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2010/01/27

「奄美のマンマーの家で」

 誤植かと思ったが、そんなはずもなく、マンマーはマンマーだった。祖母は、奄美の言葉でアンマー(母)と呼んでもらおうとしたが、うまく覚えられず、マンマーになったのだった。そのマンマーである島尾ミホの死を最初に気づいた孫はどのように知ったのか、気になっていたけれど、こういうものだ。

 わたしと和ちゃんの体が、同時に止まった。
 寝室の鏡台の前で向こうに顔を向けて寝間着のまま畳の上に倒れている祖母がいたのだ。右手をまっすぐ伸ばして、おろした長く黒い髪が椅農に寝間着や腕や、畳の上にウエーブを措いて這っていた。顔は髪に隠れてまったく表情はわからない。ただ、白雪姫のような、きれいな姿だと見た瞬間に思った。(「新潮 2010年 02月号」

 「白雪姫のような、きれいな姿だ」と受け止められたことに、ほっとする。そういう対面でよかった。けれどそれは孫が持っている受け皿のなせる技かもしれない。

 「奄美のマンマーの家で」を読んで、関係の距離のほどよさということを思った。たとえば、祖母についてこう書く。

 同じ物、新品の物はたくさんあるけれど、その中にブランド物がまったくないのが祖母らしい。大きな家に住んだり、ドレスを着たりして見栄っぱりな所もあるのだけれど、飼っている犬は雑種だったり、肩にインコのウンチがついていたりするからわたしは祖母が大好きなのだ。自分なりにセルフプロデュースをしていても、バッグは奄美のスーパーでの〝一番高いもの〃だし、持っている服も知らないメーカーの名前ばかり。この山が全部ブランド物だったら、この後どんなにわたしたちが得をするだろうと思うけれど。でも、もしそうだったらウンザリしてしまうだろうな、とも思う。祖母がそういう人でなくて良かった。高級品の整理より、インコの羽や何十年も前のお歳暮の整理のほうが、わたしたちにとってはよっぽど楽しい作業だ。

 「わたしは祖母が大好きなのだ」と、真っ直ぐに素直にそう書ける位置がこの場合、孫、なのだと思う。息子はそういうわけにいかない。いちいちが直接的な記憶を呼びさまし、重たいしこりを抱え込むことなしには、受け止められない。階段の途中に「祖母のオブジェ」をつくり、その人形のさまを母は「気味悪い」と抗議するもそのままにある。そのようにしか父は表現できないが、孫はそれを「その人形の無気味さが、父のひねくれた愛情をよく表現しているとも言える」と、適切に掬っている。

 叔母にあたるマヤの死を受容したいきさつを伝える『まほちゃんの家』を読んだとき、深刻な物語を掬いあげるのが、大人の大きな手ではなく、弱々しいまだ未熟な、小さな手であることを感じたが、ここでも同じことが語られる。

 夜、和ちゃんと二人で浦上に泊まった。祖母は、倒れていた寝室で棺の中。
 二十一年前の夜も、同じだった。祖父が危篤になり、海外にいる両親より先に一人で鹿児島へ行き、和ちゃんに付き添われて過ごしたのだ。
 マヤの時旦わたしが付き添っている時に亡くなった。看取って、すぐに電話で東京にいる父にマヤの死を伝えた。父はその時わたしに「ありがとうございました」と言った。
 祖母と、マヤと、和ちゃんとわたしの四人はこういう時いっも一緒にいたんだ。そして、和ちゃんとわたしーはその度に二人で布団を並べている。

 この受ける小さな手の大きさに、関係の距離のほどよさを思う。

 島尾ミホの他界の報に接したとき、少し前に出た孫の『まほちゃんの家』を読んだかどうか、気になった。

 その翌年二〇〇七年三月二十五日に今度はわたしが「様子見」をしに行くことになった。ちょうど、前の月にわたしは『まほちゃんの家』という幼少期の思い出や家族について綴ったエッセイ集を出したばかりだった。著書で祖父母について初めて踏み込んで触れた部分もあり、まだ聞いていなかった感想を面と向かって聞くのが少し怖かった。 

 感想を孫は聞くことはなかった。そして祖母は読んでくれたかどうかはここには書かれていない。けれど、それは祖母の家の片づけ続けている孫は知っているのに違いなく、ここでぼくも気持ちの落ちつけ先を見つけることができた。

 今回の「新潮」には、島尾敏雄の「終戦後日記」も載っている。孫と祖父の共演だ。


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コメント

こころ温まる物語りの紹介ありがとうございます。

ぜひ読んでみたいと思いました。

投稿: kemo | 2010/01/28 15:42

 >夜、和ちゃんと二人で浦上に泊まった。祖母は、倒れていた寝室で棺の中。
 二十一年前の夜も、同じだった。祖父が危篤になり、海外にいる両親より先に一人で鹿児島へ行き、和ちゃんに付き添われて過ごしたのだ。
 マヤの時旦わたしが付き添っている時に亡くなった。看取って、すぐに電話で東京にいる父にマヤの死を伝えた。父はその時わたしに「ありがとうございました」と言った。
 祖母と、マヤと、和ちゃんとわたしの四人はこういう時いっも一緒にいたんだ。そして、和ちゃんとわたしーはその度に二人で布団を並べている。

 ★先日、新聞(毎日)の書評記事でマホさんの文章を知り読みたく思っていました。「浦上」、懐かしい地名です。田中一村の住まいも近く私も小学生の頃に蝶採集で歩き回った場所です。叔母と姪の別れの光景に涙するしかありません。
 
>父はその時わたしに「ありがとうございました」と言った。

 ★伸三さん親子の会話の間に交わされたであろう無言の間を推察し小生も改めてミホさんの死を追悼したいと思います。

投稿: アカショウビン | 2010/01/30 02:09

kemoさん

ぜひ、読んでみてください。いいですよ。(^^)

投稿: 喜山 | 2010/02/03 17:58

アカショウビンさん

ぼくなどより、切実に感じられることと思います。

Myaku で、島尾敏雄論が展開されています。よろしければ。
http://d.hatena.ne.jp/i-otodoke/

投稿: 喜山 | 2010/02/03 18:00

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