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2010/01/13

「近代日本の地方統治と『島嶼』」4

 さて、奄美、である。高江洲は、これまでの研究について、

これまでの奄美近代史に関する研究のうち、地方行政に関しては、変遷の流れを概観するものが多く、構造的分析に乏しかった。また、経済に関しては、地方税の使途と税率を島嶼と「内地」とで区分する地方税分離政策いわゆる独立経済の評価をめぐって研究がなされてきた。この独立経済の研究は活発であるが、藩制時代の奄美差別の延長線上に位置付けてきたように負の側面から理解されてきた。

 と書く。これはぼくのことだが、「独立経済の研究は活発」なのではなく立脚すべき史実が貧弱なので、議論が苛立ったものになりやすい、と補足したい。

 また、高江洲は先行研究を次のように要約している。

(前略)奄美諸島は、一回目の改正の時、砂糖貢納を認めるか、金納を認めるかで、大蔵省と鹿児島県とで対立があった。そうしたなか、地租改正が着手され、近世の甘煮による貢納が現金納へと変更されることになった。だが、島民をとりまく困窮や搾取といった問題は解決されることがなかった。つまり、「封建的税制」が廃止されたにもかかわらず、引き続き島民は困窮な生活を強いられることになった。薩摩藩のもとでの圧政的な甘煮栽培政策による租税負担の過重は、明治になっても改正されることはなかった。そのため、租税問題に関して言えば、近世と近代で断絶する。となく、連続した「奄美差別」の史観が構築され、通説的な語りとなっている。

 これは、ぼくなども漠然と持っている認識と変わらない。ここに高江洲が加えるのは次のようなことだ。
 明治七(一八七四)年、鹿児島県令大山綱良から大隈大蔵卿宛てに出された「大島外四島石代金納再願」という石代金納の再願を見ると、それは、

「大島外四島之人民」が「困窮二差迫り現糖上納難渋」になったため、明治六年に納入方法を改め「石代金納被仰付度上申」したところ、それが認められ、明治七年度から「石代金納二御採用相成」ることになった。このことは、「島民共蒙御恩択候期二至り難有次第」ではあったが、明治六年に台風の被害を被り「黍作不宜」の状態になったため、前倒しで前年度分(明治六年度分)から石代金納を認めてくれ(「近代日本の地方統治と『島嶼』」

 というものだった。大島の外四島は、困窮で砂糖の上納が難しくなったので、明治六年に納入方法を改めて金納を上申したところそれが認められ、明治七年度からそうなった。このことを島民共はありがたく思ったが、明治六年に台風の被害があり、砂糖きびは不作だったので、金納を前年度分から認めてほしいとお願いした。

 そういうことだと思う。これは別段、不都合もなかったので認められた。
 ところが、「砂糖販売による現金収入と納税時期」にはズレがあり、明治八年に鹿児島県令は「貢納期延之願」、「貢納期延期上申」と二度にわたって願いを出し、要求を聞き届けられた。

 以上の議論をまとめると、まずはじめに地租改正による納税方法(石代金納)についての議論があった。しかし、金納になったとしても問題は解決されずに、現金収入を得る時期と納税時期のズレという新たな問題に直面することになったのである。

 そこで高江洲が言うのは次のように言う。

 このように一連の経緯を押さえると、島民の困窮や滞納問題に関する従来の理解、すなわち、(中略)島民の窮乏や滞納の原因は商社にあるとする理解は、修正する必要が出てくる。実際の窮乏や滞納は、自然災害や換金時期のずれなど複合的な要因によって起きていたのである。

 なるほどそういうことがあたのか、とぼくたちは思う。けれどどこか釈然としないものが残る。
 たとえば、高江洲は、石代金納が支持された理由として、

 石代金納が支持された理由は、石代金納ならば、「幾部分島民之利益ニモ相成風早之災挟ヲ償候儀モ可立至」というように、島民にも現金が流通するであろうという期待からであった。その反対に、現糖上納ならば「島中ニ……過分ノ不足二及ヒ迫送ノ借財二相成救助之詮立兼候」と、島民が現金を得る機会を奪うものとして理解されていたからである。

 というように、「石代金納」は奄美の島民に現金がもたらされるからと期待されたからだという。ここでぼくは、この文章を誰が書いたか、つまり、県令が書いたのか政府が書いたのか気になるのだが、注をみると、「鹿児島県令の再伺文より引用」とあるので、鹿児島県令のものだということが分かる。しかし、このたぶん大山県令の言葉は真意だろうか。

 というのも大山県令は、大島商社設置について、奄美の砂糖は鹿児島県の「会計の元根」であるとして、士族救済を念頭に専売制の維持を大蔵省に請願している。「石代金納」も、そのほうが黒糖を販売する権利を持つことで県が利益を得ることができるからそうしたものである。だから、その延長で考えると、奄美に現金を流通させることを期待していたという理解が頷けなくなってくる。

 ぼくは高江洲の論考を偽として退けたいわけではない。素直に説得されたい気分だってある。しかし、「石代金納」による士族救済の狙いを背景に置くと、奄美が可能な納税方法を選ぶも災害によって難航したという粗筋に疑問が残ったままなのだ。

 ぼくはここは、「実際の窮乏や滞納は、自然災害や換金時期のずれなど複合的な要因によって起きていたのである」というのではなく、実際の窮乏や滞納は、自然災害や換金時期のずれなど複合的な要因によって「も」起きていたのである、と一文字加えておきたくなる。


 
 

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コメント

ここの掲示板でも与論の将来について語られています
一度見てみてください

http://snow.advenbbs.net/bbs/yoron.htm

投稿: 与論の将来 | 2010/01/15 20:25

与論の将来さま

教えてくださりありがとうございます。
与論について、熱い議論がされているので驚きました。
こういう対話をもっとしたいです。

投稿: 喜山 | 2010/01/16 12:26

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