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2009/12/31

島の大晦日

 着くなり植田さんと、与論のネット事業談義でしたが、充実の4時間でした。かくありたし。

 みなさん、今年はありがとうございました。
 来年もよろしくお願いします。

 与論島で大晦日を過ごせて、このうえないです。

 11時近く、空を見上げればほぼ満ちた月。風に雲が流れて動く月。

 「ゆふがた、空の下で、身一點に感じられれば、萬事に於いて文句はないのだ」(中原中也)。



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薩摩の琉球侵略400年を捉える 5

 こうしてぼくは初発の問いに向き合える。奄美の地理と歴史は現出しただろうか。

 折りしも奄美にとって、2009年は皆既日食。しかし、日食の後姿を現すのは太陽(てぃだ)だけでなく、奄美の地理と歴史も姿を現してほしい。(「薩摩と琉球との四百年の歴史を踏まえて明日の奄美づくりを考える『奄美自立論』」

 これが、ぼくが今年、願ってきたことだった。皆既日食はあいにくの天気だったが、ドラッグと犯罪のかかわりから奄美大島は脚光を浴びることになった。大島の人にとっては迷惑だったかもしれないが、ぼくには既視感を覚えるところがあった。与論島がかつて日本の最南端と呼ばれた時期、与論は確かに、大和の吹き溜まりであり受け皿になっていた。そこで与論島は彼らにとってのアジールだったが、奄美大島がそのイメージを持っていることを一連の出来事は告げていた。それが沖縄ではなかったことは、あるシグナルを放っていると思う。

 奄美の地理と歴史は現出しただろうか。その直接的な成果に見えるのは、奄美市の教育委員会が「奄美郷土読本(歴史編)」(「薩摩侵攻400年にあたっての児童・生徒用副読本の必要性について」)の作成をスケジュール化したことだ。これは現実的で確かな一歩だと思える。奄美の、奄美の人による、奄美のための副読本になってほしい。

 その余はといえば、一連のシンポジウムを通じて、沖縄は全体では低関心ながらも、一定の人々に、鹿児島は心ある個人に、本土は心ある個人とメディア関係者にとって、奄美は現出したのではないだろうか。その意味では小さな一歩を記したとも言えるし、日本の本格的な関心を喚起することはできなかったとも言える。しかし、発語の気配があったのは確かだと思える。

 ただ、残念ながら県としての鹿児島は、「沖縄・鹿児島連携交流事業」によって奄美を封印したまま400年の回収を図ろうとした。ではいったい鹿児島の市民はどう受け止めているだろう。それはぼくには分からない。従来、「苦労したのは鹿児島も同じよ」というところにとどまってきたと思うが、現在もそれは変わらないのではないだろうか。一方、奄美の人から本を出して何が変わった?何も変わらないなら出す意味はない。島に住まないのに言うなという批判の声も頂戴している。ぼくはこの声を好意的なものとして受け止めているけれど、こうした声すら鹿児島からは無かった。対話はまだまだこれからだと思う。

 今年、放たれたなかで最良のひとつだと思えるものに、弓削の言葉がある。

 奄美の歴史は、広範囲で深いので、個人的力量を高めることを前提として、疑問は疑問としつつ、いかに情報を共有するかが今後の鍵。一人で背負わないで、みんなが集まって勉強できるような状況が望ましいと思いますね。最近の岩多雅朗さんの地図の研究で見られるように。直裁、極端にいえば、奄美では「変な意味」の権威者はいらないと思っています。沖縄・東京・関西でも、新たにはっとするような愛着を持って奄美研究に取り掛かっている若い方々もおられます。内部だけで物事を考えてはいけない時代だと思います。また、図書館が史料を広く集める必要があります。(弓削政己「奄美の歴史を見つめ直す」『Horizon vol.30』)

 この、「奄美では「変な意味」の権威者はいらない」という言葉はとても奄美的だし、奄美の美質を捉えたものだと思う。そうあってこその奄美だ。すると、昨日ぼくは大島のリーダーシップ沈下と書いたけれど、それはいいことなのかもしれない。一方で、大島は唄者を排出し、音楽文化の華を百花繚乱に咲かせつつある、そうした都市的なフェーズに大島、とくに名瀬は入ったということかもしれない。

 むろん、それは二重の疎外の克服の一端だが、すべてではない。奄美は奄美だ。これまでそれは大島の台詞だった気がするが、その懐を徳之島も持ちつつあるかもしれない。400年のイベントの流れをみると、大島は大和化として表層が現れ、南の沖永良部、与論は琉球化として表現されてきるのかもしれない。奄美は島一つひとつの表情が違う。しかしこの違いは、二重の疎外とそれを解決しようとする現れの各様であり、二重の疎外を困難としていることについては、依然として共同体なのである。それをどう克服してゆくのか。そのテーマはこれからも続く。



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2009/12/30

薩摩の琉球侵略400年を捉える 4

 豊見山和行の作表の助けを借りて把握した限りで言うと、薩摩の琉球侵略をめぐるイベントはこの1年間、計38回も開かれた「400年、節目のイベント ver.13」)。その過半数を占めた歴史系のイベントを見ると、その主調音だったのは、「琉球王国の主体性」だと思う。従来、侵略以降は大和や薩摩に従属的と思われがちだったが、薩摩、大和、中国との関係性のハンドリングのなかで琉球王国を存続させてきたことを積極的に評価するという流れだ。それは沖縄の自信回復にとって意義があったと思う。

 奄美との関わりのなかでいえば、奄美が薩摩の琉球侵略過程を共有しているので、奄美がかつてつながっていたということが認識され、奄美が可視化された。ほんとうはもっと手前で、薩摩の侵略過程の可視化により奄美の地理上の位置が見えてきたというに過ぎなかったかもしれないが、上原兼善が『島津の琉球侵略』で琉球侵略の全体像を捉え、上里隆史の『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』が戦闘過程をいままで以上に詳細にしたおかげで、奄美が見えてきたのは確かだった。

 侵略以降についていえば、「奄美は直轄領化された」という記述を最後に、また蚊帳の外になる気配を感じたが、弓削政己の孤軍奮闘で、奄美の持つその特異な位相が見えないまま終わることはなかった。それどころか、奄美にとっても新しい知見を弓削はもたらしてくれた。そのこととパラレルかもしれないが、宮古や八重山の声が聞こえてきたのも嬉しかった。「琉球王国の主体性」の強調だけなら、あの「琉球の風」の頃のような琉球王国依拠への失望感に終わったかもしれないが、そうならなかったことに進展を感じる。また、真栄平房昭などが、女性を通じた人間の視点を持ち込んだことで、徹底抗戦をしなかった琉球王府の一面も見えてきた。人間という視点が加わると、ハジチを通じて、琉球弧の共通性も見えてきた。

 さて、奄美、だ。計38あるイベントのうち、奄美の各島で行われたもの、奄美外でも奄美を主体にして行われたものを挙げると、16になる。38のうちの16、つまり、42%を占めるのは、常の沈黙度からすれば特異なことであり、このテーマが奄美にとって切実であることを示している。これらはどのように捉えることができるだろう。

 このなかで、もっともタイムリーでもっとも注目を集めもっとも人も集まったのは、徳之島で5月2日に行われた「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」だった。このイベントではこともあろうに、島津家と尚家の末裔が招待されていた。のこのこと島津が訪れ殿様気分の抜けないメッセージをのたまった。懸命にも尚家は来なかったが、為政者気分の抜けない高良倉吉は「現代でも鹿児島と沖縄は、隣県だというのに交流が少ない。知事同士が訪問しあうということをほとんど聞かない。これからは、この薩摩侵攻を超えて、もっと交流していくべきだ」などと発言したという。いま思えばこれは、今年、政治意思が何を行おうとしているかを示唆していたのかもしれなかった。

 また、このとき鹿児島からのパネラーは原口泉だったが、北の原口、南の高良によってイベントは政治色が強まったと思える。また、時を置かずに5月17日には「琉球侵略400年シンポジウム」が沖永良部島で開催されるが、このときも北は原口泉だった。これは、役者が他にいないのか、今年の鹿児島からの発言を著しく貧困にさせることになった。

 イベントの流れから、奄美の島々で行われたものに注目し、かつ個人が招かれた講座や講演を除くと、次はもう11月14日、喜界島で行われた「薩摩侵攻400年シンポジウム」であり、11月21日の、あの「沖縄・鹿児島連携交流事業」になってしまう。つまり、奄美では5月17日に沖永良部島で行われて以降、半年間、奄美ではまとまった形でのイベントが無かったのである。喜界島でのそれは郷土研究会主催のもので、島自体をみつめる地に足のついたものだったと思う。しかし、次は、鹿児島と沖縄の県知事が400年の事態の収容を図った「沖縄・鹿児島連携交流事業」であるのを考えると、これは徳之島のイベントの後に、高良倉吉の発言を受けるように、続いたものであると位置づけることができるだろう。

 鹿児島県と沖縄県の政治意思が薩摩の琉球侵略の問題の終息を図るという流れは、徳之島、奄美大島、山川へと北上していったのである。しかもことはそれだけでは終わっていない。問題の終息は、主要な舞台であった奄美大島で行われるが、市民不在であり、事業に対する抗議行動は少数者による例外的なものにとどまった。

 そして年末には「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島」が奄美大島で行われる。このシンポジウムは大島の市民にとっては待望のものであったはずだ。しかしこれは薩摩の琉球侵略を真っ芯で捉えるものだったろうか。その全体性を持ち得ていただろうか。ぼくの考えは否へと動く。発表内容においてではなく、主催内容として。まず、徳之島と沖永良部島でのそれが鹿児島と沖縄の声を交えていたのに対して、これは奄美内だけにとどまるものだった。奄美の各島々の声もなく、大島をもって奄美とするという傾向のなかにあるものだった。もちろん、それは大島で行うのだから、それで問題があるわけではない。

 ぼくが感じるのは、大島が奄美全体の課題を構成し喚起することが、薩摩の琉球侵略400年というテーマに対してできなかったということである。その舞台は、徳之島に移行していた。徳之島も大島も琉球侵略の戦没者への慰霊を行っている。しかしその後に、その問題を遡上にあげてこと挙げすることは大島からは無かった。これは薩摩の直轄領の最大の舞台であり、大島商社解体、復帰と続いてきた大島のリーダーシップの沈下を物語るものではないかという懸念がぼくには過ぎる。また、奄美人としての声がもっとも切実に挙がったのは、奄美ではなく鹿児島で10月に行われた「奄美の未来を考える集会」だった。その意味では、奄美大島の北の鹿児島と南の徳之島に舞台は移ったのである。

 すると、「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島」は、大島で開かれたものでいえば、春の慰霊に続くものではなく、11月の「沖縄・鹿児島連携交流事業」に続くものではないだろうか。特に主催者が、「奄美のアイディンティティとは、なんだろうと思うとき、琉球的でもあり、薩摩的でもあり、その両方を混在させてアイディンティティとしてきたといってはおかしいでしょうか。」(ホライゾン創刊15周年記念シンポ報告④)などと言うのは、ことのなし崩しであり、もし仮にそうなら、始めから問題は無いのであり、ぼくも『奄美自立論』を書く必要など無いのである。「奄美は琉球でもあり大和でもある」と規定されたのではなく、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と二重否定の真空地帯のような状況に置かれたのである。それが奄美の困難の本質ではないか。現象的には琉球と薩摩の文物が混交して定着するだろう。しかし、その背景には二重否定の契機が控えている。その解除が困難なのだ。それは関係性のなかに埋め込まれているからである。このシンポジウムはサブタイトルを「これからの奄美諸島史」と書くが、鹿児島と沖縄の交流拠点というだけののっぺらぼうな奄美像にならないことを願う。


1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」
5.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」
6.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」
9.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
11.「琉球侵略400年シンポジウム」 
13.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)
14.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」(喜山荘一)
16.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」
19.「奄美の未来を考える集会」
25.「奄美と沖縄をつなぐ」
26.「薩摩侵攻400年シンポジウム」
28.「沖縄・鹿児島連携交流事業」
29.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」
33.「薩摩侵攻四百年・奄美の歴史の見方考え方」(高梨修)
34.「<無国籍>地帯、奄美諸島~琉球侵攻400年を振りかえる~」(前利潔)
38.「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島 これからの奄美諸島史」



 

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「奄美が見えますか?」(「唐獅子」14)

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの1週間後の21日に、「沖縄・鹿児島連携交流事業」が奄美大島で開催され、沖縄県と鹿児島県の知事が「交流宣言」を行った。

 このとき奄美からは一部、抗議の声が挙がった。ぼくはこの声に賛同するけれど、これを沖縄から見たとき、不思議に思えるかもしれない。

 なぜ抗議するのか。それは、1609年から400年たった現在でも、鹿児島県は奄美の地理と歴史を封印したままだからだ。県が流布する鹿児島像を思い出せば、そこに西郷や最近の篤姫はあっても、奄美のイメージが皆無なのが分かるはずだ。それと同じで、鹿児島ではいまも、奄美は存在しないかのような存在である。だから、奄美にとって400年前の薩摩の琉球侵略は、過去の歴史ではなく、現在なのだ。

 この状況で鹿児島と沖縄の知事が「交流宣言」を行うのは、奄美を存在させないまま琉球侵略以降の歴史を過去にすることを意味する。それはあってはならないことだ。しかも、それを薩摩の直接支配の最大の拠点だった奄美大島で行うというのである。声を挙げないわけにはいかない。

 さらに翌週の28日には鹿児島の山川で「琉球・山川港交流400周年事業」が開催された。二つの事業は無関係だろうが、県知事による「交流宣言」の後、軍船を琉球へ放った港のある山川で、こんどは副知事が改めて交流を約束する流れは、政治的な意味を帯びる。そこには、大和と琉球の矛盾を担った奄美の封印により問題を強引に消去し、「侵略」を「交流」に置換する意図が浮かび上がってくるのだ。

 こうした鹿児島県の態度の淵源を辿ると、薩摩が奄美の直轄領化を幕府に内密にしたことに突き当たる。日本が薩摩の琉球支配を中国に内密にしたことはよく知られているが、その影で、薩摩は奄美を琉球から切り離し直接支配下に置きながら幕府にはそれを内密にしたことはあまり知られていない。そこに、存在しないかのような存在としての奄美が刻印されている。

 400年の年を奄美の地理と歴史を現出させる契機とする。それがぼくの願いだった。それは「奄美と沖縄をつなぐ」ためにも不可欠なことだ。

 奄美が見えますか?

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2009/12/29

薩摩の琉球侵略400年を捉える 3

 『奄美自立論』を出版することができて、ぼくは400年という年に対して、すべきことはしたつもりでいた。しかしその縁からか、6月には鹿児島の「奄美を語る会」、7月には東京外語大学で行われたカルチュラル・タイフーンで話す機会があり、それぞれ、「奄美にとって1609以後の核心とは何か」「北の七島灘を浮上させ、南の県境を越境せよ」というテーマとした。カルチュラル・タイフーンでは「奄美にとってこの400年は何だったのか?」というお題だったので、この400年は、奄美が存在しないかのような存在と化した歳月であると応えた。

 しかしそれだけでは終わらなかった。まろうど社の大橋さんに何かやりませんか?と促され、また、一年が始まり各地で行われるシンポジウムを追うと、歴史家による歴史解釈が主であるのが分かり、歴史家ではない者はどうこれを受け止めていけばいいのだろうかと考え始め、つい、動いてしまった。

 ぼくの言葉でいえば二重の疎外の克服は共通の課題だが、疎外の態様はさまざまな姿をもって現れる。だから克服の方法は無数にあるはずだ。するとぼくはぼくにとってもっとも切実なことを行うしかない。与論島という位置は、沖縄島と与論島の間に惹かれた境界として、400年の傷跡をいつもその視野に収めることを意味する。そうであるなら、ぼくにとって切実なのは、「奄美と沖縄をつなぐ」ことだ。

 しかしこのテーマが切実なのは、与論かせいぜい沖永良部の人までであって、小人数にとどまる。だから、小さなスペースで車座をなして静かに語り合うような場面を想定していた。けれど、シーサーズの持田明美という共同企画者を得たことで事態は一変し、豪華な顔ぶれの人たちとシマウタを交えたイベントにすることができた。イベントにいたるまでは、自分にとって切実なものに過ぎないことで大勢の人を巻き込んでしまったという囚われがきつかったが、蓋を開けてみれば、二百数十名の方々に来てもらい、一緒に語り、唄い、踊る場を共有することができた。それは望み以上の不思議な体験だった。

 思いなおしたことがひとつある。ぼくは、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントを継続していくとしたら、さまざまなテーマでやればよいが、シマウタはそのひとつだと思っていた。次回やるときはシマウタではないかもしれない、と。けれど終わってみると、シマウタはひとつのジャンルではなく、琉球弧に共通する普遍的な表現の形だということだ。それはぼくには発見だった。

 そしてこれは偶然だが、11月14日に行った「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの一週間後の21日に、「沖縄・鹿児島連携交流事業」が奄美大島で開催され、沖縄県と鹿児島県の知事が「交流宣言」を行った。さらに翌週の28日には鹿児島の山川で「琉球・山川港交流400周年事業」が開催された。二つの事業は、それぞれには無関係だろうが、二つの場所と知事、副知事の握手という流れは政治的な意味を帯びざるを得ない。鹿児島の政治意思は、薩摩の琉球侵略以降の歴史を、沖縄との間とつながりをつくり奄美を封印したままに置こうとしていることは明白になった。それが県としても鹿児島の回答なのだ。聞けばこの事業は、沖縄県からの呼びかけで始まっている。ということはそれが無ければ、県としての鹿児島は動くつもりもなかったということだろう。黙殺のつもりが促されて挙に及んだということだ。ぼくはその回答を拒む者だ。

 ぼくは当初、年末近くに奄美にとって重たいことをなそうとしているのに、語り、唄い、踊るのを主眼にした「奄美と沖縄をつなぐ」イベントはあまりに呑気だったのではないだろうか、と内省しかけた。しかし、この400年を克服するのに、誰が誰と交流すべきか、交流の形とはどうあるべきなのか、そう考えれば、どちらが交流の名に値するか、それは明白ではないか。それは誇りに思ってもいいはずだと思いなおした。

 この一年は柄になく状況に対峙してきたが、その継続のなかで、秋、県としての鹿児島の所業の意味を捉えることができたと思っている。


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2009/12/28

薩摩の琉球侵略400年を捉える 2

 そして、「大島代官記」の「序」が薩摩の役人の手になるものだということも、系図は少なくともその初回は、強制ではなく島役人からの差出であったことも、弓削政己が明らかにしたことである。それは他の場面においても同様で、400年の歴史シンポジウムの奄美パネラーといえば、ほぼ決まって弓削が登場していたことにも現れている。2009年は、図らずも、この分野における奄美の人手の希少さという課題が浮かび上がった。それは研究者という限定を加えなくても、奄美について考えるという意味で、ひろく奄美思想者について言えることかもしれない。

 ただ、ぼくはそのことで奄美を責めるつもりも自嘲する気にもなれない。それこそは、奄美が失語してきたことの現われだと思うからである。与論について奄美についてブログに書いているぼくですら、同じである。島尾敏雄が喝破したように、自分たちの島を「語るに値しない」とみなしてしまう傾向が身体性に深く食い込んでいる。ぼくも朝、目覚めたら、「語るに値しない」とみなす自分に戻っていて毎回、そんなことはないと思いなおすことから始めるような、そんな諦念なのだ。

 結果、手にされている史実が少ない。するとぼくたちは、400年経った現在においても、事実が分からないうちは何も言えないということと、事実が分からないのだから叫ぶしかないということのあいだに引き裂かれてしまう。実際に、前者は黙する奄美人として普遍的であり、後者はまるで抗議の声が叫ぶような怒りとしてしか受け止めらていないことに現れる。ときの経過で双方の気持ちに通じる奄美人は減り、それとともに両者の懸隔は大きくなる一方だ。両者をつなぐものは何か。それは事実だ。そしてその事実を、弓削は丹念に発掘している。そしてもうひとつ両者をつなぐのは、事実をもとにした仮説の構築である。それらはともに黙することと叫ぶことの間に、表現の手段を与えてくれる。それは、言葉である。

 両者は隔たるにつれ、黙する者は叫ぶ者を忌避するようになり、叫ぶ者は黙する者を意識が低いとみなすかもしれない。けれどぼくたちに必要なのは、両者はともに奄美的な失語にあるものとして同じであるという視線だと、ぼくは思う。

 両者の懸隔が拡大するような段階なのに、すでに琉球も薩摩も困難を抱えていたのは同様であるという視線も生まれて来た。これは、両者に対して等距離の遠方に視点を置けば当然、生まれてくるものだ。しかし、生傷が癒えていないのにどっちもどっちと言われたときのように、そのあまりの正しさにぼくは口をつぐんでしまいそうになる。

 また、当の奄美でも両者の懸隔の間隙を縫うように、というより大通りを歩くように大手を振って、「もう恨みごとなら言うのは止めましょう」(中島みゆき)ではないが、過去のことであると水に流すような視線も生まれている。ぼくは怒りを怒りとして表現することが奇異に見られることも、怒りとしてだけしか表出できないように見えることも、ともにとても哀しく感じるし、その構図自体が克服されるべきだと考える。


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2009/12/27

薩摩の琉球侵略400年を捉える 1

 ぼく個人は、薩摩の琉球侵略400年に対して、『奄美自立論』で対峙することが、この年にできることだと考えていた。100年前ですら、薩摩の琉球侵略を正面から捉える段階ではなかった。そうであるなら、2009年は、真正面から事態を捉える初めての機会であるはずだ。

 とはいえぼくは虎視眈眈とこの機を待っていたわけではない。出版を意識して書き始めたのは秋のことだったし、ずっと前から奄美のことを考えてきたわけでもなかった。ぼくにとって契機になったのは、二十年近く前に、自分の悩みの形としてつかみだした「二重の疎外」について、ブログ縁から奄美のことを知るようになり奄美の本を読みだして、それが個人的な悩みではなく、奄美に共通したものではないかと感じたことだった。ぼくは、個人的な煩悶を、奄美を考えることを通じて、何らかの脱出口を見出せるかもしれない。その思いに囚われて書きついでいったと思う。

 ぼくは歴史記述の宿命以上の奄美のそれを思い、『奄美自立論』のあとがきに、

「二重の疎外」は二〇年近くぼくを支えた概念ですが、奄美に適用して考えたのはそれに比べれば短い期間でのことです。その分、考察には粗削りなところがあり、新しい事実の発見や認識の修正により更新されるべきものを含んでいますが、奄美の二重の疎外を克服するよすがをつくるという意味では、人さまに読まれてもいいと考えました。

 と書いたが、春に出版して同年末の現在、少なくとも二つ、更新すべき個所を持っている。ひとつは、「大島代官紀」の「序」が、大島の島役人が書いたものとは思えないとしながら、もし書いているならばと、論を進めたところ、これは薩摩の役人が書いたものであることが明らかになったこと。そしてもうひとつは、1695年と1706年にあったとされる系図の差し出しについて、少なくとも1695年については島役人からの「差上」であることが分かったこと、である。

Ⅱ、薩摩藩統治下での島役人(与人ら)の身分について
旧記、1695(元禄8)年の「差上」、系図・旧記を1706(宝永3)年の「差出」がある。意味するもの
 ①1695年の「差上」は、間切最高位の役人である与人の身分を「百姓」身分とされた事に対し、それを覆すための与人の対応として、与人が伊地知代官を通して差上げたものである。この場合、「原史料」提出と「写」の提出がある。
 ②和家は、琉球からの「辞令書」、藩からの1613(慶長18)年「知行目録」、藩からの1623(元和9)年「大島置目之条々」を元禄8年に差上げ、逆にその「写」を元禄9年に貰っている。(弓削政己「薩摩藩統治後の島役人編成内容、権限、任命者について」2009年)

 前者は八月、後者は十二月に分かった。この二つのことは奄美にとってはもちろん、ぼくにとっても重要だった。「大島代官記」の「序」をもし本当に島役人が書いたとしたら奄美知識人の屈服に他ならないし、過去の時間の流れ方からすればほぼ同時期に系図も差し出されたとしたら、それは思考収奪に他ならないと考えているからである。ところが、島役人が自ら書いてしまったことかもしれないことは、やはり薩摩の役人の所業だったのであり、薩摩の強制だと思われていたものが、実は島役人が自ら行ったことだった。どう受け止めればいいだろう。

 ぼくはこれらによって、屈服の論理や思考収奪について、そうではなかったと認識を改めるには至っていない。それというのも、それは史実の有無にかかわらず、現在の奄美の実態からく信憑として手に握られていることであり、もう片方の手にその淵源となる史実を見出したものだからだ。

 屈服の論理は、「大島代官記」の「序」の後に代官記をつづるたびのように静かに進行し、思考収奪は比例するように、島役人の方から起こっていった。それが克服しえない姿として現在も続いている。


 ※「「大島代官記」の「序」を受け取り直す」


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「消滅していく生物や民族の憂いを、奄美固有の文化や言語にも感じないわけにはいきません」

 印象的な文章だと思ったら、島尾伸三のものだった。

奄美群島(南西諸島)は、沖縄と南九州との中間に位置し太平洋と東シナ海のせめぎあう亜熱帯の海に浮かぶ島々です。昇曙夢(のぼりしょむ)(1878―1958)は、この南の島の小学校を出ると鹿児島でロシア正教へ入り、やがてニコライ正教神学校(東京お茶の水)に入学。ニコライ・ロシア語学院長を経験した希有(けう)の人。ゴーゴリ、トルストイ、ツルゲーネフ、ゴーリキー、ドストエフスキーなどの翻訳、ロシア・ソビエト文学史、ソビエト演劇の著書も手がけ、明治、大正、昭和のロシア文学の紹介には大きな足跡を残しています。昇曙夢が晩年に熱中したのが、忘れ去られた奄美の歴史を掘り起こす仕事。彼の執念が結実した「大奄美史」の初版は71歳の1949(昭和24)年刊行。没後も再販が繰り返される奄美史の古典です。

 そう、古典。

 薩摩による奄美琉球侵攻400年にあたる今年2009年に復刻版が出ました。奄美と沖縄は1609(慶長14)年に、薩摩藩の鉄砲武装した精鋭部隊3000人の侵略を受け、琉球(沖縄)は服属させられ、奄美群島は琉球王国と分離され、薩摩藩の直接支配を受けました。奄美の歴史的な書物や記念物はことごとく失われ、歴史が消えたままでした。

 そして直接支配の事実は日本に内密にされました。

 第1篇(へん)先史時代、第2篇奄美時代(上古期)、第3篇酋長(しゅうちょう)割拠時代(中古期)、第4篇琉球服属時代(近古期)、第5篇薩藩直轄時代(近世期)、第6篇明治・大正時代(近代期)、付録奄美諸島年中行事。奄美では1―3篇時代を「あまん世(ゆ)(奄美時代)」と呼び、4篇は「なはん世(琉球時代)」、5、6篇は「やまと世(日本時代)」。太平洋戦争が終わり、奄美諸島と沖縄は米軍占領下の「アメリカ世」となり、奄美群島は1953(昭和28)年12月25日に日本復帰、鹿児島県へ編入され再び「やまと世」となります。

 そして現在。

 奄美関係の出版が南方新社などによって盛んですが、消滅していく生物や民族の憂いを、奄美固有の文化や言語にも感じないわけにはいきません。こんな弱気を昇曙夢が聞いたら激怒するかも知れません。「大奄美史」は、「方言・宗教・土俗・風習・歌謡・伝説等」を広く蒐集(しゅうしゅう)し、「わが奄美同胞が、歴史上多くの貴重なものを有しながら、全然それを知ろうともしない無関心な態度に鑑(かんが)み、30万同胞の郷土認識を高めることに努むる」という昇曙夢の全精力を込めた壮大な歴史書なのです。

 「全然それを知ろうともしない無関心な態度」というのは、それこそ奄美が被ったものへの処し方だったと思う。

 とても素直な紹介文だと思う。(西日本新聞)


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「奄美諸島も一つではない」

 12月18日、鹿児島県立短期大学で前利潔の「現在から琉球侵攻400年を考える」講演会が行われている(「南海日日新聞」12月23日)。

 前利氏の講演は島津氏が奄美、琉球を侵攻した1609年を起点とするのではなく、現在から近代、近世へとさかのぼって「400年」を考察した。

 400年との関係が見えなくなっている世代も多くなっている現在、このアプローチは、いまとのつながりから考えられるようにする手続きとして重要だと思う。

まず11月21日、奄美市笠利で行われた沖縄・鹿児島連携交流に言及、一般市民の参加がほとんどなかった。各地のシンポジウムで『琉球侵攻、侵略』が使われているにもかかわらず、発言やあいさつは『出兵』を使うなど1609年の出来事をあいまいにしようとする姿勢が顕著だった」と問題視した。

 1973年、原口虎雄の『鹿児島県の歴史』では、「征琉の役」と言いい、1999年、原口泉が主執筆者である『鹿児島県の歴史』には、「琉球出兵」とある。「侵攻」、「侵略」の言葉は見られない。ところが、「琉球・山川港交流400周年事業」では、原口泉は、「侵略」という言葉を口走る。要は知ってて使わないのか、と思わざるをえない。

 「沖縄・鹿児島連携交流」は、市民不在であったことが、この事業の本質をよく物語ると思う。

 前利氏は「沖縄は中国との進貢貿易によって中国化が進んだが、奄美諸島の場合は薩摩支配(藩役人の通婚、遠島人教育)を通してヤマト化が進んだ」と考察する一方、六調、言語からみても沖永良部と徳之島の間では境界線が引かれる。奄美諸島も一つではない」と指摘した。

 琉球は、「琉球は大和ではない」という規定を受ける。中国との関係を妨げないためにそうしたという面もあるから、中国との交流は進んだ。一方、奄美は、琉球の一員としては「琉球は大和ではない」の延長に「奄美は大和ではない」という規定を受けながら、同時に、「奄美は琉球ではない」という規定も受け取っていた。だから、奄美の大和化は全面的ではなく部分的にとどまり、また島役人の保身や貴種への変身願望を伴うものだった。

 「奄美諸島も一つではない」ということは、ほんとうはどこの島でも言えることだ。しかし、奄美は島々をまとめる言葉を持ったことがなかった。「奄美」という言葉ですら、たとえば与論島では自称として成熟していない。奄美において、島一つひとつが大切だというのは、琉球と大和という日本を二分する文化の境界グラデーションがここにあるからだ。この振幅の大きさを見ないと、薩摩の琉球侵略の持つ意味の大きさを図り損ねることになる。


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2009/12/26

琉球史劇「薩摩侵攻」

 明日は、琉球史劇「薩摩侵攻」も行われる。

 「本番さながらの熱演 薩摩侵攻、公開けいこ 国立劇場」

薩摩軍に対し、戦か和睦(わぼく)かの決定に苦悩する尚寧王や家臣の苦悩、運命に振り回される女性たちを描く歴史物語。この日は琉球芸能の若手実力派の出演者が本番さながらの熱のこもった演技を披露した。

 浦添なので行けないが、自分たちの物語として観てみたい。「日本語字幕付き」のようだ。



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「家庭で方言使用を」

 「かごしま地域文化創造事業・喜界地区シンポジウム」の記事(南海日日新聞12月9日)。

 喜界島の南北で方言などの発音などに違いがあることを、地域の大きな特徴と位置付けた木部学部長は「島口、島唄をどう残すか」について、「学校での指導や社会教育の場だけでは不十分」と指摘し、家庭内も含めた方言の積極的な使用を訴えた。
 パネルディスカッションは「島ロの日常化と芸能の伝承をさらに進めるにはどうしたらよいか」がテーマ。地域で八月踊りの保存に取り組んでいる湾集落と、三味線クラブで島唄伝承活動を行っている小野津小学校が報告した。
 こうした成功事例の一方、会場の他集落住民からは「年配者が踊りになかなか出てきてくれず、活動が消極的」などの声も寄せられ、文化伝承に対する考え方に差があることも浮き彫りとなった。

 あれだけ積極的に方言禁止にまい進してきたのに、「家庭で方言使用を」と言われても白ける想いが過ぎるのも無理ないと思うし、だいたいその親御さんの方言があやしいだろう。

 でもぼくも方言が使われたほうがいいと思う。方言でなければ開けない世界があり、それはかけがえがない。ぼくが教師だったら、与論語クラブを作って、与論の言葉が得意な子を育てることから始める。ぼくが地元の若者なら、与論語漫才をやるかプロデュースするかしたい。いまここでできることとして思うのは、奄美方言ブックみたいなものを作ることだ。これはいつかやりたい。


 

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「第13回 ヨロン・おきなわ音楽交流祭」

 明日は、「第13回 ヨロン・おきなわ音楽交流祭」。与論島は砂美地来館で行われる。

 たまたま与論町のホームページを見て知った。

沖縄と与論島の小・中・高校生による、交流音楽祭です。

 13回目だということだが、いままでぼくは知らなかった。こういうのを見ると、「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマで企画するぼくは、いかにも与論子なのだなあと思う。

 それにしても、与論は「ヨロン」。こんなこだわりのなさも、また与論らしい(笑)。


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400年イベントの分類 更新版

 前回(「400年イベントの分類」)と同じ基準で、400年のイベントを5つに分類してみる。

 終わりを迎えつつある段階でみると、「歴史」型がやはり圧倒的に多く5割強、ついで「提起」型で約2割。「展示」型が1割、「交流」型が1割弱。「慰霊」型が0.5割だった。

 この結果は、前回のレビューと大きく印象を変えない。ただ、「歴史」型の量が過半数を越えたことはやはり特徴的だと言わなければならない。前回になかったことがあるとしたら、北京、ソウルで開催されたイベントがあるのを知ったことだ。


慰霊:慰  2 ( 5%)
歴史:歴 21 (55%)
提起:提  8 (21%)
交流:交  3 ( 8%)
展示:展  4 (11%)


展:1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」
歴:2.「近世琉球と日本の関係史再考一島津氏琉球侵攻畑年・江戸立(江戸上り)・絵図資料-」(豊見山和行)
提:3.「薩摩の琉球侵略400年・琉球処分130年・沖縄再併合37年を問う」
提:4.「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」
慰:5.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」
慰:6.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」
歴:7.法政大「総合講座一沖縄を考える<島津氏の琉球侵攻400年と琉球・島津関係の諸問題>(豊見山和行)
歴:8.「さつま(薩摩)の琉球侵攻と今帰仁グスク」(上里隆史)
歴:9.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
歴:10.シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』
歴:11.「琉球侵略400年シンポジウム 
歴:12.「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)
提:13.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)
提:14.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」(喜山荘一)
歴:15.「島津氏の琉球出兵400年に考える―その実相と言説―」
提:16.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」
歴:17.「考古学からみた薩摩の侵攻400年」
展:18.「薩摩藩島津氏琉球侵攻400年展」
提:19.「奄美の未来を考える集会」
歴:20.「薩摩の琉球入り400年」
展:21.「薩摩の琉球侵攻400年 琉球使節、江戸へ行く!」展
展:22.「海が繋いだ薩摩-琉球 〔交錯するヒトとモノ〕」
歴:23.沖縄県博文化講座「琉球使節像の変遷と対日本関係・屈辱・偏見から「御取り合い」へー」(豊見山和行)
歴:24.「薩摩侵攻400年・琉球処分の軌跡一琉球王国の解体と東アジア秩序の転換-」
交:25.「奄美と沖縄をつなぐ」
交:26.「薩摩侵攻400年シンポジウム」
歴:27.沖縄県樽文化講座「シンポジウム<琉球使節のすがたを求めて>」
歴:28.「沖縄・鹿児島連携交流事業」
歴:29.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」
歴:30.「アジアの中の琉球・沖縄400年」
交:31.「琉球・山川港交流400周年事業」
歴:32.「薩摩侵攻四百年を考える-史学の諸分野と地域-」
提:33.「薩摩侵攻四百年・奄美の歴史の見方考え方」(高梨修)
提:34.「<無国籍>地帯、奄美諸島~琉球侵攻400年を振りかえる~」(前利潔)
歴:35.「琉球与東亜国際関系学術研討会一薩摩入侵琉球400周年、日本“琉球処分”事件130周年-」
歴:36.「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」
歴:37.「日本にとって沖縄とは何か - 沖縄史の三つの転換期を再考する
歴:38. 「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島」これからの奄美諸島史



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「薩摩侵略400年・琉球処分の軌跡-琉球王国の解体と東アジア秩序の転換-」

 真栄平さんが、韓国で開かれた400年のイベントのパンフレットを送ってくれた。真栄平さんのお便りによれば、ヨーゼフ・クライナーさんも参加したそうだ。

 演題を見ると、かなり踏み込んでおり、通り一遍のものではないと感じさせる。この出来事を朝鮮半島はどう受け止めたのか、知りたい。

 「琉球列島奄美大島」の表現が新鮮だ。関心を持ってくれたのは嬉しい。


真栄平房昭
:女性史から見た薩摩の琉球侵略・その歴史と伝承

楊秀芝
:朝鮮後期の朝鮮・琉球関係

安渓貴子
:沖縄と奄美の蘇鉄利用-「地獄」と「恩人」の狭間で

姜渓遊地
:隣り合う島々の交流の記憶-琉球弧の物々交換経済を中心に

呂青華
:沖縄久米村の過去と現在

陳泌秀
:神社に刻まれた植民地主義の歴史・琉球列島奄美大島の事例


Seoul1
Seoul2

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「与論島 鹿児島なのに沖縄より遠い島」

 「鹿児島なのに沖縄に近い島」という表現はよく見かけるが、「鹿児島なのに沖縄より遠い島」」というのは珍しいけれど実感に適っている。

 「与論島 鹿児島なのに沖縄より遠い島」

マラソンというより、もはや完全な観光旅行(笑)

ただ、このヨロンマラソン。
行ってみる価値は大だそうです。

景色もさることながら、前夜祭、完走パーティーとイベント盛りだくさん。
島の皆様あげてのイベントなのでかなり盛り上がるらしいです。

島の皆様の応援で完走率も高く、そのおかげかリピーターがかなり多いらしいです。

私の中でもヨロンマラソン、盛り上がってきました。
あとはトレーニングと先立つものを何とかしないとです(笑)

 観光で(笑)、ヨロンマラソン、来てくれるといいですね。



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「復帰の功績に思い、56年記念の集い/奄美」

 昨日は、奄美が日本復帰した日でもあった。

 「復帰の功績に思い、56年記念の集い/奄美」

 奄美群島が日本に復帰して56年目の25日、奄美市名瀬で記念の集いがあった。参加者約350人は、復帰運動の先頭に立った詩人・泉芳朗さん(故人)の胸像が建つおがみ山広場で「日本復帰の歌」を歌い、先人たちの功績に思いをはせた。
 朝山毅・奄美市長は「祖国復帰は群島民が一丸となってなし得た世界に誇るべき大衆運動だった。先人の偉業を語り継いでいくことは私たちの責務でもあり誇りだ」とあいさつ。続いて泉さんが復帰を訴えた詩「断食悲願」を小学生が朗読した。(朝日新聞)

 12月25日はあくまでクリスマスの日だった。与論にいるときもそうだった。その日を復帰の日として何か行事に参加した覚えもそういう日なのだと説明を受けた記憶もなく、後年、知識として知った。ぼくは「日本復帰の歌」を歌えない。意志ではなく知らない。ぼくの父と母は、復帰請願のさなかを名瀬で学生として過ごしているので決して無縁なことでもない。にもかかわらずそうであることに、ぼくは奄美の失語の類型のひとつを見てきた。これを与論につなげていえば、与論にとっては「世界に誇るべき大衆運動」、「先人の偉業」という感覚は遠いのだと思う。

 北も南も巨大で声を挙げることも声を求められることもない与論島は、「木の葉みたいなわが与論」よろしく波に揺れるしかない。たしかに島民は復帰請願に署名したし青年団は合流して奔走したけれど、沖縄と離れる不安も感じていたはずだ。こういえば、先人は俺たちが日本にしてやったぐらいのことは思うかもしれない。けれど、揺れるしかない島の目からは、北の奄美の知識人の日本人に対する焦慮の深さを見る想いもするのだ。

 また、これは奄美のニュースとして伝わるわけだが、「奄美」は大島のことを想起する人も多いが、奄美全体の意味も持つので、大島のことが奄美全体を意味してしまうように、奄美全体がそうであるように思われてしまうのだろう。それは島外者の認識の誤差の範囲ならよくあることだけれど、大島のことが奄美のことという粗雑さのもとにもなっているのだと思う。

 島を一つひとつ、細やかに見ていく必要があると思うものだ。


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「奄美は沖縄や大和の奥座敷」

 大阪の永田さんに、あなたと波長の合う記事では?と紹介された。

休暇を利用して沖縄へ遊びに行った。同じ亜熱帯とはいえ微妙に気温の差はあるようで、奄美と比べると暖かい。東京から来た友人は嬉々として早朝ダイビングへ向かっていた

◆この島を訪れるたび、繰り返し自問する。奄美と沖縄の違いは何だろうと。例えば公設市場の土産店で出会ったおじさん。巧みな話術に乗せられ、ふと気付けば買う予定の無かったラー油を手に取っている自分がいた。例えば首里城やエイサー。そのあでやかさ、華やかさにただただ圧倒されてしまう

◆琉球の王朝文化と奄美の民衆文化。そもそも比べること自体ナンセンスだと自覚しつつ、観光客を惹き付けてやまない沖縄にどこかでやきもちを焼いているんだと思う

◆ある人が「奄美は沖縄や大和の奥座敷」と表現した。島唄の奥深さ、シマッチュの奥ゆかしさ。記者になって10年間、古里の「良さ」を模索し続けている。あと少し、見えそうでまだはっきりとは見えてこない。(真)(Web 編集メモ)

 「奄美は沖縄や大和の奥座敷」というのは言い得ていると思う。与論も、ブームのころは「オキナワ・ヨロン」ともうひとつの沖縄だったし、沖縄の復帰前はそれこそ大和の奥座敷として、大和から流れてくる人が多かった。

 編集子は「琉球の王朝文化と奄美の民衆文化」と比較するが、「琉球の王朝文化と琉球の民衆文化」としても同じだとぼくは感じる。それこそ「島唄の奥深さ、シマッチュの奥ゆかしさ」は共通するものだ。「奄美と沖縄の違いは何だろうと」というとき、きっと大島と沖縄島を比べているのだろう。そうしないで、大島と喜界島、徳之島、沖永良部島と島伝いに比較してゆけば、グラデーションを通じて連続性が感じられるだろうし、そうかと思えば、八重山の島に来て突然、とても近しいものに出会ったりするはずだ。

 「観光客を惹き付けてやまない沖縄にどこかでやきもちを焼いているんだと思う」という編集子の正直さがぼくは好きだと感じた。「Web編集メモ」はネットでしか読めないコンテンツだろう(違うかな?)。得した気分だ。


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2009/12/25

ココログ6周年に寄せて

 ココログが6周年を迎えて白書を公開している。

 ココログ白書2009

 ブログを開設した日は、2005年2月27日とある。けれどこの日は書き始めた日ではない。心から敬愛していた百四歳の祖母が意識を失うようになったのを聞いて慌てて与論に帰った。ぼくは昔から与論のために何かをしたいと思い続けてきたし、周囲にも言ってきた。けれどその時点で何もなにもしていないのに気づいて焦った。何も報告できないまま祖母が逝ってしまうかもしれない。ぼくは何かできることはないかと考えて、メールアドレスを持っていたニフティでブログを開くのを思いついた。たしか、祖母の家のダイヤル回線を拝借してインターネット接続して開設の手続きだけした。それからもしばらく祖母は生き、百五歳の誕生日の次の日に書き起こした。その三日後に祖母は旅立った。

 それからぼくはブログを書き始めた。

 少し書く動機が違うかなと思うところがあるとしたら、アクセスをアップさせるなどの方策は何もしないと決めていた。読みやすさのために最初は短く文章を切っていたが、それがまだできてもいない自分の文体を育てることになっていないと思ってそれも止めてしまった。もう少し分かりやすくしてほしいとときどき言われる。ぼくもわざとそうしているわけではない。難解にしたいのでもなく、短い時間で直観的に感じていることを言葉に封じ込めるので精一杯なのだ。

 誰にも見せたくないから、アクセスアップなどの方法を採らないのではない。多くの人に見てほしいのではなく、出会うべき人に出会いたい。そういう想いだった。不思議なもので、そうするとゆっくりと与論縁、奄美縁、琉球縁と縁は広がり、自分のように感じる人は自分だけではないということも分かったし、本を書くという機会にも恵まれた。本にするときは、まともな文章にする場をいただいたと思った。

 白書では、あなたにとってブログって結局何ですか?という問いがある。このブログについていえば、ぼくには、精神安定剤だ。これが、与論や奄美、琉球へとつながる通路なのだ。

 「もしあなたが天国に召されたとき、自分のブログをどうしたい?」。

 ぼくに望みがあるとしたら、大きくなったら、子どもたちに読んでほしいということだ。それだけである。

 少し感傷的なのをお許しください。子どもの誕生日に、白書の問いかけが合って、つい、書いてしまった。


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「09振り返って/琉球侵攻400年」

 朝日新聞が振り返りをしている。「09振り返って/琉球侵攻400年」(12月24日)。

 奄美群島にとって特別な1年だった。琉球王国に属していた奄美が薩摩藩に侵略されて400年という節目の年だったからだ。
 鹿児島、沖縄両県では歴史を検証するシンポジウムが盛んに開かれ、奄美の島々でも地元自治体や郷土研究会が主催するシンポが相次いだ。
 共通するテーマは「侵略という負の歴史をどう未来にいかしていくか」だった。

 激しく抵抗し島民に多くの犠牲者が出た徳之島では、「厳しい時代にあっても独自の文化を築いてきた先祖のたくましさに誇りを持とう」との提言があった。抵抗の道を選ばず降伏した沖永良部島では「外敵との争いをあえて避け、柔軟に未来を切り開いてきた」と島民性を評価する分析も示された。
 「負の歴史の克服」の難しさを象徴する場面もあった。11月、鹿児島、沖縄両県知事がお互いの交流を促進しようと宣言したときのことだ。奄美大島の会場前では、島民らが「400年前の検証をしないまま交流を進めることは歴史の隠蔽(いん・ぺい)だ」と抗議した。
 琉球侵攻の取材経験が豊富な沖縄県の地元紙記者は驚きを隠さなかった。「こんな光景に遭遇したのは初めて。沖縄では見たことがない」

 沖縄の記者は、本当はここが驚くべき箇所ではない。沖縄では薩摩の琉球侵略以降の琉球処分、沖縄戦、米軍基地など、問題は更新され現在的に変奏されている。奄美は、琉球処分、沖縄戦、基地を経験しているのに、それらを受け取り損ねているので、自らの課題になしえていない。そのため問題が薩摩の琉球侵略に集約して現れる。そうであれば、沖縄が問題を主題化して言挙げする力を持っているのに、奄美がいかになにごとによらず、沈黙しているかがわかるだろう。驚くとしたら、抗議に対してではなく、抗議行動がきわめて少人数でしか担われなく例外的な存在に追いやられること、過剰なほどに沈黙が支配的であることの方なのだ。

 それだから、今年のテーマは、「負の歴史の克服」というところにあり、「侵略という負の歴史をどう未来にいかしていくか」という表現ではふやけてしまうと思う。

 県外出身の私は、400年前の出来事の今日的な意味をどうとらえるべきか悩みながら取材した。
 奄美でのシンポでは、妙に鹿児島県本土に気をつかっているような行政関係者の姿勢に違和感を覚えることがあった。一方、「圧政に苦しんだ奄美」だけでは、未来につながる意義を見いだせないのではないかと疑問を持った。
 今月20日、奄美市で「400年」を締めくくるシンポがあった。今年、島内外の数多くのシンポで奄美代表として発言した奄美市の郷土史家、弓削正己さん(60)は、この1年を「奄美の人々の心にくすぶっている問題が現れ出てきた年だった」と指摘。「歴史的にきちんと検証する出発点にしないといけない」と、集まった130人に提起した。

 県外出身の方が取材に悩むのは当然だと思う。書いた方は、以前(11月26日)も、「奄美の受難 いま問う」という記事を担当していた。関心の目を向けてくれることには率直に感謝したい。

 県内出身だが遠くにいる者の目を通すとこう見える。「鹿児島県本土に気をつかっているような行政関係者の姿勢」はみっともないほどの日常であり、「圧政に苦しんだ奄美」だけは、それしかまだ声になっていない状況なのだ。対等な関係性を築きえていないからこそ、声は訴えに近くなるのである。

 そして20日のシンポジウムは、「「400年」を締めくくるシンポ」ではなく、年末に開催されたシンポジウムであり、そこに締めくくりの意味はない。むしろ、大島の方は市民参加ができるシンポジウムを年末まで待たなければならなかったのである。

 取材を通して再認識したのが、沖縄にも鹿児島にも属さない奄美の独自性と、江戸時代以降、外部の脅威にさらされ続け自らの足跡を振り返る間もなく現在に至っている島々の悲しさだった。
 奄美に30年近く住みながら民俗文化を研究してきた東京出身の研究者、高橋一郎さん(61)は「『歴史を総括すべきだ』という言葉が盛んに叫ばれたが、総括すべき主体は、ほかでもない奄美の人たちだ」と指摘する。
 「『400年』を一過性のイベントで終わらせてはいけない。歴史をどう検証していくかは、むしろ来年以降、奄美の人々に問われてくる」
 米軍占領からの日本復帰後、復興を名目として始まった補助金政策は、奄美の主体性を損ね、自立の気風を衰えさせてきた。島人(しまっちゅ)が、薩摩史でも琉球史でもなく、自らを主体とした歴史を再構築していくことが、誇りに満ちた奄美の風土を育むことにつながるはずだ。(斎藤徹)

 「沖縄にも鹿児島にも属さない奄美の独自性と、江戸時代以降、外部の脅威にさらされ続け自らの足跡を振り返る間もなく現在に至っている島々の悲しさ」という表現は核心に迫っていると思う。しかし、続く研究者の発言は局部的だと思える。今年、とても「歴史の総括」が盛んに叫ばれたとは思えない。これはたとえば、抗議行動が極めて少数になるがゆえに逆にメディア化されたときに目立ってしまうように、局所的なことを奄美全体へ拡張しているのではないか。「総括すべき主体は、ほかでもない奄美の人たちだ」という提言は、黙する大方の奄美の人には、さらに黙せよという内向への圧力として作用すると思える。

 400年のことは奄美だけでは完結しない。関係の構造のなかにあることだから、少なくとも、鹿児島と沖縄との対話によって成り立つものだ。そこに、いまさらもへちまもない。「薩摩史でも琉球史でもなく、自らを主体とした歴史を再構築」はその通りである。ただし、それは再構築ではない。構築の課題である。


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「ハイビスカス、家康に献上 1609年 薩摩藩「琉球得た謝礼」」

 なんと。言われてみれば確かにその経緯が分かるけど、知らなかった。400年前の出来事にハイビスカスもその命運を変えたということを。

400年前の1609年は薩摩が琉球に侵攻した年だが、同年12月26日、薩摩藩主の島津家久が駿府に使者を送り「琉球國ヲ賜ル謝礼トシテ」(「家忠日記増補」)ハイビスカスを含む琉球の品々を献上したことで、初めて日本にハイビスカスが伝わった年でもある。家康はその後も琉球の珍しい花木を薩摩に求めており、新たな支配領域となった琉球の異国性を植生から感じていたものと思われる。

 島津がハイビスカスを家康に献上。赤花も歴史を背負ったもんだ。

NPO法人沖縄有用植物研究会理事の牧野洋二さんは「400年前の琉球にすでにハイビスカスがあったことが分かると同時に、当時の日本の人々にとっていかに美しく、珍重されたかが分かる興味深い史実だ」と話す。

 いつも咲いてたから特に気に留めることもなかったハイビスカスだけれど、繊細で表情豊かな花だと思う。

 これでますますハイビスカスが愛おしくなりますね。高良さんの記事も今年はずいぶんお世話になりました。


 ハイビスカス、家康に献上 1609年 薩摩藩「琉球得た謝礼」


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2009/12/24

「鹿児島と沖縄の経済交流」

 鹿児島県と沖縄県の間で、「なぜビジネスが拡大しないのか」。そう問いを立てて、水野雄司は書いている(南日本新聞12月21日)。

①地理的隔絶性。隣県といっても海を隔てて700㌔離れている。沖縄にとっては鹿児島も、大阪、東京もビジネスの手間は大して変わらない。鹿児島にとっても地続きの近隣県との交流の方が進むのも当然だろう。
②市場規模。地域の特産品などは、大都市圏市場の開拓に力を注ぐ方が効率的だし、物流の中心も大都市圏である。
③東京を中心とした中央集権的な国家形態が取られていることによる中央志向。行政も経済も、大都市圏から経済資源を引き込んできた。隣県より遠い東京を向いていたのである。

 「今年は薩摩による琉球・奄美侵攻400年」と書き出し、そのイベントが各地で開催されているという認識を示しながら、最大の理由であるものに触れないのはなぜだろう。素朴に疑問が浮かぶ。

 ここで重要なのが顧客からの視点である。船で鹿児島から沖縄にかけて島伝いに渡っていくと、自然や文化がグラデーションのように変化していくのを感じる。与論島と沖縄本島との県境は東京、とりわけ海外の観光客にとって意味を持たない。日本の南端として一帯的にプロモートしていく方が効果的ではないか。沖縄のリゾートと鹿児島の温泉という組み合わせも、非現実的ではないかもしれない。

 いずれにしても、交流宣言を具体的なプロジェクトとして形にしていくのはこれからである。その成果によって、沖縄本島と与論島との県境の見えない壁が(事実としてあるにせよ)、人々の意識から薄れていくことを期待している。

  「与論島と沖縄本島との県境」は、「東京、とりわけ海外の観光客にとって」という以前に、それ以上に、ぼくたちにとって「意味を持たない」。意味を消してしまいたい。にもかかわらず、壁だから困っているのである。

 「日本の南端として一帯的にプロモートしていく方が効果的ではないか」というのは、ぼくもそう思う。ただ、こんなことを感じた。先日、法政大学で行われた「日本にとって沖縄とは何か」シンポジウムで、牧野浩隆が、「日本にとって沖縄とは何か」という問いに対して、「日本のレパートリーが増えた」と答えるのを聞いて、なんとも切ない気持になった。牧野はマッカーサーやトルーマンの肉声をテープで流して聞かせてくれたが、そこに沖縄の命運を左右したものを生に触れるように万感の思いを込めているのが分かったから、くさしたくない。けれどそこに万感の思いが込められているから余計に、切なくなった。

 沖縄が日本にプレゼンテーションする。沖縄があれば日本のレパートリーが増えますよ、と。でも、沖縄って琉球って、そんなに小さいか。沖縄は琉球は、小さいけれど、もうひとつの日本ですよ。くらいあってもいいのではないか。もちろん、仲里効 が言うように、牧野も47分の1ではなく、46対1のつもりでと言うのだから、発想はそうなのだと思う。でも、「レパートリーが増えますよ」では、沖縄が小さくなってしまう。そう感じてしまう。また、それを沖縄から言うのに切なさを感じたかもしれない。もしくは、「沖縄はいまブームで元気です」という発言が、どこか空々しく聞こえたからかもしれない。

 でももっと言えば、切なくなるのは、ぼくもそう言いそうだったからだ。沖縄にとって奄美とは何か。「一帯的にプロモートしていく」に際し、沖縄に向かって、奄美を加えたら沖縄のレパートリーが増えますよ。そう自分自身が言いそうなのだ。しかし仮に、沖縄のような開発の触手が伸びたら、いまの奄美が、奄美に経済を還流させしかもむやみに自然を壊さないでいることができるかといえば、その耐性はない、というか心もとない。それならいっそ、「一帯的なプロモート」はないほうがいいのかもしれない。

 去年、大島を訪れたとき、タツヤ旅館の喜入さんは、宿泊客に、沖縄は旅のプランが決まっているところ、奄美は旅の仕方も自分で見つけるところ、と紹介すると聞いて、それはいいと思った。そうなら、「見つけてごらん、奄美」とプロモートするのが合っている。交流は深まったほうがいい。でも、藤木さんが「奄美には昔の沖縄がある」というその差異は、大事だ。だから「一体的な観光誘客を」という牧野の提唱にも、差異を持ったほうがいいのではないだろうか。


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2009/12/23

UNIQLOCK

 ユニクロに寄った。安いユニクロはいつの間にか、安くておしゃれなユニクロになってる。

 「1万円がその場で当たる!」のクジを引いてと言われて、めくってみると、「残念」(笑)。いい感じだったので、回収されそうになったカードをもらってきた。

Uni1Uni2








 ユニクロはウィジェット・マーケティングでもイメージ形成に力を入れてきたが、実態が伴っているように見える。(ブログパーツは音声付きにもできます。このブログパーツが気になる方は、UNIQLOCKへ)。


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浮遊する与論島

 これ、面白い。

 自転車からマラソンに移行?

 琉球弧の島々のなかで、唯一「ヨロン島」とカタカナ表記され、かつ、その場所は、「沖縄本島から南西へ約300km」とある。とすると、八重山近辺にあるということか。ブログのていじんさんも「与論島の説明がなんとなく間違っている気がしますが・・・(ツアー会社のトップページからお借りしました)」、と(笑)。

 間違いを指摘したいのではない。ヨロン島という表記といい位置といい、この浮遊感は与論ならではのものだと思う。


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「振動によるダイカストのセキ折り装置の開発」中小企業庁長官賞

 第7回(平成21年度)新機械振興賞で、与論出身の叔父が中小企業庁長官賞を受賞した。めでたい。

 「振動によるダイカストのセキ折り装置の開発」というテーマ。

 昔からダイカストという言葉は聞いていたが、失礼ながら実のところ、意味を知らない。
 ウィキペディアによると、

ダイカスト(die casting)とは、金型鋳造法のひとつで、金型に溶融した金属を圧入することにより、高い寸法精度の鋳物を短時間に大量に生産する鋳造方式のことである。ダイキャストとも言われる。またこの鋳造法だけでなくダイカストによる製品をもいう。ダイカストをとらえて「鋳物の産業革命」と称す向きもある。

 とある。大学の実習で、熔けたアルミニウムを鋳型に流し込み鋳物を作ったことがあるが、あれを高精度に大量に行う、ということか。

 技術の中味は、

ダイカストで鋳造した物には、製品の他にビスケット、ランナー、セキ、オーバーフローと呼ばれる鋳造時のみ必要で最終製品に不要な部品が付いている。不要部品をエアハンマーで叩く従来の方法では、製品が分離する際に飛散して打跡をつくる問題があった。この装置は、各部品の部位が持つ固有振動数に合わせ振動を加えて、最も弱い部位(セキ)を破断するものであり、部品に対する損傷も少なく、作業の自動化と不良品率の低下を実現できた。

 とある。固有振動数に合わせた振動により部位を破断するという方法は、本質を穿つということを物理的にやっているような連想がやってくる。作業を効率化して歩留まりを上げたわけだ。

 ともあれ、義則兄、おめでとうございます。ゆかてー。


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「薩摩の琉球侵攻400年 指宿市山川で記念事業」

 12月11日の南海日日新聞は、ほぼ全面を使って山川の記念事業を扱っている。その心は?と突っ込みを入れたくなるが、奄美からの唯一のパネラー、花井恒三のコメントが載っている。

花井 奄美市の生涯学習講座で復帰と400年を学ぶ講座を主宰している。この1年間学んだ事をおすそ分けしたい。一つ目は、400年を契機に奄美群島広域事務組合が、奄美の歴史について中学生の副読本を作ることを決めた。二つ目は沖縄、鹿児島両県知事の交流宣言の中にはっとした文字があった。「出兵・侵攻」の連語だ。複雑な思いをしながら、これは沖縄と鹿児島、奄美の歴史観の違いを乗り越えで共生、共存していくことだとくみ取った。

 よく分からないのだが、どうして「出兵・侵攻」の連語が、「沖縄と廣児島、奄美の歴史観の違いを乗り越えで共生、共存していくことだとくみ取」れるのだろう。「出兵」表現でとどめてきた鹿児島だが、沖縄と同席するに当たり、「侵攻」と書かざるを得なかった、ということではないのか。もっとも実際のシンポジウムで原口泉は、かん高い声で楽しそうに「侵略」と口にしていたが。

 三つ目は奄美の黒糖雨明治維新と宝磨治水、木曽川、長良川、揖斐川の改修を実現させた、との話。木曽の人から「奄美に足を向けて寝られない。一度、奄美に行ってお礼を申し上げたい」との言葉があった。

 こう言ってくれるのは木曽の人で、鹿児島からは、山之内勉(マイノリティの視線を)以外、聞いたことはない。

奄美の黒糖がなければ薩摩は薩英戦争に負けて、欧米列強の植民地になったとの仮説もあった。

 ことの順番からいえば、「奄美の黒糖がなければ薩英戦争」を起こすことはできなかった、ということではないだろうか。

日本に奴隷制度はないといわれているが、奄美には「ヤンチュ」という奴隷にも似た債務下人制度があった。薩摩軍の大島侵攻が旧暦3月7日、徳之島は3月20日、沖永良部は3月24日。これらを終戦記念、復帰記念と同じように記念日として残したらいいのではないかという話もあった。

 実際には、もっと含みがあったと思うが、「奄美のトラさんは南も北もじっと見ている」と原口に前振りされての発言はさらりと流されていったように聞こえる。それにしても、「奄美のトラさん」という肩書は、いったい何が言いたいのだろう?


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さようなら、吉田慶喜さん

 昨日、森本さんから吉田慶喜さんが亡くなられたとお聞きした。

 吉田慶喜さんは、『奄美自立論』を書く際に、知りたいことがあり、電話で長い時間、取材をさせてもらった。

 吉田慶喜さんの『奄美の振興開発』の、次の記述がぼくには重要だった。

また、吉田慶喜の『奄美の振興開発』(一九九五年)によれば、一九五四(昭和二九)年、復帰後の奄美に鹿児島県の知事重成を迎えた郡民大会では、奄美の復興に対する声に加えて、「さらに、いまもなお、アメリカ軍政下におかれ、祖国復帰達成のために困難なたたかいを続けている沖縄の 復帰促進のために、全力を尽くされんことを強く訴える」という発言がありました。

 その他にも、奄振の成立過程でお聞きしたいことがあった。取材のなかで、これは自分の推測に過ぎないが、という現場にいた方ならではのエピソードも知ることができた。偶然だが、ぼくの親戚も吉田さん宅に下宿したことがあったとのことで、最初から打ち解けて話してくださったのが嬉しかった。

 交流といえば、それだけだ。会うべき人には無理してでも会うべきである。そういうことが悔やまれる。戦後の奄美でよく闘ったこられたのだと思う。ご冥福をお祈りしたい。


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2009/12/22

鹿児島奄美会・記念誌

 これ、読みたい。

 「鹿児島奄美会が初の記念誌 90年の歩み振り返る」

 鹿児島市周辺に住む奄美出身者でつくる鹿児島奄美会(大野照好会長)は、創立90年の歩みをまとめた初の記念誌を刊行した。郷土の資料や新聞記事を中心に、戦前から現在までの活動記録、鹿児島在住出身者の活躍を紹介している。
 同会は、市内にあった各郷友会の連合組織として、1918年に「在鹿大島郡人会」の名称で発足。戦中戦後は主に奄美からの出征者や引き揚げ者の支援を行った。現在は出身者の親ぼくを目的に毎年総会を開いている。

 しかし、会員数は高齢化とともに年々減少し、現在は約4500世帯とみられる。出身者同士の交流も少なくなったことから、記念誌製作の話が持ち上がった。「奄美への関心が薄い出身者の2世3世に、郷土愛を持ってもらうのが狙い」と、同会の喜入章夫幹事長(58)は話す。
 記念誌には、奄美の復帰運動などで苦労を続けてきた出身者の記録や、郷友会でのソフトボール大会・敬老会の活動まで掲載している。
 B5判526ページ。1500円。申し込みは秋山静夫さん=080(5257)6966。

 申し込まねば。


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400年、節目のイベント ver.13

 琉球大学史学会シンポの資料で、豊見山さんが、「島津の琉球侵略400年関連シンポジウムおよびイベント(稿)」として、今年のラインナップを一覧化している。気づかなかったものもあるのでありがたい。それを含めて更新。計38だ。

 目を見張るのは、北京でもソウルでも行われたことだ。日本より、中国や韓国のほうが関心を持ってくれたのだろうか。


◆2009年、薩摩の琉球侵略400年関連イベント


1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」

 場所:沖永良部島 和泊町歴史民俗資料館
 時期:2009年、年内
 主催:和泊町歴史民俗資料館

2.「近世琉球と日本の関係史再考一島津氏琉球侵攻畑年・江戸立(江戸上り)・絵図資料-」(豊見山和行)

 場所:琉球大学
 時期:1月9日 
 主催:第25回琉大21世紀フォーラム。

3.「薩摩の琉球侵略400年・琉球処分130年・沖縄再併合37年を問う」

 場所:エルおおさか(大阪)
 時期:3月20日
 主催:「天皇即位20年祝賀」反対大阪行動

4.「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」

 場所:沖縄島 那覇市
 時期:3月29日
 主催:「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」

5.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」

 場所:奄美大島
 時期:4月12日
 主催:「道の島400年展」実行委員会

6.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」

 場所:徳之島 亀徳秋津神社境内
 時期:4月15日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

7.法政大「総合講座一沖縄を考える<島津氏の琉球侵攻400年と琉球・島津関係の諸問題>(豊見山和行)

 場所:東京法政大学
 時期:4月17日
 主催:法政大学沖縄文化研究所。

8.「さつま(薩摩)の琉球侵攻と今帰仁グスク」(上里隆史)

 場所:沖縄島 今帰仁村コミュニティセンター
 日時:4月22日(水)18:30~20:00
 主催:今帰仁村文化財資料室

9.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
  テーマ「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」

 場所:徳之島 徳之島町文化会館
 時期:5月2日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

10.シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』

 場所:沖縄島 県立博物館
 日時:5月9日(土)
 主催:沖縄県立博物館・美術館
 共催:榕樹書林・首里城友の会・メディアエクスプレス

11.「琉球侵略400年シンポジウム 
  <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」

 場所:沖永良部島
 時期:5月17日
 主催:知名町教育委員会

12.「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)

 場所:東京 早稲田大学
 時期:5月29日
 主催:早稲田大学 琉球・沖縄研究所

13.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)

 場所:大島、名瀬市
 時期:6月13日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

14.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」(喜山荘一)

 場所:鹿児島市
 時期:6月20日
 主催:奄美を語る会

15.「島津氏の琉球出兵400年に考える―その実相と言説―」

 場所:東京 立教大学
 時期:6月27日
 主催:立教大学文学部史学科

16.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」

 場所:東京 東京外国語大学
 時期:7月5日
 主催:カルチュラルタイフーン2009実行委員会

17.「考古学からみた薩摩の侵攻400年」

 場所:沖縄県立博物館・美術館
 時期:7月12日
 主催:琉球大学法文学部考古学研究室

18.「薩摩藩島津氏琉球侵攻400年展」

 場所:那覇市歴史博物館
 時期:9月4日~(「琉球王国と日本・中国」歴史講座も)
 主催:那覇市歴史博物館

19.「奄美の未来を考える集会」

 場所:鹿児島県教育会館
 時期:10月3日
 主催:「島津藩による奄美・琉球侵略400年・奄美の未来を考える集会」実行委員会

20.「薩摩の琉球入り400年」

 場所:宮城女子学院大学
 時期:10月3日
 主催:<共同研究>南島における民俗と宗教

21.「薩摩の琉球侵攻400年 琉球使節、江戸へ行く!」展

 場所:沖縄那覇市
 時期:10月6日-11月29日
 主催:沖縄県立博物館・美術館


22.「海が繋いだ薩摩-琉球 〔交錯するヒトとモノ〕」

 場所:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館
 時期:2009年10月16日(金)~2010年1月13日(水)
 主催:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館

23.沖縄県博文化講座「琉球使節像の変遷と対日本関係・屈辱・偏見から「御取り合い」へー」(豊見山和行)

 場所:沖縄県立博物館
 時期:10月17日
 主催:沖縄県立博物館・美術館

24.「薩摩侵攻400年・琉球処分の軌跡一琉球王国の解体と東アジア秩序の転換-」

 場所:韓国 ソウル大学
 時期:11月3日
 主催:韓国「琉球・沖緒学会」

25.「奄美と沖縄をつなぐ」

 場所:新宿区箪笥区民ホール
 時期:11月14日
 主催:奄美と沖縄をつなぐ実行委員会
 
26.「薩摩侵攻400年シンポジウム」

 場所:喜界島
 時期:11月14日
 主催:喜界島郷土研究会

27.沖縄県樽文化講座「シンポジウム<琉球使節のすがたを求めて>」

 場所:沖縄県立博物館
 時期:11月21日
 主催:沖縄県立博物館・美術館

28.「沖縄・鹿児島連携交流事業」

 場所:奄美大島
 時期:11月21日
 主催:沖縄県

29.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」

 場所:神戸市
 時期:11月22日
 主催:徳之島を考える有志の会

30.「アジアの中の琉球・沖縄400年」

 場所:那覇市県立博物館・美術館講堂
 時期:11月27日
 主催:沖縄タイムス社 朝日新聞社

31.「琉球・山川港交流400周年事業」

 場所:鹿児島県山川
 時期:11月28日
 主催:「琉球・山川港交流400周年」事業実行委員会

32.「薩摩侵攻四百年を考える-史学の諸分野と地域-」

 場所:琉球大学
 時期:12月12日
 主催:琉球大学史学会

33.「薩摩侵攻四百年・奄美の歴史の見方考え方」(高梨修)

 場所:名瀬公民館金久分館
 時期:12月12日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

34.「<無国籍>地帯、奄美諸島~琉球侵攻400年を振りかえる~」(前利潔)

 場所:鹿児島県立短期大学
 時期:12月18日
 主催:鹿児島県立短期大学

35.「琉球与東亜国際関系学術研討会一薩摩入侵琉球400周年、日本“琉球処分”事件130周年-」

 場所:中国 北京大学
 時期:12月18日-19日
 主催:中国日本史学会・北京市中日文化交流史研究会・北京大学東北亜研究所

36.「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」

 場所:沖縄国際大学
 時期:12月19日
 主催:沖縄国際大学総合研究機構南島文化研究所

37.「日本にとって沖縄とは何か - 沖縄史の三つの転換期を再考する
   ―薩摩琉球入り・侵攻400年、琉球処分130年、沖縄復帰―」

 場所:法政大学
 時期:12月19日
 主催:法政大学沖縄文化研究所・国際日本学研究所

38. 「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島」これからの奄美諸島史

 場所:奄美サンプラザホテル
 時期:12月20日
 主催:「ホライゾン」創刊15周年記念シンポジウム&祝賀会実行委員会


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2009/12/21

「記憶のなかの戦後65年」

 「日本にとって沖縄とは何か」シンポジウムのレジュメのなか、ぼくが衝撃を受けたのは、我部政明の「記憶のなかの戦後65年」のなかの次の一節だ。

 論争しあっているときに、相手の意見を「それは感情論だ」と指摘する人がいる。それは、「忘れてほしい」、「水に流してほしい」という自らの要求を示しているにすぎない。しかし、相手の抱く忘れがたい記憶がうれしいとか悲しいという感情に包まれている記憶であることを忘却してしまった主張である。「感情論」指摘を持ち出すとき、それは議論の一方的打ち切り宣告の役割を果たしているにすぎない。

 この400年の問題をめぐっても、歴史は両者の視点で見なければならない、とか、もう片方だって苦労したという点を忘れてはならないという言及が見られることはあった。そういう言説に出会うと、そのあまりの正しさに、言葉を失ってしまう。そして思わず感情が噴き出しそうになるのだが、それらの言説には、「それは感情論だ」という言葉が次に用意されている。

 我部の言い切りは、そうして言葉を無くしてしまう者に、そうする必要はないと言ってくれているように聞こえてくるのだった。


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2009/12/20

「琉球王国の形成と奄美諸島-古代・中世の奄美諸島」

 syomuさんが送ってくれて、今日の南海日日新聞を見る。「琉球王国の形成と奄美諸島-古代・中世の奄美諸島」。曰く、「奄美研究を今後の沖縄研究の中核に位置付ける必要性を強調した」。

 記事を見る限りだが、これはなんというか、奄美を思いやったシンポジウムだったのではないか。

 高梨氏は「考古学からみた日本の南漸」と題し、群島内で発掘された土器などの文化財から南西諸島の変遷と合わせ、喜界島の城久遺跡群に見られる「在地性」の低さや、徳之島のカムィヤキ古窯跡群出土から、南西諸島の文化が奄美を出発点に広がった可能性を強調した。

 弥生勢力の南下の実態を次第にぼくたちは知るようになっているのだろうか。かつて、奄美、沖縄には古い日本が残っているというときの、その古さの根拠だ。

 また、吉成氏は「神話にみる奄美諸島の南方的要素」をテーマに講演。沖縄に分布する創世神話に奄美の方言でヤドカリを指す「アマン」や「アマミキョ」と呼ばれる神が多く登場することなどから、「奄美」の地名は「アマン」に由来しているのではないかとの私見を説明した。

 ぼくなども、「奄美」を「アマン」と結び付けて考えているので、とても共感できる。ただ、吉成も考察するように、アマは油断ならなく、天とも雨とも海とも結びつく。それが奄美=アマンについて確信的になれないところなのだ。

 講演に続いてあったパネルディスカッションで、パネリストは「奄美の遺跡が秘めた重要性に地元が気付いていない。まずは地域が重要性を精査し、中央に発死因していくことが必要」(高梨氏)、「奄美研究が一定の成果を示す中で、沖縄研究の従来の在り方を見直す絶好の機会を迎えたといえる」(吉成氏)などと述べ、奄美研究の重要性を訴えた。

 これは奄美への励ましであり叱咤激励だと思う。報告の詳細を知りたいが、世間が400年でかまびすしいなか、落ち着いた研究成果の発表の場を作ったことはとても意義があると思う。


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「薩摩侵略400年 東アジア視点に研究発表」

 昨日、沖縄国際大学で行われた南島文化市民講座(「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」)の記事(琉球新報)。

 「外交・貿易 幅広く議論/薩摩侵略400年 東アジア視点に研究発表」

 京都大学の夫馬(ふま)進教授は、中国や朝鮮からみた薩摩侵略の意味を検証。1724年、北京で琉球と朝鮮の使節が接触した際の史料を紹介し「国交がない両者の接触はよそよそしいものだったが、琉球使節は(侵略後)独自の『外交』指針を見いだそうと模索していたのではないか」と提起した。

 琉球大学の豊見山和行教授は、薩摩侵略と、ほぼ同時期に江戸幕府が台湾に出兵した際の外交政策が共通していると指摘。「幕府は薩摩の捕虜である琉球の尚寧王らを外交使節として仕立て、将軍へ『返礼』に出向いたと位置づけていた」とその概要を解説した。

 奄美史研究者の弓削政己氏は、薩摩藩が奄美大島を介してオランダ貿易を構想していた事実を説明。薩摩藩が幕府に対して秘密裏に琉球、奄美諸島を支配し搾取するために「隠蔽(いんぺい)政策」を行っていたことを説明した。

 沖縄大学の西里喜行教授は、薩摩侵略前後や明朝・清朝の交代時期、廃琉置県(廃藩置県)時など、琉中関係の変遷を解説。「中国側の倭乱(わらん)(薩摩侵略)の認識は時期によっても相当の違いがある」と強調した。

 弓削のいう奄美大島におけるオランダ貿易構想は、幕府に対する奄美直接支配の隠蔽を背景にして成り立っているという理解がポイントだと思う。

 他の方の発表の詳細も知りたい。


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「徳之島 歴史を超える歌の力しまうた・七月踊り・シンポジウムの祭典」

 400年イベントの報告で挙げそびれていたもの。
 「徳之島 歴史を超える歌の力しまうた・七月踊り・シンポジウムの祭典」(徳之島を考える有志の会主催)。11月22日開催。

 シンポジウムには進行役の大橋愛由等さん図書出版まろうど社)と、米川宗夫さん(瞑者、井之川出身)、酒井正子さん(川村女子学園大学教授)が登壇した。
 大橋さんは沖縄、鹿児島両県知事の交流拡大宣言に触れ、「交流拡大を期待する声がある半面、奄美の民衆の支持がなく、頭ごなしの調印に反発もある」と報告。米川さんはと徳之島の唄には『徳之島しゅんかね節のように、物語性のあるものが多い」と指摘した。

 酒井さんは「こっけい、骨太なユーモアと即興精神、素朴さと懐かしみが徳之島の唄の特徴」と前置きした上で、「夏目踊りには男女が掛け合いかがら歌う力動感があり、ハメツケに高揚がある」と説明した。さらに、「400年」にも言及、「目手久集落(伊仙町)の田植え歌の歌詞に徳之島の人たちの反骨精神が表れている」と指摘した。
パネラーの報告を踏まえ、大橋さんは「今の生活には直結しないかもしれないが、この400年の間に薩摩藩や鹿児島県から受けた徳之島の記憶は島唄や田植え歌の中に歌い込まれている。400年の思いが継承されていることが確認できた」と総括した。シンポに続いて再び歌と踊りが始まり、「ワイド節」「六調」でにぎやかに締めくくった。(南海日日新聞」12月3日)

 神戸には、1500円払って150名が集う徳之島のコミュニティがある。すごい力だと思う。さすが徳之島だ。「こっけい、骨太なユーモアと即興精神、素朴さと懐かしみ」。徳之島気質でもあるかもしれないですね。


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2009/12/19

「Horizon」vol.30

 「Horizon」vol.30 が手元に届く。

 「奄美諸島・歴史入門」がある。これは豊かな達成だ。解説の他、市來美穂さんのイラストがすごくいい。

 ここからぼくの課題を受け取れば、与論の歴史入門は与論の人でやらなければならない、ということ。
 
 もうひとつは、ここにぼくが付け加えたいのは、奄美の精神史、とりわけ知りたいということでいえば、奄美の精神の考古学だ。それがなければ、ぼく自身に、奄美に触れた気がしない。


Horizon1_2

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「日本にとって沖縄とは何か」

 「日本にとって沖縄とは何か」シンポジウムのその場レポート。ぼくとしては、ずっと、「日本にとって奄美とは何か」という問いを考えずにはいられなかった。紙屋さん、真栄平さんの話は、紙上でも読んだことがあり、あまりメモを取らなかった。あとで後悔。

 ヨーゼフ・クライナーの話には、奄美も含まれていて感銘を受けた。


◆13:00─13:50 紙屋敦之(早稲田大学文学学術院教授)
       「薩摩の琉球侵攻―東アジアの中の琉球―」

 徳川は1610年、「琉球は代々中山王が国になれば」として、日明貿易の仲介を期待して、琉球王国の存続を命じる。

 メモ。これは薩摩にとっては、奄美の直轄領化を幕府に対して隠蔽する動機の強化を意味したに違いない。


◆13:50─14:35 真栄平房昭(神戸女学院大学文学部総合文化学科教授)
       「女性史から見た薩摩の琉球侵略─その歴史と伝承─」

 歴史を人間の視点からみる。それを可視化するために、「女性」の視点を導入しているのだと思う。
 これまで三千の兵がいながら徹底抗戦しなかったのはなぜか、という問いかけがあったが、女性の身柄の安全を確保するためにそうしたという考え方も成り立つのではないか。

 薩摩は琉球における女性の知行権を廃止しようとした。しかし琉球においては女房衆」の抵抗によって実現しない。しかし、奄美では強く実行された。

 (メモ。沖縄本島のハジチ。アマングヮは、左手の手首にある。)

 世界的にみると、女性だけが入れ墨をするのは珍しい。ここには幕藩体制下の異国的要素が現れている。


◆14:35─15:30 Rosa Caroli ローザ・カーロリ(ベネチア大学日本学科教授)
       「沖縄県設置における尚泰氏の役割をめぐって」

 尚泰(首里1843-東京1901)。
 尚泰の従順な態度は沖縄の日本政府に対する態度の象徴としてみられてきた。尚泰の悲劇的でロマンティクな人物像は、それにふさわしいものだった。

 1872年7月。王制一新の慶賀を理由として明治政府から上京を命じられる。9月。琉球藩の設置。尚泰王は琉球藩王となる。1875年から4年間、3回も松田道之は那覇を訪れる。1879年3月、沖縄県設置。尚泰は首里城の明け渡しと東京への出発命令を受ける。

 4月27日、尚泰の長男、尚典は、那覇を離れ、5月2日、東京に到着。5月19日、尚泰は上京を決断。6月9日、上京。6月17日、東京在住を命じられる。「以上の経過を経て、琉球処分は、国内的には完結した」。

 尚泰での在住を永続的なものと考えたかどうかは明らかではない。明治政府は、いつ東京を尚泰の永続的な居住先と考えたのか。

 尚家からみれば、尚泰が次男まで東京に連れて行ったのは、沖縄に尚家の王位継承者がいなくなることを意味した。

 尚泰の悲劇的でロマンティクな人物像は、部分的に過ぎない。尚泰の果たした役割は再考する必要がある。

 (うまく聞き取れず、メモが不完全。申し訳ない)。


◆15:40─16:25 牧野浩隆(沖縄県立博物館・美術館館長)
       「日本の安全保障と沖縄経済」

 沖縄では知事選で安保反対かどうかが争点になる。
 1948年、東西冷戦の勃発を背景として、日本の範囲から Ryukyu Islands が外される。

 (マッカーサー、トルーマンの肉声をテープで流す)

 ドッジ・ライン 日本の為替レートは、1ドル360円。沖縄は、1ドル120円。結果、沖縄では製造業は育たず、輸入して販売する第三次的なものになった。

 復帰時の沖縄問題。輸入依存体質と100%自由化(同時期、日本は20%と国内産業保護)。
 オイルショック後、公共事業、基地経済、観光客(3K)。

 いちばん問題になっているのは、基地問題。基地問題は日本の問題であることを分かってほしい。
 いま沖縄は元気です。沖縄ブームです。いまの沖縄振興開発計画は、格差ではなく沖縄の優位性を確立をテーマにしている。地方分権の流れからいうと、沖縄の「違い」が生きていく時代になる。

 日本にとって沖縄とは何か。日本のレパートリーが増えたこと。
 沖縄にとっては、日本は基地の問題である。


◆16:30─16:50  Josef Kreinerヨーゼフ・クライナー(法政大学国際日本学研究所特任教授)
       「琉球・沖縄史学や文化人類学から沖縄のアイデンティティを考える」

 沖縄からみて琉球侵攻、侵略。薩摩と同じく、沖縄も一枚岩ではなかった。
 尚寧は、駿府城は王として遇されたけれど、沖縄に帰るときには、掟十五条が出されることになった。そこでは、戦争責任の問題への言及もあった。

 西アフリカでは、人買いのために宝貝を使った。オランダ東インド会社は、最初、沖縄から直接、ついで薩摩から宝貝を購入した。

 国史の編纂。『中山世艦』。侵略から40年後。和文で書かれる。鑑。源為朝伝説も取り入れられる。政治的な理念にバックにある。序文で、「沖縄は元来日本である。人間も五穀も日本から渡ってきたもので日本は即ち本である。本にそむくものは禍に逢う。」

 しかし一枚岩ではない。『中山世譜』。これは漢文。二重的な考え方。
 この二重的な考え方は、他にもみられる。「琉球国由来記」と「琉球国旧記」。日本や中国に要求されたものではなく、琉球のイデオロギー。

 明治十年代、二十年代を通じて、改めて、自分たちとは何かを問う機会が訪れた。代表的な研究者が伊波普献。琉球の言語。結論は、昭和14年、1939年の『日本文化の南遷』。これは、『中山世艦』と同じ構造。

 沖縄の人は、日本人に150%、なりたいと思った。
 柳宗悦の講演を発端とした、「方言論争」。柳田國男、『海南小記』。大きなビジョン。佐多岬に立ちながら、日本文化の北上。「飛石説」。もうひとつ、「周圏論」。沖縄は柳田の説に従うと、二重の意味で日本の古い文化を持つことになる。沖縄の研究者は喜んで受け入れた。

 折口信夫。神々の来訪。若者が仮面仮装して演じる。日本の基層文化として説明している。『まれびとの意義』。柳田と折口、二人とも、沖縄は日本の古い文化を残している、とした。
 
 石田英一郎。「琉日同祖同系を強調するのあまり、沖縄人自身のエートノスの全体的把握や非日本的な要素の究明について、なお見落とされた・・・」

 沖縄は大切。大和中心と琉球中心。奄美を含めても、琉球は日本の1%。しかし文化を含めてみると、日本の半分を占める。沖縄を視野に入れてはじめて日本の文化の全体がつかめる。


◆16:50─17:30 我部政明(琉球大学法文学部教授)
       「戦後沖縄における自己像」

 「沖縄にとって日本は何か」。
 「記憶」。戦後の時間のなかで自分たちはどう考えてきたか。
 沖縄戦。教科書問題では、戦争を体験していない人も、おかしいと声を挙げた。沖縄では共有された記憶になっている。身体的な記憶は忘れにくい。単なる記憶以上に感情がからみつく。そのことを身近で聞くと、聞いた人にも影響を残す。

 (奄美のように、記憶の忘却をしてきた民はどうなるだろう。感情はあるのに言葉がない。)

 戦後、沖縄から日本から切り離された。それは完全ではなかった。完全に切り離されたのであれば、また沖縄の感情は違ったかもしれない。そこで、沖縄の人は、沖縄の人は日本人だろうかと考えざるを得なくなった。

 (ここは、奄美も同様に考えることができる)。

 日本人になりたいと思ってきたけど、日本人として扱われているか、という疑問が起こってくる。やっぱり日本人じゃないのかな、いやでも日本だしな。答えが出ない。

 これらが沖縄の自己像。

 このような理解の仕方は間違っているかもしれないが、メタファーを使った理解の仕方は妥当にも思える。

 沖縄の人たちは沖縄に米軍基地がってうれしいとは思っていない。アメリカも沖縄に豊かさをもたらすために基地を考えているわけではない。だから、基地のメタファーをニライカナイとみなすわけにいかない。


◆17:30─18:15 総括討論

 (得能壽美、我部政明、ヨーゼフ・クライナー、牧野浩隆、ローザ・カーロリ、真栄平房昭)」

 日本にとって沖縄とは何か。沖縄にとって日本とは何か。

真栄平。

 日本が東アジアへ起こした戦争。秀吉に始まる。戦争の記憶。1609年の戦争。日露戦争は沖縄の人が日本人のアイデンティティを持ち始めるきっかけになったのではないか。『坂の上の雲』の沖縄バージョンがあったのではないか。

 日本の中の異国。それは、琉球的な風俗が異国的であったことも寄与している。ところが明治になって、かなり日本的になってくる。

ローザ・カーロリ。

 尚泰にとって日本とは何だったのか。面白い問いだけれど、資料が少なく答えるのが難しい。

牧野浩隆。

 近代は中央集権的な動き。ここ20~30年は道州制などの地方分権的議論。重ならない部分は地域の特性。これは県庁を叱咤激励するときの言い方だけれど。1/47ではなく、1対46で考える。しかし、いまだに遅れているものは何か、という目でものをみてしまう。

ヨーゼフ・クライナー。

 安良城盛昭。日本でありながら日本のなかに、より柔軟な役割を果たした沖縄。高良-安良城パラダイム。
 少し前の沖縄ポップで沖縄の人は少し自信がついたんじゃないか。東西ドイツの統一によって東ドイツは、沖縄のような働きはできなかった。

我部政明。

 沖縄にとって国家とは何か。国家は目に見えない。国家に意思があるかというと、ないんじゃないかと思う。固定的な風に見ないほうがいいんじゃないか。歴史の話をすると、人が見えなくなる感じがする。日米関係もあまり説明的に理解しようとすると、間違うんじゃないか。人間が歴史を作っているんじゃないか。


普天間問題。

牧野浩隆。

 危険性の論理と反戦平和の論理。

我部政明。

 アメリカは普天間基地を危険だとは言わない。日本側からの要請でやるんだという理解をしている。日本側も、危険というのは沖縄の人が言ってるんだという言い方は変わってきている。

Kc380188

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「ただの唄」(「唐獅子」13)

 「異種格闘型トークセッション」が終わると、藤木勇人さんの噺へ。両親の故郷、奄美大島へ行ったときのこと。奄美ではまだ洗骨が行われているのに驚き、かつての沖縄の姿をそこに見出す。笑いのなかに哀しさを湛えて、語りは豊かにほぐされて次の部へ境なくつながっていった。

 「新感覚シマウタコンサート」は、新城亘さんと持田明美さんが奄美と沖縄のシマウタの三線、奏法、唄い方の違いを解説。そこから先、いよいよ誰も体感したことのないだろう唄の流れを聴くのだった。

 あの哀切極まりない大島の「行きゅんにゃ加那」は、徳之島で「取ったん金ぐわ」、沖縄島では「とぅーたんかに」、また沖永良部島では数え唄にもなり、哀切とは別の方へ音色が変わるのが不思議だ。

 石垣島のシシャーマ節、沖永良部島の稲しり節と徳之島の稲すり節を辿ると、徳之島と沖永良部島のあいだの音階の違いがよくわかる。

 「十九の春」の系譜では、七歳の中山青海ちゃんが「与論小唄」を唄うと、自然と手拍子と笑いが沸き起こる。続くソウルフラワーユニオンによる「ラッパ節」も出色で、かつ後半の盛り上がりを用意してくれた。

 「畦越え」では、徳之島の「畦越えぬ水節」、宮古島の「川満の笠踊り」、竹富島の「じっちゅ」、沖永良部島の「奴踊り」、の、似ているけど違う、違うけど似ている流れが面白い。そして踊らずにはいられない沖縄島の「唐船どーい」がやってきた。そして最後は「六調」へ。

 「六調」は、奄美大島と八重山のの六調が披露される。ぼくはこれまで奄美の唄会に行くと終わりが決まって六調なのを馴染みなく感じてきた。「唐船どーい」と「六調」を両方聴くのが密かな願望でそれが適った格好になったのだが、八重山のそれと聴き比べると、奄美大島の六調の激しさは意外な発見だった。

 優れた唄者と踊り手たちが、流れるように唄い継いでくれたおかげで、藤木さんの解説を挟んだ途切れない構成は、唄のつながりの贅沢な演出にもなった。もちろん最後はみんなで踊った。企画、構成した持田さんは奄美、沖縄民謡というジャンルを越えた「ただの唄」が見えたと語るが、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントが実現できたのがそれだとしたら嬉しいと思ってきた。今、ようやく手に入れた当日のDVDを観て、ぼくも同感する想いだ。(マーケター)

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2009/12/18

「東アジアの中の琉球 ―島津氏の琉球侵略400年を考える―」

 再紹介だが、19日土曜は、沖縄国際大学で400年関連イベントが開かれる。

 第31回 南島文化市民講座

 「島津氏の琉球侵略400年」と、「侵略」を明記した名称である点が新鮮だ。駆けつけたいが果たせない。どなたかレポートを書いてくれるのを期待しよう(虫がいい)。

講座タイトル 「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」

研究発表(PM1:10-2:50)

1.夫馬 進(京都大学教授)
1609年、日本の琉球併合と中国・朝鮮の対応

2.豊見山和行(琉球大学教授・南島文化特別研究員)
江戸幕府の外交秩序と琉球ー「御礼」と保護ー

3.弓削政己(奄美史研究者・南島文化特別研究員)
道之島の成立と幕末の奄美諸島ー琉球開国要求と奄美諸島内部の施策の変化

4.西里喜行(沖縄大学教授・南島文化特別研究員)
中琉関係史における「萬暦の倭乱」とその周辺ー「併合」と「両属」の間ー

全体討論(PM3:10-4:50)

進行 田名真之(沖縄国際大学教授)

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2009/12/17

間をつなぐ言葉

 MT FORTUNEさんとツイッターで話していてふと、思った。

 いまの奄美は、大声で叫ぶことと沈黙とが共存している。両者は距離が大きいように見えるけれど、でも、同じなのだと思う。どちらも、叫びか沈黙によってしか語ることができないという点では。ぼくたちには両者をつなぐ言葉が必要なのだ。

 ところで、沖縄・鹿児島両県の知事による奄美大島での交流宣言とは、その大きくあいた間を通り過ぎることで実現させてしまったのではないか。そうなら、ぼくたちが避けなければいけないのは、この間隙を素知らぬ顔で、もう問題はない、いまさらと涼しげな顔で通り過ぎていかれて、なし崩しにされてしまうことではないのか。

 泣く子と黙る子、そこのけそこのけ、なし崩しが通る。

 今週末の「見えかくれする薩摩侵攻以前と 以後の奄美諸島」が、それにならないことを願う。


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「日本にとって沖縄とは何か - 沖縄史の三つの転換期を再考する」

 400年イベントはまだ尽きてない。しかも東京開催。

 「日本にとって沖縄とは何か - 沖縄史の三つの転換期を再考する ―薩摩琉球入り・侵攻400年、琉球処分130年、沖縄復帰―」

 ウィルヘルム・ヨハネスさんに教えてもらった。

法政大学沖縄文化研究所・国際日本学研究所  国際シンポジウム 日本にとって沖縄とは何か 沖縄史の三つの転換期を再考する 薩摩琉球入り・侵攻400年、琉球処分130年、沖縄復帰

場所 法政大学ボアソナードタワー25階B会議室 
日時 2009年12月19日(土) 13:00~18:15      

13:00─13:40 紙屋敦之(早稲田大学文学学術院教授)
       「薩摩の琉球侵攻―東アジアの中の琉球―」

13:40─14:20 真栄平房昭(神戸女学院大学文学部総合文化学科教授)
       「女性史から見た薩摩の琉球侵略─その歴史と伝承─」

14:20─15:10 Rosa Caroli ローザ・カーロリ(ベネチア大学日本学科教授)
       「沖縄県設置における尚泰氏の役割をめぐって」 

15:30─16:10 牧野浩隆(沖縄県立博物館・美術館館長)
       「日本の安全保障と沖縄経済」

16:10─16:50  Josef Kreinerヨーゼフ・クライナー(法政大学国際日本学研究所特任教授)
       「琉球・沖縄史学や文化人類学から沖縄のアイデンティティを考える」

16:50─17:30 我部政明(琉球大学法文学部教授)
       「戦後沖縄における自個像」

17:30─18:15 総括討論

 ほんのちょっと、ほんのちょっとだけ欲を言うと、奄美はまた陰扱いかなというさびしさが過ぎる。お、またいじけやすさ発揮か(苦笑)。

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奄美テレビのインタビュー取材を受けました

 昨日、奄美テレビのインタビュー取材を受けました。一連の400年イベントをどう感じたか、と。

 急な話と短い時間だったこともあり、意図をよく汲んでないわ、あとで気づくに番組名も放送時間もおぼつかない。何やってるんだろう、おれ状態です。

 ご覧になる方いらしたら、笑ってやってください(苦笑)。



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2009/12/16

「旅する文体」(「唐獅子」12)

 28日の土曜日、浅草の神谷バーで開かれた、酒井卯作さんの『南島旅行見聞記』(森話社)の出版記念祝賀会にお邪魔した。

 『南島旅行見聞記』は、柳田國男が沖縄、奄美を旅したときにつけていた手帳のメモに丁寧な注釈を施して本にしたものだ。このメモは後に、あの『海南小記』として姿を現す。つまり、『海南小記』の素には、柳田のどんな見聞が控えているのか、それを知ることができるのだ。

 柳田は加計呂麻島で、「出逢う島の人の物腰や心持にも、まだいろいろの似通いがあるように思われた」。距離と時間と、「もうこれ以上の隔絶は想像もできぬほどであるが、やはり目に見えぬ力があって、かつて繋がっていたものが今も皆続いている」と、『海南小記』に書く。柳田はこれを三百年の時点で言うのだが、四百年の時点でも同様に感じ、奄美と沖縄のつながりを注視するぼくにとって、この一節は特に心に残っている。

 柳田は何を見て「似通い」を感じたのだろう。そんな関心から『南島旅行見聞記』を覗くと、たとえば「カケロマ島呑浦のおくにて、路傍の川に薯を洗ひしおりの風体全く昔のまゝ、沖縄人と同じきもの」というメモがあり、「似通い」の一つはこれだったろうかと想いを馳せた。

 『南島旅行見聞記』には、柳田門下の酒井卯作さんのエッセイが添えられている。そのタイトルは「旅する貴族」。官を辞した柳田というイメージは持っていたが、貴族のそれは無かった。しかし酒井さんは、格式の要る袴に白足袋という旅姿の向こうに貴族のイメージがあるのを教えている。酒井さんの「旅する貴族」は、官を辞した本当の理由に迫るところから、身近に肉声を聞いた人ならではの寄り添い方で柳田の素顔を浮かび上がらせる。ときに読者に問いかけ、道草をしながら、琉球に魅入られる過程に肉薄していくこのエッセイは、「旅する文体」だ。

 神谷バーでの酒井さんはしきりにこんな本のためにと恐縮してらっしゃったが、八十を過ぎてなおかくしゃくたる姿に、歩いて考えてきた民俗学者の芯を見るようだった。

 このところ四百年にまつわるイベントに神経を尖らせることが多く、勢い目の前に視野を奪われる。しかし奄美と沖縄の境界のない酒井さんの話は、こうありたい理想を見るようで安らぐ。多くの人が本を手にとってくれますように。(マーケター)


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2009/12/15

「与論町全域に光ファイバー」

 奄美では、名瀬、和泊についで、だという。光ファイバー。

 高速大容量通信を実現する光ファイバーが1日、与論町全域で開通した。同町の琴平神社とNTT西日本鹿児島支店(鹿児島市)をインタ「ネット中継した記念式典を開催。関係者約100人が出席し、情報通信インフラを活用した産業振興や企業誘致に期待した。(「南海日日新聞」12月2日)

 「産業振興や企業誘致」というより、その前に、コミュニケーション振興を図るといいと思う。コミュニケーションが交流を生み、交流が来島を生むという流れ。特に与論のようにちっちゃな島は、コミュニケーションを巨大にするといい。会って人見知りをクリアしたら親しくなる力は圧倒的なのだから。コミュニケーション・アイランドへ、だ。


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2009/12/14

差異の異議申し立てあるいは思考譲渡

 「系図差し出しは島役人の身分保全のため」という弓削政己の報告の衝撃が去らない。奄美はいままでいったい何をやってきたのだろう。

 ぼくの場所からはこの報告の詳細を知ることはできない。知る前に何ごとも断定的に言うことはできないだろう。しかし、弓削の史実に対する常の誠実さからこれを現段階で、妥当なものとするなら、ぼくたちはこれをどう受け止めることができるだろう。

 「奄美は琉球ではない」という規定が露わになった1623年の「大島置目の条々」で、島人は身分差なく百姓という視線は内包されていた。しかし、1728年の「大島御規模帳」では、それは「御蔵入りに成り候ては、皆百姓にて候」と明確に強調されることになる。そこで再度、強調されるものの、その前の1695年には、「皆百姓」であることに対する異議申し立てがあったことになる。これは、「奄美は琉球ではない。大和でもない」という二重の疎外が、奄美全体を同一化して見なすことに対する、琉球侵略以前の差異を根拠にした異議申し立てであっただろう。その意味では、政治的に琉球であったときの差異を、薩摩内において復活させる意味を持つものだった。

 しかし、琉球から薩摩へ、上層を統べる者は誰であれ構わないというなりふり構わぬ挙措のなかに、思考は収奪されたのではなく、譲渡したものだという実像が浮かび上がってこないだろうか。これがその後、島役人だけが富裕になり膨張する背景に当たるものだ。

 これは、島役人の末裔が、個人の煩悶を歴史と解するような特権的な思考形態に陥ったり、鹿児島の教科書に黒糖収奪について、ともに明治維新を築いたという記述を求める能天気さとなって現れるように、現在も去らない生々しさを持っている。

 これらは直観的な記述に過ぎないが、なにごとか言わずには済まなかった。奄美は自らをえぐりださなければならない。


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奄美を題材にした授業

 「奄美と沖縄をつなぐ」イベントに来ていただいた方からお便りをいただいた。中学校の先生なのだが、驚くことに授業で奄美の自然環境を題材にしているという。

 黒砂糖を配る、サトウキビを配る。サトウキビとイネを比較させて両者の違いを気づかせる。マングースやイタチが入ったことで生態系はどうなったか、教える。そして、ここから1609年のことにはいる。1609年に奄美で何が起こったか。奄美は、大型船の建造を禁じられ、貨幣の流通を禁じられ、黒糖の生産を強いられる。それはどういうことなのか、想像してもらう。そして最後、生徒たちにこう問いかけるのだという。

「あなたが映画のディレクターだとしたならば、この奄美と薩摩に関わる当時のようすを映画化するときに「奄美からの視点」と「薩摩からの視点」のどちらの立場に立ちますか?」

 この過程で、奄美の被害だけに触れているのではない。薩摩の農民も、重税については同等であったことも伝えているのだが、この落とし所、どちらが正しいか、ではなく、どちらの立場で映画を撮りたいですかという問いかけは、単純な倫理への短絡に緩衝帯を設けるものだと思う。

 ぼくはこの授業形式に驚いた。そして、ぼくがもし中学校の教師だったら、こんな授業が組めるだろうか、と自問して、できないかもしれないと思った。

 語るに値しない。そう思い続けてきた思いこみがあって、とても授業の遡上に乗せるという発想ができそうにない。あるいは、自分がやると想定したとき、鹿児島で行うことを無意識に思い浮かべてしまうからかもしれない。彼の地でやったなら、父兄の前に、学校側から反発や圧力を受けるに違いない。もしかしたら生徒にも反撥に似た反応があるかもしれない。いやぼくは、こうした反発が想定されるからできないというのではない。そんななかで冷静にこの内容の授業を行うのは難しいと感じるのだ。

 でもよく考えると、これらのことは思いこみであって、率直に行えばいいだけのことではないのか。この方からのお便りは、何かをする前に、諦めている自分を気づかされる想いだった。この一年、400年関連イベントに目を凝らし、何度もなんども同じテーマをめぐって考えてきた。ふつうにみれば、なぜここまでこだわるのか不思議にも見えるだろう。自分でもおかしいのではないかと内省する瞬間もあるなか、こうしたお便りをいただけるのは望外の嬉しさだった。ちなみにこの方は奄美の出身ではない。奄美外の人に伝える努力をすること。伝わることはあるということ。そういう励ましを受け取る。そういう意味では、400年をめぐる出来事のなかでは今年もっとも嬉しいニュースだった。


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「奄美ビール」

 土曜は、「奄美の家」で弟とささやかに忘年会をしたのだけれど、棚を見て、ふと頼んだのが、奄美ビール。

 で、これが美味だった。うまかった。
 圓山さんには、奄美の水を使っているとか、聞きました。奄美が潤うようになっているといいなと思った次第。そうでありますように。


Amamibeer

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系図差し出しは島役人の身分保全のため

 「第42回 琉球大学史学会大会」の琉球新報、記事(12月13日)。弓削政己の報告は衝撃的だ。

 琉大史学会シンポジウム:「薩摩の影響、相撲にも」 各分野から活発意見

弓削氏は歴史学の観点から、奄美の役人「与人(よひと)」が薩摩に系図を提出している1695年の「差上(さしあげ)」に触れ「与人を百姓と受け止めるような何らかの出来事があり、それを阻止するために薩摩へ提出したものだ」として、系図差し出しは彼らによる身分保全のためだったと指摘した。

 1695年の系図提出は、これまで薩摩による強制と言われてきたものだ。ぼくもこれを薩摩の思考収奪の例として挙げてきた。ところがどうだ。系図提出は、島役人の保身のためだというのだ。これでは、進んで思考を収奪させたようなものだ。

 切に詳細を知りたい。もし弓削の言うとおりだとしたら、いままでなぜそういう理解にたどり着けなかったのか。いったい奄美は何をやってきたのか。深刻な問題が横たわっていると思う。


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2009/12/13

「奄美自由大学」

 ぼくは参加も関与もしているわけではないけれど、この間、「奄美自由大学」が奄美、沖縄で開催されたのを知った。備忘として書いておく。


 奄美自由大学と『群島-世界論』シンポジウム(Saudade Books)


 巻かれて舞いて奄美自由大学(ことば鉄道のホーボー by A.Daidow)

 一部だけの引用だけれど、

珊瑚礁の宮殿・ユンヌ(与論島)から沖縄ヤンバルへ

 「珊瑚礁の宮殿・ユンヌ」の表現は素敵だ。初耳。

 「<群島-世界>波打ち際」(MON PAYS NATAL)

 高良勉も紹介文を寄せている。

 言うまでもなく、与論・沖永良部と奥・辺戸とは、北山王国時代以前から歴史と文化において一つの群島地域を形成している。現在の、沖縄県と鹿児島県という人為的な「県境」は、日常に於いて越えられている。奄美自由大学の参加者は、それらの群島でどんなヴィジョンを視てきたのか。

 日常において越えられているなら、なにより。

 与論では、awaさんが案内したんですね。余人をもって代えがたし。

 「奄美自由大学」


Panari

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『「危機の時代」の沖縄』

 『「危機の時代」の沖縄』からは、簡潔に語ることの驚きがやってくる。薩摩の琉球侵略400年を踏まえて1609年のことを対象にするのだが、その侵略の理由。奄美に触れているのがうれしい、その箇所。

    幕府・薩摩の思惑

明朝との貿易
 ではここで、そもそもなぜ薩摩は琉球に侵攻したのかということを、薩摩や幕府の視点から見ていきましょう。
 当時の日本は、徳川家康が江戸幕府を建て、以後二六〇年に及ぶ「江戸時代」がスタートした時期に当たります。江戸時代は、大きな戦乱がなく、政局も比較的安定していたという意味で平和が長く続いた時代です。しかしその最初期においてはまだ、国内・国外双方の面で治安が安定しておらず、安定への模索が続いていました。
 とりわけ中国との関係については、日本は豊臣秀吉の朝鮮出兵があったせいで、明朝に非常に危険視されていました。そのため、日中間でまともに国交を開ける状態ではありませんでした。しかし幕府は、何とかして明朝との国交を復活させたいと望んでいました。室町幕府が行ない大きな利益をもたらした、日明貿易を復活させたかったのです。

 ところが、自明貿易の復活を願っていたのは、幕府だけではありませんでした。時を同じくして、薩摩も朝鮮出兵による財政悪化の打開策として、明朝との貿易に目をつけていたのです。このことから薩摩は、明朝との貿易復活という点で、幕府と共通の意見をもっていたことがわかります。
 そこで両者は、琉球に明朝との仲介役をさせ、貿易をしようと企むのです。

 さらに、薩摩には琉球が支配している奄美大島の土地を手に入れ、朝鮮出兵で活躍した武将に分け与えたいという野望もありました。薩摩はこの頃、奄美大島の土地ほしさから、しきりに琉球への出兵許可を幕府に願い出ています。しかし、幕府としては何の理由もなしに薩摩の出兵を許可するわけにはいきません。安易に許可すれば、明朝に対して幕府の印象が悪くなり、朝鮮出兵の二の舞となるからです。「日本は野蛮で危険な国」であるという明朝の日本に対するイメージを、認めてしまうことになります。
 そこで幕府は、琉球が幕府へ挨拶の使者を送ることを拒んだのを大義に、薩摩の琉球出兵を認めることにしたのです。

 琉球侵略の前に、実は奄美を狙う過程があり、それゆえ、実際に決行されたとき、奄美の直轄地化は当初から目論まれていたことだと推察してきたのだが、それがあからさまに語られる。「薩摩はこの頃、奄美大島の土地ほしさから、しきりに琉球への出兵許可を幕府に願い出ています」、と。

 ことの経緯について、これ以上簡潔に語られたものをぼくは知らない。「薩摩には琉球が支配している奄美大島の土地を手に入れ、朝鮮出兵で活躍した武将に分け与えたいという野望もありました」。なるほど、単純にいえば確かにそうだ。けれど一方で、「奄美大島」は、「大島出兵」と当時、表記されていて、それは大島だけを指すのか、奄美の島々を指すのか、そのニュアンスが分からないと思うのだが、その部分は飛んで奄美大島のことだということになる。そうかもしれないが、ちょっと気になる。そんな印象が残る。

 例の、「七島人」を使った琉日関係の隠蔽についても同様だ。

 七島人

 琉球に到着した汪楫は、冊封の儀式を行なった後、帰国するための風を待つ間、琉球に滞在します。当時の船は、現在のようにエンジンが付いている訳ではありません。専ら風を利用しての航海なので、渡海や帰国には、特定の方向に吹く季節風を待たねばなりませんでした。
 この風待ちの期間を利用して江梓は、琉球・日本の国家間関係への疑問を持ちつつ、琉球の当時の色々な様子を書いています。その中で、七島人というのが出てきます。七島人に関して汪楫は、
 よく知られているように、琉球と日本はそう遠くない。しばしば行き来して商売などもするが、しかし琉球国の人々はみな、このことを隠したり、言いたがらない。その様子はまるで、日本が存在するということ自体、全く知らないかのようである。ただ、七島人と往来があるとは言っている。
と書いています。

 実は、この七島人とは本当は存在しない「架空の地域の人々」のことです。そして、七島は当時、薩摩が琉球との関係を隠そうとした中で、その政策の一環として作り上げられたものだったのです。
 薩摩は、現在のトカラ列島のことを 「七島」と呼んでいて、領土としていました。これを用いて、薩摩は架空の話をでっちあげました。そして琉球には、こちらが事実であるように清朝側に振舞うよう指示したのです。
 その話とは、
  この地域は琉球が支配している。そしてそこに住む人々は「七島人」と言う。しかし、七島は琉球とは違い日本と交流があるため、日本の影響を受けている。そのため、七島人は 「ちょんまげ」 をしていたり、日本人の服装をしていてもいい。
というものです。

 汪楫一行が琉球に到着した時、彼らを迎えた役人の中には、ちょんまげを締めた日本人のような役人が混ざっていました。これについて質問された琉球の役人は、あれは七島人であって、彼らは薩摩と琉球の仲介役を果たすのだと、薩摩に指示されたように、汪楫達に語ったのです。
 汪楫と会ったのは、本当は琉球に駐在している薩摩の役人です。しかし彼らは、この方策に則って、薩摩人ではなく「七島人」 と名乗りました。
 これに対して、江稗も少なからず疑問を持ちました。一行の中には七島人を指して「あれは日本人だ」という人がいたり、日本と琉球が比較的近いという点から考えて、お互いの行き来があると考えたほうが自然なのに、琉球の人々は変に日本のことを隠そうとして、そのことにふれたがらないからです。
 結局、汪楫はいくつか日本の存在を臭わせる事には出会いましたが、最後まで、琉球と日本の国家間の交流が現在でも存在する、という事実の確信は掴めなかったようです。
 なぜなら、このことについて、皇帝に言われたような部署への報告はしていませんし、後に作られる汪楫の伝記にも、これについての記載は特に無いからです。

 この偽装についてもこれ以上、簡潔な説明を知らない。そのうえこれは、「七島人とは本当は存在しない「架空の地域の人々」のこと」と解説されるのだが、ぼくはトカラという列島の存在に当て込んだもので、架空の地域の人のことだとは考えていなかった。こうした細かなニュアンスは疑問が残るところだ。

 また、これを薩摩の強制だという解釈にしても、これを唱えてきた紙屋敦之自身が、今年、実は琉球主導のものではないかと、琉球の主体性を強調するに至っている。このことについて、著者は注で、この本では従来の説から論じることにすると、触れている。

 このように、『「危機の時代」の沖縄』は、気になる点を残しつつも、歴史を簡潔に語ることの効用を伝えている。歴史に簡単に語れることなどないのではないかという問題意識が首をもたげてくるが、それにしても、理解しやすい。奄美の歴史について副読本の制作が発表されたが、この本はその企画にとっても刺激ではないだろうか。

   『「危機の時代」の沖縄 ―現代を写す鑑、十七世紀の琉球― 』

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2009/12/12

「奄美の農 次世代へ」

 awaさんが言っていたのはこれだったのか、と気づいた。

 農業・農村の在り方について提案活動を展開している住民参加型のキャンペーン組織KAMあまみ(かごしま・アグリ・ミュージアム)21主催のシンポジウムは2日、「次代につなぐ奄美の農-さとうきび伝来400周年を迎えて」をテーマに与論町であった。基調講演で原口泉鹿児島大教授は奄美における黒糖製造技術の革新の歴史などに触れて「現在に生きるわれわれも先人以上の努力を積み重ねていかなければならない」と提言。農家らによるパネルディスカッションでは環境に配慮した農業展開の実践例の紹介や、営々と島で作り続けられてきたキピ作の重要性を指摘する意見が出された。(「南海日日新聞」12月3日)

 原口泉が与論島で講演。しかも、こともあろうに題目は、「奄美のアイデンティティ」に触れるものだった。

 原口教授の演題は「さとうきびの歴史が伝える奄美のアイデンティティー」。講演では、薩摩藩時代の圧政に触れつつ当時の島民独自の黒糖製造技術改良の歩みを紹介。白糖製造の歴史にも触れて、キビ関連の産業遺産が自然とともに奄美をアピールする素材になりうるとの考えを提示した。

 与論に来たと聞いた時、艀に揺られて港に来る時代だったらぼくならそのまま本船に帰して上陸させない、などと物騒なことを想像したが、よりによって、原口泉に「奄美のアイデンティティ」というテーマを渡してしまうとは。それを言う資格からも動機からももっとも遠い人間に、奄美の島人自身が考えるべきテーマを話をさせるなど、ぼくには考えられない。例によって、能天気な高音でしゃべりまくったのだろうか。

 ぼくはこうやって柄悪く言うが、与論の人は、おだやかで鷹揚だからその場を静かに見守っただろう。しかし、その中味は、まっとうさをまといながら奄美のアイデンティティから程遠いものであることはバレバレであることを当人は知るべきだと思う。

 KAMあまみ21は1998年の発足以来、群島内を巡回してシンポジウムを開催している。与論シンポジウムには島民ら350人が来場、第9回あまみフォト農美展の表彰式もあった。パネルディスカッションには農水省農村振興局の齋藤晴美次長がコメンテーターとして参加した。

 350人の与論の人はどう感じただろう。奄美の自立は課題が多い。


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「九重部屋入門予定の与論出身・基君 故郷の奉納相撲で勇姿」

 与論島から九重部屋入り予定。なんか信じられないぞ。

大相撲入りを前に故郷の土俵で勇姿-。来年4月、九重部屋に入門する与論町出身の基王代仁(もとい・みおひと)君(18)=沖縄・中部農林高校3年=が、幼いころから親しんだ同町の奉納相撲大会に出場した。島民は、与論から約10年ぶり4人目の力士となる基君に熱い声援を送った。

 基くんは沖縄の高校に通ってそこで笠利出身の顧問にスカウトされる。奄美、沖縄物語だ。

 九重部屋入門予定の与論出身・基君 故郷の奉納相撲で勇姿

 途中でめげずにがんばってね。そにしても基さん、すごい名前を付けたもんだ。


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2009/12/11

「奄美の明暗」

 酒井卯作さんが44年間続けてきた「南島研究」の第五〇号(2009/11/20)冒頭には、「奄美の明暗」というエッセイが置かれている。

 薩薩摩支配から今年は四〇〇年。奄美でもその歴史をふり返る機運がある。そこで二つの問題をとりあげよう。一つは西郷隆盛の奄美に対する悪業である。明治維新に黒糖自由販売を隠して、黒糖詐取を続け、抗議に上鹿した奄美の若者たちを投獄、もしくは西南役にかりたてて戦死させた。奄美を低く見た薩摩の態度がこれでよくわかる。

 第二は奄美自身の問題だ。復歸前の奄美では本土への渡航が許されなかった。その頃、自分を犠牲にして奄美教育に貢献した二人の男性がいた。深佐源三・森田忠孝の両氏である。隔絶した本土の教育事情を知り、教材なども入手する必要があったので、警察の日を潜りぬけて「密航」 をした。そして多くの困難を経て目的を果たして奄美に戻った。快挙というべきだったが、しかし「密航」を密告するものがいた。結局二人は教壇を追われ、そして再び教壇へ戻ることは許されなかった。

 この話は、私も教員組合委員長をしておられた三原明大氏から東京で直接聞いた。やるせない話である。奄美の人の心の狭さと、これを助けられなかった周囲の人たちの無気力を思わせる。奄美社会にある明るさと暗さ、それを反省する機会、それが薩摩支配四〇〇年の課題なのだ。               (文卯之吉)

 この後者のエピソードは、NHKの「南の島の先生 命がけの密航記」でも触れることのなかったもので、知らなかっただけにショックだ。しかし、静かに内省すれば、起こりうることは了解されてくる。これが事実なら、「奄美の人の心の狭さと、これを助けられなかった周囲の人たちの無気力」は、奄美の課題として受け取らなければならないと思う。

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「見えかくれする薩摩侵攻以前と 以後の奄美諸島」

 「こういうのを待ってましたぁ。」と圓山さんは書いていますが、ぼくも奄美大島発、市民主体シンポジウムを待っていたので、それに近くて嬉しい。

 奄美群島の情報誌「ホライゾン」創刊15周年記念シンポジウム
「見えかくれする薩摩侵攻以前と 以後の奄美諸島」
    これからの奄美諸島史

   日時:平成21年12月20日(日)
   会場:奄美サンプラザホテル2階ホール
   時間:午後3:30より 6:00(無料)

    ◆ 第一部
 基調講話/
     「スライドで見る『南島雑話の世界』」
                     久 伸博(奄美市立奄美博物館)
◆ 第二部/
  シンポジウム
      「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島」
            これからの奄美諸島史

 パネラー/●中山清美(奄美市立奄美博物館)<考古学>
       ●新里亮人(伊仙町立歴史民俗資料館)<考古学>
       ●弓削政己(郷土史家・奄美郷土研究会)<近世・近代史>
       ●町健次郎(瀬戸内町立図書館・郷土館)<民俗学>
        ●泉和子(島料理愛好家・奄美郷土研究会)<郷土料理>
※ 当日は、幕末の菓子などを再現して、試食していただく予定です。

 「幕末の菓子」の再現。これは食べてみたいですねえ。

 基調講演、パネラーの報告も楽しみだ。

 ※「12月20日は、ホライゾン歴史シンポジウム」


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2009/12/10

400年、節目のイベント ver.12

 もうこれ以上はないと思っていたが、12月20日に行われる。奄美大島発だ。よかった。

◆2009年、薩摩の琉球侵略400年関連イベント


1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」

 場所:沖永良部島 和泊町歴史民俗資料館
 時期:2009年、年内
 主催:和泊町歴史民俗資料館

2.「薩摩の琉球侵略400年・琉球処分130年・沖縄再併合37年を問う」

 場所:エルおおさか(大阪)
 時期:3月20日
 主催:「天皇即位20年祝賀」反対大阪行動

3.「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」

 場所:沖縄島 那覇市
 時期:3月29日
 主催:「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」

4.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」

 場所:奄美大島
 時期:4月12日
 主催:「道の島400年展」実行委員会

5.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」

 場所:徳之島 亀徳秋津神社境内
 時期:4月15日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

6.「さつま(薩摩)の琉球侵攻と今帰仁グスク」(上里隆史)

 場所:沖縄島 今帰仁村コミュニティセンター
 日時:4月22日(水)18:30~20:00
 主催:今帰仁村文化財資料室

7.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
  テーマ「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」

 場所:徳之島 徳之島町文化会館
 時期:5月2日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

8.シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』

 場所:沖縄島 県立博物館
 日時:5月9日(土)
 主催:沖縄県立博物館・美術館
 共催:榕樹書林・首里城友の会・メディアエクスプレス

9.「琉球侵略400年シンポジウム 
  <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」

 場所:沖永良部島
 時期:5月17日
 主催:知名町教育委員会

10.「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)

 場所:東京 早稲田大学
 時期:5月29日
 主催:早稲田大学 琉球・沖縄研究所

11.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)

 場所:大島、名瀬市
 時期:6月13日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

12.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」(喜山荘一)

 場所:鹿児島市
 時期:6月20日
 主催:奄美を語る会

13.「島津氏の琉球出兵400年に考える―その実相と言説―」

 場所:東京 立教大学
 時期:6月27日
 主催:立教大学文学部史学科

14.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」

 場所:東京 東京外国語大学
 時期:7月5日
 主催:カルチュラルタイフーン2009実行委員会

15.「考古学からみた薩摩の侵攻400年」

 場所:沖縄県立博物館・美術館
 時期:7月12日
 主催:琉球大学法文学部考古学研究室

16.「薩摩藩島津氏琉球侵攻400年展」

 場所:那覇市歴史博物館
 時期:9月4日~(「琉球王国と日本・中国」歴史講座も)
 主催:那覇市歴史博物館

17.「奄美の未来を考える集会」

 場所:鹿児島県教育会館
 時期:10月3日
 主催:「島津藩による奄美・琉球侵略400年・奄美の未来を考える集会」実行委員会

18.「薩摩の琉球入り400年」

 場所:宮城女子学院大学
 時期:10月3日
 主催:<共同研究>南島における民俗と宗教

19.「海が繋いだ薩摩-琉球 〔交錯するヒトとモノ〕」

 場所:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館
 時期:2009年10月16日(金)~2010年1月13日(水)
 主催:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館

20.「奄美と沖縄をつなぐ」

 場所:新宿区箪笥区民ホール
 時期:11月14日
 主催:奄美と沖縄をつなぐ実行委員会
 
21.「薩摩侵攻400年シンポジウム」

 場所:喜界島
 時期:11月14日
 主催:喜界島郷土研究会

22.「沖縄・鹿児島連携交流事業」

 場所:奄美大島
 時期:11月21日
 主催:沖縄県

23.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」

 場所:神戸市
 時期:11月22日
 主催:徳之島を考える有志の会

24.「アジアの中の琉球・沖縄400年」

 場所:那覇市県立博物館・美術館講堂
 時期:11月27日
 主催:沖縄タイムス社 朝日新聞社

25.「琉球・山川港交流400周年事業」

 場所:鹿児島県山川
 時期:11月28日
 主催:「琉球・山川港交流400周年」事業実行委員会

26.「薩摩侵攻四百年を考える-史学の諸分野と地域-」

 場所:琉球大学
 時期:12月12日
 主催:琉球大学史学会

27.「薩摩侵攻四百年・奄美の歴史の見方考え方」(高梨修)

 場所:名瀬公民館金久分館
 時期:12月12日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

28.「<無国籍>地帯、奄美諸島~琉球侵攻400年を振りかえる~」(前利潔)

 場所:鹿児島県立短期大学
 時期:12月18日
 主催:鹿児島県立短期大学

29.「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」

 場所:沖縄国際大学
 時期:12月19日
 主催:沖縄国際大学総合研究機構南島文化研究所

30. 「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島」これからの奄美諸島史

 場所:奄美サンプラザホテル
 時期:12月20日
 主催:「ホライゾン」創刊15周年記念シンポジウム&祝賀会実行委員会


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400年イベントの分類

 400年のイベントを5つに分類してみる。

 「慰霊」は、戦闘における犠牲者への慰霊を中心にしたもの。「歴史」は、1609年を軸にその前後やそれ以降の史実やその解釈を中心にしたもの。「提起」は、琉球侵略がもたらしたものの問題を提起するもの、「交流」は、400年の歴史を踏まえた交流を行うもの、「展示」は、薩摩の琉球侵略をテーマにした展示。

 「慰霊」にも、提起はあり交流はある。「歴史」も提起を含み、「提起」も歴史を根拠にしている。「交流」も歴史を問題意識に持っており、「展示」も同様だから、厳密にはどれかのみではない。何に足場を置いて構想されたイベントであるかという点で分けている。

 自分が参加したものは限られるから誤解を含むかもしれず、それは分かり次第修正するが、圧倒的に多かったのは「歴史」型で半分弱を占める。ついで、「提起」型で約2割。「交流」、「展示」が1割。「慰霊」が1割弱。

 この数値からすると、「薩摩の琉球侵略」というテーマは、いまも事実として明らかになっていない、知られていないことを多く含むことを意味しているように思える。また、数は少ないものの慰霊も行われるところに、このテーマの生々しさが表れている。そしてそこから問題を提起する動きが史実を浮き彫りにする動きの半分。それを受けてどう行動するのかが、「交流」に表わされるとすればそれは1割に過ぎない。もちろん、行動や企画は「交流」しか考えられないわけではない。また、資料をして語らせる展示も1割にしか過ぎず、それだけものを言わせるテーマであることが示されるように思う。

 「慰霊」を続けながら、「歴史」の波頭が、「提起」や「交流」(あるいはそれ以外の行動)に移行するという過程は今後に望見しなければならない。「展示」で充分と受け止められるまでどのくらいかかるか、まだ分からない。少なくともこれが、400年目の到達点だ。それだけだったとしても。


慰霊:慰  2( 7%)
歴史:歴 14(48%)
提起:提  7(24%)
交流:交  3(10%)
展示:展  3(10%)


展:1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」

提:2.「薩摩の琉球侵略400年・琉球処分130年・沖縄再併合37年を問う」

提:3.「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」

慰:4.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」

慰:5.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」

歴:6.「さつま(薩摩)の琉球侵攻と今帰仁グスク」

歴:7.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」

歴:8.シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』

歴:9.「琉球侵略400年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」

歴:10.「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)

提:11.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)

提:12.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」(喜山荘一)

歴:13.「島津氏の琉球出兵400年に考える―その実相と言説―」

提:14.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」

歴:15.「考古学からみた薩摩の侵攻400年」

展:16.「薩摩藩島津氏琉球侵攻400年展」

提:17.「奄美の未来を考える集会」

歴:18.「薩摩の琉球入り400年」

展:19.「海が繋いだ薩摩-琉球 〔交錯するヒトとモノ〕」

交:20.「奄美と沖縄をつなぐ」

歴:21.「薩摩侵攻400年シンポジウム」

交:22.「沖縄・鹿児島連携交流事業」

提:23.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」

歴:24.「アジアの中の琉球・沖縄400年」

交:25.「琉球・山川港交流400周年事業」

歴:26.「薩摩侵攻四百年を考える-史学の諸分野と地域-」

歴:27.「薩摩侵攻四百年・奄美の歴史の見方考え方」(高梨修)

提:28.「<無国籍>地帯、奄美諸島~琉球侵攻400年を振りかえる~」(前利潔)

歴:29.「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」

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2009/12/09

「奄美と山原船で交易」

 南海日日の11月29日に、「ゆいまーる琉球の集いin平安座島」の記事。同日の一面は、「琉球・山川港交流400周年事業」の記事だが、ぼくにはこの記事のほうがはるかに意味があった。

つながる琉球弧を実感
琉球に住む人々が自治を自分たちの問題として考える「ゆいまーる琉球の集いin平安座島」(特定非営利活動法人=NPO法人=ゆいまーる琉球の自治主催)が13~15日、平安座島であった。島民が戦前、戦後、山原船で奄美諸島と交易をしていたこと、親せきも多いことを報告。琉球弧の島々のつながりの深さを実感させた。

 こうしたつながりの発掘や掘り下げから分かることのほうが、政治的に上空をかすめる交流宣言よりはるかに大切に思える。


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400年、節目のイベント ver.11

 12月の情報を追加。計29。月に2回以上はあったことになる。


◆2009年、薩摩の琉球侵略400年関連イベント


1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」

 場所:沖永良部島 和泊町歴史民俗資料館
 時期:2009年、年内
 主催:和泊町歴史民俗資料館

2.「薩摩の琉球侵略400年・琉球処分130年・沖縄再併合37年を問う」

 場所:エルおおさか(大阪)
 時期:3月20日
 主催:「天皇即位20年祝賀」反対大阪行動

3.「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」

 場所:沖縄島 那覇市
 時期:3月29日
 主催:「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」

4.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」

 場所:奄美大島
 時期:4月12日
 主催:「道の島400年展」実行委員会

5.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」

 場所:徳之島 亀徳秋津神社境内
 時期:4月15日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

6.「さつま(薩摩)の琉球侵攻と今帰仁グスク」(上里隆史)

 場所:沖縄島 今帰仁村コミュニティセンター
 日時:4月22日(水)18:30~20:00
 主催:今帰仁村文化財資料室

7.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
  テーマ「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」

 場所:徳之島 徳之島町文化会館
 時期:5月2日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

8.シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』

 場所:沖縄島 県立博物館
 日時:5月9日(土)
 主催:沖縄県立博物館・美術館
 共催:榕樹書林・首里城友の会・メディアエクスプレス

9.「琉球侵略400年シンポジウム 
  <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」

 場所:沖永良部島
 時期:5月17日
 主催:知名町教育委員会

10.「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)

 場所:東京 早稲田大学
 時期:5月29日
 主催:早稲田大学 琉球・沖縄研究所

11.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)

 場所:大島、名瀬市
 時期:6月13日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

12.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」(喜山荘一)

 場所:鹿児島市
 時期:6月20日
 主催:奄美を語る会

13.「島津氏の琉球出兵400年に考える―その実相と言説―」

 場所:東京 立教大学
 時期:6月27日
 主催:立教大学文学部史学科

14.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」

 場所:東京 東京外国語大学
 時期:7月5日
 主催:カルチュラルタイフーン2009実行委員会

15.「考古学からみた薩摩の侵攻400年」

 場所:沖縄県立博物館・美術館
 時期:7月12日
 主催:琉球大学法文学部考古学研究室

16.「薩摩藩島津氏琉球侵攻400年展」

 場所:那覇市歴史博物館
 時期:9月4日~(「琉球王国と日本・中国」歴史講座も)
 主催:那覇市歴史博物館

17.「奄美の未来を考える集会」

 場所:鹿児島県教育会館
 時期:10月3日
 主催:「島津藩による奄美・琉球侵略400年・奄美の未来を考える集会」実行委員会

18.「薩摩の琉球入り400年」

 場所:宮城女子学院大学
 時期:10月3日
 主催:<共同研究>南島における民俗と宗教

19.「海が繋いだ薩摩-琉球 〔交錯するヒトとモノ〕」

 場所:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館
 時期:2009年10月16日(金)~2010年1月13日(水)
 主催:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館

20.「奄美と沖縄をつなぐ」

 場所:新宿区箪笥区民ホール
 時期:11月14日
 主催:奄美と沖縄をつなぐ実行委員会
 
21.「薩摩侵攻400年シンポジウム」

 場所:喜界島
 時期:11月14日
 主催:喜界島郷土研究会

22.「沖縄・鹿児島連携交流事業」

 場所:奄美大島
 時期:11月21日
 主催:沖縄県

23.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」

 場所:神戸市
 時期:11月22日
 主催:徳之島を考える有志の会

24.「アジアの中の琉球・沖縄400年」

 場所:那覇市県立博物館・美術館講堂
 時期:11月27日
 主催:沖縄タイムス社 朝日新聞社

25.「琉球・山川港交流400周年事業」

 場所:鹿児島県山川
 時期:11月28日
 主催:「琉球・山川港交流400周年」事業実行委員会

26.「薩摩侵攻四百年を考える-史学の諸分野と地域-」

 場所:琉球大学
 時期:12月12日
 主催:琉球大学史学会

27.「薩摩侵攻四百年・奄美の歴史の見方考え方」(高梨修)

 場所:名瀬公民館金久分館
 時期:12月12日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

28.「<無国籍>地帯、奄美諸島~琉球侵攻400年を振りかえる~」(前利潔)

 場所:鹿児島県立短期大学
 時期:12月18日
 主催:鹿児島県立短期大学

29.「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」

 場所:沖縄国際大学
 時期:12月19日
 主催:沖縄国際大学総合研究機構南島文化研究所

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2009/12/08

「琉球処分官、松田道之の書簡発見」

 今日8日の琉球新報。

琉球を廃し沖縄県を設置したときの琉球処分官・松田道之(1839~82年)が、1879(明治12)年3月の来琉直前と帰京後に書いた直筆書簡がこのほど、古文書収集家の和田正義さん(65)=那覇市=によって発見された。

 「琉球処分官、松田道之の書簡発見」

 一方、「滋賀新聞」は、72年10月に大阪に滞在していた琉球の維新慶賀使に触れている。71年、台湾に漂着した琉球人54人が殺害された事件について「琉球王ヨリ薩州ヘ愁訴シ復讎ノ意ヲ含ミテ出仕セリト風説アリ」(琉球王が薩摩へ訴え、復讐(ふくしゅう)してほしいと伝えるために東京へ行ったとのうわさがある)とし、「琉球処分」の契機となった74年の「台湾出兵」が琉球の希望だったように記述している。
 実際には、琉球は最後まで台湾への出兵に反対していた。
<用語>松田道之
まつだ・みちゆき 明治時代の内務官僚。1872年初代滋賀県令。明治政府の琉球処分官として75年7月14日に首里城で「琉球処分」の方針を伝えた。79年3月27日、軍隊と警察官を伴い首里城へ乗り込み琉球王国を廃し、沖縄県設置を宣告。同年、東京府知事に就任。

 琉球侵略400年、琉球処分130年の今年にやっと間に合ったような発見だ。



 

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「<無国籍>地帯、奄美諸島~琉球侵攻400年を振りかえる~」

 まだまだ400年イベントは終わらない。云い忘れがないように、何度もなんども確認しているみたいだ。12月18日、鹿児島県立短大にて。前利潔さんが行うものだ。

【タイトル】
「<無国籍>地帯、奄美諸島~琉球侵攻400年を振りかえる~」

【要旨】
 今年(2009年)は、薩摩島津氏による琉球侵攻から400年である。現代から近代へ、そして近世へとさかのぼりながら、この400年を考えたい。
 2001年から02年にかけて実施されたアンケート調査における沖永良部島民の帰属意識をみると、島全体では鹿児島県帰属47%・沖縄県帰属53%、である。ところが、知名町民と和泊町民に分けてみると、知名町民は鹿児島県帰属37%・沖縄県帰属63%、和泊町民は鹿児島県帰属56%・沖縄県帰属44%、である。両町民の帰属意識にみられる20%近い開きを理解するためには、400年の持つ意味を考えなければならない。

 復帰運動の過程で、「奄美諸島」は「琉球諸島」に含まれるのかどうか、議論になった。この問題は、現在でも決着がついていない。
 近代における国民国家への包摂は、沖縄県と奄美諸島では大きな違いがあった。地租改正、徴兵制度、参政権についてみると、奄美諸島の場合は、ほぼ全国的な流れのなかで施行されているのに対して、沖縄県の場合は旧慣温存期を経て、奄美諸島よりも20年前後遅れて施行された。学校教育についてみると、明治政府は、奄美諸島はもちろん、沖縄県に対しても積極的に導入していった。ところが、受容する側に目を向けると、奄美諸島住民は学校教育を当初から積極的に受け入れていったのに対して、沖縄県民は日清戦争で清国が敗北するまでは消極的であった。

 別の表現でいえば、奄美諸島住民は「日本人」化教育を積極的に受け入れたのに対して、沖縄県民は「日本人」化教育に抵抗していたのである。このような学校教育の受容の仕方の違いを理解するためには、近世までさかのぼらなければならない。薩摩藩の間接支配下(琉球王府)にあった沖縄の場合は、中国との進貢貿易を通して「中国」化を浸透させていたのに対して、直接支配下(代官)にあった奄美諸島は、薩摩支配を通して「ヤマト」化が浸透していたのである。

 琉球処分(1879年)は、明治政府と清国政府の間で、琉球列島の帰属をめぐる外交問題となった。奄美諸島も無縁ではなかった。琉球王府、鹿児島県、明治政府、清国政府の側は、それぞれの思惑から、奄美諸島の帰属をめぐってうごめいていた。
 奄美諸島独特の一字姓、カトリック、文学についても、琉球侵攻400年ということを視野において考えることによってはじめて、その本質的な意味を理解できる。

【プロフィール】
 1960年、沖永良部島知名町、生れ。沖永良部高校、琉球大学法文学部卒。主な論考に、「奄美自立への試論」(共著『滅びゆく鹿児島』、1995年)、「町財政の合併シミュレーション~さらなる財政悪化を招く特例債~」(共著『田舎の町村を消せ!/市町村合併に抗うムラの論理』、2002年)、「農民体質と歴史的背景~大山麟五郎説を考える~」(共著『奄美と開発』、2004年)、「沖永良部島民の移住物語」(鹿児島県立短大地域研究所叢書『沖永良部島の社会と文化』、2006年)、「<無国籍>地帯、奄美諸島」(共著『反復帰と反国家』、2008年)。
 知名町役場職員、日本島嶼学会理事、法政大学沖縄文化研究所国内研究員。

 「奄美諸島住民は「日本人」化教育を積極的に受け入れたのに対して、沖縄県民は「日本人」化教育に抵抗していた」ということを、ぼくの文脈から追ってみる。

 400年前の薩摩の琉球侵略によって奄美が受けた困難は、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外だ。現在の沖縄は、上記において、「琉球は大和ではない」という疎外を受けている。これは、積極的にいえば、「琉球は大和でではない琉球である」と言うことができるし、今年、400年イベントにおいて「琉球の主体性」として主張されている中味である。

 奄美はそういうわけにいかなかった。「奄美は大和ではない」ということの前に、「奄美は琉球ではない」という疎外を受け取っている。この二重の疎外にもかかわらず、奄美は薩摩である大和の秘匿された直轄地であった。だから、日本が近代化の段階に入ったとき、「奄美は日本である」ことに自ら乗り出すことによって、「大和ではなく大和である」という矛盾を解消しようとしたのである。それが、「「日本人」化教育を積極的に受け入れた」ことの背景に当たるものだ。

 当日は、こうした奄美の背景を、より繊細に充分に聞ける機会だ。


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2009/12/07

「第42回 琉球大学史学会大会」

 12月12日には、「琉球大学史学会」で、「薩摩侵攻400年を考える」がテーマになる。400年イベントは師走になっても勢いが止まない。このテーマの重さだろうか。今回も聞きたい内容ばかりだ。


琉球大学史学会42回大会
シンポジウム「薩摩侵攻400年を考える―史学の諸分野と地域―」
平成21年12月12日(土)
場所:琉球大学法文学部 新棟215 教室
進行 稲村務

13:00~13:15
開会の辞 津波高志あいさつ(5分)
趣旨説明豊見山和行(10分)

13:15~13:45  第1報告 考古学
「薩摩侵攻400年を契機とした考古学界の動き」池田榮史

13:45~14:15  第2報告 歴史学
「宮古・八重山統治の変容-琉球「近世体制」の形成を考えるために」高良倉吉

14:15~14:45  第3報告 歴史教育
「近世琉球を教材とする自己形成-歴史学の方法と歴史教育-」里井洋一

●<14:45~15:00小休止。前半が延びたら10分休憩>

15:00~15:30  第4報告 歴史学
「薩摩侵攻400年―先島(宮古)から考える―」仲宗根将二

15:30~16:00  第5報告 歴史学
「薩摩藩統治後の島役人編成内容、権限、任命者について」弓削政己

16:00~16:30  第6報告 民俗学
「相撲の奄沖文化論」津波高志

●<16:30~16:45 休憩  質問紙回収>

休憩 16:45~17:00  質問紙回収
17:00~18:00 討論  司会:豊見山和行
総合シンポジウム「薩摩侵攻400年を考える―史学の諸分野と地域―」
パネラー 池田榮史、高良倉吉、里井洋一、仲宗根将二、弓削政己、津波高志


Shigakukai20091212

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2009/12/06

400年、節目のイベント ver.10

 7月と10月、12月の情報を追加。計28。全体で「主催」情報も加えた。
 今年、何を遡上にあげ、何を語り、どう伝えようとしてきたのか、考える時期に来ていると思う。


◆2009年、薩摩の琉球侵略400年関連イベント


1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」

 場所:沖永良部島 和泊町歴史民俗資料館
 時期:2009年、年内
 主催:和泊町歴史民俗資料館

2.「薩摩の琉球侵略400年・琉球処分130年・沖縄再併合37年を問う」

 場所:エルおおさか(大阪)
 時期:3月20日
 主催:「天皇即位20年祝賀」反対大阪行動

3.「薩摩の琉球支配400年を問うシンポジウム・大激論会」

 場所:沖縄島 那覇市
 時期:3月29日
 主催:「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」

4.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」

 場所:奄美大島
 時期:4月12日
 主催:「道の島400年展」実行委員会

5.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」

 場所:徳之島 亀徳秋津神社境内
 時期:4月15日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

6.「さつま(薩摩)の琉球侵攻と今帰仁グスク」(上里隆史)

 場所:沖縄島 今帰仁村コミュニティセンター
 日時:4月22日(水)18:30~20:00
 主催:今帰仁村文化財資料室

7.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
  テーマ「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」

 場所:徳之島 徳之島町文化会館
 時期:5月2日
 主催:薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業実行委員会、沖縄大学地域研究所

8.シンポジウム『薩摩の琉球侵略400年を考える』

 場所:沖縄島 県立博物館
 日時:5月9日(土)
 主催:沖縄県立博物館・美術館
 共催:榕樹書林・首里城友の会・メディアエクスプレス

9.「琉球侵略400年シンポジウム 
  <琉球>から<薩摩>へ ~400年(1609~2009)を考える~」

 場所:沖永良部島
 時期:5月17日
 主催:知名町教育委員会

10.「薩摩の琉球侵攻400年」(紙屋敦之)

 場所:東京 早稲田大学
 時期:5月29日
 主催:早稲田大学 琉球・沖縄研究所

11.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)

 場所:大島、名瀬市
 時期:6月13日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

12.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」(喜山荘一)

 場所:鹿児島市
 時期:6月20日
 主催:奄美を語る会

13.「島津氏の琉球出兵400年に考える―その実相と言説―」

 場所:東京 立教大学
 時期:6月27日
 主催:立教大学文学部史学科

14.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」

 場所:東京 東京外国語大学
 時期:7月5日
 主催:カルチュラルタイフーン2009実行委員会

15.「考古学からみた薩摩の侵攻400年」

 場所:沖縄県立博物館・美術館
 時期:7月12日
 主催:琉球大学法文学部考古学研究室

16.「薩摩藩島津氏琉球侵攻400年展」

 場所:那覇市歴史博物館
 時期:9月4日~(「琉球王国と日本・中国」歴史講座も)
 主催:那覇市歴史博物館

17.「奄美の未来を考える集会」

 場所:鹿児島県教育会館
 時期:10月3日
 主催:「島津藩による奄美・琉球侵略400年・奄美の未来を考える集会」実行委員会

18.「薩摩の琉球入り400年」

 場所:宮城女子学院大学
 時期:10月3日
 主催:<共同研究>南島における民俗と宗教

19.「海が繋いだ薩摩-琉球 〔交錯するヒトとモノ〕」

 場所:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館
 時期:2009年10月16日(金)~2010年1月13日(水)
 主催:南さつま市坊津歴史資料センター輝津館

20.「奄美と沖縄をつなぐ」

 場所:新宿区箪笥区民ホール
 時期:11月14日
 主催:奄美と沖縄をつなぐ実行委員会
 
21.「薩摩侵攻400年シンポジウム」

 場所:喜界島
 時期:11月14日
 主催:喜界島郷土研究会

22.「沖縄・鹿児島連携交流事業」

 場所:奄美大島
 時期:11月21日
 主催:沖縄県

23.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」

 場所:神戸市
 時期:11月22日
 主催:徳之島を考える有志の会

24.「アジアの中の琉球・沖縄400年」

 場所:那覇市県立博物館・美術館講堂
 時期:11月27日
 主催:沖縄タイムス社 朝日新聞社

25.「琉球・山川港交流400周年事業」

 場所:鹿児島県山川
 時期:11月28日
 主催:「琉球・山川港交流400周年」事業実行委員会

26.「薩摩侵攻四百年を考える-史学の諸分野と地域-」

 場所:琉球大学
 時期:12月12日
 主催:琉球大学史学会

27.「薩摩侵攻四百年・奄美の歴史の見方考え方」(高梨修)

 場所:名瀬公民館金久分館
 時期:12月12日
 主催:奄美市生涯学習講座「奄美復帰と薩摩侵攻400年に学ぶ」

28.「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」

 場所:沖縄国際大学
 時期:12月19日
 主催:沖縄国際大学総合研究機構南島文化研究所


※更新日 4/1、4、9(徳之島「未来への道しるべ 薩摩藩奄美琉球侵攻400年を再考する」の紹介サイトを追加)、4/15 今帰仁(4/22)を追加、4/19、県立博物館のシンポジウム(5/9)を追加、5/17、東京外語大学でのパネルディスカッションのテーマ(7/5)を更新。5/30、立教大学でのイベントを追加。6/14、名瀬市のイベントを追加。11/30、6月以降を追加。12/6、12日分と主催を追加。

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2009/12/05

「訪問教育:与論中の障害2生徒、進学後に実施」

 毎日新聞の記事から。
 
 訪問教育:与論中の障害2生徒、進学後に実施

原田耕蔵・県教育長は2日、障害がある与論中3年生2人について、大島養護学校高等部(龍郷町)への進学後、地元の与論高で「訪問教育」を実施する方針を明らかにした。島内に特別支援学校がないため、障害がある生徒は高校進学時に島外に出るほかなく、保護者らが1月、「島内で学べる環境を」と県教委に要望していた。

 記事からだけでは詳細は分からないが、不安なく、「訪問教育」が受けられたらいいと思う。


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「奄美と沖縄をつなぐ」DVD

 ゆうべ、預かってもらっていたDVDをピックアップに琉琴へ。「奄美と沖縄をつなぐ」イベントのDVDを作ったのだ。

 唄者のひとり、熊倉さんにさっそく、「見ますか?」と言われたものの、自分を見る気には到底なれなく、「遠慮しときます、生ビールください」と注文。でも、出来立てのDVDを眺めてるうち、コンサートの部は2巻のうちもう1巻なの確認すると、俄然、観たくなってきて、「やっぱりこのコンサートのとこだけ見せください」と、店内で流してもらうことに。

 当日は、トークセッションが終わったあとは、引き続き議論したりあちこち歩き回ったりしたので、半分も観れていないくて、イベントの全体観がまだないのだ。主催者とはイベントを観賞できない人のことなのだ。

 でも、藤木勇人さんの噺からコンサートを通して観て、本当によかったなと思えた。やってよかった、と。

 トークセッションの冒頭でも話したが、「奄美と沖縄をつなぐ」というテーマはとても個人的だと思っている。で、イベントが開催されるまでの日々は、個人的な関心に過ぎないことで呼びかけを行っていることに内心、慄いていた。それは本を書くのとは違う経験だった。本もきわめて個人的な関心から出発するが、それをどれだけ普遍化できるかと心血を注ぐのも個人的だ。そして本になってしまえば、あくまで個人のものとして提出することができる。しかしイベントは、多くの人を巻き込み、多くの人に来てもらわなければいけない。なんてことをしてしまったのだろう、こんなテーマ誰も関心を持つはずがない、と落ち込んでいき、思うように動けなかった。心がそちらへ開いていこうとしなかった。逃げていたい気持ちだった。もちろんそれは傲慢なことで、その間も持田さんはじめ多くの方たちが動いてくれていたのだった。

 そんな心境からゆうべ解放された。イベントの終了ではなく、自分も観客のひとりとしてコンサートを楽しんでやっと解放された。

 で、言うのが遅いけど、この違うけれど同じ、同じだけれど違う唄の流れを辿るのはとても面白い。「新感覚」そのものだった。新規なアレンジなどもちろん施していない。唄者はその道の本格的な方ばかり。でもそれが一堂に会すると、不思議な感じたことのない世界観を見せる。その理由のいったんは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ』のように唄と唄のあいだに切れ目がなく(短く)、編集された作品のように仕上がっていたからかもしれない。これができたのは、一人ひとりの唄者の唄がプロフェッショナルで、しかも場の流れに乗ってやってくれたからだ。魔法のような時間が流れたんだなと思う。やってよかった。安堵。

 
 さて、このDVD、お売りいたします。

 ・「奄美と沖縄をつなぐ」DVD 3000円
 ・「奄美と沖縄をつなぐ」DVD 4000円(パンフレット付き)

 この二つのパターンです。関心のある方はメールをください。お分けいたします。

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2009/12/04

『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』

 上里隆史の『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』は、同じく今年の4月に出版された上原兼善の『島津氏の琉球侵略 ―もう一つの慶長の役』と比べると、その新しさがわかりやすい。

 上原の『島津氏の琉球侵略』は「もう一つの慶長の役」と副題がつくように、秀吉の朝鮮出兵との対比で琉球出兵(侵攻)を捉えようとしている。内容も、「慶長の役」の延長に「もう一つの慶長の役」が起こる過程の全貌を解き明かそうとするものだ。これに対して、上里の『琉日戦争一六〇九』は、海洋王国としての琉球に起点を置き、島津の九州制覇から琉球侵攻の過程へと接近している。この出発点と遠近感が違う。もっと違うのは、上原が琉球の軍事的準備を虚弱と捉えているのに対して、上原は琉球の軍事的防備を一定程度、認めている。それが、書名にも「琉日戦争」と、「戦争」を強調することになっているし、なにより、侵攻における戦闘の過程が詳しい。

 実際、奄美大島から首里城まで、薩摩軍との戦闘の様子は、これまで以上に詳細に知ることができた。ぼくは『奄美自立論』では、航路は与論島の西、東シナ海側にあるようなので、西の沖に軍船が通過した様を想像して、与論の島人の恐怖を感じ取ろうとしたのだが、『琉日戦争一六〇九』ではそれは、沖縄島北部からの眺めとして語られている。

 夜を徹して船を進めた島津軍は翌二五日午後六時頃、沖縄島の属島である北部の古宇利島に到着した。古宇利島は北部地域の玄関口・運天港の入口付近にあり、本部半島の運天と屋我地島に挟まれた内海、それをふさぐように位置する。古宇利島の海上にびっしりと停泊する八〇隻もの大船団を見た琉球人たちは戦慄したにちがいない。かつてない規模の「戦争」という津波が沖縄を襲おうとしていた。

 こうした想像は、上里が戦闘の過程を丹念に追った結果やってきたイメージだと思う。読んでいて気づいたが、戦闘過程が詳細化されると、薩摩兵や琉球人の動きがわかる。するとその分、島人が感じただろう恐怖感もほのかに伝わってくるが、そのリアリティは戦没者を慰霊する気持ちにつながる。それはこの本の効用だと感じた。

 戦闘の過程以外にも新たに知ったことは多かったが、あの謝名親方が、明への救援を認めた密書を取り戻したのは、薩摩ではなく琉球だったことにはショックを受ける。

 密書を買収した一人の嘉数親雲上は、その功績により翌一六一一年に比志島国貞・樺山久高から感状を与えられた(『愈姓家譜』)。琉球を救援するための書が琉球人によってにぎり潰される。島津氏の命とはいえ、彼らは見て見ぬふりもできたはずである。戦前から謝名親方を快く思わない勢力は確実に王府内に存在していた。戦後、尚寧政権を支えていた謝名・浦添親方らの一派は失脚し、代わって江洲・摩文仁親方ら講和に積極的だった人物が三司官の座に就いていた(後述)。こうした路線対立と人事の一新が密書奪取の背景にあったかもしれない。

 こともあろうに、樺山久高から「感状」をもらうことになるとは。


 この他に感じたのは、やはり奄美からの視点になる。上里の『琉日戦争一六〇九』は、400年の契機が反薩摩の怨恨ばかりになってはならないという内省も込めて、島津の出自や九州制覇の経緯も詳述している。そこで、追い詰められた島津が琉球に活路を見出すという、島津の背景が見えるようになっている。

 これを奄美からみるとどう見えるか。島津の詳述は、鹿児島のなかでは露骨に大仰にほめそやされ紙面を費やして語られ、その分、奄美はネグられるという経験を積んでいるので、沖縄の人にとって、島津詳述は新鮮かもしれないが、ぼくたちにはそうではない。ただ、事大主義がかってないだけ、反発なしに読めるという点がありがたい。

 そして、その分に見合うように、奄美に対する記述が手薄になるのを感じ、ほんの少しさびしく思う。そのことに、上里は無自覚ではなく、あとがきで触れている。

 本書では深く突っ込むことはできなかったが、奄美もまた沖縄の歴史を考える際には不可欠な地域であり、二〇〇九年を機会に新しい関係を築くことができればと願っている。本書が少しでもその一助になることができれば幸いである。個々の島単位ではなく琉球全体としてみた場合、奄美地域は王府にとって島津軍侵攻を阻止するための戦略上の拠点となった。古琉球における奄美の位置づけを考える一つの手がかりをこの侵攻事件は提示しているように思う。

 ぼくたちは、奄美をオーバーヘッドして鹿児島に行ってほしくないと感じる。しかし一方、島津詳述だが奄美手薄になるという帰結は、現在のところいたしかたない面も含んでいる。なぜなら、奄美自身に、詳述されたり論じられたりするための事実の発掘や仮説の展開が充分ではないからである。言い換えれば、奄美を記述してほしいと思うより、自分たちが奄美の記述を拵えてゆく課題を見出すべきだと受け止めたい。


 ところでぼくがこの本でもっとも強い印象を受けたのは別のところにあった。薩摩の琉球侵略を「琉日戦争」と捉え、琉球王国に戦争主体を見出したことにより、「琉球はなぜ敗れたのか」という視点を、内在的に取り出している。上里はこう書いている。

 こうした抵抗にもかかわらず、琉球はなぜ敗れたのだろうか。
 「島津軍が圧倒的に強かったから」と言ってしまえば身もふたもないが、この戦いから琉球側の軍事戦略をみてみると、ある事実が浮かび上がる。琉球王府は王国全域に均等に兵を配置していたのではなく、奄美の徳之島、そして那覇に軍勢を集中させていたことである。
 徳之島には王府中央より直接、軍司令官(番衆主取)が派遣されており、徳之島では湾屈・秋徳などの港湾部に一〇〇〇人以上の兵が防御していた。しかも王府からの派遣は一六〇八年冬の時点で行われており、島津軍の来襲に備え事前に防御体制を構築していたことがわかる。これは奄美大島で行われた在地勢力による抵抗とは質が異なる。
 王府は一五九二年の秀吉侵攻に備えた対応も奄美地域に役人を派遣しており、今回の島津軍の侵攻への対応と共通している。王府の基本戦略は、奄美(徳之島)を「防波堤」として敵軍を沖縄島に到達させずに阻止する方針だったとみられるのである。

 防波堤としての奄美。しかもその拠点は徳之島であったということは何を物語るか。ぼくは、時に、奄美大島から発せられる琉球王国に対する反発の声のひとつとして、琉球が見捨てたという声が強く出てくるのを不思議に感じてきたが、軍事力を徳之島に用意したのであれば、奄美大島は無防備に近い状態にされたわけであり、そこから、見捨てられたという感情が生じるのは無理ないことだ。ただ仮にそうでも、「琉球、薩摩、アメリカ」という並置や「薩摩も琉球もどっちもどっち」という観点は自己抑圧的で、もっと自己分析せらるべきものと思うけれど、見捨てられの気持ちにはこれまで思いいたることはできていなかった。


 そして、もうひとつ。琉球にとっての防波堤としての奄美、というフレーズは、もうひとつのフレーズを想起させずにいない。それは、日本にとっての防波堤としての沖縄、という、あの戦争のことだ。この連想はさまざまなことを考えさせるが、どう受け止めればいいだろう。大は小を、中心は周縁を、自らの存立の手段とみなしがちである、ということだろうか。もちろん、常にこれからもそうだと言いたいのではなく、そうありがちな歴史を超えようとして、ぼくたちは食いしばっているのだと言いたいわけだ。


 上原は、古文書の訳を書いていたので、意味のよくつかめない者には助けになった。上里は、古文書を踏まえて消化したものを書き、必要な個所だけ、訳と原文を載せる。わかりやすさはこの本の身上とするところだ。


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2009/12/03

いじけやすさ

 思い出せば、「奄美と沖縄をつなぐ」イベントの「異種格闘型トークセッション」の際、藤木勇人さんが、自分たちの特徴として、虐げられ続けると、ひねやすくなる、と話したくだりがあった。隣りで聞いていたぼくは思い当たる節、大ありだった。

 鹿児島がものを言えば、どうせ奄美のことは入ってないんでしょ、と思い、
 日本がものを言えば、どうせ琉球的なものは入ってないんでしょ、と思い、
 奄美大島がものを言えば、どうせ与論のことは入ってないんでしょ、と思い、
 沖縄がものを言えば、奄美も含まれるけど関心ないんでしょ、と思う。

 でもって、その先入見がたいていは裏切られないから、いじけは再生産され固着してしまう。ああ、確かにぼくはいじけやすいし、その分、言葉が強がって出たりする。けれど、それでは先入観も固定化してしまう。するとよくないのは、誰かの他意なきひと言を悪意の決め付けに見なしてしまうことがある、のだ。

 でも、いじけやすさこそ、わがなつかしきすみかなれ、と言い続けて終わりたくはない。いじけやすさの克服、ですね。



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2009/12/02

「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」

 400年関連イベントも終盤戦。12月19日に沖縄国際大学の「南島文化市民講座」で取り上げられる。タイトルは、「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」。聞きたいテーマだ。弓削さんの「道之島の成立と幕末の奄美諸島-琉球開国要求と奄美諸島内部の施策の変化」は、特に気になる。


講座タイトル 「東アジアの中の琉球-島津氏の琉球侵略400年を考える-」

研究発表(PM1:10-2:50)

1.夫馬 進(京都大学教授)
1609年、日本の琉球併合と中国・朝鮮の対応

2.豊見山和行(琉球大学教授・南島文化特別研究員)
江戸幕府の外交秩序と琉球ー「御礼」と保護ー

3.弓削政己(奄美史研究者・南島文化特別研究員)
道之島の成立と幕末の奄美諸島ー琉球開国要求と奄美諸島内部の施策の変化

4.西里喜行(沖縄大学教授・南島文化特別研究員)
中琉関係史における「萬暦の倭乱」とその周辺ー「併合」と「両属」の間ー

全体討論(PM3:10-4:50)

進行 田名真之(沖縄国際大学教授)

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2009/12/01

このまま終わるのだろうか

 昨日更新した「400年、節目のイベント ver.9」について、開催場所をカウントしてみる。

 奄美  8
 沖縄  7
 東京  4
 鹿児島 4
 大阪  1
 神戸  1

 沖縄は、侵略400年と、もうひとつ琉球処分130年を大きく問うていたから、このイベント数は一概に比較できない。しかし、その人口比や沈黙一辺倒が常の奄美からすれば、この8回という回数は、いかに薩摩の琉球侵略が奄美にとって重い課題になっているかが分かる。

 ついで東京、鹿児島と続くが、鹿児島4回のうち2回は、奄美が主体になて開催したもの、もう一回は薩摩、琉球を主体にした企画展、そして最後があの山川での沖縄・鹿児島の交流事業である。ということは、鹿児島の市民発で行われ、何事かに言及されたイベントはひとつも無かったということだ。それは残念でならない。

 また、薩摩は、県としての鹿児島は、琉球侵略400年の節目すら、奄美を黙殺して通り過ぎようというのか。歴史の時間をふたたび進めるには絶好の機会だというのに。

「過去の検証はお互いの関係が進むにつれて解決すべきこと。検証だけにとらわれて、今の事業をとめるのは賢いやり方ではない。連携を進めるのは時代の流れであり、中国など生産大国に対する我々の課題。具体的なことは決まっていないが、人的交流を中心にステップ・バイ・ステップで進めていきたい」(「奄美新聞」

 このままだとしたら、「沖縄・鹿児島連携交流事業」での知事伊藤のこのとぼけた発言が、県としての鹿児島の唯一の言及だということになる。




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