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2010/01/16

「多様だった『400年語り』 成果の反芻、深化を」

 大橋愛由等の「神戸から」(「南海日日新聞」1月6日)は、高密度な総括だ。

 奄美にとって2009年という1年は、状況がせり上がり、思想が生成されていく歴史の現場であった。
 それは言うまでもなく、奄美内外で展開された「薩摩侵攻400年に関するシンポジウムでの発言、マスコミでの紙(誌)面展開、歴史研究の新たなステージ、行政が絡んだ行事など、多くの「400年語り」から刺激を受けた奄美認識の再点検を意味している。
 「しかし」、と言っておこう。2009年が始まる前から抱いていた<だれが・どこへ・なにをしたのか>についての疑念が1年経過した後も晴れることがなかったのである。

 <だれが>を薩摩であると固定できたとしても、「琉球出兵」では、「出兵」された奄美・沖縄は軍事制圧された対象でしかない。<どこへ>が、琉球だけであれば、そこに奄美の姿を捜す目線と注意深さが必要となる。かつて言われた「島津入り」という表現では、時代が近い豊臣秀吉の「朝鮮出兵」と「唐入り」の薩摩版言い換えのような言葉の響きがある。
 では<なにをしたのか>について言おう。7月5日に東京で私が企画しで行ったパネルディスカッションでのテーマは「薩摩侵攻/侵略400年を考える」とした。「侵攻/侵略」との二つの言葉を併記したのは、奄美の立場からすると、まざれもなく「侵略」であるのに違いないのであるが、「侵攻」と表現することで、自ら熱を冷ましバランス感覚を保とうとする奄美の人々の知恵をそこに見るために、併記したのである。

 奄美に「バランス感覚」をみるのはたぶんに好意的な見方だと思う。ことを真正面から捉えることに対する遠慮、躊躇、ではないか。 

 「しかし」、と反語で続けよう。その併記の揺れは揺れとしてわたし自身納得できないままでいた。そしてこうした併記に現れる平衡感覚に対するいくつかのあらがいが、奄美から発せられたことも忘れてはならない。
 奄美発の<否>のひとつに、5月2日に徳之島で行われたシンポジウム「未来への道しるべ」の直前に発せられた、島津家の第32主・島津修久氏のあいさつに反対する申入書がある。「現段階で『薩摩藩奄美琉球侵攻四〇〇年』の歴史認識はそれぞれに大きくわかれています。にもかかわらず、当日、島津氏の当主がこのことに関して、挨拶されることは、奄美の歴史に誤ったメッセージを送ることになるのではと大変、危惧しております」との理由で「島津家当主の挨拶を取りやめていただきたい!」と書かれ、島津氏がはたして現段階で、薩摩・靡児島の総意をもって奄美に対してメッセージを述べるのに的確かどうかその資格を問うたものだった。

 ここには二重の勘違いがあった。島津と尚の末裔をまねくことが何事かの公的な意味を持つとみなした徳之島行政と、そのことに意味があるとみなして奄美に訪れた島津家当主と。資格がないと改めて指摘するのも馬鹿ばかしく、これをこそが黙殺するにふさわしい行為というものだ。申入書はだから過剰な反応だが、これを意味あるかのように当の奄美の島人も思う余地はあるのだから、そう行動したくなるのは分かるものだった。

 そしてこの勘違いは島役人の末裔にも引き継がれていた。

 さらに、11月21日に県奄美パークで行われた「沖縄・鹿児島連携交流事業」における「交流拡大宣言調印式に対して中止を求める要請書が発せられた。それには「島津軍による武力侵略から四〇〇年の今年、奄美の地でそれ(調印)がなされることには深い違和感を覚えざるをえません。「薩摩の奄美・琉球侵略を『不幸な歴史』と清算し、過去の歴史を隠蔽し、蓋をすること、謝罪すべきことを「交流」と称し、奄美を愚弄すること奄美の民衆は許すことはできません」などと書かれている。
 この調印を行う場所に薩摩・琉球の中間に位置する「道之島」を選択したのは、奄美の地政学的位置を知り尽くした鹿児島と沖縄の政治的意思が働いていることが了解される。

 公的な意味は現在は両県知事が担うものだから、この交流事業こそは異議申し立ての対象だったろう。「奄美の地政学的位置を知り尽くした鹿児島と沖縄の政治的意思」については、ニュアンスがあり、地政学的位置を知っているが意味について認識不足の沖縄県知事と、位置も意味も知り尽くしていながら知らぬふりをした鹿児島県知事である。

 ところで、この調印について奄美の人々はどう思っているのだろう。調印が行われた会場に、日本への復帰が決まったことを祝った時のような歓呼で迎える奄美の民衆の姿はそこにあったのだろううか。あるいはこの調印は、奄美の頭ごなしの、薩摩・琉球といった新旧「宗主国」の権力代行者に上る、400年にわたる奄美のルサチマン封じの儀式(手打ち式)であると直感したシマンチュに同調しているのだろうか。わたしには、こうした異議申し立ては、為政者たちの仕掛けや装置にもはや回収されまいとする奄美の人々の悲痛な叫びに思えてならないのである。

 ここに「シマンチュ」の「同調」など無かったことは明白だと思う。ぼくは異議申し立てが現在も「悲痛な叫び」のようにしか表出されないことが課題なのだと感じる。

 「しかし」、と三たび繰り返しておこう。島津家当主が薩摩・鹿児島の総意を代表しきるのかという問いは、奄美自身にも向けられている。それは、だれが奄美の400年を背おって語りうる資格があるのか、という自省が込められた問いである。もう少し焦点を絞って表現すれば、島役人層への奄美内部からのまなざしと言えよう。
 藩政期に、砂糖納税になることで、奄美の人々に階層分化をもたらした。豊かな島役人層は納税した後の正余計糖を活用して資産をつくり、ヤンチュを買い、郷士格になっていった。
 そうした社会環境の中で島役人層は次第に支配者側(薩摩)に加担していく立場をとるようになる。その姿勢は明治になって、黒糖が自由販売になった後も、引き続き鹿児島県の息が掛かった商社と契約を結んだ島役人層がいたことにも引き継がれている。

 そしてぼくたちは、県としての鹿児島への批判を避けるように、島役人批判へ向かおうとする奇妙な光景を目の当たりにすることになる。ここに見るのは島役人批判の真っ当さであるより、奄美的心情の屈折のありようである。政治的意思としての鹿児島への批判に帰結しそうになると矛先を変更するのは『名瀬市誌』から変わらない心性である。

 「奄美の400年を背おって語りうる資格がある」のはふつうの奄美の人々であるのは言うまでもない。そこに、この課題が現れるのである。

 こうした島役人層のありようを問う思いは、奄美の人々の心の地下水脈として流れ続けていることを考えると、奄美社会の中で、現在に至るまでの<親鹿(薩)性の洗い出し>という心情が表面化したのも、2009年の特徴の一つだった。

 ことはいたって単純で、県としての政治的意思と市民相互の交流を区別しない錯誤が招いている事態ではないのか。交流事業というネーミングは、その錯誤を物語っている。

 そしてもうひとつ。最後に強調しておきたいことは、こうした「400年語り」は奄美の各島によって捉える視点が異なるということである。2010年になった今、奄美の人々はどのように受け止め、どのような奄美像を創造していこうとしていくのだろうか。そして神戸でも「400年語り」を実施したわたしは、こうした語りの成果を、神戸の出身者とともにこれからじっくりと反芻し深化させていきたいと思っている。(図書出版まろうど社代表)

 「奄美の各島によって捉える視点が異なる」そのありようの詳細は、ぼくの知りたいところだけれど、異なること自体は、島ごとの独立性が高いのだから自然な現れである。しかし、二重の疎外の表出であるという点は共通しているのだ。


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