差異の異議申し立てあるいは思考譲渡
「系図差し出しは島役人の身分保全のため」という弓削政己の報告の衝撃が去らない。奄美はいままでいったい何をやってきたのだろう。
ぼくの場所からはこの報告の詳細を知ることはできない。知る前に何ごとも断定的に言うことはできないだろう。しかし、弓削の史実に対する常の誠実さからこれを現段階で、妥当なものとするなら、ぼくたちはこれをどう受け止めることができるだろう。
「奄美は琉球ではない」という規定が露わになった1623年の「大島置目の条々」で、島人は身分差なく百姓という視線は内包されていた。しかし、1728年の「大島御規模帳」では、それは「御蔵入りに成り候ては、皆百姓にて候」と明確に強調されることになる。そこで再度、強調されるものの、その前の1695年には、「皆百姓」であることに対する異議申し立てがあったことになる。これは、「奄美は琉球ではない。大和でもない」という二重の疎外が、奄美全体を同一化して見なすことに対する、琉球侵略以前の差異を根拠にした異議申し立てであっただろう。その意味では、政治的に琉球であったときの差異を、薩摩内において復活させる意味を持つものだった。
しかし、琉球から薩摩へ、上層を統べる者は誰であれ構わないというなりふり構わぬ挙措のなかに、思考は収奪されたのではなく、譲渡したものだという実像が浮かび上がってこないだろうか。これがその後、島役人だけが富裕になり膨張する背景に当たるものだ。
これは、島役人の末裔が、個人の煩悶を歴史と解するような特権的な思考形態に陥ったり、鹿児島の教科書に黒糖収奪について、ともに明治維新を築いたという記述を求める能天気さとなって現れるように、現在も去らない生々しさを持っている。
これらは直観的な記述に過ぎないが、なにごとか言わずには済まなかった。奄美は自らをえぐりださなければならない。
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