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2010/01/31

『日本はじっこ自滅旅』の与論

 誘われるように追われるように見捨てられるように、巡りめぐって鴨志田穣は与論島まで辿り着く。短い文章だから、全文を挙げてみる。

 奄美本島へ着岸し、車のスピードを上げ、空港へと向う。
 与論島への最終便に乗る事が出来た。
 与論に観光客は全くと言っていいほどいない。
 日本の端は沖縄に変ってしまったからだった。
 どうしよう。鹿児島の先っぽまでは来てしまった。
 それにしても寂しい。
 メシもことごとくまずい。
 東京へ帰ろうか、それともこのまま進んで行こうか、居酒屋のカウンターにひじをつきながら焼酎をあおっていると、中年のおやじ三人が一升瓶片手にどかどかと入って来た。
 僕を一瞥するやいなや、
「きっ、飲むか」
 と一番年上と思えるおっさんが話しかけて来た。
「い、いや、そんな突然失礼じゃないですか」
「なにを言うか、年上からの酒が飲めんとは青年、お前が失礼だろ」
「わかりました、頂きます」
 言われるがままに杯を乾すと、またおやじは怒り始めた。
「お前は礼儀も知らんのか。まず自分の身分を明かして、〝いただきます″と杯を乾すんだ。やりなおし!」
 どぼどぼと焼酎を入れられ、〝おひけいなすって″という程の力はなかったが、流れ流れてこの島まで本を書きにやって来たと自己紹介をした。
「うん、そうか……」
 次はおやじの番である。
「ここ与論のちょっとえらい男だ。少しくらいの無理は利くぞ、したい事があったら言え」
 また一気飲みである。
 いつまで続いたのか、一升瓶はいつの間にか三本目になっていた。
「おい青年。人はなんで生きていられると思う」
 突然の哲学にたじろいでいると、おやじは、
「太陽なんだよ」
 と答えた。
「海が青くて魚がいっぱい泳いでいるのも、さとうきびが育ってパインが甘くなるのも、男と女が月の夜に抱き合うのも、全て太陽があるからなんだよ。
 沖縄にな、久高島という島があって、小さくていい波も立つから、そこにサーファー目当てのリゾートホテルを作ろうと思ったんだ。そしたら村長がだめだって言い張るんだよ。何故って闘いたらこの島の所有者は〝太陽″だからだって言うんだ。我々島民も太陽から土地を借りてるんだから、そんな勝手な事は出来ないって言われてな。
〝ていだ″(太陽)のはぐくみなんだな。
 与論は沖縄が日本になって、すっかりさびれてしまったんだ。どうにかしなくてはと思って考えたら、同じていだの心を持っていればそれでよかったのき。
 那覇も、もう少ししたらさびれるよ。ていだを忘れちゃってるからな。今度地図をよく見てごらん。奄美大島より西の島は、栄えた港町は全て西を向いているんだ。与論もしかり。
 何を見ていたと思う。
 中国なんだよ。
 琉球は〝日出ずる国″ではなくて、〝日がしずむ国″を見つめていたんだね。小国が自由をもとめてもがいたのさ」
 居酒屋の壁に三匹、やもりがテロチロと虫を捕らえようとうごめいている。
「チチチッ」
 と鳴いた。
 声を聞いていると日本なのか、東南アジアのどこかにいるのか判然としなくなってくる。
 おやじに聞いた。
「与論は日本ですか、それとも琉球ですか」
 しばらく宙を見つめるおやじ。
「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」
 どうやら無辺際まで来てしまったようだ。
 もっと西まで行くしかないのだな。

 与論に特段の思い入れを持たない者が、島の素の表情を捉えている。

 こともあろうに久高島にリゾートホテルをと考える「おやじ」の発想の無知さは同じ島の者として恥ずかしいが、太陽信仰に行き着くところは島の人らしい。「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」という述懐などはそのままぼくにも地続きだ。「与論は日本ですか、それとも琉球ですか」という問いかけが気が利いているが、この回答もいい。

 その声を聞くと帰省の実感が湧くヤモリについて、「声を聞いていると日本なのか、東南アジアのどこかにいるのか判然としなくなってくる」というところで、自分の日本に対する距離感を別の言い方で言ってもらった気がした。

 「無辺際」を鴨志田はどういう意味で言ったろうか。


   『日本はじっこ自滅旅』

Hazikko

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2010/01/30

与論-大島間、開通

 JACのダイヤ改正を見ると、奄美大島と与論島の空がつながる。

 「JACダイヤ改正 鹿児島-種子島など一部機材を小型化し増便」

 離島間では、各1日1往復の奄美-沖永良部と沖永良部-与論を、4月からは片道路線とし奄美-与論に直行便を導入、3空港を1日一巡する。月・水・金・日曜日は奄美-沖永良部-与論-奄美の順で運航、ほかの曜日は奄美-与論-沖永良部-奄美の順。

 ということは、

◇月・水・金・日曜日

奄美→沖永良部→与論→奄美

◇火・木・土曜日

奄美→与論→沖永良部→奄美

 曜日によっては、与論から大島に寄ることも、大島から与論に寄ることもできるわけだ。奄美の南北が空でつながるわけですね。


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2010/01/29

「琉球弧芸能祭」

 南海日日新聞の「金海天地」(2010年1月26日)。

 奄美文化センターであった「琉球弧芸能祭」(23日)を鑑賞した。お目当ては約300年の伝統を誇る沖縄の国指定の重要無形文化財「組踊」

▼「組踊」は琉球王府時代の宮廷芸能の根幹とされる総合芸術。中国からの使者を歓待するため、踊り奉行の玉城朝薫が能や歌舞伎を取り入れて創作、日本や中国との交流の中で洗練されていった琉球独自の歌舞劇

▼同センターで上演されたのは、1719年初めて上演された玉城朝薫による2作品のていちうち護佐丸敵討(二童敵討)。あじ按司の子ども2人が父の敵討ちを果たす物語が、荘重な調べと優雅な踊り、独特のせりふ回しで繰り広げられ、見る者をあきさせない

▼登場人物の一人が勝連按司の阿麻和利。一般的には逆賊とされているが、琉球の古歌謡集「おもろさうし」では首里の王と並び称されるほど賛美されている。勝連や護佐丸のいた中城と奄美との関係を示すおもろもあり、興味深い

▼この夜のもう一つの目玉が瀬戸内町油井の豊年踊り。県指定の無形文化財で組踊とは対照的に、奄美大島南部の風土そのものといった素朴な魅力に富んだ踊りや無言劇が観客を楽しませた

▼沖縄と奄美を代表する伝統芸能を同時に堪能できたのは好運だ。琉球弧の芸能の魅力と奥深さを十分味わった。ただ残念なのは観客が少なかったこと。奄美で組踊が披露されるのは極めて珍しい。もっと多くの人に見てほしい舞台だった。

 これはぼくたちがやった「奄美と沖縄をつなぐ」の奄美現地版という風に見える。「もっと多くの人に見てほしい舞台だった」。ぼくもそう思う。

 模様は「サモガリが奄美のシマち、ともしゅっとー」に詳しい。

◇◆◇

 ところで、普天間基地移設問題で徳之島がその候補として挙がったという報があった。奄美のぼくたちは驚く。反対をするのは自然な感情だが、現地の行政者は同時に、普天間基地撤去の声も挙げてほしいと思う。

 「沖縄離島ブログ」が、なぜ離島ばかり、という問題意識で書いている。

 「何故離島ばかり・・・。今度は徳之島が標的。」



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2010/01/28

与論 on ツイッター

 ツイッター上の与論の記事を検索してみると、これから行く人の声も与論からの声もあって嬉しい。

 [与論島]

 [ヨロン]

 なかには「世論」の話題もあるが(苦笑)、

 「つい最近まで、ヨロン島って外国だと思ってました」、
 「与論島て沖縄だとオモテタヨー!」

 という声などは与論らしい。

 これからどんな声が生まれてくるか、楽しみだ。


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2010/01/27

「奄美のマンマーの家で」

 誤植かと思ったが、そんなはずもなく、マンマーはマンマーだった。祖母は、奄美の言葉でアンマー(母)と呼んでもらおうとしたが、うまく覚えられず、マンマーになったのだった。そのマンマーである島尾ミホの死を最初に気づいた孫はどのように知ったのか、気になっていたけれど、こういうものだ。

 わたしと和ちゃんの体が、同時に止まった。
 寝室の鏡台の前で向こうに顔を向けて寝間着のまま畳の上に倒れている祖母がいたのだ。右手をまっすぐ伸ばして、おろした長く黒い髪が椅農に寝間着や腕や、畳の上にウエーブを措いて這っていた。顔は髪に隠れてまったく表情はわからない。ただ、白雪姫のような、きれいな姿だと見た瞬間に思った。(「新潮 2010年 02月号」

 「白雪姫のような、きれいな姿だ」と受け止められたことに、ほっとする。そういう対面でよかった。けれどそれは孫が持っている受け皿のなせる技かもしれない。

 「奄美のマンマーの家で」を読んで、関係の距離のほどよさということを思った。たとえば、祖母についてこう書く。

 同じ物、新品の物はたくさんあるけれど、その中にブランド物がまったくないのが祖母らしい。大きな家に住んだり、ドレスを着たりして見栄っぱりな所もあるのだけれど、飼っている犬は雑種だったり、肩にインコのウンチがついていたりするからわたしは祖母が大好きなのだ。自分なりにセルフプロデュースをしていても、バッグは奄美のスーパーでの〝一番高いもの〃だし、持っている服も知らないメーカーの名前ばかり。この山が全部ブランド物だったら、この後どんなにわたしたちが得をするだろうと思うけれど。でも、もしそうだったらウンザリしてしまうだろうな、とも思う。祖母がそういう人でなくて良かった。高級品の整理より、インコの羽や何十年も前のお歳暮の整理のほうが、わたしたちにとってはよっぽど楽しい作業だ。

 「わたしは祖母が大好きなのだ」と、真っ直ぐに素直にそう書ける位置がこの場合、孫、なのだと思う。息子はそういうわけにいかない。いちいちが直接的な記憶を呼びさまし、重たいしこりを抱え込むことなしには、受け止められない。階段の途中に「祖母のオブジェ」をつくり、その人形のさまを母は「気味悪い」と抗議するもそのままにある。そのようにしか父は表現できないが、孫はそれを「その人形の無気味さが、父のひねくれた愛情をよく表現しているとも言える」と、適切に掬っている。

 叔母にあたるマヤの死を受容したいきさつを伝える『まほちゃんの家』を読んだとき、深刻な物語を掬いあげるのが、大人の大きな手ではなく、弱々しいまだ未熟な、小さな手であることを感じたが、ここでも同じことが語られる。

 夜、和ちゃんと二人で浦上に泊まった。祖母は、倒れていた寝室で棺の中。
 二十一年前の夜も、同じだった。祖父が危篤になり、海外にいる両親より先に一人で鹿児島へ行き、和ちゃんに付き添われて過ごしたのだ。
 マヤの時旦わたしが付き添っている時に亡くなった。看取って、すぐに電話で東京にいる父にマヤの死を伝えた。父はその時わたしに「ありがとうございました」と言った。
 祖母と、マヤと、和ちゃんとわたしの四人はこういう時いっも一緒にいたんだ。そして、和ちゃんとわたしーはその度に二人で布団を並べている。

 この受ける小さな手の大きさに、関係の距離のほどよさを思う。

 島尾ミホの他界の報に接したとき、少し前に出た孫の『まほちゃんの家』を読んだかどうか、気になった。

 その翌年二〇〇七年三月二十五日に今度はわたしが「様子見」をしに行くことになった。ちょうど、前の月にわたしは『まほちゃんの家』という幼少期の思い出や家族について綴ったエッセイ集を出したばかりだった。著書で祖父母について初めて踏み込んで触れた部分もあり、まだ聞いていなかった感想を面と向かって聞くのが少し怖かった。 

 感想を孫は聞くことはなかった。そして祖母は読んでくれたかどうかはここには書かれていない。けれど、それは祖母の家の片づけ続けている孫は知っているのに違いなく、ここでぼくも気持ちの落ちつけ先を見つけることができた。

 今回の「新潮」には、島尾敏雄の「終戦後日記」も載っている。孫と祖父の共演だ。


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2010/01/26

『ヒロシマ独立論』

 『ヒロシマ独立論』。カタカナで綴られる広島の意味を辿りたいという想いで読んだ。

 ここには、少なくとも、廣島、ヒロシマ、広島、ひろしま、の四つの広島が登場する。軍都であった「廣島」、原子爆弾による壊滅とともにその初期、「平和」として普遍理念化された「ヒロシマ」、そして現にある「広島」。そして、壊滅の現実にさらされた広島の人々から、軍事的、迫害的な脅威に、潜在的な意味も含めさらされている人々までを包含する「ひろしま」、をぼくは感じ取った。それなら、書名にいう「ヒロシマ」とは、平和として普遍理念化された「ヒロシマ」だろうか。それは、そうではない。

 (前略)「ヒロシマ」というシンボルの抽象化・理念化・普遍化はどこまで可能だろうか。ヒロシマにはパールハーバーが対置されることもあれば、敵対した連合国のなかから志願・徴兵・動員された兵士たちから新たな「死」を引き出さなかったということがいわれるだけではない。アジアの被侵略国の一部の感情からすれば、原爆によって解放されたという声も少なくない。広島のサバイバーのなかにさえ、そうした思いがあったことは多くの証言にみてとれる。

 「ヒロシマ」は相対化され、理念を反転されてすらいる。そしてそれだけではない。東によれば、こうだ。

 特に米スミソニアン博物館での 「エノラ・ゲイ」展示問題以降、広島は「反米」の意識からか、よりナショナリズム的な反核の立場を強くさせてしまったのではないか。日本のなかのヒロシマ。ただ、残念なことというべきか、希望の余地があるというべきか、ヒロシマは誰にも属さない。人類全てのヒロシマなのであり、そのことに鈍感なのは、皮肉なことに今や誰よりもまず現実の「広島」の住民=「日本人たち」なのである。おそらく「アメリカ」 のなかでの異物であることを認識している「アメリカ人」オカザキの、ヒロシマであることをやめた広島への、ヒロシマをあくまで広島として押し込めつつも、ヒロシマをアリバイとして利用さえしながら右傾化への道を突き進む日本への危供は、そうした状況への素朴な疑問としてあるはずだ。

 普遍理念としての「ヒロシマ」は、当の広島の人々、日本人に顧みられなくなってしまっている。東はそこで「ヒロシマ」を生きたものにしなければならないと考える。

 現在の広島が、今一度ヒロシマとなるためには、「日本」のアリバイとしての平和都市としてプレゼンスするのではなく、シュリンクパックされた平和のテーマパーク都市としてではなく、明確な友愛の念をもって、友と自らを脅かす暴力への非合意を謳うことをおそれてはいけないのだ。

 この進みゆきはモノローグのように響いてくるが、それは故郷を辿るとき、現実の事物や人物との交流というだけでなく、記憶や思い出との問答が幾重にも連なっていることの表れだと思う。モノローグのような声に耳をそばだてるようにいくと、東の構想する「ヒロシマ」まで連れていってもらえる。

 ヒロシマ以後。日本が敗戦したことなんか、問題ではないとあえて言ってしまうこと。一瞬に一〇万もの人間の生命が消し去られたこと、その後に多くの人々が苦しみ続けたこと。そのことを科学技術的に政治的に可能にしてしまったことが、世界にとってはすさまじい重さとなってのしかかっている。その重さを受け止めているのは、どこか特定の 「国」や「国民」ではない。世界中のさまざまな意味での帰属に関係なく散在する「人々」なのだ。
 そのような重さを担ったシンボルが、倣慢な「日本」に利用されるぐらいなら「独立」 した方がいい。これは、沖縄独立論のような一種のナショナリズムとはまったく異なる独立論である。広島独立などというと、たしかに何かと泥臭いヒロシマ・ナショナリズムを連想されてしまいがちな土地柄/イメージではあるものの、かなり異なるものとして構想したい。

 こうして構想されるのは、「避難都市」としての「ヒロシマ」だ。

① ヒロシマは、避難都市宣言を行う。現行の広島市旧市街地の車両規制などの再再開発を実施、さらに当空間周辺の市管理建造物を避難空間として提供・活用する。
② 避難都市内においては、本憲法、日本国憲法及び諸国際法規を直接適用し、日本国の下位法規には拘束されない。
③ ヒロシマ避難都市は、いかなる法規に基づく「犯罪者」であっても、あらゆるものを受け入れる。この「避難民」は、本空間及び避難都市内においては、避難元のあらゆる法規の適用から除外され、②の法規以外の拘束を受けない。

 「「犯罪者」であっても」とあるように、犯罪者のみの避難都市ではない。むしろ、軍事的、迫害的な脅威に潜在的な意味も含めさらされている人々を指すのだと思う。東は書いている。

 私たちは広島にありながら、無数のヒロシマに呼びかける。Hiroshimaではなく、hiroshimas とことばにしてみるのだ。世界中のあらゆる「ヒロシマ」的な状況に置かれた人々の声に耳を澄ますことを私たちは目指す。都市のなかの貧困や不正。自国の、あるいは異国の軍事にさらされる島々。あらゆる「ひろしまの子」たちの叫びに耳を澄まし、また、呼びかける。

 「ヒロシマ独立論」とは、「ひろしま」のための避難都市として「ヒロシマ」をふたたび普遍理念化する試みであると受け止めることができる。ぼくは、沖縄復帰前に、学生運動に敗れあるいは人生の敗残者のように逃れてきた人々やヒッピーを受け入れていた与論島のことを思い出した。

 ところで東は、この構想を遊戯として受け取ってもらっていいと言っている。

 独立宣言や憲法試案をひとりでコツコツ書いているあいだは俺は狂人かという気持ちでいたが、これで晴れておおっぴらに狂人だ。実のところ、こちらは大真面目なのだが、宣言や憲法案などもついて 「遊べる」本としても受け止めてほしいと思っている。酒の肴に、家族の団欒に、職場での笑い話のネタに、学校などでのテキストやワークショップのおもちゃに、対行政・警察マニュアルに(?)、といろいろな用途で遊んで頂ければさいわいだ。「広島が独立するとか言ってる人がいるらしいよ」「へえ、バカじゃないの。独立なんてできんの?」「知らなーい。でも、日本てウザいから、うちも独立しょうかな。ははは」とか、みんなが笑っているうちにいろんなところで瓢箪から駒となればしめたものだ。

 ここにあるように、もちろん東は真剣なのだ。

 ぼくは奄美をどのように構想するのかということについて、その自由度という意味で刺激を受ける。一人ひとりが構想を持つことが重要なのだし、それは実現の可能性に向かって開かれているのだと思う。


    『ヒロシマ独立論』

Hiroshima

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2010/01/25

「薩摩侵攻『401年』 『与論十五夜踊り』にみるビジョン」

 南海日日新聞に与論島をテーマに社説が載っていた。

 「雨賜り、賜り、島が富どぅ世が富」。与論十五夜踊り(国指定重要儲形民俗文化財)は「雨乞い」の舞で始まる。沖縄本島を望む地主神社の境内。行事の幕開けに掲げた「嶋申安穏」の旗の下、本土風の「一番組」と琉球風の「二番組」がセットになった踊りが奉納される。せりふは与論の古い方言。

 周囲23・5㌔。林野率わずか4%。高い山々や森のない与論島は、古くから干ばつに見舞われてきた。「雨賜り、雨賜り」は、与論の過去-今-未来を貫く一本の命綱だ。一番組(本土)も、二番組(琉球)も「雨賜り」(与論)があって日の目を見る。
 歴史的には奄美の島々と同様に、中世は琉球、近世は薩摩にそれぞれ支配された。薩摩と琉球。南北二つの踊りを舞う与論十五踊りには、双方の汀で生き抜いた与論の歴史とアイデンティティーが潜んでいる。

 本土でもない、琉球でもない。本土の彩りがあり、琉球の風も吹いている。どちらも同居させつつ、島の言葉で伝える。
 掲げる旗も島の平和と安泰、五穀豊穣を願う「嶋中安穏」。本士風や琉球風の踊りが始まる前に「雨賜り、雨賜り」と天に向かって命の水を乞う。そこには身体の叡智で描かれた島で生き抜くことのビジョンが潜んでいる。

 こんな論議があった。与論は沖縄か、鹿児島か。奄美は琉球か、薩摩か。一体、どっちなんだ。どっちつかずで揺れているのではないか。二者択一。どちらかに染まらないと認めてもらえない。シマの方言より、標準語や薩摩弁を。一つの勢力圏からしつけられた視点が特権化し、幅を利かした。

より大きな勢力でとらえれば、「西欧」に染め上げらた物差しが近代から今日までを串刺しにしてきた。研究論文の書き方、マスコミの姿勢、伝え方。「知的」「文化的」「進歩的」「論理的」などと評される物差しの根底には西欧という一つの勢力のしつけが存在する。
 薩摩でもない。琉球でもない。薩摩もあれば琉球もあり、中国もある。北も南も左も右も混在させ、そこから自前のものを創造する群島。それが外海離島で生き抜くことの叡智だったことを、島々は近代の伝え方ではなく人から人へという島の伝え方で残した。

 昨年は薩摩侵攻400年だった。研究者や専門家らによる歴史の問い直しはそれなりに意義深いものがあった。一方で、歴史に偏り、現実の庶民の暮らしから浮いてしまった感は否めない。根底に潜む島々の物差しをくみ上げて対置させ、この島で生き抜くとはどういうことなのかを問うことが「侵攻401年」以降の課題だ。群島には近代のしつけに染まった視点ではくみ上げられないビジョンがあり、そこに島々の可能性がひらめいていることを提起する作業である。与論十五夜踊りは、その指南書だ。

 記事に触発されたことを書きたい。

 ぼくは『奄美自立論』で、薩摩侵略で奄美が被った困難の構造を、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という「二重の疎外」であると捉えた。

 この、「琉球ではない、大和でもない」は当時のこと、生活を覆うものであったに違いないが、それでも、それは政治的に規定されたものであり、その限りにおいてである。奄美はその規定に抵抗する奄美という政治的な共同性を持っていなかったが、それでもシマあるいは島は濃厚にその基底を保っていた。その、自然や生活、文化の基底は琉球的なものである。

 だから、「薩摩でもない。琉球でもない」という場合も、それは政治的な規定であり、生活や文化は琉球のそれを色濃く保っていたことに変わりはない。「二者択一。どちらかに染まらないと認めてもらえない」というより、琉球的な文化や生活の上に薩摩的、大和的なものをかぶせてきたのである。「シマの方言より、標準語や薩摩弁を」というように、基底となる「シマの方言」は濃厚に保持されていた。401年経ったいまも、ぼくたちは標準語をしゃべり方言は廃れてきたとはいえ、鹿児島弁をしゃべるわけではない。

 「中世は琉球、近世は薩摩にそれぞれ支配された」というとき、琉球と薩摩、それぞれに等距離に遠い場所としてあったわけではない。おおざっぱにいえば、琉球は、自然と文化のゆるやかな共通性の上に外的なインパクトを梃子に成立した政治的共同体であり、薩摩は自然や文化の異質な政治的共同体であるという違いを踏まえなければ、奄美の実相は捉えられない。北部は、それ以前からより大和の痕跡を残し、南はそれが希薄であったとしても基底としては言いうることである。


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2010/01/24

「やわらかなサイクル」

 従兄のブログ(「奄美大島名瀬(週刊文春1月28日号)」)で知って週刊文春を買ってきた。

 こんな町なら住んでみたいなと思う場所がある。奄美大島名瀬。通りを歩くと生暖かい風とほどよい湿り気を感じる。アーケードの商店街とそこに通じる街並は懐かしい匂いがする。 なんだか日本ではなくてアジアの小都市にいるようだ。

 従兄は名瀬に住んだことがあるだけあって、福岡さんの、名瀬の空気への感想に共感しているのだ。従兄は、またこんな風に書いている。

 また,奄美の歴史や風土のに関する数多くの専門書や資料を販売している古本屋さん「あまみ庵」についての感想も嬉しい。やはりこの本屋を訪れた方は,そこに並べられている書籍やCDやテープにに親しみを憶えるのでしょう。

 あまみ庵にも。この時勢、本屋さんもしんどいはずである。mizumaさんが「奄美学入門」で奄美の本を紹介しているが、めぐりめぐってあまみ庵への注文になるといいと思う。


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「近代日本の地方統治と『島嶼』」13

 奄美を主に見て終えようと思ったが、やはり沖縄のことも触れておきたい。
 奄美が「独立経済」をめぐって「差別」の議論がなされてきたが、沖縄は「低度ナル」というキーワードをめぐっていたことが分かる。

(前略)沖縄県及島嶼町村制は、「島嶼」側の意見反映や日清・日露戦後という時代状況を加味することで、成立した制度である。しかも、画一的地方制度の修正版であるため、沖縄県及島喚町村制は、条文の内容から町村制と「近似性」を持つため、「内地」に施行された町村制の補完制度という性格をもっていた。にもかかわらず、「低度ナル町村制」という成立根拠をとったため、町村制との断絶を匂わせる、「低度」な補完制度として位置づけられたのである。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 それでは、「低度ナル」という位置づけは、「差別」制度だったのか。

 「低度」という制定目的にとらわれることなく、条文内容で評価するならば、沖縄県及島嶼町村制は従来言われてきたような、単なる差別制度ではなく、町村制との近似性をもった制度である。それにもかかわらず、低度に位置づけられた補完制度とはどういう意味か、この点を補足説明したい。これまで「低度」と町村長任免などが結び付けられ、差別制度と評価されてきた。このような評価には、地域の実情や時代状況というものが軽視される傾向があった。

 奄美の「独立経済」は「差別」というだけでは括れない「殖産興業」としての「地域振興」の側面を持っていたとすれば、沖縄に施行された「沖縄県及島嶼町村制」は、「単なる差別制度ではなく、町村制との近似性をもった制度」だった。

 つまり、沖縄県及島嶼町村制は、施行地域の名望家層の相対的不在と、日露戦後という施行時期の行政権の優位性とがあいまって、町村制が町村に与えていた行政機関的性格と名望家層による自治機関の両立ではなく、官の監督が強い官治的制度となったのである。より詳しく述べると、町村長を議会が選出する方法を除外することで、執行機関(町村長)に対する議決機関(町村会)への関与を弱めるためであった。それは、執行機関の「官」化(行政機能の強化)を促し行政権の遂行が期待されており、町村制施行地域の現状が反映されている側面もあった。つまり官選とは、現地の実状に対する対応だけでなく、行政的な配慮があったことも無視できない。沖縄県及島嶼町村制を説明する「低度」とは、内容的な意味ではなく、政策的な名目として使用された言葉である。

 沖縄は土地による資本の蓄積が進んでいなかったため、「官治性」を強化した。そこには行政的な配慮があったが、その際、「低度ナル」という言葉が使われたが、それは「政策的な名目」であった。ここは、「島嶼」という言葉が内地と違うということ以上、あいまいなままにされたことと同じである。

 高江洲は、沖縄の章で、こう締めくくっている。

 つまり、「低度ナル」という説明は、当時の政治状況との連関を隠匿する説明原理であったといえよう。
 実質的な機能という面からみると、沖縄県及島峡町村制は単純に「低度」であるという説明で済むものではない。それにもかかわらず、「低度ナル」という説明は、沖縄県及島嶼町村制の存在理由として機能していたといえる。それは、現地において地主層の薄さなど一〇〇パーセント虚構とは言えない面もあったので、「低度」という説明は、現地の人々に受け入れさせ、差別意識を与える役目を担ったことから説明できる。このように、沖縄県及島嶼町村制がはたしたイデオロギー的な役割を無視することはできない。
 沖縄県及島峡町村制とは、「低度ナル」町村制というよりも、「近似性」と「異質性」を併せ持った町村制の補完制度である。ただしそれは、機能面から見た評価である。なぜなら、沖縄県及島嶼町村制は、「低度」という外皮に覆われているため、単なる町村制の補完制度というよりも、「低度」と価値付けられた補完制度として位置づけられたのである。

 「「低度」と価値付けられた補完制度」であることが、「差別」性を抜きがたくした要因になっている。ぼくたちは、奄美の「独立経済」と同様、沖縄もまた「低度ナル」という言葉をめぐって、相似的な問題を抱えてきたことを知る。この末尾の文は、高江洲の故郷、沖縄に対する想いの強さを垣間見る気がした。


    「近代日本の地方統治と『島嶼』」

Chihou


 

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「闘走的音楽案内71」

 「インパクション172」の「闘走的音楽案内71」への寄稿文が載った。
 「「奄美と沖縄をつなぐ」イベント(11月14日)を終えて」として、持田明美さんとの振り返り文だ。

 浦島悦子さんの文章も載っていて読むのが楽しみだ。


Lao111
Lao222

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2010/01/23

「近代日本の地方統治と『島嶼』」12

 高江洲は先行するナショナリティの研究に対してこう書いている。

こうしたナショナリティに関する議論は往々にして、学閥やジャーナリズムの世界で紡がれた「言説」を主たる対象にする。それら研究は、膨大な言説(知の蓄積)との格闘の末発表されたものであり、その意義については認めるものであるが、このように特定の言説を対象にすることは、その言説が言及していない事実については不問にするという研究が間々ある。本研究のように「民度」の名のもとに制度特例がおかれた「島嶼」では、日本人の境界が議論されていたにもかかわらず、特定の言説空間では議論されていないため、いままでほとんど看過されてきた。「島惧」の特例制度を分析してきた者として、これまでの研究が、膨大なナショナリティの知に関する言説を分析し、脱構築などと成果を宣伝しょうとも、それが語らぬ事実を素通りしたならば、当時のナショナリティをめぐる状況に比較して、知の縮小再生産をしているのではないか、と危惧している。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 これはぼくなども持っている孤独感や不満をよく代弁してくれている。ナショナリティの議論でなくても、奄美の議論はよくて付録、ふつうは無いというのが通常だった。それは奄美自身が語ってないからだと受け止めて、歩みを続けているつもりだが、「語らぬ事実を素通り」されるのをいつも感じることも確かなのだ。またこれはめぐって自分への自戒の言葉としてもやってくる。

 本書は、町村制が施行外にされた島嶼を扱ったものであり、島の人の主体性とか、華やかな活動からは縁遠い、制度を淡々と分析したものである。「自治」というものに希望を持つ人からすると、本書は、期待に応えるのに十分なものではないし、希望を与えるものでもない。これは著者の性格によるものであり、根拠のない夢を与えるような主張は好きではないし、アジテーション的立場や告発史とは違う場所から執筆したからだと思う。

 高江洲は本書の「はしがき」でこう書いている。ぼくは「近代日本の地方統治と『島嶼』」の「アジテーション的立場や告発史とは違う場所」を好もしく感じた。昨年、400年の状況に対峙するように努めてきたが、一年も後半になると神経もささくれだってくるように思えることもあったが、そんななか年の瀬にこの本を読めたのは神経の慰撫にもなるようだった。

 高江洲は、「あとがき」でも自身について触れている。

(前略)家人に対して十分な説明ができない以上、自分がやっている研究を社会にアピールする能力を、どうやら自分は持ち合わせていないことは確かなようである。もちらん、「おこがましい」という気持ちもある反面、単に研究を血肉化していないだけの話ではないかという反省も感じる。歴史学と現実世界とのつながりを強く棟模する民衆史研究の一員のつもりだが、これでは失格だろうと思った。落ち込むと、負の連鎖というのがあるのか、高校生のときに読んだ遠藤周作の作品に「役立たず」という短縮があったことを思いだした。そのなかに、入院中の作家に、ある人から人生の悩みを聞かされ、上手く答えることができない自身を反省して、小説家の営みは、「役立たず」なのかと内省する場面がある。もちろん単純な比較はできないが、歴史家の存在意義というか、自分がやっていることの意味をフト考えてしまった。「歴史学は役立たずか」、モチベーションとしては低い気持ちを感じながら、博士論文を仕上げるという日常空間に戻っていった。もちろん、歴史学の役割という問いは、迂遠で非生産的な面もあるが、自分の寄る辺を確かめると言う意味でも、この問いをしばらく考えながら、歩んでいきたい。

 ぼくは、高江洲が「役立たず」の感覚を大事にしながら、この本などによって経済が潤い、ぼくたちに豊かな研究成果を開示してくれるのを心待ちにしている。弓削によれば、金久支庁設置の背景と大島県構想を明らかにしたのは、高江洲が初めてであった。


Chihou


 

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2010/01/22

「近代日本の地方統治と『島嶼』」11

 それにしてもこの間の名称変更は著しい。代官所からの変遷を辿ると、代官所、在番所、戸長役所、大支庁、支庁、郡役所、金久支庁、大島島庁、大島郡、である。ややこしいので、弓削政己の「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」から、この間の年表を下にメモしておく。

 ぼくはまだ「近代日本の地方統治と『島嶼』」を理解しきれているとはとても言い難いのだが、これによると、この変遷のなかでも強調されるべきは、「大支庁」と「金久支庁」だと思える。

 まず、大支庁設置(明治8年)は、その前段として「大島県」の設置構想があった。これは、大蔵省発案のもので、奄美の黒糖を直接、国家が統制したかったのである。言い換えれば奄美について国家が鹿児島県の影響を排除しようとしたのだが、それは政府の黒糖「自由売買」の布達にも関わらず大島商社の専売制を維持しようとしていたように、鹿児島県が国家の統制に対して反撥したのだ。

 大島県は構想に終わるが、その翌年(明治8年)には大支庁が設置される。これは、「殖産興業」という点から大島県構想の意図と同じ流れに属している。しかし、鹿児島県にしてみれば、奄美が鹿児島県下にあるという理由で、「大島県」とは異なり、鹿児島県としては歓迎できるものだった。事実、大支庁設置は鹿児島県令からの要請を発端としている。

 「金久支庁」(明治18年)にも、殖産興業としての地域振興の観点は貫かれており、通常の「郡」では対応できなから、郡以上、県未満の統治を必要としたものだった。しかし、島庁設置と運営費は国庫負担になっている。ここでポイントなのは、この国庫負担という側面だ。すでに鹿児島県議会では、明治13年には、「内地との経済分離」が議論されていて(『奄美群島の近現代史』西村富明)、この時点ですでに、地方税をめぐり内地と奄美とでは利害が相反する面を持っていた。これは言い換えると、西南戦争が終わり士族救済の名目は崩れ、大島商社も解体していることから、奄美の黒糖が鹿児島県にとって必須のもの、甘い汁ではなくなっていたことを意味するのではないだろうか。

 この理解が妥当だとしてだが、明治初期の経緯は、当初、奄美の黒糖が鹿児島県の経済に欠かせないものだったので、国家の方針に反してもその利益に固執していたが、鹿児島内地の近代化にとって重荷になり始めるや、国家に奄美の地域振興を要請しはじめる。この間には、西南戦争による鹿児島の過剰武士団の消滅と大島商社の解体があった。鹿児島県にとっての奄美とは「大島出兵」計画から西南戦争まで、鹿児島の過剰な武士団維持のための存在だったということではないだろうか。

 だから、ここに「殖産興業」の視点があったとしても、それが重荷になった途端、経済自立を求める方便に聞こえてしまうのである。

 ぼくは経緯を充分に把握しているとは言えず、誤解を含むかもしれないので、この判断が正しいという確証を持たない。「近代日本の地方統治と『島嶼』」は、視点を複眼化してくれるけれど、ぼくはそれにとどまる理解しかいまのところ到達できていない。もしかしたら、複眼化で充分なのかもしれないのだが。

 ただ、高江洲の考察から、明治近代国家の奄美だけではない島嶼に対する統治の不合理さを学ぶことで、鹿児島県の奄美支配の不合理さの過剰性に帰せられるものが何か、それを見極める補助線を引くことはできたと思う。

◇◆◇


1869(明治2)年
・大島、喜界島、徳之島、沖永良部島・与論島の四代官所は在番所へ、名称変更。

1871(明治4)年
・廃藩置県
・鹿児島県、政府の許可を受けずに、翌年の貢糖から大阪相場換算で石代金納とし、残糖の余計糖は、島民の日用品での交換とする方針を決定

1872(明治5)年
・鹿児島県は専売制維持のため大島商社を作り、その契約を上鹿与人と契約

1873(明治6)年
・奄美島嶼は、在番所を戸長役所と改称
・政府、黒糖(貢糖)は現物のまま納めること、それ以外は「内地商人」と自由売買とすることを全国布達
・鹿児島県は、石代金納を主張

1874(明治7)年
・大蔵省、同年から石代金納に、九月には前年に遡っての実施を許可
・大蔵省 大島県構想

1875(明治8)年
・鹿児島県、大島に大支庁、他四島に支庁を設置

1878(明治11)年
・郡区長村編成法により、大島の大支庁は廃止され支庁に
・「砂糖販売改」、翌年から商人と島民の自由取引
・大島の島民。砂糖の産地問屋方式を提唱
・1873(明治6)年の「内地商人」と自由売買とする布達がようやく実施されることに

1879(明治12)年
・内務省、四島を大島郡、喜界郡、徳之島郡、沖永良部郡、与論郡とすることを「追伸」。しかし、与論島には村数六のため、奄美島嶼全体を大隅国大島郡とする
・これに伴い、各支庁は廃止。名瀬方金久村に郡役所設置。
・一郡に一郡長として、支庁長は郡長となり、四島の支庁は郡役所出張所となる
・1879(明治12)年から1884(明治17)年のあいだに、農商務省内部から「鹿児島県各島砂糖蕃殖方法」提案(産地問屋方式)

1883(明治16)年
・郡役所出張所、廃止

1885(明治18)年
・郡役所、廃止。金久支庁、設置。
・金久支庁は、大島々庁と改称。支庁長は島司へ。
・県令渡辺千秋「経済分離ノ儀」は「忽ち言フ可ラサルノ惨状ニ陥リ候儀ハ当然ニ付」
・金久支庁設置、島庁設置と運営費は国庫負担
・金久支庁設置は、「内地」からの支出削減

1888(明治21)年
・市町村制により、旧熊毛郡、護謨郡は、大島郡から分離

1888(明治21)年
・「独立経済」

「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」(弓削政己)から作成)

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2010/01/21

「近代日本の地方統治と『島嶼』」10

 研究書は「注」も面白かったりするが、「近代日本の地方統治と『島嶼』」もそうだ。

 西村富明『奄美群島の近現代史-明治以降の奄美政策』(海風社一九九三年一〇頁)。その他同様の視角をもった研究書として、皆村武一『奄美近代経済社会論-黒砂糖と大島紬経済の展開-』(晃洋書房一九八八年)、杉原洋「開発と地域の自立-奄美群島と奄振-」(石川捷治・平井一臣編『地域から問う国家・社会・世界-「九州・沖縄」から何が見えるか-』、ナカニシヤ出版、二〇〇〇年)、喜山荘一『奄美自立論』(南方新社、二〇〇九年)などがある。
 筆者も本章で利用する史料から差別意識が介在したことを否定するものではないが、独立経済の一因となる明治一〇年代の勧業政策を分析することで、差別原因説だけで理解できないことを指摘したいと思う。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 「差別原因説だけで理解できない」のは、ぼくもその通りだと思う。

 この点を敷衍して述べると、これまで明治期の地方自治を議論する際・中央対地方という側面からの議論が強かったと思う。だが、独立経済の議論で明らかになったように、地方(県)という空間も単一ではなく地域間格差を抱えた複雑な構造であったことがわかる。県レベルでの地方自治を考えたとき、大島郡予算の不足分を県の財政から補填して使用することと、大島郡の利益に合わないものへ大島郡の税金が使用されることは、表裏の関係にあった。大島郡への予算補填を批判する人たちは、大島郡の予算が他所へ流用されている事実を軽視し、大島郡の予算が流用されていることを問題にする人は、補填の事実を射程外に置くことになる。この二側面を無視して、一方のみ強調すると、予算をめぐる相互補完の関係という全体像の把握を困難にする。大島郡の税金は大島郡で使用するという政策は、自治に合致した行為かもしれないが、はたして、この政策は自治の精神にのみ照らして評価すべき問題なのか、という疑問に行き着く。

 「独立経済の議論で明らかになったように、地方(県)という空間も単一ではなく地域間格差を抱えた複雑な構造であったことがわかる」。この点は、奄美の困難を別の言い方で述べたものでもある。しかも、その単一でない複雑さか露顕する過剰さの一端は、日本の文化の主要な差異線のひとつがここに引かれていることに由来する。

 また、本章で使用した未見史料の歴史的価値が認められ、議論の起きたことは歓迎すべきだが、大島県の設置未遂に鹿児島本土の差別を嗅ぎ取るように差別に対し敏感に反応しているにもかかわらず、筆者が提起した独立経済指定をめぐり差別と地域振興の二面的解釈が存在したという指摘については、大島県ほど議論は起きていなかった。この点に関して、弓削政己氏は「初期明治政府の奄美島峡に対する政策について」で、筆者の論点を組み込んで、「県会、行政の名分は『差異』があっても、独立経済は『差別構造』の『打破』という側面では捉えられないのではないかという視点を有する」(六五頁)と、問題提起を行っている。

 たしかにぼくも「差別」に過敏に反応する嫌いはある。記憶がすぐに蘇ってくるからだ。それを背負った者からみると、「差別と地域振興の二面的解釈」の存在を指摘されて、理解はできても納得はできない心境に陥る。ここにいう地域振興も相当に追い詰められ、地域振興で突破するしかないものとして選択されたように見え、また他方では、ただの方便として言われただけにも見えるのだ。

さらに、喜山荘一氏がホームページ上で展開している「与論島クオリア」(http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/)のなかで弓削氏の議論に触発されて「二重の疎外」という用語から独自の議論を展開している(与論島クオリア28、二〇〇八年一〇月五日)。喜山氏の「与論島クオリア」の議論は、整理された形で前掲『奄美自立論』に収録されている。また、弓削氏の問題提起を踏まえて筆者は、改めて差別と地域振興の二面性が独立経済の性格であるという「独立経済再考」を二〇〇九年一月に韓国で「韓日民衆史研究者ネットワーク形成のためのワークショップ」で報告した。ただし、この原稿は広く公開されたものではないので、大島県をめぐる昨今の議論も踏まえて、早い時点で筆者の考えをまとめて発表したいと考えている。

 ここでぼくは自分の名前が突然、出てきて驚いた。書きなぐりのようなブログの文章を研究書の注に載せられるのはとても恐縮するのだが、まともに取り上げてもらったことには感謝したい。

 「大島県をめぐる昨今の議論も踏まえて、早い時点で筆者の考えをまとめて発表したい」とある。早く読みたい。


 

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2010/01/20

「近代日本の地方統治と『島嶼』」9

 翌年の明治20年。

「支庁ヲ置キ郡衙ヲ廃止セラレタルニ依り之ガ経費ヲ減センノミナラス支庁ノ所轄二属スル警察費モ併テ国庫ノ支弁二帰セラレンヲ以テ地方税ノ負担ヲ軽減シ収支ノ平均ヲ得タルモノヽ如シ」という評価を得ることになった。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 支庁を置くことで経費を節減するだけでなく、警察費も国庫の支出に気することで地方税の負担を軽減し収支の平均を得ることになった。高江洲によれば、「この説明から県会議員から建議された島嶼のために地方税が補充される問題に対する是正が取り組まれることになったのである」。

…風土人情ノ異ナルニ因り従テ地方経済ノ点二至テハ利害ノ関スル処得失ノ因ル処雷壌の差アリ為二県会議員等モ自ラ其所見ヲ同フセサリシヲ以テ内地議員ノ可トスル処ハ島嶼議員ハ之ヲ否トシ恰モ氷炭器ヲ一ニスルノ状況ヲ免レス然ルニ内地議員ノ多数二制セラレ百事内地ノ標準二因り左右セラル、ノ情勢アリ為メニ島嶼二適切ナル事業ヲ起サントスルモ勢ヒ得サルモノアリ加之島民ハ其利害二関セサル費用ノ負担ヲ受クルモノ亦少クナラストス……

 風土人情が異なるから、地方経済の点においても利害、得失は雷と土ほどの差があり、県会議員らも所見は同じではなく、内地議員の可とするところは島嶼議員が否とし、甚だしい相違を免れない。しかるに内地議員の多数に制せられ、万事が内地の標準によって左右せられる情勢があり、ために島嶼に適切なる事業を起こさんとするも勢いを得ない。加えて島民はその利害に関しない費用を負担することもまた少なくない。

 つまり、「内地」議員から、島嶼の経費不足を補うため他所から地方税を補充する現状を批判する動きがあり、それに対して鹿児島県令は支庁の設置など経費節減で事態の打開を図る動きがあった。このように地方税経済とは島嶼にとって経費不足を補うという利点がある一方で、地方税の用途については、島嶼の利益が代弁されない、「内地」のために島民が犠牲を被るという不平等な機能も有していたのである。

 20年8月、大島島司森岡真から提出された「鹿児島県大島島庁部下施政上に付意見書」。

「急要ナル」政策として三点あげている。第一点は、「内地一般法律規則ノ施行難キモノハ姑ク之ヲ行ハス」という法律の一律施行から現地斟酌主義への移行を求める点。第二点は、「各島二汽船航通ノ便ヲ開」こと。第三点は、先程から議論になっている「島嶼二係ル地方税ヲ分別スルコト」であった。

 緊急に必要な政策として、現地斟酌主義、海上交通を開くこと、地方税を分別すること。地方税分別を支持する理由としては、

「汽船航通ノ便ヲ与」えるためには、地方税の活用が必要であるが、島幌の地方税の分別を建議するような県会の下では、「好結果ヲ得ル甚夕至難ナリ」という現状認識があった。こうした点も踏まえ「島庁部下二要スル起業ノ如キハ経済ヲ分離スルニ非サレハ到底望ム可カラス」というように、地方税の分離を経済振興のための要因としてとらえていたのである。さらに「風災二確り」納税のために借金をするなど、「負債堆積」している「島嶼ノ地方税ヲ以テ内地ノ事業ヲ補翼スルカ如キハ頗フル允当ヲ失ス」という地方税の活用をめぐる不合理に対する批判的認識があった。このように大島島司の地方税分離政策の支持とは、島嶼と「内地」との政治的力関係を踏まえ、地方税の有効活用を目指すものであったといえる。

 汽船交通の便を与えるためには、地方税の活用が必要であるが、島嶼の地方税の分別を建議するような県会のもとでは、好結果を得るのは甚だ至難だという現状認識があった。だから、島庁部下に要する起業は経済分離をするのではければ到底望めない。

 「地方税の分離を経済振興のための要因としてとらえていたのである」と高江洲は書くが、これは島長が望ましいとしたというより、県会への失望を通じてそうせざるをえないというやむない選択ではなかったか。そのように読めるのだが。

 20年9月、県知事が「地方税分離の儀」を提出。 

この具申では、奄美諸島を「人事進化ノ度内地二劣」り、「沈輪ノ域二際会セル」土地とし、こうした島嶼の地方税を「内地ノ事業二充テルカ如キ允当ナラサル」と指摘している。さらに、県会からの批判を受けて「支庁ヲ置キ警察費国庫ノ支弁二帰シ島嶼ノ衰頽ヲ挽回シ以テ失意破落ノ民ヲ救治」しようとしたが、これだけでは「相叶ハサル」ため、「地方税規則第九条二依り訪島嶼二係ル地方税分別議按」を提出するとしている。

 奄美は、人事進化は内地に劣り深く沈んだ土地であり、島嶼の地方税を内地の事業に充てるのは理に叶っていない。県会からの批判を受けて支庁を置き、警察費を国家支出にし島嶼の衰退を挽回して失意破落の民を救治しようとしたが、相叶わざるので、島嶼にかかわる地方税を分別する議案を提出する。そう言っていると思う。

 県会の議決は、

県会の議決書は、「大島々庁所管ノ各島嶼ハ絶海ニ点在シテ県庁ヲ距ル殆ト二百里内外二捗り風土人情生計等内地ト異ナリ随テ地方税経済上二於テモ亦其利害ノ開スル所自ラ異ナルニヨリ地方税規則第九条二依り明治廿二年度ヨリ該島嶼二係ル経費ハ左二分別ス」というように簡潔な決議書である。

 大島島庁の各島嶼は絶海に点在して県庁から隔たることほとんど二百里内外にわたり、風土人情生計は内地と異なり、地方税経済においてもまたその利害が自ら異なるので、島嶼にかかわる経費は分別す。

この簡略な県会の決議書からは、県知事からの具状や島司の意見書で確認したような、地方税をめぐる「内地」と島嶼の対立の構図が不明瞭になっている。それだけでなく、島嶼にとって、地方税分離がもたらす正負の側面-県会と知事の両者で解釈の違いが生じていた地方税分離の質的違いIというものも不在になってしまった。

 形式的な文面で通過された、ということ。

 今回は「書面異状ノ趣聞属僚」ということになり名分的には奄美諸島の経済を救うために、地方税経済の分離がなされることになった。「自治経済ノ精神ヲ強固ニスル」ために取られた措置であったが、実施後は高率の税負担にもかかわらず財政規模は拡大せず奄美諸島の財政状況を厳しくした。

 確かに、地方税の分離が、「奄美諸島の経済を救うため」というのはいかにも「名分的」なものであり、「自治経済の精神を強固にする」ためという文言も方便にしか聞こえない。

 島民の負債高と財政圧迫をもたらした独立経済は、実施後たびたび否定的評価が与えられ、その廃止が述べられ、昭和一五、一九四〇)年にその役割を終えた。この独立経済は、同時代においても否定的であったが、後の研究者からも差別的と評価されたように、地方税経済の分離という政策はある意味で失敗だったといえる。つまり、地方税経済のもとでは島嶼地域の振興がはかられないとして、独立経済を行うことで「窮乏」からの脱却を目指したのだが、それが産業の停滞を押し止どめるという不幸な結果になったのである。独立経済がもっていた正負の側面のうち、負の側面に歴史は動いたといえる。ただし、独立経済は地方税経済がもたらした島嶼に対する差別的構造に着目し、それを打開しようとした点があったことを理解する必要はあると思う。

 「地方税経済のもとでは島嶼地域の振興がはかられないとして、独立経済を行うことで「窮乏」からの脱却を目指した」という経緯は理解できるのだが、しかし、経緯を辿ったあとでも、それはそうせざるをえない追い詰められた選択であり、「負の側面に歴史は動いた」というのは必然でしかなかったと思えてならない。未必の故意という言葉も思い浮かぶのである。

 奄美諸島の島庁設置と独立経済はほぼ同時期に関連性をもって進められたが、その背景には、勧業育成という自治の問題が内包されていた。勧業育成を目指す「保護」の論理と、経済格差の補填を拒否する「切り捨て」の論理が並存していたのである。

 ここの結語も分かるのだが、ここにいう「保護」も、ぎりぎりのもので、だめだと分かっていてもかばう最終選択のようなものではないだろうか。

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与論の西に沈む日食画像

 与論ではきれいに見えたと聞いていたので、ブログに書いてくれている人がいてよかった。

 日食、半年で2回も見れるなんて、ラッキー!


 お月さんみたいですね。


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2010/01/19

「400年語り」で奄美は姿を現したのか

 2月13日のシンポジウム「「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ」のレジュメ。お題に対しては、「「400年語り」で奄美は姿を現したのか」と応えたいと思う。これをもとに更新していく。


「400年語り」で奄美は姿を現したのか

1)奄美とは何か

自治、独立の基礎、前提としての自立、と受け取る。
奄美。この小さな場所を世界模型として起点にするしかない。

アイヌ、奄美、沖縄-まつろわぬ民たちの系譜
まつろわぬ、どころではない
では何か。失語というのがふさわしい。

二重の疎外。「奄美は琉球ではない、大和でもない」
『奄美自立論』


2)奄美にとって自立とは何か

「400年語り」のなかの奄美。 「琉球国之内」
しかし、本質的には、「内証の事」

中国に対してだけでなく、幕府(日本)に対しても隠したということ。

薩摩にとっての奄美。配慮不要の存在。存在しないかのような存在として扱う。
薩摩内の奄美。隠されたということ。存在しないかのような存在として振る舞う。

政治意思としての鹿児島。維新止まりと他者の不在。
鹿児島内の奄美。琉球文化を持ちながら、それを表現することができない。

奄美にとっての発語。隠されてあることを解く。
歴史の副読本を奄美主導(鹿児島ではない)で作成が決まる。まだこの段階。


3)「400年語り」の課題とは

「奄美と沖縄をつなぐ」

「沖縄県・鹿児島県交流事業」
沖縄県、鹿児島県知事が奄美大島で交流宣言。

鹿児島県。頬かむり的な素通りの態度。
奄美。少数年長者層の抗議と多数の引き、非関心。
両者の懸隔を縫って、交流宣言に呼応する声も通り過ぎた。

鹿児島。なぜ、奄美に向き合えないのか。
それをすれば、県が絶対視する明治維新や西郷隆盛を相対化せざるをえなくなる。
しかしそれができなければ、時は止まったまま。

奄美。島役人批判への傾斜。
鹿児島県批判に向かうところで内向する。かつて琉球王国、いま島役人。
依然とした傾向。

県と市民社会を区別する必要がある。

身体性にすらなっている無力感、諦念。
「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた。本土から軽んじられると、だまってそれを受けてきた」(島尾敏雄「奄美 日本の南島」)


4)どう語るのか。「160q」から「1Q84」へ

『1Q84』(村上春樹)。1984年からタイムスリップ。
しかしリアリティがあるのは、「1Q84」

奄美。1609年に160q年へタイムスリップ。

通時 「160q」のことを「1609」へ

・歴史に登場することのない時間を歩んだ。
黒糖工場化と貨幣流通の禁止/近代化は植民地解放的な闘い/日本復帰のズレ
・史実の発掘(弓削政己)

共時 「1984」ではなく「1Q84」に

・絶対的経済貧困からの脱出と過剰なイメージ

何を語るか、とともに、どのように語るか。

・過剰への着目
たとえば、400年の歴史を身近に呼吸できる

・世界観の共鳴
粟粥の呪術とインターネット

「400年語り」で奄美は姿を現したのか
・アジールとしての見え隠れ

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2010/01/18

「近代日本の地方統治と『島嶼』」8

 明治11年、三新法の施行により奄美が大島郡となって以降、どうなったか。

 「地方税経済上内地ヨリ補充ノ金額不少ヨリ県会二於テ時々経済分離ノ儀」も提出されているが、経済分離が実施されると、「島嶼ノ人民」が「惨状」に陥るおそれもあるため、その回避策として「節減ヲ加へ」ることで、同一県予算で行う現状に対する「維持ノ途」が提案された。この経費節減案は、県会の方でも「徳義上不得止」ものとして、「同一ノ経済」を継続することにしたのである。ただし、前述のように地方税補助の節減を行っている以上、数年を経たら、「施政ノ運用其宜シキヲ欠キ」、「人民産業日々衰頽シ民力歳々凋零シ土地荒廃二属シ遂二救フ可ラサルノ悲況ニ陥」ることになると警告している。このような事態を回避し、「島嶼人民ヲ安堵」し、産業を振興させるためにも、島長を設置して欲しいと訴えている。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 内地から補充している金額が不足して、県会では時々「経済分離の儀」も提出されているが、分離が実際されると、「島嶼の人民」が「惨状」に陥る危険もあるので、それを避けるため、島嶼に対する経費節減を行うことで、同一県予算で現状維持を行う案を出した。これは県会でも徳義上やむを得ずとして、同一の経済を継続することにした。

 ただし、地方税補助の節減は行っているので、このままでいったら「救うべからざる悲境に陥ることになる」のを回避するために、島長の設置が訴えられようになった。

 明治18年4月、県令渡辺千秋は内務卿山県有朋に「島長設置之儀二付上申」を提出する。

鹿児島県県下の諸島は、「渡航シ得サル場所柄」という交通不便の土地だけでなく、「廃藩以来制度ノ変更ヨリ産額衰頽二立至」と、ここでは行政組織の特例を求めるという性格上、自然災害や借金問題による「衰頽」ではなく、「制度ノ変更」に糖業の衰退を求めている。これらの事情により「施政万般本庁二於テ緩急行届兼候事情有之健二付該島々ヲ以テ大島郡ニテ統括シ十分責任アル島長ヲ置キ応分ノ権限ヲ付与措置為致度」と、当時数郡に別れていた諸島嶼を島長による一元的支配を目指す案を上申したのである。

 奄美は交通不便の土地であるというだけでなく、「廃藩以来制度の変更より産額衰頽に立り至る」という点、高江洲は「自然災害や借金問題」ではなく、「制度変更」により砂糖の産出量が減少していることに着目している。偏見が抜けないのかもしれないが、ぼくはこの「制度変更」とは、藩として薩摩の時とは異なり、政府の干渉を受けなければならない、つまり鹿児島の思い通りにだけできなくなった結果ではないかという疑問を抱く。

 この上申は採用されなかったので、5月、「大島郡二島長ノ置候儀再上申」が提出される。

「大隅国大島外二部及薩摩国川辺郡十島」は、「風土民情内地ト大二異ナルモノ有之且ツ遠隔ノ地勢往復不便ニシテ為メニ施政上難行届儀」があると、上申と同じく地理的要因を述べているが、この再上申では、それ以外の政治的要因についても述べている。この政治的要因とは、経済力の格差を前提とする県予算の不均衡な分配を回避することで、島嶼への有効な予算活用を目指すものであった。

 この再上申もされなかった。しかし、

 同年の七月に内務卿から支庁の設置が上請され、この案が採用され、これまでの郡役所が廃止され、大島郡には金久支庁が設置されることになった。

 島庁設置は採用されなかったが、結局はその流れで支庁が設置されることになった。ここで島々に置かれていた郡役所が廃止されて、金久支庁が置かれた。ところが、明治19年には、地方官管制が定められると、支庁長から島司に改められる。

 ここでの文脈からいえば、金久支庁は、県議会から発せられる経済分離の主張を背景に、奄美の産業振興を目的としたものであると読める。


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2010/01/17

「近代日本の地方統治と『島嶼』」7

 大支庁を廃止して郡役所を設置することになったが、別の問題もあった。何か。名称が無かった、というのである。大島県、大島大支庁と騒いでおきながら、郡にするに当たって名が無かった。吾輩は島嶼である。名前はまだない(苦笑)。

 しかし、これら島々は郡役所を設置する段階以前の問題もあった。つまり、これらの島々には所属の郡の名称がなかったのである。そのため、明治二年九月に鹿児島県令岩村通俊は「大島外四島国郡名称御足メ相成度儀二付上申」を内務卿伊藤博文に提出したのである。この上申書によると「都区町村編制法御布告相成候二付テハ管下大島喜界島徳之島与論島沖永良部島之五島モ内地同様実施仕度候処各島々之儀ハ従来国都ノ名称無之処二依り施行方差支候間至急何分之儀御足メ相成候」という内容のものであり、鹿児島県からは所属の国や郡の名称についての案はなかった。

 「鹿児島県からは所属の国や郡の名称についての案はなかった」というのはいかにも、である。砂糖には興味あるけど名前には興味ない(苦笑)。

内務省では一二月までにこれら島々を大隅国への所属を決めたが、郡名については確定に至らなかった。翌年の一月に法制局に提出した伺書への追加という形で部名を確定することになったが、それは「従来ノ島名」を踏襲し、各島を郡にするという案であった。ところが、この宴は法制局おいて「大島外四島ヲ以テ大隅国二属セラルヽハ内務省上申ノ通ニテ然ルヘシ但シ内務省ハ各島ヲ以テ各部ト為サントスル追申二候へ共与論島……ノ如キハ村数僅二六ツ以テ新郡ト為スニ足ラズ日本地誌提要ヲ按スルニ壱界島等四島鹿児島県二隷シ治所ヲ大島名瀬二置キ以テ諸島ノ事ヲ管ス云々此ノ例二拠り大島外四島ヲ以テ合セテ一郡ト為ス」という審査がなされ、内務省案は否決された。結局、大島外四島の郡名は、元老院会議の議論を経て大島郡に決まったのであるe以上の議論を経て、明治十二年四月の太政官布告第一毒で、大島外四島は大島郡という名称で大隅国に所属することが布告された。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 「大島郡」と決めたのは元老院だった。それぞれの島を郡とする内務省案もあったというから驚く。あんな小さな島を「郡」とみなそうとしたのはそれだけ砂糖の存在感が大きかったということだろうか。しかし、同じく与論などは村が六つしかないから(六つもあったのか!)却下されて、「大島郡」に落ち着く。

 こうした経緯はさまざまな想像をめぐらさせる。

 県のほうからも案は無かったということは、1609年前の薩摩の「大島出兵」計画にいう「大島」とはやはり奄美大島のことを指したのかもしれない。ただ、「大島」は加計呂麻島、与路島、請島を内包しているから、「大島出兵」の「大島」が、「外四島」あるいは徳之島辺りまでを含んでいた可能性も捨てきれないのではあるが。

 また、これらの経緯でも奄美のことを「大島外四島」という言い方で奄美大島の他四島を意味しているのであって、「奄美大島」とは表現されない。いったいいつ、「奄美大島」という名称は出て来たのだろうか。

 復帰のときですら、「奄美」というよりは「大島」として奄美諸島を指す言い方が目立った。それは、ここで「大島外四島」が「大島郡」となったことにより、大島=奄美大島としての大島から、大島=大島&「大島外四島」という通称もできてしまったということだろう。

 このときどこからか、「奄美郡」という提案がありそれが採用されるようなことがあれば、もう少し「奄美」という呼称が、諸島としての奄美に定着することにもなっただろう。現在、奄美といえば、諸島としての奄美を指すこともあるが、やはり大島としての奄美を含意することのほうが多く、「奄美」は南下する力を持っていない。

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2010/01/16

がんばれ「アイショップヨロン店」

 ここの手作りパンは本当においしくて、与論に行くときの愉しみになっている。

 「コンビニで手作り 与論の特産品スイーツ好評」

 だから、ここの手作りスイーツは結構いけるんじゃないかと期待している。

 コンビニ手作りの特産品スイーツいかが-。与論町茶花の「アイショップヨロン店」が、町特産のサトイモやキビ糖などを使ったオリジナル洋和菓子を販売、お土産品として観光客らに好評だ。
 本土からの輸送は船便で3日ほどかかるため、賞味期限が早い洋和菓子を店頭に並べるのは難しかった。同店店長で調理師の増尾辰子さん(45)が、町商工会が招いた鹿児島市の講師らと相談。2006年から菓子作りに取り組んでいる。
 これまでに作ったのは約20種類。08年2月からはレジ横にショーケースを設置し、アピールしている。
 商品は「里芋まんじゅう」(105円)や伝統芸能「与論十五夜踊り」をイメージさせる「里芋ブッセ・ゆんぬ太鼓」(126円)など、サトイモの粘りをいかした、さっぱり味の菓子がずらり。ドラゴンフルーツのムース(250円)、やぎミルクの半熟チーズ(150円)などの変わり種もある。
 同店=0997(97)2003。

 今後が楽しみだ。


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「多様だった『400年語り』 成果の反芻、深化を」

 大橋愛由等の「神戸から」(「南海日日新聞」1月6日)は、高密度な総括だ。

 奄美にとって2009年という1年は、状況がせり上がり、思想が生成されていく歴史の現場であった。
 それは言うまでもなく、奄美内外で展開された「薩摩侵攻400年に関するシンポジウムでの発言、マスコミでの紙(誌)面展開、歴史研究の新たなステージ、行政が絡んだ行事など、多くの「400年語り」から刺激を受けた奄美認識の再点検を意味している。
 「しかし」、と言っておこう。2009年が始まる前から抱いていた<だれが・どこへ・なにをしたのか>についての疑念が1年経過した後も晴れることがなかったのである。

 <だれが>を薩摩であると固定できたとしても、「琉球出兵」では、「出兵」された奄美・沖縄は軍事制圧された対象でしかない。<どこへ>が、琉球だけであれば、そこに奄美の姿を捜す目線と注意深さが必要となる。かつて言われた「島津入り」という表現では、時代が近い豊臣秀吉の「朝鮮出兵」と「唐入り」の薩摩版言い換えのような言葉の響きがある。
 では<なにをしたのか>について言おう。7月5日に東京で私が企画しで行ったパネルディスカッションでのテーマは「薩摩侵攻/侵略400年を考える」とした。「侵攻/侵略」との二つの言葉を併記したのは、奄美の立場からすると、まざれもなく「侵略」であるのに違いないのであるが、「侵攻」と表現することで、自ら熱を冷ましバランス感覚を保とうとする奄美の人々の知恵をそこに見るために、併記したのである。

 奄美に「バランス感覚」をみるのはたぶんに好意的な見方だと思う。ことを真正面から捉えることに対する遠慮、躊躇、ではないか。 

 「しかし」、と反語で続けよう。その併記の揺れは揺れとしてわたし自身納得できないままでいた。そしてこうした併記に現れる平衡感覚に対するいくつかのあらがいが、奄美から発せられたことも忘れてはならない。
 奄美発の<否>のひとつに、5月2日に徳之島で行われたシンポジウム「未来への道しるべ」の直前に発せられた、島津家の第32主・島津修久氏のあいさつに反対する申入書がある。「現段階で『薩摩藩奄美琉球侵攻四〇〇年』の歴史認識はそれぞれに大きくわかれています。にもかかわらず、当日、島津氏の当主がこのことに関して、挨拶されることは、奄美の歴史に誤ったメッセージを送ることになるのではと大変、危惧しております」との理由で「島津家当主の挨拶を取りやめていただきたい!」と書かれ、島津氏がはたして現段階で、薩摩・靡児島の総意をもって奄美に対してメッセージを述べるのに的確かどうかその資格を問うたものだった。

 ここには二重の勘違いがあった。島津と尚の末裔をまねくことが何事かの公的な意味を持つとみなした徳之島行政と、そのことに意味があるとみなして奄美に訪れた島津家当主と。資格がないと改めて指摘するのも馬鹿ばかしく、これをこそが黙殺するにふさわしい行為というものだ。申入書はだから過剰な反応だが、これを意味あるかのように当の奄美の島人も思う余地はあるのだから、そう行動したくなるのは分かるものだった。

 そしてこの勘違いは島役人の末裔にも引き継がれていた。

 さらに、11月21日に県奄美パークで行われた「沖縄・鹿児島連携交流事業」における「交流拡大宣言調印式に対して中止を求める要請書が発せられた。それには「島津軍による武力侵略から四〇〇年の今年、奄美の地でそれ(調印)がなされることには深い違和感を覚えざるをえません。「薩摩の奄美・琉球侵略を『不幸な歴史』と清算し、過去の歴史を隠蔽し、蓋をすること、謝罪すべきことを「交流」と称し、奄美を愚弄すること奄美の民衆は許すことはできません」などと書かれている。
 この調印を行う場所に薩摩・琉球の中間に位置する「道之島」を選択したのは、奄美の地政学的位置を知り尽くした鹿児島と沖縄の政治的意思が働いていることが了解される。

 公的な意味は現在は両県知事が担うものだから、この交流事業こそは異議申し立ての対象だったろう。「奄美の地政学的位置を知り尽くした鹿児島と沖縄の政治的意思」については、ニュアンスがあり、地政学的位置を知っているが意味について認識不足の沖縄県知事と、位置も意味も知り尽くしていながら知らぬふりをした鹿児島県知事である。

 ところで、この調印について奄美の人々はどう思っているのだろう。調印が行われた会場に、日本への復帰が決まったことを祝った時のような歓呼で迎える奄美の民衆の姿はそこにあったのだろううか。あるいはこの調印は、奄美の頭ごなしの、薩摩・琉球といった新旧「宗主国」の権力代行者に上る、400年にわたる奄美のルサチマン封じの儀式(手打ち式)であると直感したシマンチュに同調しているのだろうか。わたしには、こうした異議申し立ては、為政者たちの仕掛けや装置にもはや回収されまいとする奄美の人々の悲痛な叫びに思えてならないのである。

 ここに「シマンチュ」の「同調」など無かったことは明白だと思う。ぼくは異議申し立てが現在も「悲痛な叫び」のようにしか表出されないことが課題なのだと感じる。

 「しかし」、と三たび繰り返しておこう。島津家当主が薩摩・鹿児島の総意を代表しきるのかという問いは、奄美自身にも向けられている。それは、だれが奄美の400年を背おって語りうる資格があるのか、という自省が込められた問いである。もう少し焦点を絞って表現すれば、島役人層への奄美内部からのまなざしと言えよう。
 藩政期に、砂糖納税になることで、奄美の人々に階層分化をもたらした。豊かな島役人層は納税した後の正余計糖を活用して資産をつくり、ヤンチュを買い、郷士格になっていった。
 そうした社会環境の中で島役人層は次第に支配者側(薩摩)に加担していく立場をとるようになる。その姿勢は明治になって、黒糖が自由販売になった後も、引き続き鹿児島県の息が掛かった商社と契約を結んだ島役人層がいたことにも引き継がれている。

 そしてぼくたちは、県としての鹿児島への批判を避けるように、島役人批判へ向かおうとする奇妙な光景を目の当たりにすることになる。ここに見るのは島役人批判の真っ当さであるより、奄美的心情の屈折のありようである。政治的意思としての鹿児島への批判に帰結しそうになると矛先を変更するのは『名瀬市誌』から変わらない心性である。

 「奄美の400年を背おって語りうる資格がある」のはふつうの奄美の人々であるのは言うまでもない。そこに、この課題が現れるのである。

 こうした島役人層のありようを問う思いは、奄美の人々の心の地下水脈として流れ続けていることを考えると、奄美社会の中で、現在に至るまでの<親鹿(薩)性の洗い出し>という心情が表面化したのも、2009年の特徴の一つだった。

 ことはいたって単純で、県としての政治的意思と市民相互の交流を区別しない錯誤が招いている事態ではないのか。交流事業というネーミングは、その錯誤を物語っている。

 そしてもうひとつ。最後に強調しておきたいことは、こうした「400年語り」は奄美の各島によって捉える視点が異なるということである。2010年になった今、奄美の人々はどのように受け止め、どのような奄美像を創造していこうとしていくのだろうか。そして神戸でも「400年語り」を実施したわたしは、こうした語りの成果を、神戸の出身者とともにこれからじっくりと反芻し深化させていきたいと思っている。(図書出版まろうど社代表)

 「奄美の各島によって捉える視点が異なる」そのありようの詳細は、ぼくの知りたいところだけれど、異なること自体は、島ごとの独立性が高いのだから自然な現れである。しかし、二重の疎外の表出であるという点は共通しているのだ。


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2010/01/15

「近代日本の地方統治と『島嶼』」6

 大島県に続くのは、大島大支庁。大島県は構想に終わったが、大島大支庁は実現する。

史料の残存上細かいやり取りは分からないが、大島県の設置を認めた達も出されてない以上、この構想は未遂に終わったようである。ただし、その精神は幾分か継承されて、大島大支庁の設置という形で実を結ぶことになる。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 大島大支庁は、奄美を統括するものだった。

 この大島大支庁という栖憩は、大島に大支庁を置き、外の四島(善界島、徳之島、沖永艮部島、与論島)には支庁を設置するというものであった。

 奄美を県にはできなかったが、大支庁は実現した、という流れからみると、大支庁も明治政府の意思なのかと連想する。大島県構想は、鹿児島県による奄美支配の排除を想定したものだったはずだからである。しかし、大支庁はそうではない。

ちなみに、この何は、前年の一〇月に鹿児島県令大山綱良から提出された上申書に基づくものであった。

 ここでまたぼくは混乱してしまう。鹿児島からの申し出だというのか。

 この上申書も甘庶が重要な産物であることを指摘し、風早による滞納など商人絡みの借金問題の存在にも言及している。そして、先の大蔵省察申を作成するために「大蔵省官員巡回実地検査」に「不肖綱良モ官員同道大島迄巡回見聞」したところ、大山鹿児島県令が出した解決策は「官員ノ増員」による大島大支庁の建設であった。大山鹿児島県令は、この大支庁を建設する目的として三点ほどあげている。

 その三点とは何か。

 まず一点目は、「人民保護ノ道行届」かせるためであった。
 二点目は、「近来ハ外国ノ輸入糖多ク遺憾ノ至り不絶‥…・黍株植殖製糖ノ高ヲ増シ内国ノ貨ヲ他二失フノ道ヲ防」ぐためであった。
 三点目は「島民ノ幸福又砂カラス実二島々悪弊弊襲ノ久キ断絶掃擁致度」という悪習断絶のためであった。

 ぼくはいま、鹿児島県令が「人民保護」の観点を打ち出すのを、にわかには信じられない場所にいる。

大山鹿児島県令によると、大島は遠隔の地で、従来の職制では「耳目二不触事モ多シ」といった反省点があった。そのため、大島大支庁を設け、その外各島々にも支庁を設置することで、現地に密着した細かな統治ができるという意味付けを大支庁設置に求めていた。

 これはどう理解すればいいのだろうか。高江洲はこう結んでいる。

 以上見てきたように、この時期の鹿児島県下の島喚政策、つまり行政組織の新設をめぐる議論は、基幹作物である甘煮栽培の振興を中心にしたものであった。糖業を振興することで、奄美諸島の貧困問題(滞納問題への解決志向)の解決を目指した点では前節との関連があり、その延長として理解することができる。しかも、行政組織の改正という問題に最初にリーダーシップを取ったのが、大蔵省であったという点もまた注目される。この大蔵省の政治的意図(外貨補填)を実現させるために内政(地方行政)にまで関与していくところに、当時の国策を反映するものであったと指摘できる。それは、行政組織の改正による上からの強い指導による成果を期待するという意味で、「殖産興業」派の政策の一環として、この問題を位置付けることができる。

 これを読むと、大山県令の上申は、この時点での鹿児島県の意思が国家と対立するものではないことを示している。大島県であれば、鹿児島県外になり、鹿児島の利益にならないが、大支庁であれば県内であり、統治を強化することは鹿児島県の利益を損なわない。そういうことだろうか。

 しかし、大支庁は、明治一一(二八八七)年、全国に郡役所が置かれることになり、廃止されることになる。

Chihou



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「観光立島再構築へ」

 元旦の南海日日新聞。當田由紀子さんの特集記事がとても充実していた。

 「転機迎えた与論観光」。構想の実現のため、コミュニケーション戦略に注力してほしい。繰り返しになるけれど、インターネット・コミュニケーションは、どう転んでも手の届かない大枚をはたく必要もなければ、本を重ねる刻苦勉励が必要なわけでもない。手の届くすぐそこに、ツールがある。役場、民宿、ホテルに携わる人、若い人がやってくれれば、いつでも呼応して応援したい。(以下、記事「観光立島再構築へ」)


 レジャーの多様化や沖縄観光の台頭などを背景に与論観光の低迷が続いている。与論島への入り込み客数は、離島ブームを追い風に15万人を突破した昭和50年代の4割に減少。宿泊施設は約100軒から27軒へと減り、島中が活気に包まれた当時の面影は薄れつつある。

 ただ、厳しい現状に関係者も手をこまねいているわけではない。観光客の選択肢が広がる中、他地域との差別化をどう図るか。ヨロン島観光協会は「癒やしと健康」を切り口にしたヘルスアイランド構想を展開。多様化するニーズを踏まえ、健康志向をとらえた食文化の発信や体験メニューの創出など観光資源の掘り起こしにてこ入れを急ぐ。

 自然、農漁業、文化など団体の枠を超えた連携下で「見る観光」から「体験する観光」へ軸足を移した観光地づくり。減少幅の大きい夏季の誘客対策や新規の顧客獲得、宿泊施設の改修など課題は山積みだ。近年の動向から観光立島の再構築に向けた糸口を探る。


□団体から個人へ、ニーズも変化

 与論島への入り込み客数は1979年の15万人をピークに年々減り続け、2CO8年は6万人まで落ち込んだ。中でも顕著なのが8月の客数減。学生旅行の減少などが要因とみられ、04年から1万人を下回り、08年は最盛期の2割まで減少した。一方、冬季はリピーターや修学旅行生などが下支えし、ほぼ横ばいを維持している状況だ。

 インターネットの普及を背景に情報収集の手段は多様化。旅行代理店を通さないスタイルが定着し、団体から個人の旅行へと移行する傾向が鮮明になった。与諭町商工観光課の久留満博課長は夏季の誘客対策を課題に挙げ、「現実は非常に厳しい。観光客のニーズも変わり、地元の食や文化に触れたいという声を多く聞くようになった。若者に的を絞った宣伝にも力を入れ、ニーズを的確につかんだ観光資源を創出しなければならない」と意気込む。

 町内で民宿を経営する女性は「現在の態勢で大人数を受け入れることは現実的ではない。ゆっくり過ごせる環境を求める個人客が増えており、島全体のホスピタリティーを高めること意識を持っていくべき」と量から質への転換に目を向ける。

□「癒やしと健康J

 新たなメニューとして観光協会が進めているのが健康づくりに軸足を置いたヘルスツーリズム。長寿食材を活用した料理やタラソラピー、ジョギング・ウォキングコースの整備を通して「癒やしと健康」を切り口にしたヘルスアイランド構想を描いた。

 計画にはさまざまな団体がかかわり、観光客との交流にも積極的だ。与論町食生活改善推進連絡協議会は地場産食材を活用した長寿食のPRに協力。町内の美容関係者でつくる「ヨロソ癒やしの会」は島の素材をエステなどに取り入れた「ヨロンセラピー」を考案した。与論島沖の深層水を使った化粧品の開発にも携わり、川畑征美代表は「商品を気に入った人が足を運んでくれたらうれしい」と特産品を通じた魅力発信に意欲を見せる。

 構想の実現に向け、観光協会はヨロンマラソンのハーフコースを活用したウォーキング、ジョギングコースを新設。宿泊施設からの距離やカロリー消費量を案内板に表示し、ウォーキングを兼ねた自然探索を提案する。

□情報化で広がる誘客機会

 観光動向とは対照的に実績を伸ばしているのが修学旅行だ。他校との重複を避けて日程を調整する「1島1校」の受け入れを強調したPRを展開。ダイビングや農業、エイサーといった体験・交流型のメニューが人気を集め、近年は毎年二、三千人を受け入れている。卒業後に再来島するケースもあり、「一般の観光に比べて経済効果は少ないが、新規開拓の糸口になる」(タクシー運転手)。

 さらに島内では映画「めがね」(07年公開)の撮影が行われ、ロケ地としても知られるようになった。上映を機に観光客が訪れるようになったホテル「ヨロン島ビレッジ」の池田和枝さんは「最盛期の知名度には及ばないが、与論を知らなかった人にアピールする機会になった」と話し、「リーフに囲まれた白い砂浜と青い海が人々を感動させる。美化に力を入れればこれ以上の施設は不要。観光に携わる私たちの努力が一番大切だと自覚している」と襟を正した。

 このほか、昨年は東京都の大手飲料メーカーが3泊4日の与論旅行を懸賞に決定。抽選で選ばれた40人が来島し、星空観察や百合ケ浜上陸ツアーを楽しんだ。
全国展開の同社製品を通じた情報発信が間接的な宣伝につながった格好だ。
情報化社会の中で無限に広がる誘客機会。来島者の心をとらえる観光資源を創出し、新規開拓やリピーターの獲得につなげられるかが観光立島の生き残りを左右る。

□体験型観光の推進

 観光客の選択肢が広がる中、他地域との差別化をどう図るか。航空運賃の安い冬季に合わせて10年間与論島に通い続けている滋貿県の60代夫婦は「沖縄とは違った自然が魅力。背伸びせず、素朴な景観を維持してほしい」。大阪府から来島した70代女性は「沖縄に比べると関西での知名度はまだまだ。こんなに良い所なのにもったいない」。「単独の島としては評価できる数字」(久留課長).という3割のリピーター率を裏付けるように観光客の満足度は高い半面、知名度不足を指摘する声も聞かれた。

 与論町の第4次総合振興計画(01年度~10年度)は年間10万人の観光客数を目標化し、都市圏以外での宣伝強化を明記。主要施策の柱に①与論独特の観光地づくり(ギリシャ風の景観づくり、海浜部の環境整備)②誘客対策の充実(沖縄・九州本土への集中宣伝、インターネットを活用した広報)③受け入れ態勢の充実(人材育成、郷土料理や特産品の開発など)④推進体制の充実-を掲げ、体験型観光の推進を打ち出した。

 ヨロン島観光協会の田畑克夫会長は「観光産業が外貨を稼ぎ、島全体を括気づはるという認識を共有する源を商品化するためには親光業にとどまらない多角的なアプローチが求められる。

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2010/01/14

「近代日本の地方統治と『島嶼』」5

 明治七(一八八四)年、大島県設置案が、大隈大蔵卿から三条実美太政大臣宛てに提出される。
 そこには、こうあるという。

 ①各島従来島津家ノ所領二俣処置県之際鹿児島県ノ所椿二相成侯得共風俗言語稍中国ト不相同随テ政令治教モ難及候二付目今授産収税等其他百般ノ制度モ先ツ従前仕来ノ侭致墨守候儀二有之……
 ②島々産物ノ儀ハ砂糖第一品ニテ其次ハ米麦綜欄芭蕉布等有之候へトモ是迄藩治ノ圧制ヲ以テ多少民力ヲ致傷審候・…且人民頑愚ニシテ種芸製工ノ術ヲ不尽就中絶海ノ島峡人跡希少ノ地ニテ見聞ノ智習学ノ切ハ更ニ無之…

1.各島は従来島津家の所領で鹿児島県の所轄になったのだが、風俗、言語ともにやや中国と似ているので、政令地教も及びがたく、仕事を与えるのも税を採りたてるのもその他、百姓の制度もまず従前のまま墨守させるほかない。

2.島々の産物は砂糖が第一品でその次は「米麦綜欄芭蕉布等」があるといっても、これまで藩治の圧政があて多少民力は傷を負っている。かつ人民は頑愚で農産物を育成する術もなく、特に絶海の島嶼では人も少なく、見聞したり知識を得たりするところは更に無く。

 ちょっと訳が怪しいのだけれど、こんな意味だと思う。ひどい認識だが、こういうことなので、作業を起こし物産を繁殖させるのは到底できそうにもない。そんな評価を下していた。しかしにもかかわらず、

大島をはじめ「南島各地ノ良産」である砂糖はまた「方今輸入品ノ第二であるため、その産業振興は必要な課題であった。そこで大蔵省が出した解決案が、本節で検討しようとしている「大島二一県ヲ置」という大島県構想であった。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 と、大蔵省発の大島県設置案が構想された。これは、

こうした、実現配慮の乏しさから逆に大鳥県設置に求めていた理想像というものは、はっきりしている。そこで、大島県設置案から導き出せる、当時の大蔵省の政治的意図を確認すると、産業立国論の一環として構想していたことが分かる。

 産業立国のひとつの形として構想されたものだった。

 この設置案は九月に「内務卿大久保利通帰京ノ上御裁可相成度」という理由で、採決は延期されることになった。史料の残存上細かいやり凝りは分からないが、大島県の設置を認めた達も出されてない以上、この構想は未遂に終わったようである。

 大久保が「否」とした文書なりは見つかっていないようだが、その後の経緯から未遂に終わる。大島県設置は、当然ながら奄美が鹿児島県から分離することを意味している。これは大島商社をつくり奄美の黒糖を専売制を敷き独占しようとする鹿児島県の利害とは反するものであった。

 ぼくたちはここでふと、大久保の真意を推し量りたくなるが、邪推にもなるので先に行く。

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15日、夕方は「日没帯食」

 15日夕方、与論では「日没帯食」が見られるんですってね。

 「15日夕、西日本各地で部分日食 54年ぶりの「日没帯食」に」

甑島や沖永良部島、与論島は6割以上。アフリカ東部から中国内陸部にかけては金環日食となる。

 欠け具合いは皆既日食ほどではないけれど。
 見れるといいですね。


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2010/01/13

「近代日本の地方統治と『島嶼』」4

 さて、奄美、である。高江洲は、これまでの研究について、

これまでの奄美近代史に関する研究のうち、地方行政に関しては、変遷の流れを概観するものが多く、構造的分析に乏しかった。また、経済に関しては、地方税の使途と税率を島嶼と「内地」とで区分する地方税分離政策いわゆる独立経済の評価をめぐって研究がなされてきた。この独立経済の研究は活発であるが、藩制時代の奄美差別の延長線上に位置付けてきたように負の側面から理解されてきた。

 と書く。これはぼくのことだが、「独立経済の研究は活発」なのではなく立脚すべき史実が貧弱なので、議論が苛立ったものになりやすい、と補足したい。

 また、高江洲は先行研究を次のように要約している。

(前略)奄美諸島は、一回目の改正の時、砂糖貢納を認めるか、金納を認めるかで、大蔵省と鹿児島県とで対立があった。そうしたなか、地租改正が着手され、近世の甘煮による貢納が現金納へと変更されることになった。だが、島民をとりまく困窮や搾取といった問題は解決されることがなかった。つまり、「封建的税制」が廃止されたにもかかわらず、引き続き島民は困窮な生活を強いられることになった。薩摩藩のもとでの圧政的な甘煮栽培政策による租税負担の過重は、明治になっても改正されることはなかった。そのため、租税問題に関して言えば、近世と近代で断絶する。となく、連続した「奄美差別」の史観が構築され、通説的な語りとなっている。

 これは、ぼくなども漠然と持っている認識と変わらない。ここに高江洲が加えるのは次のようなことだ。
 明治七(一八七四)年、鹿児島県令大山綱良から大隈大蔵卿宛てに出された「大島外四島石代金納再願」という石代金納の再願を見ると、それは、

「大島外四島之人民」が「困窮二差迫り現糖上納難渋」になったため、明治六年に納入方法を改め「石代金納被仰付度上申」したところ、それが認められ、明治七年度から「石代金納二御採用相成」ることになった。このことは、「島民共蒙御恩択候期二至り難有次第」ではあったが、明治六年に台風の被害を被り「黍作不宜」の状態になったため、前倒しで前年度分(明治六年度分)から石代金納を認めてくれ(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 というものだった。大島の外四島は、困窮で砂糖の上納が難しくなったので、明治六年に納入方法を改めて金納を上申したところそれが認められ、明治七年度からそうなった。このことを島民共はありがたく思ったが、明治六年に台風の被害があり、砂糖きびは不作だったので、金納を前年度分から認めてほしいとお願いした。

 そういうことだと思う。これは別段、不都合もなかったので認められた。
 ところが、「砂糖販売による現金収入と納税時期」にはズレがあり、明治八年に鹿児島県令は「貢納期延之願」、「貢納期延期上申」と二度にわたって願いを出し、要求を聞き届けられた。

 以上の議論をまとめると、まずはじめに地租改正による納税方法(石代金納)についての議論があった。しかし、金納になったとしても問題は解決されずに、現金収入を得る時期と納税時期のズレという新たな問題に直面することになったのである。

 そこで高江洲が言うのは次のように言う。

 このように一連の経緯を押さえると、島民の困窮や滞納問題に関する従来の理解、すなわち、(中略)島民の窮乏や滞納の原因は商社にあるとする理解は、修正する必要が出てくる。実際の窮乏や滞納は、自然災害や換金時期のずれなど複合的な要因によって起きていたのである。

 なるほどそういうことがあたのか、とぼくたちは思う。けれどどこか釈然としないものが残る。
 たとえば、高江洲は、石代金納が支持された理由として、

 石代金納が支持された理由は、石代金納ならば、「幾部分島民之利益ニモ相成風早之災挟ヲ償候儀モ可立至」というように、島民にも現金が流通するであろうという期待からであった。その反対に、現糖上納ならば「島中ニ……過分ノ不足二及ヒ迫送ノ借財二相成救助之詮立兼候」と、島民が現金を得る機会を奪うものとして理解されていたからである。

 というように、「石代金納」は奄美の島民に現金がもたらされるからと期待されたからだという。ここでぼくは、この文章を誰が書いたか、つまり、県令が書いたのか政府が書いたのか気になるのだが、注をみると、「鹿児島県令の再伺文より引用」とあるので、鹿児島県令のものだということが分かる。しかし、このたぶん大山県令の言葉は真意だろうか。

 というのも大山県令は、大島商社設置について、奄美の砂糖は鹿児島県の「会計の元根」であるとして、士族救済を念頭に専売制の維持を大蔵省に請願している。「石代金納」も、そのほうが黒糖を販売する権利を持つことで県が利益を得ることができるからそうしたものである。だから、その延長で考えると、奄美に現金を流通させることを期待していたという理解が頷けなくなってくる。

 ぼくは高江洲の論考を偽として退けたいわけではない。素直に説得されたい気分だってある。しかし、「石代金納」による士族救済の狙いを背景に置くと、奄美が可能な納税方法を選ぶも災害によって難航したという粗筋に疑問が残ったままなのだ。

 ぼくはここは、「実際の窮乏や滞納は、自然災害や換金時期のずれなど複合的な要因によって起きていたのである」というのではなく、実際の窮乏や滞納は、自然災害や換金時期のずれなど複合的な要因によって「も」起きていたのである、と一文字加えておきたくなる。


 
 

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200万の思い出

 昨日、釣り番組に与論が出たんですってね。イスズミ釣り。
 その番組を見て、37年前を回顧してる方もいます。

 「なつかしい“与論島”の釣り番組をみる。!」

37年も前の事がまだ脳裏に焼き付いています。レンタサイクルを足に血豆がでるほどこいだなぁ~
この時の旅で知り合った人達その後の人生どう過ごしたかなぁ~あっちこっちから来ていたなぁ~

 こんな風に思い出してくれる人もきっと多いんですよね。
 1970年から、おおざっぱに毎年5万人が訪れたとしたら2009年までで200万人です。
 200万の思い出、です。


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2010/01/12

「独立/自立/自治」を考える-沖縄、奄美、ヒロシマ

 事務局の早尾さんから開催の案内が届いたので、ご紹介します。アジア太平洋研究センターディアスポラ研究会シンポジウム、「「独立/自立/自治」を考える--沖縄、奄美、ヒロシマ」。2月13日土曜日です。

◇◆◇

アジア太平洋研究センターディアスポラ研究会シンポジウム:
「「独立/自立/自治」を考える--沖縄、奄美、ヒロシマ」

 アジア太平洋研究センター(東京麻布台/本校=大阪経済法科大学)において、沖縄・奄美を軸とした地域の「独立/自立/自治」をめぐるシンポジウムを開催します。

 沖縄/琉球の独立論は、1972年の日本返還(本土復帰)の前後に「反復帰」論として展開されてから現在に至るまで、米軍基地に依存した政治経済構造から脱却するために、またそうした構造を強いている日本本土から脱却するために、長く論じられてきました。とりわけ昨年は、琉球処分130年/薩摩藩侵略400年ということもあり、節目としても比較的多くの関連書籍が刊行されました。そこで3人の注目すべき論客を招き、討議の場をもちたいと思います。

 まずは、『沖縄・共同体の夢--自治のルーツを訪ねて』(榕樹書林)などによって、長年沖縄の自治論や共同体思想に取り組まれてきた安里英子さん。安里さんは一昨年も、『凌辱されるいのち--沖縄・尊厳の回復へ』(御茶の水書房)を出され、そこでもあらためて自治をめぐって議論が深められています。

 また、「沖縄と本土」という対立軸で捉えたときにそのあいだに落ち窪み不可視化されてしまうのが「奄美」です。喜山荘一さんは、奄美の語られなさや困難を「失語」として問題化した『奄美自立論--四百年の失語を越えて』(南方新社)を昨年刊行し注目されました。

 また、国家と地域との関係を根本的に問い直す『ヒロシマ独立論』を出された東琢磨さんにも参加していただきます。広島に深く根ざした活動を展開しながら、沖縄/琉球にも関わりの深い東さんには、先のお二方の話を受けつつ、国家/独立とは何かといったところまで議論の射程を広げていただければと思います。

【日時】:2010年2月13日(土)14:00-17:30
【会場】:東京麻布台セミナーハウス2階大会議室
(港区麻布台1-11-5/日比谷線神谷町駅から東京タワー方向へ徒歩3分)
【入場】:無料、一般参加可

【プログラム】
開催趣旨説明:早尾貴紀=司会(15分)
報告
安里英子(30分)
喜山荘一(30分)
東琢磨(30分)
休憩(15分)
総合討議(90分)

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2010/01/11

ほっとけトーク「島津藩による奄美・琉球侵攻400年」を観た

 奄美テレビの山元さんに、ほっとけトーク「島津藩による奄美・琉球侵攻400年」のDVDを送ってもらっていたのを初めて観た。インタビューで取材を受けたもので、自分も出ているだろうから観るのが億劫だった。休日でなければそういう気もなかなか起きないだろうと、やっとセットしてみたのだ。

 出演者は、花井恒三、薗博明、森本眞一郎のおさん方。
 発言を聞きながら、首をかしげざるを得ないのは花井さんの発言だった。
 400年という節目がさまざまな出会いを生んだ。そのなかには調所笑左衛門の末裔である調所一郎の奄美への来島のことや、奄美大島での「沖縄・鹿児島連携交流事業」もあった。

 いつも自分はそういうのだが、と強調したのは、「奄美はクッション役。奄美を舞台にすると、鹿児島県と沖縄県の両方ともうまくいく」ということだった。奄美はクッション役、奄美は交流拠点というのは、奄美をポジティブに捉えようとするとき出てくる視点で、ぼくもそう書くけれど、奄美がもともとそういう二重肯定的な関係のなかに置かれたのであれば、少なくともアイデンティティの課題が深刻になるはずもない。二重否定的な関係に置かれたからこそ、身を隠すようなことや家族にすら自分のことを語らないという個人史が生まれて来たわけである。そのこと触れなかったら、クッション役も交流拠点も、何も言ったことにはならない空文句になるばかりか、すべて無かったことにしましょうという交流宣言と同じ空疎さに陥るしかないものだ。

 調所一郎の来島など、私的な意味しか持ちえないのに、それを歴史的に意味があるもののように解するのもどうかしていると思う。それだから、当の本人たちも勘違いして自分たちが何者かであるような為政者気分の抜けない発言になってしまうのだ。(「調所家と田畑家 その功罪と展望」

 当然、花井さんの視点からは、「沖縄・鹿児島連携交流事業」を「とてもよかった」と評価することになる。どうしてこんな視点になるのだろう。これは、行政と市民とを一緒くたに見てしまっているのではないだろうか。彼は、「せっかく両県の知事がいらっしゃるのに歴史のシンポジウムが無かった。芸能も奄美、沖縄、鹿児島のものをそれぞれやるだけでばらばらに終わった」などとも言うが、そういう構成自体がことの本質を物語っているではないか。歴史のシンポジウムはしなかったでのない、やれなかったのである。芸能はばらばらで工夫がなかったのではない、ばらばらにしかできなかっただけである。この点、発言はとぼけたものに見えた。

 しかし、誤解もあった。山川の事業の際の新聞記事で、「出兵・侵攻」という連語について、花井さんは「複雑な思いをしながら、これは沖縄と鹿児島、奄美の歴史観の違いを乗り越えで共生、共存していくことだとくみ取った」(「薩摩の琉球侵攻400年 指宿市山川で記念事業」)とあって、ぼくは能天気なものだと感じたが、ほっとけトークでは、「鹿児島は『出兵』という言葉を捨て切らないのだな」と、つまり「侵攻」の言葉だけで語ることができないのだなと感想を漏らしていて、鹿児島を対象化しているのに気づいた。また、宝暦治水の平田靱負について、鹿児島の大学生が南日本新聞に、偉業に学ばなければならないと投稿した記事に触れて、「ここに奄美のことが触れられるようにならなければならない」という視点を持ち込んでいた。

 森本さんからは、奄美のふつうの人にとっても意味を考えるイベントがなかったこと、薗さんからは、400年の問題は過去のことではなく現在のことであるという指摘があった。同感だ。

 三上絢子さんには一連のイベントの流れがブームのように見えたらしく、歴史の副読本とか受け皿がないのにやるのは時期尚早ではないかという発言があった。これは、「沖縄・鹿児島連携交流事業」に対してならその通りだが、その他のイベントについてなら、400年の時に行わなかったら、奄美はさらなる失語に追い込まれるだろうし、薗さんが言うように、声を挙げなければ、奄美は闇に葬られると、ぼくも思う。ただ、三上さんも「今後、400年については、ブームみたいに、お手打ちでこれで一件落着というわけにはいかない」と言い、その通りだと感じる。

 花井さんは後段、「沖縄・鹿児島連携交流事業」の共同宣言文は宮崎緑が読み上げただけで配布されなかった。なぜ配布しないのかと思った。鹿児島の歴史副読本には、奄美の黒糖は薩摩の財政を奄美の黒糖だけで解決という記述しかない。犬田布騒動は「騒動」という言葉でくくられ、「抵抗」という解釈をされてしまっている。沖縄の副読本には苦難に触れている、という指摘も。さらに、副読本は行政がつくるだけではなく、他にもなければならないとも。これはぼくもそう思うもので、行政がつくるものは限界があるから、それぞれの島語りが多様に出なければならないはずだ。

 蛇足だが、ぼくはテレビ放送の前日の夜に日比谷のビルでインタビューを受けた。最初、3分枠で話したが、どうも奄美テレビの方は物足りないらしく追加でいろいろと聞かれた。その質問を受けているうちに、どうやらぼくは趣旨を理解していないらしいことが分かった。「沖縄・鹿児島連携交流事業」のことを重点に質問されたからだ。そのことを聞きたいのか、とそれについて答えたのだが、そちらだけが採用されていた。不満があるわけではなく、最初からそこに焦点を当てればよかったのだなと合点した次第だ。

 400年について奄美で語られるのは意義がある。というか、奄美が語らなければ誰が語ってくれるわけでもない。花井さんが、400年のテーマについて、大学の先生は多く訪れたが、これで論文を書こうという学生は一人も出会えなかったと語ったこと、「奄美大島でこうしたイベントが仕掛けられなかったこと」を反省点として挙げていたことが印象に残った。


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「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの打ち上げを台湾料理で

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの打ち上げを、持田さん、syomuさんと、ゆうべ池袋の台北夜市でやった。イベントがイベントなのだから、奄美、沖縄系の店が合っているんだろうけど、開催前に通いづめしたせいか、なんとなくたまには外の味を楽しみたかった。で、台湾料理もまろやかさと甘さと酸っぱさがあって、美味しかった。勢い会話もはずむ。

 当日、会場で配ったアンケートの結果も、遅ればせながら見せてもらった。「奄美が鹿児島県だということを初めて知った」という声もあれば、「もっと白熱したトークを」という声も。ぼくの、このテーマに関心を持つ人は少ないという思いこみからすれば、両者の中間ぐらいの参加者を想定していたので、こうした声はごもっともだし、でも思いこみ以上に、シマウタの力でもあるだろうけれど、関心を持ってくれる人はいるのだということが分かったので、そこは軌道修正しなきゃなと思うところだ。

 「どのようにつなぐのかが、まだ見えてこなかった」という声もあり、しっかり受け止めたいと思っている。それは模索と試行を続けたいと考えていることだからだ。

 いま思うともっとお互いの労をねぎらってもよかったのに、もう奄美、沖縄談義に花を咲かせて夜は一気に更けていった。こういう会話に飢えているし話せる相手だと止め度がなくなるのを再確認もしたひと時だった。奄美、沖縄にかかわる人、心を寄せる人の声をもっともっと聞きたい。そういう余韻が残った。

 改めて、参加くださったみなさん、肉筆でアンケートの答えてくださったみなさん、本当にありがとうございます。またお目にかかれれば。


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2010/01/10

1Q84と160Q

 村上春樹の『1Q84』は、主人公たちが1984年からタイムスリップして別の世界に入ってしまう物語だ。そこには月が二つある。それはまるで別の地球に見えるのだけれど、でも読んで感じるのは、その月が二つあるような世界のほうが今、ぼくたちがいる場所ではないかということだ。月が相似形のもうひとつの月を持つように、自分がここにいるだけでなく、それはブログやツイッターとしても浮遊していたり、善と悪がバランスをとりあったりしているような、うまく言えないけれど、頭と心と身体が離れしまったような世界だ。すると、『1Q84』は、1984年とは別の1Q84年の世界に入り込んだ物語ではなく、いつの間にか、1984的世界からいまは1Q84的世界に変わってしまっていることにリアリティを持った作品なのではないか。

 そう考えると、『奄美自立論 四百年の失語を越えて』は、いかにも1984年的世界の言葉だと思う。もっといえば60年代的文体だ。ぼくは既存の文脈に回収されないようにと心がけたことはあるけれど、1Q84的世界にはなかなか届いていない。だから、1984的世界を知っている人には、強く届くところがあるけれど、1Q84年的世界には響かない気がする。なぜ、このようなことが主題になるのかすら分からないものとして存在しているのかもしれない。だから、1Q84年的世界のなかで、1984年的世界のことを伝えるにはどうしたらいいのだろうか。そんな疑問がまとわりついてくるのだ。

 逆の言い方もできる。奄美は、1609年以降、日本史のなかに強引に組み込まれていくことになるが、そのどこかに場所を占めることなく、言ってみれば160Q年的世界に入り込んでしまう。奄美だけタイムスリップをする。それ以降、1609年から時を刻んでいる世界とは別のところにいる。接点を持つことはあっても、たとえば日本復帰の時期がズレたりその受け止められ方もズレたりしたままだ。いや、160Q的世界にいるから、復帰も日本史のそれとは別の位相に存在している。

 でも、2009年までには、200Q年ではなく2009年として受け止める感性も育ってきている。そうすると、160Q年的世界でズレたままでいるのは疲れた。もうふつうの2009年的世界に合流しよう、それでいいではないかという感じ方も出てくる。タイムスリップしたわけではなっかったと見なそうではないか、と。それは気分的には分かるものだ。でも、160Q年的世界がまだ存在じているのも確かなのだ。この接近からは、200Q年的世界にいる者が、2009年的世界に言葉を届かせるにはどうしたらいいのか。そんな課題でもある。

◇◆◇

 遠田潤子の『月桃夜』の評のなかで、作家の荒俣宏は、奄美のことを、

これまでまともに取り上げられなかった奄美大島の歴史と人倫を興味ぶかく語りつくす。奄美の歴史は、運命の隙間を泳ぎ渡るしたたかさを持っていた沖縄と異なり、一方的な屈従の連続だった。(第二十一回 日本ファンタジーノベル大賞

 と、理解を示している。また、養老猛司は奄美を訪れた際、こう発言している。

 鹿児島県の中に世界遺産が2つと、司会者はおっしゃいました。しかしながら、これは人間が勝手にそう思ったので、屋久島と奄美の間にある生物の境は、これは東洋区、昔は古い言葉ですがいわゆる旧北区と言われた、まったく違う生物、地理的な領域です。したがって、別に2つあってちっともおかしくないんです。これは人間が奄美を鹿児島に入れたこと自体が、自然の方からいえばそもそもおかしいんです。先程述べた四国の自動車道路じゃないんですが、2つの遺産が存在しようと、鹿児島県のせいでも何でもないのです。歴史的な経緯で、どちらも鹿児島県に属しているにすぎないんですね。ある意味では無理やり入れたわけでしょう。(「奄美ニューズレター No.30 2007年3月号)

 こうした荒俣や養老の言葉からは、奄美の地理と歴史がどのように現れ出たらよいのということについて、励ましを受け取る。奄美はまだ何を語るのかという史実をめぐってゆっくりと歩んでいる。けれど一方、それをどう語るのかということもまた、ぼくには切実だ。


 

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大人しげで酒には前向きなさま

 成人式といっても現在の二十歳は幼い。本人たちだって心もとないに違いない。その場でもそう言ったのだけれど、成人を仮に経済と精神の自立と言ってみれば、三十歳くらいじゃないだろうか。たとえば、ぼくの場合は、それは三十六歳のとき、大学の奨学金を返済し終わったとき、かろうじて実感があったくらいだった。

 だからいまだって、振り返りざまに、ここまでくるのだよ的な物言いはできないと思った。とてもそんな余裕はないし、過去の栄光的な語り草をしてしまうようになったらおしまいだと思っている。過去の栄光もないわけなので、ぼくとしては、年齢的に少し先にいるものが、同じ前に進む者同士として、こうやっているという現在形を語ることでかろうじて何かを伝えられるかもしれない。むしろ、躓きを伝えたいと思った。

 写真は与論の成人式のものだ。ここに映っている彼らも、大人しげで酒には前向きなさまは、ああ、与論人(ゆんぬんちゅ)は変わらずにあるのが懐かしかった。

 彼らとともに、少しでも与論を元気づけられるようになれたらと思う。


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2010/01/09

「近代日本の地方統治と『島嶼』」3

 元老院でも島嶼だけでなく内地も例外とする議論は起きている。尾崎三良は、明治二一(一八八八)年一月の審議で、「島嶼」以外にも町村制の施行外地城を認める要発言している。「一府県中未開蒙昧ノ土地多ク有ルニモ拘ラス」知事の一存で「県下一律」い町村制を施行するなら、それは知事の裁量にのみ委ねた制度で、「本案ノ精神ヲ貫徹セシムルニ差支」あるとしている。

 ある真っ当さを持った主張なのだが、その根拠はやはり興味深い。

「京都近傍ハ自治ヲ行ハシム可キ所多キモ丹波辺ノ山奥二至リテハ到底行フヲ得ス又宮崎県下ノ如キモ宮崎高鍋美々津ノ辺にはハ固ヨリ行ハル可キモ高千穂、椎葉ナトノ如ク人類ト猿トヲ区別スルコト難キ程ノ地方ニハ連モ行ハル可シトモ思ハレス」(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 内地の僻地に該当するところを指して、「人類ト猿トヲ区別スルコト難キ」とまで言っているのである。「島嶼」だけを例外とすることに疑問を呈するといっても、そこには、進んだ地域と遅れた地域という序列意識があったのである。近代当初の政治家の認識がこうであたとすれば、奄美がどう見られたかも、推して知るべしである。

 近代民族国家は、土佐人、薩摩人の上位概念に日本人という同一性を形成するが、それは一方で、日本人としては「同じ」であるという観念を含む。それに対する激しい反発が一方で差別として表出され、それは、進み/遅れの序列化として構造化されたということではないだろうか。

 高江洲は、

このように、地方制度における「島嶼」という枠組みとは、「人情風俗」の違いを前提とし、施行/未施行という法制区分の恣意性を隠匿するために設定されたものといえる。

 と整理している。島嶼は、「遅れた地域」の象徴として固定化されたのである。それは一方的な烙印だった。

 「島嶼」は、町村制の未施行を通して「遅れた」地域という評価を受け取るのか、それとも、自治行政を遂行するために財政的な負担荷重の道を歩みかねないが町村制を施行するという選択肢の前に置かれることになった。だが、その選択についても、前述の通り「島嶼」側に与えられているわけではなかったのである。

 それにしても、「人類と猿」、ですか(苦笑)。



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2010/01/08

「近代日本の地方統治と『島嶼』」2

 高江洲は町村法の草案の時点から、「島嶼」は施行外地域であったことや、ある段階では内地のいわゆる「僻地」もその対象だったがすぐに削除されたことを明らかにしているのだが、そこにあった論理はこういうものだった。

それ(大森鍾一文書の『島喚ト地方制度』-引用者注)によると、「島嶼」は「風化ノ及フ古へヨリ一歩ヲ後ニシ人情風俗亦内地ト同カラス」という「島嶼」認識を示した後、「維新ノ后治化大二拡張シ旧慣ヲ産革シ画一ノ政ヲ旛カントスルニ及テ島陸ヲ併セテ之ヲ一律ノ下二置」いたけれど、その結果「新政却テ不便アルヲ聞クニ至レリ」という画一主義の行き詰まりが存在することを指摘している。画一主義が行き詰まった理由を、「島嶼ノ状態内地ト併馳スルコト能ハス…同一ノ政令ヲ行フ可カラサルハ情勢ノ当二然ルへキ所ナリ」と、「島嶼」の側に原因を帰する論理で説明している。(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 最初、「島陸」をあわせて「一律のもと」に置いたけれど、かえって不便であると聞くようになった。島嶼の状態を内地と合わせて馴らすことはできない。同一の政令を行うことができないのは当然である。

 一連の流れから高江洲は、ここに内地と一緒にすることはできないのは「島嶼」の側に原因があるという論理を抽出しているのだが、重要な視点だと思う。これは近代民族国家の理念はその初発から挫折したことを教えている。島嶼が例外になるのは島嶼に原因がある。しかしその理由は明示されないとすれば、島嶼は島嶼だから近代民族国家の理念からの例外になると言っていることになる。そう見なせば、ここにはある観念の志向性の印象がやってくる。

 近代民族国家はその後、その空間領域を膨張させていこうとするのだが、そのときそのイメージは酵母のように、ひとつづきに膨らんでいくものとしてイメージされていたのではないだろうか。すると、そのイメージにとって陸地が途絶える、あるいは次に大きな陸地が続かないのは矛盾と感じられたことを意味するのではないか。それだから、島嶼は島嶼であるという理由だけで「例外」とされても、それ以上突き詰められることはなかった。突き詰めるということは、近代民族国家理念の限界に直面することだからである。

 近代民族国家としての日本は無意識にひと続きの空間を願望していたとすれば、島嶼はその障害になる。もしかしたら、それは自らも実は島嶼であることを直視しえないための結果であったかもしれない。高江洲によれば島嶼はすべて例外であったわけではない。たとえば、瀬戸内海の島々や淡路島は例外地域としての島嶼には指定されないが、ここでの考え方に従えば、それらは陸と陸の間にある島であり、それはひとつづきの空間幻想を邪魔しない。しかし一方、隠岐は例外だが、佐渡島は例外ではない。また、対馬は例外だが五島列島は例外ではない。佐渡島も五島列島も内地に近いということかもしれないが、その根拠は一つひとつ確かめなければ、恣意性は免れない。しかしここにひとつづきの空間幻想という視点を導くと、それがひとつの根拠になっているとみなすことはできるかもしれない。

 こうして、その内在的な根拠が突き詰められないまま、島嶼は例外化される。島は島だから例外になった。しかしこのことは現在でも続いている認識である。島嶼は捨て石になりやすく、また経済的な劣勢に置かれても、あまり顧みられることはないという現状をもよく説明してくれるのだ。島は島だから例外である、ということだ。


Chihou

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2010/01/07

Twitter入門記事 by mizumaさん

 mizumaさんがツイッター入門記事を書いてくれています。

 ツイッター入門記事

 ご覧あれ。

 与論にいる人のツイッターが読みたいなあ。
 始めたら教えてくださいね。


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「近代日本の地方統治と『島嶼』」1

 弓削政己の「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」で高江洲昌哉の論考を知り読んでみたくなり、国会図書館にも足を運んだのだが、「島嶼地方制度成立に関する研究」しか見つけることができず全貌が分からなかった。ところが昨年の12月、「近代日本の地方統治と『島嶼』」が出版され、望みを叶えることができたのだ。

 ぼくはまだきちんと「近代日本の地方統治と『島嶼』」を読みこめた気がしないのだが、ぼくたちにとって切実なテーマを辿ってみたい。

 明治。

「鹿児島県下大島郡ノ中、徳之島鬼界島島根県下隠岐国ノ二島ノ如キハ内地ト同視スヘカラサル状況アルニ依り出張所ヲ置クヲ聴許」

 徳之島や喜界島、「隠岐の二島」のようなところは、「内地と同視すべからざる状況」があるからと出張所を置くことになり、その根拠を与えるために明治一三(一八八〇)年に郡区町村編制法が改定された際、第七条が追加される。

「凡ソ島嶼ハ府知事県令ヨリ内務卿二具状シ政府ノ裁可ヲ得テ其制ヲ異ニスルコトヲ得」

 高江洲によれば、ここで初めて、島嶼は「その制を異にする」ことが明文化された。
 そしてこれに対してすぐに、なぜ島嶼を例外的に扱うのか議論が起こる。当然ながら、内地にも「その制を異にする」のが必要なところがあるのではないか、というのだ。ここでぼくたちにとって興味深いのは、島嶼以外にも例外措置を設けるべきであるとする主張の論客が、渡辺千秋なのである。

 渡辺千秋。そう、奄美に独立経済を敷いたあの、鹿児島県令である。

「陸地ト雖も本条ノ如ク土地人情二相違スル処アレハ亦其制ヲ殊ニスルヲ得セシメント」

 陸地と雖も「土地人情に相違するところあ」る。

「日向ノ高千穂又ハ米良雄葉山那須ノ如キ」と具体的な地名を上げつつ、これらの土地は「人智ノ未開ハ勿論総テ其状態ヲ殊ニ」し、「数百年来連綿其僻地二安スル時ハ容易ニ之ヲ改ムへカラス是亦其制ヲ殊ニスへキノ一大理由」と主張している。

 高千穂、米良、椎葉、那須などを「僻地」として挙げているのだが、奄美のぼくたちにとって沈静剤になるのは、渡辺が奄美のみを特別視していたわけではないことが分かることである。言われてみれば当たり前なのだが、県の奄美に対する常の態度を思うと、言われなければ分からないことなので、これだけのことでも収穫を感じる。

 ところで渡辺の反対意見は少数の賛同にとどまり、例外を特定の島嶼に置く根拠は「内地と状況を異にする」という「漠然とした」ままになったという。


Chihou

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2010/01/06

シゴーの中棚

 与論の島唄に名高きシゴーの中棚への道のりへは、急斜面の道なき道を降りて行った。草を踏み足場を確かめ、ガジュマルの根茎を支えにしたりぶら下がったりしながら珊瑚の岩をつたい、やっと平らな場所にたどり着いたところにそれはあった。

 盛窪さんは最初、そこを通り過ぎ、そのもう少し先にそれらしきところを、ここだと思ったという。ところが、どうも歌詞に符号しない。少し戻った場所に、穴のように窪み天井の珊瑚岩に焚火の後のように焦げた個所があるのを見つけて、ここだと確信したという。

 沖縄島が正面に見え、唄の通り、伊平屋、伊是名の七離れが見える。恋人や友人と語らい歌うには最適な眺めだった。当日、もう夕刻で空も曇っていたが、晴れあがっていれば海の青が迫ってくるという。蘇鉄の間に見える沖縄島を見ながら、ぼくもそう思った。ぼくは昔の島の人のロマンや愉しみに触れた気がした。

 土地の人たちと話し合いながら辿りついた場所であり、やはり地元の人同士で検証する必要があるのだ、と盛窪さん。ぼくたちは唄う代わりに民俗談義。いちばん印象に残ったのは、もっと西の方にあるという人もいるが、中棚はいくつかあるだろうという複数性のことだった。

 コンクリートで階段をつくるという案もあったが、関心のある人だけに道を開く場所でいいという結論に落ち着いたという。そうなってよかった。シゴーの中棚は心のなかにあるのだ。

 ぼくたちが辿った急斜面は、着物の女性にはとても無理だ。むかしは下のほうに道があってそこから辿れるようになっていたという。そこから辿れば、歌詞にあるようにシゴーの中棚が浮き上がってみえるのに違いない。いまはそれがふさがれて、近道ではあるが危険な筋をぼくたちは辿ってきたのだった。

 写真は、シゴーの中棚からの眺め。沖縄島は分かると思うが、七離れが見えるだろうか。シゴーの中棚そのものは撮っていない。もちろん、それは心のなかにあるものだからである。

 ※「シゴーぬ中棚」

一 
シゴーぬ中棚や 打ちやがてぃどぅ見ゆる
 ヘンヤ  ヌガヤルヘン
うし遊でぃ うちやがいる シゴーぬ半田
 ウシヘンヨ  ヌガヤラヘン
 マタガリヘンヨ  ヌガヤルヘン


伊平屋ぬ七離 打ちやがてぃどぅ見ゆる
 ヘンヤ  ヌガヤルヘン
うし遊でぃ うちやがいる 私達が遊び
 ウシヘンヨ  ヌガヤラヘン
 マタガリヘンヨ  ヌガヤルヘン


シゴーぬ中棚や 我が通てぃあたん
 ヘンヤ  ヌガヤル  ヘン
うし我が通いぬ やしやぬ ノーダキ繁ち
 ウシヘンヨ  ヌガヤルヘン
 マタガリヘンヨ  ヌガヤルヘン

Sigo1Sigo2


Sigo3

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2010/01/05

「『400年』合同企画を終えて」

 12月27日の「群島レポート」(南海日日新聞)は難しかった。「歴史観の再構築」と題しているのだが、これは「歴史観」ということなら、再検討や更新、鍛錬などと言葉を続けたくなるし、「再構築」というなら「歴史観」というより「歴史像」のことだと思う。ぼくは奄美には歴史像はまだないと思うから、ここは「歴史観の鍛錬を」とか「歴史像の構築を」と受け取ってみる。

 2009年は薩摩藩(鹿児島藩)の奄美、琉球侵攻から400年。奄美にとって特別な一年だったといえる。徳之島でのシンポジウムに始まり、奄美内外で「400年」を考える催しが相次いだ。本紙も琉球新報(本社・那覇市)と「薩摩侵攻400年-未来への羅針盤」と題し、合同企画を立ち上げた。その中で奄美史を考える重要な指摘が幾つもあった。

 催しは、徳之島に先立ち、年始からの沖永良部島での展示や大島での慰霊もあったのだから、それを含めたほうがいいのではないか。

 ■地名伝承の誤り
 企画の中で「タブー視せずに取り上げたい」と考えていたのが知名町正名の地名伝承だ。伝承の元になったのが琉球入ノ記(薩摩船頭衆の記録)。そこには薩摩の軍勢が沖永良部島に上陸した際、島民が一戦にも及ばず降伏したことを取り上げ、「樺山大将が『馬鹿者共よ』と言った。以来、その地を馬鹿島尻というようになった-としているのだ。
 あろうことか「鹿児島外史」は徳之島の粟粥伝承に結びつけ、「粟粥で火傷させようとしたが、逆に薩摩の兵士を元気にさせた」と歪曲した。これを「奄美大島史」「大奄美史」も引用し、長く伝承されてきた。不名誉な地名伝承を記述した書籍が今も出回っている。

 ぼくもこの伝承を地名の由来とは別の意味で引用した書籍を出しているので言及したい。ぼくはやはり奄美が語られてきた文脈を知らないと思うのだが、これが「タブー視」されてきたということは、この伝承が沖永良部の人を傷つけてきたということだろうか。そう受け取ってみる。また、「あろうことか」とあるが、樺山のひと言に「徳之島の粟粥伝承」を結びつけたのは、歪曲というより尾ひれをつけたということである。

 これを覆したのが先田光演氏(えらぶ郷土研究会長)だった。先田氏は1998年、和泊町の唄者に出会った。東郷実正翁(故人)。実正翁は島役人が命をかけて和平交渉に臨んだ様子を伝える唄「アンマメグヮ」を披露したのだ。先田氏ははっとした。自身、地名伝承を引用していたからだ。そして「誤った伝承は正さなければならない」と決意したのだった。

 このことを書いた「唄が伝えた和睦交渉」が紙面に出たとき、ぼくはその意味、意図がうまくつかめず、ここにも書かなかったが、先田は何を覆したのだろう。詳しくあるという先田の「沖永良部島 知名町正名の名称」を見ていないので、「群島レポート」と「唄が伝えた和睦交渉」の記事を手掛かりにしたい。先田は何をどう覆したのか。

先田氏は前述の「且亦教之以耕圃之業」にも着目する。「島民がただ降伏しただけでなく、食料を提供しながら農耕技術の指導を依頼したか、あるいは島のあまりに貧しさに同情した兵士たちが収穫の上がるような農耕の仕方を教えたのであろう。いずれにしろ、双方に信頼関係があった」(「唄が伝えた和睦交渉」)

 不名誉な地名は鹿児島県になっても変わらず、一八九七(明治三十)年、当時の大島島司だった笹森儀助によってようやく改称した。笹森は「国の発展は農業経営の充実、振興なくしてはありえない」と農村振興運動に尽力した前田正名翁の名前を付与したのだった。(「唄が伝えた和睦交渉」)

 先田氏は言う。「この下りを『奄美史談』が『一説によると』と引用し、これが、『奄美大島史』『大奄美史』につながっていった。小さなうわさが次第に内容を膨らませて、ついには全く事実に反した大きなうそになっていく様相と同じである」。改称してもなお、誤った地名伝承が流布し続けたことになる。(「唄が伝えた和睦交渉」)

 これをもとにすると、「樺山大将が『馬鹿者共よ』と言った」という記述は史実ではなく、しかもそこに徳之島の伝承を沖永良部に結び付いて嘘が膨らんだ。そう言っているように見える。

 しかし、ここで確からしく言えるのは、粟粥のエピソードは徳之島のもので沖永良部島のものではないということだけで、それ以外はある伝承に対して別の伝承を対置させたという意味しか持てないのではないだろうか。樺山の台詞は言ったかどうか分からないものだとしても、侵略過程の薩摩軍の狼藉を見ても、「兵士」が「同情」し、「双方に信頼関係があった」という理解も相当に無理があると思える。

 ぼくはむしろ、ここに馬鹿尻伝承にまつわる精神的外傷の深さを見る思いがするのだが、「バー」は「粟のできる畑作地帯」(「唄が伝えた和睦交渉」)ということが分かっているのなら、名誉回復すべきなのは、「アンマメグヮ」の島唄を史実と見なすことではなく、「バージリ」という地名そのものであり、そうであるなら「正名」ではなく「バージリ」という地名を復活させようという声になってもいいのだと思える。

 ぼくにはここで重要なのは、粟粥の伝承が徳之島のものであるとして退けること自体ではなく、その退け方だと思う。先田の感じる「不名誉」のなかには、「粟粥で火傷させようとした」ことにも向けられているように思われるのだが、それが迷妄さを感じてのことなら、それを徳之島のものであるとするのは、徳之島をどう見るのかという別の問題には答えていないことになる。それに「粟粥」エピソードを迷妄とみなすのは、科学的迷妄というもので、当時は、徳之島だけでなく沖永良部も同じ信仰体系のなかにあったのは言うまでもないことだ。

 先田の真意をおもんぱかると、沖永良部は、「命をかけた行為があったのであり迷妄でもなかった」と言いたいように聞こえるのだが、それはぼくには昇曙夢の『大奄美史』でのひどい書きっぷりと大同小異にしか思えない。『奄美自立論』と同じことを書くことになるが、先田もかばうべきものをかばえていないのではなだろうか。

 ■謝名親方の評価
 薩摩が侵攻してきた際、琉球側は徹底抗戦はせず講和した。琉球の最高責任者は謝名親方だった。名瀬市誌に次のような記述がある。「中央における新しい『国民国家』成立の時勢に無知で、かつ島津氏に引き回されるだけで、自ら中央政権とのルートをつける才覚も持ちあわせない琉球国首脳の外交的失態や、視野の狭さに助けられつつ、事態は一路、慶長14年(1609年)へと傾斜でいくのである。謝名は豪毅ではあるが、明国の物理的な大きさに幻惑されている政治家である」。

 琉球は独立国であり、「中央における国民国家の成立」はあくまで日本のこと。侵攻は幕府や薩摩藩の意図で進められたのであり、「外交的失態」とは違う。早稲田大学客員研究員の上里隆氏は「琉球が早々と講和の道を選んだのは薩摩の最大の目的が琉球領の一部(奄美)の割譲であるとの情報を入手していたようだ。そのため、徹底抗戦する意思はなかったのではないだろうか」と指摘した。

 当時、東アジアは基本的に「文官」の国であり、戦国日本のような「武」の国ではなかった。薩摩軍と徹底抗戦すれば国が減亡しかねない。講和を選択するのも理にかなったことだ。謝名親方は明に援軍を要請しようと画策し、失敗。藩に忠誠を誓った起請文(誓約書)の提出を拒み、斬首される。謝名は後世の史料で琉球に不幸をもたらした人物として描かれるが、実は王国の独立を守ろうと力を尽くした人だった。

 ぼくも「名瀬市誌」の謝名評価は不当なものだと感じる。しかしそれはそれとして、ここでの文脈に沿って、上里のいうように、「琉球が早々と講和の道を選んだのは薩摩の最大の目的が琉球領の一部(奄美)の割譲であるとの情報を入手していた」のが徹底抗戦をしなかった理由だとしたら、奄美は琉球の盾となったということもまた、謝名の評価とともに、取り上げるべきことではないかと思う。また、上里隆は上里隆史である。

 ■キーワードの一つ「琉球国之内」
 キーワードの一つが薩摩藩の「琉球国之内」政策と直接支配。奄美の島々は薩摩藩の直轄領でありながら、対外的には「琉球」とした。琉球を介した中国貿易の利益を維持するためだ。奄美の人々は髪型や風体を大和風にはしないという規制を受ける一方、琉球に中国の冊封使が来たときは大量の貢物を送った。幕末にはオランダとの密貿易の拠点にする構想もあり、直接支配と間接支配を巧妙に使い分ける手法も浮き彫りになった。

 たしかに「琉球国之内」はキーワードだが、ぼくなら、「琉球を離れ吾に内附せしは内證のこと」、特に「内證のこと」をキーワードとして挙げるだろう。薩摩が直轄領としながら幕府には内密にしたこと、それこそが奄美的命運の核心にあるものだと考えるからである。

 奄美の人々は、ともすれば近現代の差別体験を基に歴史を語りがちだが、「搾取」や「圧政」だけではくくれない近世奄美を考える多くの素材、問題を投げ掛けてくれた。鹿児島、沖縄を含めた歴史観の再構築が求められている。

 ぼくたちの過去に対する観方は、近代的観点を投影した倒錯であるというのは、80年代のポストモダンの成果だと思うが、その口吻は奄美でもちょっとした流行りになっているように見える。ここでもぼくは奄美的語りの文脈を踏まえておらず、「奄美の人々は、ともすれば近現代の差別体験を基に歴史を語りがち」という傾向をよく知らないのだが、近世像の実態に肉薄したいというより、そうした傾向への疲労感、忌避感があって、傾向自体を退けたいようにも見える。しかしぼくはそのことより、そうした新しい動きにも関わらず、新旧ともにここまで煩わされている対象への批判がないのは共通していることに驚かざるを得ない。そこに、奄美の精神的外傷の根深さを見る思うがするのである。


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2010/01/04

琉球弧でやりたい

 世界中の人が同時に歌う「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」。なんて素敵な企画。
 こういうの、琉球弧でやりたい。シマウタで。

 と、思いませんか?

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コミュニケーション・アイランドへ

 成人式で提案したひとつは、コミュニケーション・アイランドへ、ということだった。

 与論は昨年12月に光ファイバーが開通している。これは、情報発信基盤というより、コミュニケーション基盤が強化されたということだ。企業誘致とはほとんど直接にはつながらない。むしろ起業支援である。

 ぼくがかくあればと思うのは、与論にかかわる人がWebサイトやメール、ブログ、ツイッターを使ってコミュニケーションすること。それだけである。それは、島の人の人懐っこさを生かせるし、何よりいつも不利に置かれる資金をほぼ必要としない。自分たちの力で、自分たちが来てほしいと思う人たちに来てもらえる手段なのだ。「木の葉みたいなわが与論」で、土地も人も限られているから、コミュニケーションを巨大化させるのである。コミュニケーションは理解を生む。理解は交流を生む。島に来てくれる。

 特に、役場、議員、民宿、ホテルの人はやってほしいと思う。農家の方も、コミュニケーションは購買を生む。直接販売を志向するなら、コミュニケーションは産物を物語化してくれる。

 情報発信だと思うから書くことが無いような気がしてくる。でも、おしゃべりだと思えば、日ごろやっているし、与論捧奉であれだけ饒舌さを鍛えているのだから、お手の物だと思う。

 やってほしいなあ、と思うのだ。


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2010/01/03

ゆんぬんちゅになれた気が

 大事なことを言い忘れてた。

 今回、お世話になった島のみなさん。みっしーく、とうとぅがなし。うかぎさまん、ゆんぬんちゅになれた気がしました。


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一握のフバマの砂

 那覇空港で東京行きの便を待っている。月曜を控えた夕刻の便を前に待ち合い所は人でいっぱいだ。自分がそうだからか、みんなが疲労と虚脱感と寂しさを抱えているようにみえる。

 今回の帰島は、会うこと叶わなかった人も場所もあったが、大切な人たちと話すことができた。

 濃密な人と人のつながり、停滞とスポイル、子どもの不在、命脈を保つ民俗とさびれる街、にもかかわらず進む道路工事。独自のような縮図のような、島の表情に直面した。いまは感じるべきこと考えるべきことが、過飽和のように身体からあふれていって言葉にならない。少し時間がたてば、深呼吸した分は吐き出すことができるだろう。

 それにしても、今回も、島を離れるのはきつい。どうして年齢の積み重ねは緩和剤になってくれないのだろう。やれやれ、だ。

 慰みに、フバマの砂を一握り、持ってきた。砂よ、助けてくださいな(苦笑)。

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2010/01/02

成人式・シゴーの中棚・成人祝い

 与論島の成人式に出席した。二十数年前は出られなかったので、遅い成人式に出させてもらった気分だった。おまけに、少しおしゃべりもさせてもらった。いつもならその内容を備忘録のように挙げるところだけれど、与論のことはあまりに身近なことで、何かとても気恥ずかしいので、聞いてくれた方たちの胸の内に評価も記憶も託そうと思う。ぼくとしては、郷里で話すのは初めてのことで、ある意味で願いが叶ったことなのに、叶うことの怖れのようなへんてこりんな気持ちだった。

 会場では偶然のように三十五年ぶりに同級生に会うことができた。でもそれは偶然ではなく、なんと息子が二十歳になったということだった。同級生の子が二十歳になるのはもう少し先のことと漠然と思っていたので、これには驚いたが、そのおかげでこうして再会できたことを思うと、おしゃべりする機会をいただいてよかったとやっと思えた。祝いの場に呼んでもらって、ひとしきりむぬがったい(物語り)をさせてもらった。ぱーぱーとは、戦中のこと、昼は壕に眠り、夜は兼母、いまのプリシア・リゾート近くに草を刈りに行き、そこで艦砲射撃や空襲を受けたこと、沖縄が夜も燃え上がってみえたこと、敗戦のあとは米軍の処置が分からず不安で、ご馳走である豚を食べていたことなどを教えてもらった。与論の子はみんなに見守られて育っていくのを知った。

 実は、式と祝いのあいだは、与論のシマウタで存在はよく知られているものの、その場所は謎になっていたのを、最近つきとめた盛窪さんに案内してもらった。道無き急斜面をガジュマルの根茎などを頼りに降りていった場所にそれはあった。与論のシマウタに名高い、シゴーの中棚、である。そこで沖縄島を臨みながらの盛窪さんとの民俗談義が至福、しふくだった。シゴーの中棚のことは少し詳しく書いてみたい。ゆんぬデイズを満喫したあとに。


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2010/01/01

フバマにて

 活字にしようとした途端に言葉は溶解していくから、逆らうのは無駄な抵抗というものだけれど、幼いころに親しんだ浜辺に来ている。

 ぱーぱー(祖母)の家は近代的?に改築され、守護神だったガジュマルも枯れ、無残な残骸のよな姿をさ晒しているけれど、縁側に腰掛けてみると、ゴーという潮の音が聞こえ、ジャングルのような樹木たちは半面を覆い、鳥のさえずりを聞かせてくれる。少なくとも、その面だけでも、かつての雰囲気はまだそのままに残っていて、すんなり少年期に帰っていけるようだ。

 庭に残ったくにぶ(みかん)の見を採って頬張ると、すっぱさが懐かしく、何も変わっていないような気分になれる。家を囲む石垣は、いつのものだろう。この地に住居を構えようとした先祖の労力を偲ばせるのだが、そのことに初めて想いを馳せた気がした。ぼくはここで、この場と祖母の振る舞いから、人間が動植物や珊瑚岩などの無機物とも言葉を交わせることをおぼろげに学んだし、自分はできないにしても、その気配を感じることができた。それが、ぼくの感じる南島であり琉球である。それに比べれば、1609年のことも古琉球のことも、ずいぶん新しい、最近の出来事なのだ。.

 この気配を感じられる限り、与論は与論であり続けるだろう。

 隣のうば(おばさん)は、いつも座っていた機織りにはもうおらず、部屋の奥に座ってらした。いつものように声をかけて迎えてくれ、みかんとキャンディとドリンクをくれた。こうして会って話しができることが、どれだけかけがえがないか、そのことにどうしていままで気づくことができなかったのだろうと思う。とにかく元気でいてほしい。

 潮の香りはすごい。あっという間に、少年期の自分に戻してくれる。時間なんて、ないのだ。
 


Kc380201

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島の初日の出

 7時過ぎ、庭先から初日の出を拝んだ。

 あいにく雲の向こうだったけれど、雲の上に輝きだしたのを、初日の出とみなして。まばゆい光。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 みなさんにとっても幸多い年でありますように。


 Kc380196

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