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2009/12/29

薩摩の琉球侵略400年を捉える 3

 『奄美自立論』を出版することができて、ぼくは400年という年に対して、すべきことはしたつもりでいた。しかしその縁からか、6月には鹿児島の「奄美を語る会」、7月には東京外語大学で行われたカルチュラル・タイフーンで話す機会があり、それぞれ、「奄美にとって1609以後の核心とは何か」「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」というテーマとした。カルチュラル・タイフーンでは「奄美にとってこの400年は何だったのか?」というお題だったので、この400年は、奄美が存在しないかのような存在と化した歳月であると応えた。

 しかしそれだけでは終わらなかった。まろうど社の大橋さんに何かやりませんか?と促され、また、一年が始まり各地で行われるシンポジウムを追うと、歴史家による歴史解釈が主であるのが分かり、歴史家ではない者はどうこれを受け止めていけばいいのだろうかと考え始め、つい、動いてしまった。

 ぼくの言葉でいえば二重の疎外の克服は共通の課題だが、疎外の態様はさまざまな姿をもって現れる。だから克服の方法は無数にあるはずだ。するとぼくはぼくにとってもっとも切実なことを行うしかない。与論島という位置は、沖縄島と与論島の間に惹かれた境界として、400年の傷跡をいつもその視野に収めることを意味する。そうであるなら、ぼくにとって切実なのは、「奄美と沖縄をつなぐ」ことだ。

 しかしこのテーマが切実なのは、与論かせいぜい沖永良部の人までであって、小人数にとどまる。だから、小さなスペースで車座をなして静かに語り合うような場面を想定していた。けれど、シーサーズの持田明美という共同企画者を得たことで事態は一変し、豪華な顔ぶれの人たちとシマウタを交えたイベントにすることができた。イベントにいたるまでは、自分にとって切実なものに過ぎないことで大勢の人を巻き込んでしまったという囚われがきつかったが、蓋を開けてみれば、二百数十名の方々に来てもらい、一緒に語り、唄い、踊る場を共有することができた。それは望み以上の不思議な体験だった。

 思いなおしたことがひとつある。ぼくは、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントを継続していくとしたら、さまざまなテーマでやればよいが、シマウタはそのひとつだと思っていた。次回やるときはシマウタではないかもしれない、と。けれど終わってみると、シマウタはひとつのジャンルではなく、琉球弧に共通する普遍的な表現の形だということだ。それはぼくには発見だった。

 そしてこれは偶然だが、11月14日に行った「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの一週間後の21日に、「沖縄・鹿児島連携交流事業」が奄美大島で開催され、沖縄県と鹿児島県の知事が「交流宣言」を行った。さらに翌週の28日には鹿児島の山川で「琉球・山川港交流400周年事業」が開催された。二つの事業は、それぞれには無関係だろうが、二つの場所と知事、副知事の握手という流れは政治的な意味を帯びざるを得ない。鹿児島の政治意思は、薩摩の琉球侵略以降の歴史を、沖縄との間とつながりをつくり奄美を封印したままに置こうとしていることは明白になった。それが県としても鹿児島の回答なのだ。聞けばこの事業は、沖縄県からの呼びかけで始まっている。ということはそれが無ければ、県としての鹿児島は動くつもりもなかったということだろう。黙殺のつもりが促されて挙に及んだということだ。ぼくはその回答を拒む者だ。

 ぼくは当初、年末近くに奄美にとって重たいことをなそうとしているのに、語り、唄い、踊るのを主眼にした「奄美と沖縄をつなぐ」イベントはあまりに呑気だったのではないだろうか、と内省しかけた。しかし、この400年を克服するのに、誰が誰と交流すべきか、交流の形とはどうあるべきなのか、そう考えれば、どちらが交流の名に値するか、それは明白ではないか。それは誇りに思ってもいいはずだと思いなおした。

 この一年は柄になく状況に対峙してきたが、その継続のなかで、秋、県としての鹿児島の所業の意味を捉えることができたと思っている。


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