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2010/01/22

「近代日本の地方統治と『島嶼』」11

 それにしてもこの間の名称変更は著しい。代官所からの変遷を辿ると、代官所、在番所、戸長役所、大支庁、支庁、郡役所、金久支庁、大島島庁、大島郡、である。ややこしいので、弓削政己の「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」から、この間の年表を下にメモしておく。

 ぼくはまだ「近代日本の地方統治と『島嶼』」を理解しきれているとはとても言い難いのだが、これによると、この変遷のなかでも強調されるべきは、「大支庁」と「金久支庁」だと思える。

 まず、大支庁設置(明治8年)は、その前段として「大島県」の設置構想があった。これは、大蔵省発案のもので、奄美の黒糖を直接、国家が統制したかったのである。言い換えれば奄美について国家が鹿児島県の影響を排除しようとしたのだが、それは政府の黒糖「自由売買」の布達にも関わらず大島商社の専売制を維持しようとしていたように、鹿児島県が国家の統制に対して反撥したのだ。

 大島県は構想に終わるが、その翌年(明治8年)には大支庁が設置される。これは、「殖産興業」という点から大島県構想の意図と同じ流れに属している。しかし、鹿児島県にしてみれば、奄美が鹿児島県下にあるという理由で、「大島県」とは異なり、鹿児島県としては歓迎できるものだった。事実、大支庁設置は鹿児島県令からの要請を発端としている。

 「金久支庁」(明治18年)にも、殖産興業としての地域振興の観点は貫かれており、通常の「郡」では対応できなから、郡以上、県未満の統治を必要としたものだった。しかし、島庁設置と運営費は国庫負担になっている。ここでポイントなのは、この国庫負担という側面だ。すでに鹿児島県議会では、明治13年には、「内地との経済分離」が議論されていて(『奄美群島の近現代史』西村富明)、この時点ですでに、地方税をめぐり内地と奄美とでは利害が相反する面を持っていた。これは言い換えると、西南戦争が終わり士族救済の名目は崩れ、大島商社も解体していることから、奄美の黒糖が鹿児島県にとって必須のもの、甘い汁ではなくなっていたことを意味するのではないだろうか。

 この理解が妥当だとしてだが、明治初期の経緯は、当初、奄美の黒糖が鹿児島県の経済に欠かせないものだったので、国家の方針に反してもその利益に固執していたが、鹿児島内地の近代化にとって重荷になり始めるや、国家に奄美の地域振興を要請しはじめる。この間には、西南戦争による鹿児島の過剰武士団の消滅と大島商社の解体があった。鹿児島県にとっての奄美とは「大島出兵」計画から西南戦争まで、鹿児島の過剰な武士団維持のための存在だったということではないだろうか。

 だから、ここに「殖産興業」の視点があったとしても、それが重荷になった途端、経済自立を求める方便に聞こえてしまうのである。

 ぼくは経緯を充分に把握しているとは言えず、誤解を含むかもしれないので、この判断が正しいという確証を持たない。「近代日本の地方統治と『島嶼』」は、視点を複眼化してくれるけれど、ぼくはそれにとどまる理解しかいまのところ到達できていない。もしかしたら、複眼化で充分なのかもしれないのだが。

 ただ、高江洲の考察から、明治近代国家の奄美だけではない島嶼に対する統治の不合理さを学ぶことで、鹿児島県の奄美支配の不合理さの過剰性に帰せられるものが何か、それを見極める補助線を引くことはできたと思う。

◇◆◇


1869(明治2)年
・大島、喜界島、徳之島、沖永良部島・与論島の四代官所は在番所へ、名称変更。

1871(明治4)年
・廃藩置県
・鹿児島県、政府の許可を受けずに、翌年の貢糖から大阪相場換算で石代金納とし、残糖の余計糖は、島民の日用品での交換とする方針を決定

1872(明治5)年
・鹿児島県は専売制維持のため大島商社を作り、その契約を上鹿与人と契約

1873(明治6)年
・奄美島嶼は、在番所を戸長役所と改称
・政府、黒糖(貢糖)は現物のまま納めること、それ以外は「内地商人」と自由売買とすることを全国布達
・鹿児島県は、石代金納を主張

1874(明治7)年
・大蔵省、同年から石代金納に、九月には前年に遡っての実施を許可
・大蔵省 大島県構想

1875(明治8)年
・鹿児島県、大島に大支庁、他四島に支庁を設置

1878(明治11)年
・郡区長村編成法により、大島の大支庁は廃止され支庁に
・「砂糖販売改」、翌年から商人と島民の自由取引
・大島の島民。砂糖の産地問屋方式を提唱
・1873(明治6)年の「内地商人」と自由売買とする布達がようやく実施されることに

1879(明治12)年
・内務省、四島を大島郡、喜界郡、徳之島郡、沖永良部郡、与論郡とすることを「追伸」。しかし、与論島には村数六のため、奄美島嶼全体を大隅国大島郡とする
・これに伴い、各支庁は廃止。名瀬方金久村に郡役所設置。
・一郡に一郡長として、支庁長は郡長となり、四島の支庁は郡役所出張所となる
・1879(明治12)年から1884(明治17)年のあいだに、農商務省内部から「鹿児島県各島砂糖蕃殖方法」提案(産地問屋方式)

1883(明治16)年
・郡役所出張所、廃止

1885(明治18)年
・郡役所、廃止。金久支庁、設置。
・金久支庁は、大島々庁と改称。支庁長は島司へ。
・県令渡辺千秋「経済分離ノ儀」は「忽ち言フ可ラサルノ惨状ニ陥リ候儀ハ当然ニ付」
・金久支庁設置、島庁設置と運営費は国庫負担
・金久支庁設置は、「内地」からの支出削減

1888(明治21)年
・市町村制により、旧熊毛郡、護謨郡は、大島郡から分離

1888(明治21)年
・「独立経済」

「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」(弓削政己)から作成)

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