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2010/01/23

「近代日本の地方統治と『島嶼』」12

 高江洲は先行するナショナリティの研究に対してこう書いている。

こうしたナショナリティに関する議論は往々にして、学閥やジャーナリズムの世界で紡がれた「言説」を主たる対象にする。それら研究は、膨大な言説(知の蓄積)との格闘の末発表されたものであり、その意義については認めるものであるが、このように特定の言説を対象にすることは、その言説が言及していない事実については不問にするという研究が間々ある。本研究のように「民度」の名のもとに制度特例がおかれた「島嶼」では、日本人の境界が議論されていたにもかかわらず、特定の言説空間では議論されていないため、いままでほとんど看過されてきた。「島惧」の特例制度を分析してきた者として、これまでの研究が、膨大なナショナリティの知に関する言説を分析し、脱構築などと成果を宣伝しょうとも、それが語らぬ事実を素通りしたならば、当時のナショナリティをめぐる状況に比較して、知の縮小再生産をしているのではないか、と危惧している。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 これはぼくなども持っている孤独感や不満をよく代弁してくれている。ナショナリティの議論でなくても、奄美の議論はよくて付録、ふつうは無いというのが通常だった。それは奄美自身が語ってないからだと受け止めて、歩みを続けているつもりだが、「語らぬ事実を素通り」されるのをいつも感じることも確かなのだ。またこれはめぐって自分への自戒の言葉としてもやってくる。

 本書は、町村制が施行外にされた島嶼を扱ったものであり、島の人の主体性とか、華やかな活動からは縁遠い、制度を淡々と分析したものである。「自治」というものに希望を持つ人からすると、本書は、期待に応えるのに十分なものではないし、希望を与えるものでもない。これは著者の性格によるものであり、根拠のない夢を与えるような主張は好きではないし、アジテーション的立場や告発史とは違う場所から執筆したからだと思う。

 高江洲は本書の「はしがき」でこう書いている。ぼくは「近代日本の地方統治と『島嶼』」の「アジテーション的立場や告発史とは違う場所」を好もしく感じた。昨年、400年の状況に対峙するように努めてきたが、一年も後半になると神経もささくれだってくるように思えることもあったが、そんななか年の瀬にこの本を読めたのは神経の慰撫にもなるようだった。

 高江洲は、「あとがき」でも自身について触れている。

(前略)家人に対して十分な説明ができない以上、自分がやっている研究を社会にアピールする能力を、どうやら自分は持ち合わせていないことは確かなようである。もちらん、「おこがましい」という気持ちもある反面、単に研究を血肉化していないだけの話ではないかという反省も感じる。歴史学と現実世界とのつながりを強く棟模する民衆史研究の一員のつもりだが、これでは失格だろうと思った。落ち込むと、負の連鎖というのがあるのか、高校生のときに読んだ遠藤周作の作品に「役立たず」という短縮があったことを思いだした。そのなかに、入院中の作家に、ある人から人生の悩みを聞かされ、上手く答えることができない自身を反省して、小説家の営みは、「役立たず」なのかと内省する場面がある。もちろん単純な比較はできないが、歴史家の存在意義というか、自分がやっていることの意味をフト考えてしまった。「歴史学は役立たずか」、モチベーションとしては低い気持ちを感じながら、博士論文を仕上げるという日常空間に戻っていった。もちろん、歴史学の役割という問いは、迂遠で非生産的な面もあるが、自分の寄る辺を確かめると言う意味でも、この問いをしばらく考えながら、歩んでいきたい。

 ぼくは、高江洲が「役立たず」の感覚を大事にしながら、この本などによって経済が潤い、ぼくたちに豊かな研究成果を開示してくれるのを心待ちにしている。弓削によれば、金久支庁設置の背景と大島県構想を明らかにしたのは、高江洲が初めてであった。


Chihou


 

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