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2010/01/10

1Q84と160Q

 村上春樹の『1Q84』は、主人公たちが1984年からタイムスリップして別の世界に入ってしまう物語だ。そこには月が二つある。それはまるで別の地球に見えるのだけれど、でも読んで感じるのは、その月が二つあるような世界のほうが今、ぼくたちがいる場所ではないかということだ。月が相似形のもうひとつの月を持つように、自分がここにいるだけでなく、それはブログやツイッターとしても浮遊していたり、善と悪がバランスをとりあったりしているような、うまく言えないけれど、頭と心と身体が離れしまったような世界だ。すると、『1Q84』は、1984年とは別の1Q84年の世界に入り込んだ物語ではなく、いつの間にか、1984的世界からいまは1Q84的世界に変わってしまっていることにリアリティを持った作品なのではないか。

 そう考えると、『奄美自立論 四百年の失語を越えて』は、いかにも1984年的世界の言葉だと思う。もっといえば60年代的文体だ。ぼくは既存の文脈に回収されないようにと心がけたことはあるけれど、1Q84的世界にはなかなか届いていない。だから、1984的世界を知っている人には、強く届くところがあるけれど、1Q84年的世界には響かない気がする。なぜ、このようなことが主題になるのかすら分からないものとして存在しているのかもしれない。だから、1Q84年的世界のなかで、1984年的世界のことを伝えるにはどうしたらいいのだろうか。そんな疑問がまとわりついてくるのだ。

 逆の言い方もできる。奄美は、1609年以降、日本史のなかに強引に組み込まれていくことになるが、そのどこかに場所を占めることなく、言ってみれば160Q年的世界に入り込んでしまう。奄美だけタイムスリップをする。それ以降、1609年から時を刻んでいる世界とは別のところにいる。接点を持つことはあっても、たとえば日本復帰の時期がズレたりその受け止められ方もズレたりしたままだ。いや、160Q的世界にいるから、復帰も日本史のそれとは別の位相に存在している。

 でも、2009年までには、200Q年ではなく2009年として受け止める感性も育ってきている。そうすると、160Q年的世界でズレたままでいるのは疲れた。もうふつうの2009年的世界に合流しよう、それでいいではないかという感じ方も出てくる。タイムスリップしたわけではなっかったと見なそうではないか、と。それは気分的には分かるものだ。でも、160Q年的世界がまだ存在じているのも確かなのだ。この接近からは、200Q年的世界にいる者が、2009年的世界に言葉を届かせるにはどうしたらいいのか。そんな課題でもある。

◇◆◇

 遠田潤子の『月桃夜』の評のなかで、作家の荒俣宏は、奄美のことを、

これまでまともに取り上げられなかった奄美大島の歴史と人倫を興味ぶかく語りつくす。奄美の歴史は、運命の隙間を泳ぎ渡るしたたかさを持っていた沖縄と異なり、一方的な屈従の連続だった。(第二十一回 日本ファンタジーノベル大賞

 と、理解を示している。また、養老猛司は奄美を訪れた際、こう発言している。

 鹿児島県の中に世界遺産が2つと、司会者はおっしゃいました。しかしながら、これは人間が勝手にそう思ったので、屋久島と奄美の間にある生物の境は、これは東洋区、昔は古い言葉ですがいわゆる旧北区と言われた、まったく違う生物、地理的な領域です。したがって、別に2つあってちっともおかしくないんです。これは人間が奄美を鹿児島に入れたこと自体が、自然の方からいえばそもそもおかしいんです。先程述べた四国の自動車道路じゃないんですが、2つの遺産が存在しようと、鹿児島県のせいでも何でもないのです。歴史的な経緯で、どちらも鹿児島県に属しているにすぎないんですね。ある意味では無理やり入れたわけでしょう。(「奄美ニューズレター No.30 2007年3月号)

 こうした荒俣や養老の言葉からは、奄美の地理と歴史がどのように現れ出たらよいのということについて、励ましを受け取る。奄美はまだ何を語るのかという史実をめぐってゆっくりと歩んでいる。けれど一方、それをどう語るのかということもまた、ぼくには切実だ。


 

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