理由は、ほとんどの人に分かってもらえる。伊仙町長の言葉。

続けて徳之島町長。経過は2人の町長が話したとおり。基地の問題はそんなに簡単ではない、と。最初、民主党側から要請があった時、なぜ、役場に正式に来ないのかなと不思議に思った。平野官房長官との面会を要請された時も、徳之島に基地が来るという危機感はなかった。

その後の経緯を見て、ここでしっかり反対表明することが必要だと感じていると徳之島町長。改めて地域振興をどうするかを考える契機になれば、と。

平沢勝栄衆院議員が挨拶。3町長の話を聞いて、「民主党政権は、何をしているんだろう?」という怒りを感じた、と。米軍再編の問題にずっと関心を持って来たが、移転先を決めるのはスゴく難しい。最終的に地元も苦渋の決断をして、名護市が受け入れを表明した、と。

鳩山総理が選挙中に「県外、国外」と言っていたので、ちゃんと目算があると思っていた。が、政権発足後、見通しがなかったことが分かった。辺野古の代わりに、徳之島が受け入れるかのような情報に接して、本当かなと思ったと平沢氏。

ぜひ、徳之島に来て、地元の皆さんから率直な意見を聴きたいと思ったと平沢氏。3町長の話も聞き、結局、鳩山政権が迷走していることが分かったと発言。

山本一太も挨拶。続けて、あまみ農業共同組合の専務理事からの意見。徳之島への基地移転の話が出ていることに激しく憤慨。農家を代表する者として、絶対に許しがたいと明言。平野官房長官の「地元を無視して国が決める」ような発言には断固、抗議したい、と。賛成する方々は信じられない、と。

天然記念物の黒ウサギもいる。この島を愛している者として、基地の話は許せない。ヘリコプターの騒音は、畜産にも悪影響がある、とあまみ農協の専務理事。

この意見交換会は、マスコミに完全オープン。3町長の気持ちを象徴している。

天城町の畜産会長でもある町議からの話。孫が学校から帰って来ると、自分の部屋に来て「本当に怖いもの(基地)が来るの?」と聞かれると。ようやく3町がひとつになって、素晴らしい島が出来つつある。3町で決起大会を開いてでも阻止したい、と。

天城町の農業委員会会長から。天城は農業立町として、ようやく若者が少しずつ農業をやり始めた。農家は土地を取られたら終わり。基地はけっして、認めてはならないと強調。3町、力を合わせて反対していきたい、と。

元天城町議会議長(園芸新興会長)からの発言。山本さんと平沢さんが来てくれて安堵。マスコミで「徳之島が普天間の代替候補地に!」と聞いて仰天した。サトウキビ、ジャガイモ、人参の生産にもやっとメドがついたところ。断固、基地には反対!国会でも、徳之島の意向を発信して欲しい、と。

ここで平沢氏から質問。たとえば、マスコミ報道では、徳之島の観光関係者の「移設に前向きな言動」が紹介されたり、地元某町議の「徳之島の経済界からは移設に全面協力すると言われている」との発言も取り上げられている。これらを、どう見ているか、と。

出席者の多くは、「あくまで少数意見」だ、と。それには、反論も。何が少数で、何が多数かは、改めて確認をする必要はある、と。とにかく、突然、ふって沸いた話。反論した人自身は、「受け入れは考えられない!」と。

住民の方(女性)から発言。なぜ、公式に基地の話が来なかったのか?それは、島の人々は見くびられたと思う。生活に困った人に、直接「これで経済が潤うんじゃないか」と見せつける汚いやり方だ、と。自分は子育てをやっているので、子供のためにも女性の力を結集して反対していく、と。

別の町議。議会も正式には全く聞いていない。そこに、平野長官の「地元の民意は問わなくてもいい」発言にも不安。意見も聴かずに5月末までに「ハイ徳之島です!」と決められるのではないかと心配だ、と。

同じ町議。「噂の段階でも、これだけ町民が怒っている」ことは理解して欲しい、と。

徳之島町議が発言。楽観視している。このタイムフレームの中ではあり得ないと思うから、と。沖縄の方々が反対しているのに、国内で受け入れるところはないと考えているとの見解。ただし、黙っているのは危険。反対のアクションは起こすべきだ、と。

地元住民の方からの質問。徳之島への基地移設を町長に繋いだ静岡在住の某氏(徳之島出身)はどんな人で、静岡県の牧野聖修代議士とはどんな関係で、どんな役割を果たしたのか、と。その人自身が悪いわけではない、と徳之島町長。

徳之島町議。基地受け入れに関して、少数(?)だが賛成派もいる、と。が、やっと町がまとまって来た時に、島民を惑わせるようなことはやめてもらいたい、と。

伊仙町議会議員。2人(山本・平沢)に、ひとつ調べて欲しい。地元から鳩山政権に何らかの要望書が出ていないかどうか、と。町長が反対しているので、正式な要請はあり得ないと回答。非公式なものは分からないが。

別の町議。話が出たのは2週間前。ここのところ、情報が錯綜。まだ十分に意見を聴けていないので、(多くは反対だと思うが)どれだけ反対でどれだけ賛成とは言えない。自分は反対。このことで、せっかくひとつになった奄美が政治的対立で分断されるのも心配だ、と。

他の住民の方。基地は、島の歴史や文化に逆行する。国民に不信を抱かせるような政治はやめて欲しい。若い人々のUターンも増えている中で、故郷を失うような話は反対だ、と。特に(島を分断させる)「住民投票」のようなことは、やめたほうがいいとも!

鹿児島空港の待合室。徳之島を往復する飛行機の機中で書いた最新ブログ「いつもと変わらぬ機内サービス」「徳之島、3町長との会合」を掲載! http://bit.ly/LvPg1

鹿児島空港の待合室にいる。長崎行きのフライト出発時刻まで、あと1時間以上ある。先ほど、空港内のレストランで食事。平沢さんと、いろいろな話が出来た。来週は、平沢氏、後藤田正純氏、小野寺五典氏と一緒に(日帰りで)沖縄に行く。

今日、意見交換会に集まった地元の3町長、各町から参加した約20名の町議、住民は、全員が「基地受け入れに反対」だった。経済効果という面で賛成する方々もいると思うが、少なくとも「地元の合意」を(しかも5月末までに)取り付けるのは不可能という印象。

明日は、長崎の大村基地を視察する。徳之島で改めて思った。どこであろうと、基地受け入れに関して地元の合意を得るのは、極めて難しい。結局、無理矢理、現行案に持っていくか、それとも普天間固定化(最悪のシナリオ)しかなくなるのではないか。が、現行案に戻るのも困難。

普天間の危険を除去するために、知事も、名護市長も、苦渋の決断で受け入れた。やはり、現行案で進めるべきだったと思う。5月末までに移設先が決まらなかったら、鳩山総理はどうするつもりだろうか?

今日の、徳之島3町長との意見交換会。議員や住民に声をかけ、会議をフルオープンにしたところに、3人の首長の危機感が現れている。天城町長は、民主党議員等とのやり取りを詳細に報告。我々の視察を契機に、地元の反対が強いことを内外に発信したかったのだと思う。

空港待合室のテレビで「朝青龍引退」のニュース。仕方がないとは思うが、残念!

仮に普天間固定になったら、(反対であれ、賛成であれ)総理の発言に翻弄された沖縄の方々が気の毒です!RT @korochan0317 @ichita_y どのような理由があろうとも普天間の移転先が決まらない事はリーダーシップの欠如と対外的にとられますね。

ええ、そう思ってました。今となっては無理だと思いますが。RT @korosama @ichita_y つまり一太さんは原稿案がベストであると言う意見ですか。

長崎は学生時代に何度か来ました。本当に素敵な場所!今回も、ゆっくりする時間はありませんが。RT @telecas3 長崎へようこそいらっしゃいませ。長崎県知事選挙で一太さんが長崎の「ビジョン」を語って下さい。

辺野古の視察と地元関係者との意見交換等のため。RT @lhasa0619 @ichita_y 沖縄に何しに行くんです?

手を挙げられるところは、ないと思います。加えて米側の了解も必要ですし。RT @gamioibg @ichita_y ボトムアップで九州沖縄などの自治体から、4月末までに立候補を募るというやり方はできないのでしょうか?

それだけに、地元の方々は、やっとまとまりつつある奄美が、この問題で分断されてしまうのを心配しているようでした。RT @blue @ichita_y  この島は今はどうだかわからないけど 徳田派と保岡派とまっぷたつに割れていた
んですよね。嫁の父親が徳之島出身なので。 

全体の行程は、一泊二日。明日、長崎の大村基地を視察して東京に戻ります。RT @mayuminchi 一太さん、徳之島日帰り!?

おっしゃるとおりだと思います。RT @karasu_buta @ichita_y 圧倒的民意が示された郵政民営化が、どんどん税金無駄遣い、民業圧迫の象徴になろうとしています。自民党は、覚悟をもってこれを争点にすべきではないでしょうか。

あ、テレビで、小沢幹事長の会見の速報が入って来ている。

もしかすると、今日、お会いしたかも。RT @ponmama @ichita_y お疲れ様です。徳之島には夫の親族がおり、町議でもあるので今回の件は気になっていたのですが

この経緯。とても詳しく聴きました。RT @takataku_jp @ichita_y マスコミが牧野議員の(地元は受け入れに好意的みたいなデマカセ)インタビューだけ報道して、地元の強い×2反対を取材しないのは何故?これも問題!

当初は、徳田さんも来れるはずだったのですが。RT @takataku_jp @ichita_y 民主党の杜撰な基地移転計画を咎めるべく、徳田毅議員と率先して問題提起していって欲いね。

なるほど。奄美の黒ウサギもいるんですよね?RT @JPN_LISA @ichita_y 徳之島の件ですが,ここの離島には日本固有の希少昆虫もたくさん生息しています。生物多様性という観点からも,もっと議論を進めていただきたいです。

自民党も多いに反省点が。頑張ります!RT @mshimoyama それを自民党政権時代にはきちっとフォローできていたとでもおっしゃりたいのですか?最近の一太さんは負け犬の遠吠えが多くげんなりです。国民の一部は実力ある自民党議員のガチンコでの逆襲を期待しているのをお忘れなく…

うん!来週は沖縄。世耕さんとの岩手出張、今度のYS懇談で決めましょう。その他にも、いろいろと相談したいことが。RT @SekoHiroshige @ichita_y 一太さん今日は徳之島に行ってるんですね。

よく、胸に置いておきます。RT @r817s725 @ichita_yさん、徳之島にこられるのですね。どこに行かれるのですか?私は、徳之島に住む二人の子をもつ母親。米軍基地が島に来たら、生活がガラリと変わりそうなので、反対。安心して、こどもたちを遊ばせられなさそう。

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2010/02/04

「『400年語り』で奄美は姿を」レジュメ 更新版

アジア太平洋研究センターディアスポラ研究会シンポジウム

「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ」
「400年語り」で奄美は姿を現したのか

レジュメ更新版

「400年語り」で奄美は姿を現したのか


1)奄美とは何か

・自治、独立の基礎、前提としての自立、と受け取る。
奄美。この小さな場所を世界模型として起点にするしかない。

・「アイヌ、奄美、沖縄-まつろわぬ民たちの系譜」
(2008年、カルチュラル・タイフーン)
まつろわぬ、どころではない
では何か。失語というのがふさわしい。

・二重の疎外。「奄美は琉球ではない、大和でもない」
『奄美自立論』(2009年)


2)奄美にとって自立とは何か

・奄美、沖縄、鹿児島、東京、神戸などで38回のイベントが開催される。内、奄美で行われたものは9。24%。

・「400年語り」のなかの奄美。 「琉球国之内」
しかし、本質的には、「内証の事」

中国に対してだけでなく、幕府(日本)に対しても隠したということ。

・薩摩にとっての奄美。
配慮不要の存在。存在しないかのような存在として扱う。

・薩摩内の奄美。
隠されたということ。
存在しないかのような存在として振る舞う。

・政治意思としての鹿児島。維新止まりと他者の不在。

・鹿児島内の奄美。琉球文化を持ちながら、それを表現することができない。

・奄美にとっての発語。隠されてあることを解く。
歴史の副読本を奄美主導(鹿児島ではない)で作成が決まる。まだこの段階。


3)「400年語り」の課題とは

・「奄美と沖縄をつなぐ」(2009年11月14日)

・「沖縄県・鹿児島県交流事業」(2009年11月21日)
沖縄県、鹿児島県知事が奄美大島で交流宣言。

・鹿児島県。頬かむり的な素通りの態度。

・奄美。少数年長者層の抗議と多数の引き、非関心。
両者の懸隔を縫って、交流宣言に呼応する声も通り過ぎた。

・鹿児島。なぜ、奄美に向き合えないのか。
それをすれば、県が絶対視する明治維新や西郷隆盛を相対化せざるをえなくなる。
しかしそれができなければ、時は止まったまま。

・奄美。なぜ、鹿児島に向き合えないのか。
鹿児島県批判に向かうところで内向する。かつて琉球王国、いま島役人。
依然とした傾向。

・県と市民社会を区別する必要がある。

・身体性にすらなっている無力感、諦念。
-「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた。本土から軽んじられると、だまってそれを受けてきた」(島尾敏雄「奄美 日本の南島」)


4)どう語るのか。「160q」から「1Q84」へ

・『1Q84』(村上春樹)。1984年からタイムスリップ。
しかし、「1984」から「1Q84」への移行そのものにリアリティがある。

・奄美。1609年に、160q年へタイムスリップ。

・通時 「160q」のことを「1609」へ

・歴史に登場することのない時間を歩んだ。
黒糖工場化と貨幣流通の禁止/近代化は植民地解放的な闘い/日本復帰のズレ
・史実の発掘(弓削政己)

共時 「1984」ではなく「1Q84」に

・絶対的経済貧困からの脱出と過剰なイメージ
何を語るか、とともに、どのように語るか。

・何を語るか、とともに、どのように語るか。

・過剰への着目
たとえば、400年の歴史を身近に呼吸できる

・世界観の共鳴
粟粥の呪術とインターネット

「400年語り」で奄美は姿を現したのか
・アジールとしての見え隠れ
・普天間基地移設での徳之島対応。

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『奄美方言入門』

 『奄美方言入門』は、1990年に私家版として出されていたのを、改めて出版したものだ。

 ここでぼくたちは、奄美の各市町村別の言葉を一覧することができる。たとえば、「ありがとう」。


龍郷町        アリガタサマ アリョン
笠利町(現奄美市) アリガテサマ リョン
名瀬市(現奄美市) アリガティサマ アリョン
大和村        アリギャッサマ リョタ
宇検村        アリガテサマ アリョオタ
住用村(現奄美市) アリガタサマ アリョン

瀬戸内町       アリゲテサマ リョン

喜界町         ウフクンデール

徳之島町       ウボラダレ 
天城町        オボラダレン
伊仙町        ウボーラーダニ

和泊町        ミヘディロ
知名町        ミフェディロドー

与論町        トートゥ ガナシ

 こう外観すると、島ごとにこれほど違うという相違点に目がいくかもしれないが、それは表層のことで、ぼくはここに相似を見出したいと思う。

 直観的でいい加減なものだが、ここには四つの系統の「ありがとう」がある。

 まず、大島は、「ありがたし」からきた「ありがとう」の言葉の影響を大きく受けているのが分かる。「ありがとう」を、それ以前からの大島の言葉で語尾を締めたものだ。

 喜界島の「ウフクンデール」と徳之島の「オボラダレン」は同系統だ。これは、「大誇り」と書かれることもあるが、それが音の類似から当てたもので、意味に沿えば、「大喜」になるものだと思う。

 三つめは沖永良部島の「ミフェデロ」だが、これは、沖縄島の「ニフェーデービル」や八重山の「ミーファイユー」と同系列で、「三拝」、「二拝」から来ていると思う。

 四つ目は与論島の「トートゥガナシ」。神への尊称がそのまま感謝の言葉になったもの。

 また、この四つの系統も、個々ばらばらに存在するのではない。知らないだけかもしれないので保留を置くけれど、大島の「アリガタ」という北の言葉は大島のみで、沖永良部の「ミフェデロ」は奄美のなかではエラブだけだが、喜界島の「ウフクンデール」と徳之島の「オボラダレン」は、「おぼこり」として大島にもあり、「プクラシャ」としては奄美の共通して分布していると思う。また、与論島の「トートゥガナシ」も奄美全体に分布している。

 これらをひとつの軸で並べることは難しいが、大島でいえば、「オリガタサマリョータ」、「オボコリドー」、「トートゥガナシ」の順に、日常性から非日常性へと流れてゆくのではないか。与論はある意味、もっとも聖性のある言葉を日常的なもにまで使っているわけだ。これは、与論らしい振る舞い方だと思う。

 補足すれば、大島の語尾の「リョタ」と、喜界島の「デール」、徳之島の「ダレン」も違うわけではない。柳田國男も指摘したことがあるように、d音とr音は転化しやすい。与論でも、寺崎は、ティラダキとティララキ、どちらの音も耳にする。似ているのだ。

 深層からみた流線のつながりのなかで見れば、島ごとの相似と受容の仕方の個性が浮かび上がってくる。

 ※「オボラダレンは、「御誇り」から」


   『奄美方言入門―奄美の各市町村別方言集―』

Amamihougen

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「琉球弧自然フォーラムinやんばる」

 こんどの土曜日。「琉球孤自然フォーラムinやんばる-琉球弧の生物多様性の豊かさを感じよう-」

 参加してみたいですね。

◇開会 第1部 「生きた化石たちを育んできた奇跡の島々の自然」14:00~16:00 奄美、やんばる、西表の各地域の自然をそれぞれの地域から紹介。思う存分地域の自然自慢をしてもらいます。 第2部 「琉球弧の奇跡の自然を次世代へ」16:00~17:00 コーディネーター、コメンテーターを交え、各地域の参加者が、琉球弧の島々の違いや共通点などについてトークショーを行います。

◇閉会
(出席者)
コーディネーター
江戸川大学 吉田正人教授
コメンテーター
琉球大学風樹館 佐々木健志氏
奄美地域
奄美自然学校 永江直志氏
やんばる地域
国頭ツーリズム協会 久高将洋氏
西表地域
西表野生生物保護センター 岡村麻生氏

 7日(日)午前中にエクスカーション(やんばる学びの森ガイドウォーク、ウィンターカヌーの2コース)を予定。詳細は以下のページ参照。原則としてフォーラム参加者対象。 事前申込みは、やんばる学びの森(0980-41-7979、info@atabii.jp)へ。
詳細情報 http://atabii.jp/exction_.html


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2010/02/03

『あんご愛加那』

 小説『あんご愛加那』は、西郷隆盛の島妻であった愛加那の半生を描いている。

 ここに西郷隆盛は影のような存在としてしか登場していない。たとえば、奄美のぼくたちがよく知る、大島に遠島された直後に、露骨な蔑視を島人に浴びせた、そのことは描かれない。また、大島商社の設立に関与したことも書かれない。いかしそれは、西郷が鹿児島でそうであるのと同じように美化されているのとは違っている。この作品にあって愛加那が直接知っている範囲が、西郷の全体像なのだ。だから、愛加那に会う前に、島人に蔑視を浴びせたことはもちろん、大島商社設立や西南戦争などの政治的なことはなおさら、知りえないことになる。

 その分、西郷隆盛は半身としてしか登場しないことになる。しかし、この作品で西郷は半身というより影、である。そうなるのは、作者が西郷という人物を捉えきれないことも作用していると思える。作者は、西郷を正面から捉えているわけではない。だから、愛加那との愛情の交し方もパターン化されたものとなって固有の深みを覗かせてくれないのだ。西郷の全体像は誰も捉えきれたことがないのだからと去ってしまいたいが、愛加那の葛藤を通じた情念からはもう少し、西郷評を切り込ませてほしかったところだ。

 『あんご愛加那』でリアルなのは、なんといっても愛加那の心理である。特に、母としての愛加那の心理だ。その心理に切実である度合いに応じて、子の菊次郎と菊草はリアルな人物像となっているし、正確にいえば、菊草は母に寄りそった時間が菊次郎に比べて長く、また幾分は母の分身的な存在である分、菊次郎よりリアルだ。ぼくたちは、この作品で、愛加那の母としての心理劇を追うことになるだろう。

 奄美の歴史や風土について、ぼくたちが期待するほど、深い見識で支えているわけではない。なにしろ、「トウトウガナシ」はこの作品では「呪文」として終始、言及される。まあ呪文には違いないのだが、尊称や感謝としての含意がそがれるのは、作品のニュアンスとして惜しいと言わざるを得ない。

 ただ、深く知るわけではない切り口からは、時折、はっとする視点が投げ掛けられる。

 郷中では「親に口応えをするな」とか「年長の者を敬い、幼少の者をいじめるな」とか「先輩の 教えにそむくな」ということは教えるものの、「人を差別してはいけない」ということは教えなかった。武士の社会は身分差別によって組織化されていたからだ。そのため郷中の仲間はよってたかって菊次郎をいじめた。

 郷中教育は、長幼の序とその絶対化を教えても、「人を差別してはいけない」とは教えない、というのは端的に見事にその内実を言い当ててくれている。そして同時に、それが西郷の子である菊次郎や菊草にも及んだからこそ、大島に心の赴くままに帰るわけにいかなくなった背景も感じられてくる。近代奄美のぼくたちの物語は、愛加那の子たちの物語に原像があるのかもしれない。

 菊草に会いたがる母に対し、周囲が、鹿児島に行けばいいと言ってみる。愛加那は答える。

 愛加那はうつむいて首をふり、手の甲のハヅキを撫でる。
 明治九年にハヅキは禁止され、ハヅキ大工も廃業して藍を刺すことが出来なくなった。それに六十路を目前にした愛加郡の手は骨や血管が浮き上がり、しわが増えて浜昼顔の四つの花は定かではない。それでも島の女の愛加郡にとって、ハヅキは今も命から二番目の大事な心の財産なのである。ハヅキを隠して本土で暮らすわけにはゆかない。
 子どものころ菊草は淋しくなると身体を寄せ、ハヅキを指差して口ずさんだものだ。
「これがアンマでこれがジュウ、これがヤンメでこれが菊……」
 その声が耳の奥によみがえり、小さな指の感触が思い出されて涙がこみ上げる。
「ワンは島のあんご。ウラも菊草も島で生まれ、島で育ったシマンチユ。自問の家を守るためにいとこの丑熊を養子にした。苦しい時はいつでも戻って来しょーれ。菊ももうジュウにもヤンメにも会えたのじゃから、いつでも帰ってくるように伝えてしょーれ」

 この作品では、入墨としてのハヅキが、奄美と鹿児島を分かつ文化の差異の象徴として現れる。西郷も、ハヅキを忌み嫌い、許容しない態度でそれには接していたのだった。そう、描かれているのにはリアリティがある。

 ぼくは、ここに描かれるように、実際も、遠島された徳之島で愛加那と子どもたちと西郷が面会できたのかを知らない。また菊次郎の帰省もここにあるようなものかどうかを知らない。けれど、結局はそばにいたい者を奪われて孤独に過ごさざるを得なかった愛加那の寂しさは伝わってくる。それは島を離れることを宿命のように背負い続けている者には今も他人事ではない物語だ。

 しかし愛加那の孤独は掬われることなく終わるのではない。菊次郎の死後二年経って、若者が愛加那の墓に詣で、その後、墓石が送られる。そこには「龍愛子の墓」と記されている。そう、若者は菊次郎の息子、愛加那の孫だった。これもぼくは史実かどうかを知らない。けれど、孫が掬いあげるのはまっとうな結末だと思う。それは、島尾敏雄、ミホ夫妻を孫の手が受け止めているのを思い出させる。


    『あんご愛加那』

Angoaikana

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2010/02/02

「「嘉義丸のうた」と「十九の春」」

 もう去年の記事なのだが、小川学夫が与論小唄を含めた、「十九の春」のルーツについて書いているのが印象的だった。この記事は、「嘉義丸のうた」を「十九の春」のルーツと言いたげな最近の風聞に端を発し、それに遠慮がちながら自説で応えているものだ。

 小川によれば、

 ともかく、わたしの結論は、「嘉義丸のうた」と「十九の春」は、きょうだいではあるが、親子ではない、ということである。(2009年5月5日)

 小川は、九州の「炭坑節」を引きながら、その音数律の比較などを通じて、「与論ラッパ節」と「与論小唄」、そして「嘉義丸のうた」も、その流れを汲むものだと考えている。前者は、従来、重視していなかったが、「十九の春」とのつながりを否定できなくなったものとして、後者は、原曲と昨今言われているが、「兄弟ではあっても親子ではない」と退けることによって。この結論は妥当なものに聞こえる。

 小川は懸念点も挙げている。

 もう一点、ラッパ節に特有の「トコトット」というハヤシコトバがなくなっていることである。
 鹿児島本土でも付いて歌われていた所と、そうでない所があり、消えた所はどうしてなのかという問題がある。与論の二つの歌、「十五(ママ-引用者)の春」も消えた組だ。また、与論の人たちが覚えたという「炭鉱節」にもこのハヤシコトバはなく、またはっきりと「ラッパ節」といわれた形跡も定かではない。
 しかし、「ラッパ節」と繋がりがあることだけは分かってきた。

 ぼくも「奄美と沖縄をつなぐ」イベントで、ソウルフラワーユニオンのメンバーによる「ラッパ節」を聞いて、その「トコトット」というはやし言葉がとても印象に残ったが、ここに相違点の核があるわけだ。

 (中略)従って、ここに最初に作られた「ラッパ節」とその後に流行った「ラッパ節もどき」(小川命名)が存在して、前者系統の歌にはハヤシコトバが付いており、後者には付いていない。かつ、人々は「もどき」の方も「ラッパ節」といったのではないかという仮説を提示しておきたいのである。「与論ラッパ節」も、「嘉義丸のうた」のもとになった歌も、後者と考えられるのである。(2009年5月6日)

 小川によれば、「与論ラッパ節」も、「嘉義丸のうた」のもとになった歌は、「ラッパ節もどき」と位置づけられる。説得力を感じる。小川は周囲への配慮をしながら書いているが、研究なのだから、もっと遠慮なくやったらいいと思う。


 ※「「十九の春」-ユンヌが育んだヤマトうた」



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2010/02/01

『日本はじっこ自滅旅』の大島、加計呂麻島

 もう戻ろうかと考えている折、家内から電話で、「しばらくかえって来ないで」と言われ、鴨志田はまた逃げるように鹿児島から船に乗り、名瀬で降りる。引用するのは、入舟町のバーでのこと。

彼女の出身地へ行ってみたい、と思った。
「生れはどこなの」
 娘に聞いてみる。
「私はここ。でも母さんは奄美の南にある加計呂麻という離島出身です」
 母親は二人の会話が耳に入ったのか、すっと近付き、
「良い所ですよ、加計呂麻は。奄美の原風景が残る場所です。お客さんは旅行でしょ。行ってみて下さい、ぜひ」
「いいですか、そんなに」
「いい所です。掛け値なしに」
「よし、さっそく明日行くか」
「レンタカーが必要ですね。バスは一日中走っている訳ではないですから」
 原風景という言葉を聞いて、やっと聞いてみたい質問が見つかった。
「奄美は鹿児島県ですよね。自分は鹿児島県民と思う時はありますか」
「うーん……」
 母娘は首をひねって考えこんだ。
 母親が、
「どうでしょうかねえ、何か……、もちろん県民ですよ。しかし、我々は我々、という考えがやはり強いかなあ。御存知かもしれませんが、太平洋戦争後、私達の島々もアメリカから返還されて今年やっと五十周年なんです。戦後すぐに日本、となった訳ではないのですよ。沖縄より早かったけれど、やはり、何か、どうも。まあこんな話、いまさらながらですから。やめましょうね。さっ、乾杯」

 客が誰もいなくなった店で、三人でウィスキーのロックを飲み許した。
「じゃあ、もう一つだけ質問。自分達は鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」
「奄美人です」
 と母親はきっぱりと答えた。
「でも沖縄人の心は判りやすい」
 とも言った。

 母親の、「奄美人です」に言う「奄美」とは、加計呂麻島を含めた大島のことだと思う。ぼくも、「自分達は鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」と聞かれたら、真っ先に「与論人です」ときっぱり答えそうだから、そう思う。

 鴨志田はアイデンティティのありかに対する問いかけが上手い。それは別の形で自身が問い続けていたからに違いない。

 その、勧められた加計呂麻島で、「楽でいいよ」と言う、内地から流れてきた青年に向かって鴨志田は言う。

 もう、いい。青く美しい海にもう別れたい。ふいに、そう思った。
 逃げたくはない。ただ思うがままに生きたい。
 少しだけ、理解した。
 彼ら若者は勝負をしていない。そんなものしてもしなくてもどうでも良いといえばそれはそれで良いのかもしれないけれど。
「俺はもうここを出るよ。好きに生きたいからな」
「おにいはこの島一日だけかよ。もっといればいいじゃないか。楽でいいよ」
 その言葉に一気に心が沸騰した。
「死にかけたんだろ、自由を感じたんだろ、人が他所へ出て行く時は、ほったらかすんだよ。気を付けてなんてかっこよすぎるし。まあ死ぬなよ、くらいで丁度いいじゃねえか。何だよ海は青かったなんて。生きのこった奴は何も言うなよ。あえて言っていい言葉はな、『ああ、どうにか死なずにすんだ』くらいだぜ。
 俺は君の生き方は嫌いじゃないよ。でもね、何だか自分でもよくわかっていないんだけど、〝自由″ってさ、いくつもの得体の知れない恐怖に抗って行く事じゃないのか」
 背をぴんとのばし、「ハイ」と彼は言った。
「じゃあな」
 車のエンジンをかけ、港まで向うと、丁度船が出る所であった。

 この啖呵はいい。鴨志田が自分自身に対して言い放っているものでもあるから、恰好いいのだ。

   『日本はじっこ自滅旅』

Hazikko

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