「復帰の功績に思い、56年記念の集い/奄美」
昨日は、奄美が日本復帰した日でもあった。
奄美群島が日本に復帰して56年目の25日、奄美市名瀬で記念の集いがあった。参加者約350人は、復帰運動の先頭に立った詩人・泉芳朗さん(故人)の胸像が建つおがみ山広場で「日本復帰の歌」を歌い、先人たちの功績に思いをはせた。
朝山毅・奄美市長は「祖国復帰は群島民が一丸となってなし得た世界に誇るべき大衆運動だった。先人の偉業を語り継いでいくことは私たちの責務でもあり誇りだ」とあいさつ。続いて泉さんが復帰を訴えた詩「断食悲願」を小学生が朗読した。(朝日新聞)
12月25日はあくまでクリスマスの日だった。与論にいるときもそうだった。その日を復帰の日として何か行事に参加した覚えもそういう日なのだと説明を受けた記憶もなく、後年、知識として知った。ぼくは「日本復帰の歌」を歌えない。意志ではなく知らない。ぼくの父と母は、復帰請願のさなかを名瀬で学生として過ごしているので決して無縁なことでもない。にもかかわらずそうであることに、ぼくは奄美の失語の類型のひとつを見てきた。これを与論につなげていえば、与論にとっては「世界に誇るべき大衆運動」、「先人の偉業」という感覚は遠いのだと思う。
北も南も巨大で声を挙げることも声を求められることもない与論島は、「木の葉みたいなわが与論」よろしく波に揺れるしかない。たしかに島民は復帰請願に署名したし青年団は合流して奔走したけれど、沖縄と離れる不安も感じていたはずだ。こういえば、先人は俺たちが日本にしてやったぐらいのことは思うかもしれない。けれど、揺れるしかない島の目からは、北の奄美の知識人の日本人に対する焦慮の深さを見る想いもするのだ。
また、これは奄美のニュースとして伝わるわけだが、「奄美」は大島のことを想起する人も多いが、奄美全体の意味も持つので、大島のことが奄美全体を意味してしまうように、奄美全体がそうであるように思われてしまうのだろう。それは島外者の認識の誤差の範囲ならよくあることだけれど、大島のことが奄美のことという粗雑さのもとにもなっているのだと思う。
島を一つひとつ、細やかに見ていく必要があると思うものだ。
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