« 「経済の近代化」1 | トップページ | 「森林伐採 対立の火種」 »

2010/02/22

「経済の近代化」2

 その弓削が披歴する新たな知見から浮かび上がるのは、島役人の二重性である。

 ■1874年春に大島商社の専売制

 もともと、鹿児島県の「産物品建」(明治2年)の総入金の49・7%は黒糖であり、県歳入中の島々砂糖は、その17.4%(明治4)を占めるほど比重が高かった(『鱈児島県史』3巻)。1072(明治5)年9月11せ琉球が県の支配地から分離され「琉球藩」となった。それは県の税収減を意味する。

 鹿児島県の支配地から沖縄が分離されたことは、「県の税収減を意味する」。この指摘は重要である。鹿児島県にとってそれは奄美からの税収増への欲望の契機となっただろうからである。

 同年5月、県は大蔵省の当面1年限りの専売制許可を背景に、夏には大島の太、基と国産会社との専売制を結ばせようとした。しかし、島役人らは「島中歎願二付」という状況を背景に奮闘して、黒糖自由売買となった。「壬申(注・明治5)9月」付で、「鹿児島県庁」は「諸島詰在番」へ「勝手売買申付侯」と「申渡」があった(宮崎県文書センター所蔵)。それは1873(明治6)年】春の島民との取引から始まり、砂糖一斤=真米五合替えで、入手品物も安かったと感じていた。この県の申渡は、1875(明治8)年8月の「名瀬方伊津部村百姓中」は「壬申年…御年貢唐外は、勝手商売之段、御布告承知奉り候」と知っていた(『御廻文留写』)。

 しかし、1873(明治6)年3月30日付で、大蔵省も島民の黒糖自由売買を認めたが、大山県令は、前年に黒糖自由売買を認めながら、逆に「鹿児島商人某等ヲ遣ハシ、旨ヲ与人二諭シ「与人」(戸長)と「恣ニ一手売買ノ契約」を結んだ。大蔵省布達は「人民」に知らせなかった。そして、旧藩時代と同じく「脱糖取締役ヲ置キ、密売ヲ禁」じた。「大島商社是ナリ」という(『奄美史談』)。大島商社と島民との取引は、1874(明治7)年春の砂糖から実施。
この経過をみると、県の専売制の計画を島役人が承諾し実施されたのである。この時、島役人には、大島商社からの品物の注文権、保管権、島民への頒布権を与えられた(『意見書』)。さらに大蔵省通達は「人民」に知らされなかったが、役人層は知っていた可能性がある。

 これまで大島商社との契約のために上鹿した「太、基」の両島役人は、ただ判子を持って印を押してきた子どもの使いのように描かれてきたと思える。島中からの嘆願を背景にした奮闘もあったが、どうしても受動的な印象はぬぐえなかった。実は、両島役人は子どもの使いではなく、奄美のために奮闘したのである。

 しかし、それだけではなかった。島役人は同時に、「品物の注文権、保管権、島民への頒布権」が与えられた。つまり島役人としての奄美への支配力も維持できる手段を確保したのである。これは、薩摩藩支配の構造の形態の維持を意味した。ここに、島役人が、奄美の島人としては奄美のために奮闘し、だが奄美の実質支配権者としての島人としては藩政時代からの特権を保持しようとした二重性が現れる。しかも、弓削によれば、勝手売買に関する大蔵省通達は、島人の知るところではなかったが、島役人は知っていた可能性がある。島役人は奄美のために奮闘したかもしれないが、尽力はしたとは言えなかった、ということだ。

 そして、島津家か県か不明であり、実現はされなかったと考えられるが、黒糖増産2年計画で、数年後黒糖増産見込みであるとして、1876(明治9)年、政府に15万8千余円の拝借金を願い、黒糖取引を拡大する計画を持っていた(「鹿児島県大島開墾ニ関スル島津家願書)。また、大島商社ではなく他商人、船頭・水夫などと取引をした場合の罰則規定まで設けられていた。

 ■「薬糖」で抵抗、専売制を廃止

 大島島民は抵抗の一手段として、黒糖を「薬糖」と称して蓄えて、密かに他商人などと品物を交換し、1876(明治9)年1月から8月までの抜糖は6万斤余になるという(『鹿児島県史料四』)。また、自由売買運動の中で自由売買を実施すると大島商社との取引より1.5倍以上の利益があると試算をする(『御廻文留等写』)。運動の結果、1878(明治11)年5月18日、岩村県令は翌年からの大島商社との一手販売(専売)を廃することを決定した(「柿原意見書」)。

 他の島では、国産会社取引であったが、1873(明治6)年徳之島商設立、翌年沖永良部島商社設立、喜界島は「国産会社-生産会社」と取引をし、1875(明治8)年5月、喜界島商社が設立され商社との取引となった(『鹿児島県芝第三巻、『徳之島沿革概要』)。このような経過を経た商社体制確立と奄美諸島の島民との商取引が、近代奄美諸島の経済的出発であった。(奄美郷士研究会)

 この、黒糖を「薬糖」と称して大島商社に抵抗したという指摘もすがすがしい気持ちにさせてくれる。奄美の島人の、これは知恵である。


 ※下記は、明治5年9月、鹿児島県から各島庁詰役人への「勝手売買申付」文書。

Kattebaibai1

|

« 「経済の近代化」1 | トップページ | 「森林伐採 対立の火種」 »

コメント

いつも拝見しております
不勉強な私に知識を与えてもらい有りがたく思っています
さて今回の記事の中で
”島役人が、奄美の島人としては奄美のために奮闘し、だが奄美の実質支配権者としての島人としては藩政時代からの特権を保持しようとした二重性が現れる”
と表現されている箇所がありますが、
できうるならば、そのあたりの詳細資料をお持ちであれば
またこちらのブログで紹介できないでしょうか?
二重性に興味があり、またシマの郷士との関わりも
ある程度は判明できるのではないかと思い
ご連絡いたしました

投稿: naje | 2010/02/22 18:22

najeさん

遅くなってごめんなさい。

二重性は、島を支配した面と島人として振る舞った面とのことを指しているつもりです。

この資料、というわけではないですが、黒糖の収奪や一揆などにそれはよく現れている気がします。

投稿: 喜山 | 2010/03/15 21:57

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「経済の近代化」2:

« 「経済の近代化」1 | トップページ | 「森林伐採 対立の火種」 »