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2009/12/30

薩摩の琉球侵略400年を捉える 4

 豊見山和行の作表の助けを借りて把握した限りで言うと、薩摩の琉球侵略をめぐるイベントはこの1年間、計38回も開かれた「400年、節目のイベント ver.13」)。その過半数を占めた歴史系のイベントを見ると、その主調音だったのは、「琉球王国の主体性」だと思う。従来、侵略以降は大和や薩摩に従属的と思われがちだったが、薩摩、大和、中国との関係性のハンドリングのなかで琉球王国を存続させてきたことを積極的に評価するという流れだ。それは沖縄の自信回復にとって意義があったと思う。

 奄美との関わりのなかでいえば、奄美が薩摩の琉球侵略過程を共有しているので、奄美がかつてつながっていたということが認識され、奄美が可視化された。ほんとうはもっと手前で、薩摩の侵略過程の可視化により奄美の地理上の位置が見えてきたというに過ぎなかったかもしれないが、上原兼善が『島津の琉球侵略』で琉球侵略の全体像を捉え、上里隆史の『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』が戦闘過程をいままで以上に詳細にしたおかげで、奄美が見えてきたのは確かだった。

 侵略以降についていえば、「奄美は直轄領化された」という記述を最後に、また蚊帳の外になる気配を感じたが、弓削政己の孤軍奮闘で、奄美の持つその特異な位相が見えないまま終わることはなかった。それどころか、奄美にとっても新しい知見を弓削はもたらしてくれた。そのこととパラレルかもしれないが、宮古や八重山の声が聞こえてきたのも嬉しかった。「琉球王国の主体性」の強調だけなら、あの「琉球の風」の頃のような琉球王国依拠への失望感に終わったかもしれないが、そうならなかったことに進展を感じる。また、真栄平房昭などが、女性を通じた人間の視点を持ち込んだことで、徹底抗戦をしなかった琉球王府の一面も見えてきた。人間という視点が加わると、ハジチを通じて、琉球弧の共通性も見えてきた。

 さて、奄美、だ。計38あるイベントのうち、奄美の各島で行われたもの、奄美外でも奄美を主体にして行われたものを挙げると、16になる。38のうちの16、つまり、42%を占めるのは、常の沈黙度からすれば特異なことであり、このテーマが奄美にとって切実であることを示している。これらはどのように捉えることができるだろう。

 このなかで、もっともタイムリーでもっとも注目を集めもっとも人も集まったのは、徳之島で5月2日に行われた「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」だった。このイベントではこともあろうに、島津家と尚家の末裔が招待されていた。のこのこと島津が訪れ殿様気分の抜けないメッセージをのたまった。懸命にも尚家は来なかったが、為政者気分の抜けない高良倉吉は「現代でも鹿児島と沖縄は、隣県だというのに交流が少ない。知事同士が訪問しあうということをほとんど聞かない。これからは、この薩摩侵攻を超えて、もっと交流していくべきだ」などと発言したという。いま思えばこれは、今年、政治意思が何を行おうとしているかを示唆していたのかもしれなかった。

 また、このとき鹿児島からのパネラーは原口泉だったが、北の原口、南の高良によってイベントは政治色が強まったと思える。また、時を置かずに5月17日には「琉球侵略400年シンポジウム」が沖永良部島で開催されるが、このときも北は原口泉だった。これは、役者が他にいないのか、今年の鹿児島からの発言を著しく貧困にさせることになった。

 イベントの流れから、奄美の島々で行われたものに注目し、かつ個人が招かれた講座や講演を除くと、次はもう11月14日、喜界島で行われた「薩摩侵攻400年シンポジウム」であり、11月21日の、あの「沖縄・鹿児島連携交流事業」になってしまう。つまり、奄美では5月17日に沖永良部島で行われて以降、半年間、奄美ではまとまった形でのイベントが無かったのである。喜界島でのそれは郷土研究会主催のもので、島自体をみつめる地に足のついたものだったと思う。しかし、次は、鹿児島と沖縄の県知事が400年の事態の収容を図った「沖縄・鹿児島連携交流事業」であるのを考えると、これは徳之島のイベントの後に、高良倉吉の発言を受けるように、続いたものであると位置づけることができるだろう。

 鹿児島県と沖縄県の政治意思が薩摩の琉球侵略の問題の終息を図るという流れは、徳之島、奄美大島、山川へと北上していったのである。しかもことはそれだけでは終わっていない。問題の終息は、主要な舞台であった奄美大島で行われるが、市民不在であり、事業に対する抗議行動は少数者による例外的なものにとどまった。

 そして年末には「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島」が奄美大島で行われる。このシンポジウムは大島の市民にとっては待望のものであったはずだ。しかしこれは薩摩の琉球侵略を真っ芯で捉えるものだったろうか。その全体性を持ち得ていただろうか。ぼくの考えは否へと動く。発表内容においてではなく、主催内容として。まず、徳之島と沖永良部島でのそれが鹿児島と沖縄の声を交えていたのに対して、これは奄美内だけにとどまるものだった。奄美の各島々の声もなく、大島をもって奄美とするという傾向のなかにあるものだった。もちろん、それは大島で行うのだから、それで問題があるわけではない。

 ぼくが感じるのは、大島が奄美全体の課題を構成し喚起することが、薩摩の琉球侵略400年というテーマに対してできなかったということである。その舞台は、徳之島に移行していた。徳之島も大島も琉球侵略の戦没者への慰霊を行っている。しかしその後に、その問題を遡上にあげてこと挙げすることは大島からは無かった。これは薩摩の直轄領の最大の舞台であり、大島商社解体、復帰と続いてきた大島のリーダーシップの沈下を物語るものではないかという懸念がぼくには過ぎる。また、奄美人としての声がもっとも切実に挙がったのは、奄美ではなく鹿児島で10月に行われた「奄美の未来を考える集会」だった。その意味では、奄美大島の北の鹿児島と南の徳之島に舞台は移ったのである。

 すると、「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島」は、大島で開かれたものでいえば、春の慰霊に続くものではなく、11月の「沖縄・鹿児島連携交流事業」に続くものではないだろうか。特に主催者が、「奄美のアイディンティティとは、なんだろうと思うとき、琉球的でもあり、薩摩的でもあり、その両方を混在させてアイディンティティとしてきたといってはおかしいでしょうか。」(ホライゾン創刊15周年記念シンポ報告④)などと言うのは、ことのなし崩しであり、もし仮にそうなら、始めから問題は無いのであり、ぼくも『奄美自立論』を書く必要など無いのである。「奄美は琉球でもあり大和でもある」と規定されたのではなく、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と二重否定の真空地帯のような状況に置かれたのである。それが奄美の困難の本質ではないか。現象的には琉球と薩摩の文物が混交して定着するだろう。しかし、その背景には二重否定の契機が控えている。その解除が困難なのだ。それは関係性のなかに埋め込まれているからである。このシンポジウムはサブタイトルを「これからの奄美諸島史」と書くが、鹿児島と沖縄の交流拠点というだけののっぺらぼうな奄美像にならないことを願う。


1.「年表で見る藩政時代の沖永良部島の歴史」
5.「笠利町津代の戦跡を顕彰し、慰霊するゆらい」
6.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年慰霊の神事」
9.「薩摩藩奄美琉球侵攻400年シンポジウム」
11.「琉球侵略400年シンポジウム」 
13.「奄美復帰と薩摩侵攻400年を学ぶ講座」(薗 博明)
14.「奄美にとって1609以後の核心とは何か」(喜山荘一)
16.「奄美にとってこの400年は何だったのか?」
19.「奄美の未来を考える集会」
25.「奄美と沖縄をつなぐ」
26.「薩摩侵攻400年シンポジウム」
28.「沖縄・鹿児島連携交流事業」
29.「徳之島 歴史を超えるうたの力 薩摩侵攻400年 しまうた、七月踊り、シンポジウム」
33.「薩摩侵攻四百年・奄美の歴史の見方考え方」(高梨修)
34.「<無国籍>地帯、奄美諸島~琉球侵攻400年を振りかえる~」(前利潔)
38.「見えかくれする薩摩侵攻以前と以後の奄美諸島 これからの奄美諸島史」



 

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