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2010/01/15

「近代日本の地方統治と『島嶼』」6

 大島県に続くのは、大島大支庁。大島県は構想に終わったが、大島大支庁は実現する。

史料の残存上細かいやり取りは分からないが、大島県の設置を認めた達も出されてない以上、この構想は未遂に終わったようである。ただし、その精神は幾分か継承されて、大島大支庁の設置という形で実を結ぶことになる。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 大島大支庁は、奄美を統括するものだった。

 この大島大支庁という栖憩は、大島に大支庁を置き、外の四島(善界島、徳之島、沖永艮部島、与論島)には支庁を設置するというものであった。

 奄美を県にはできなかったが、大支庁は実現した、という流れからみると、大支庁も明治政府の意思なのかと連想する。大島県構想は、鹿児島県による奄美支配の排除を想定したものだったはずだからである。しかし、大支庁はそうではない。

ちなみに、この何は、前年の一〇月に鹿児島県令大山綱良から提出された上申書に基づくものであった。

 ここでまたぼくは混乱してしまう。鹿児島からの申し出だというのか。

 この上申書も甘庶が重要な産物であることを指摘し、風早による滞納など商人絡みの借金問題の存在にも言及している。そして、先の大蔵省察申を作成するために「大蔵省官員巡回実地検査」に「不肖綱良モ官員同道大島迄巡回見聞」したところ、大山鹿児島県令が出した解決策は「官員ノ増員」による大島大支庁の建設であった。大山鹿児島県令は、この大支庁を建設する目的として三点ほどあげている。

 その三点とは何か。

 まず一点目は、「人民保護ノ道行届」かせるためであった。
 二点目は、「近来ハ外国ノ輸入糖多ク遺憾ノ至り不絶‥…・黍株植殖製糖ノ高ヲ増シ内国ノ貨ヲ他二失フノ道ヲ防」ぐためであった。
 三点目は「島民ノ幸福又砂カラス実二島々悪弊弊襲ノ久キ断絶掃擁致度」という悪習断絶のためであった。

 ぼくはいま、鹿児島県令が「人民保護」の観点を打ち出すのを、にわかには信じられない場所にいる。

大山鹿児島県令によると、大島は遠隔の地で、従来の職制では「耳目二不触事モ多シ」といった反省点があった。そのため、大島大支庁を設け、その外各島々にも支庁を設置することで、現地に密着した細かな統治ができるという意味付けを大支庁設置に求めていた。

 これはどう理解すればいいのだろうか。高江洲はこう結んでいる。

 以上見てきたように、この時期の鹿児島県下の島喚政策、つまり行政組織の新設をめぐる議論は、基幹作物である甘煮栽培の振興を中心にしたものであった。糖業を振興することで、奄美諸島の貧困問題(滞納問題への解決志向)の解決を目指した点では前節との関連があり、その延長として理解することができる。しかも、行政組織の改正という問題に最初にリーダーシップを取ったのが、大蔵省であったという点もまた注目される。この大蔵省の政治的意図(外貨補填)を実現させるために内政(地方行政)にまで関与していくところに、当時の国策を反映するものであったと指摘できる。それは、行政組織の改正による上からの強い指導による成果を期待するという意味で、「殖産興業」派の政策の一環として、この問題を位置付けることができる。

 これを読むと、大山県令の上申は、この時点での鹿児島県の意思が国家と対立するものではないことを示している。大島県であれば、鹿児島県外になり、鹿児島の利益にならないが、大支庁であれば県内であり、統治を強化することは鹿児島県の利益を損なわない。そういうことだろうか。

 しかし、大支庁は、明治一一(二八八七)年、全国に郡役所が置かれることになり、廃止されることになる。

Chihou



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