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2009/11/03

『昇曙夢とその時代』2

 『昇曙夢とその時代』の価値をことのほか高めているのは、ここに昇藤子の手記が収められているからだ。

 「思い出の記」と題された手記は、「私が昇と結婚いたしましたのは明治四十年一月二十日のことでございます」と始まるように、昇の妻、藤子によって書かれたものである。

 実際、この手記はとてもいい。それは、昇曙夢の妻という形容を除いてもひとつのエッセイとして読みたくなるものだ。島尾敏雄の妻、ミホの作品が島尾敏雄の妻という形容がなくても独立した優れた作品だというようにとまではいかないとしても。

 まず、やってくる印象は、家の懐の深さというようなものだ。

 私が昇と結婚いたしましたのは明治四十年一月二十日でございます。昇は三十歳、私は十九歳でした。鎌倉、江の島の旅行から帰って、いよいよ東京の新居に住むことになりましたが、その家は牛込区の市ヶ谷町で、裏は八幡宮、庭の向うは陸軍士官学校の馬場でございました。六、四半、三、二の四室でしたが荷物の少ない二人にはこの四間の家でも広いように思われました。時々お馬の稽古を夢中で見ていてお魚を黒焼にしたことなど度々でございました。たしか五月頃だったと思いますが、士官学校へ天皇陛下が行幸されましてお馬のいろいろな技術を御覧になった事がございました。その時、陛下の御座所が宅の庭先から二間ほど離れたところでしたので、座敷に坐って拝見して居りますと色々の事がすっかり見えましてお馬の見事な行進や様々な技術がとても面白く、夢中で見て居りましたところ、突然巡査が庭へ入って来まして 「もしもしすぐに戸を閉めて下さい、こんなにまる見えじゃ困るからな」と申しましたので、「今私一人で静かに拝見して居りますのですから障子を閉めるだけではいけませんか」と聞きましたら、お巡りさんはうす笑いしながら「まあよいじゃろ」と申して帰りました。私はそのあと障子の中ガラスからそっとのぞいて居りました。

 ここにいう天皇陛下とは、明治天皇のことだと思うが、天皇のために見せている「お馬の見事な行進や様々な技術」が、家の中から見物できたというのである。これはすぐに家の懐とはつながらないが、家から見える景色がなんというか、広いのである。巡査の態度も、まだ牧歌的なものだ。

 この印象を入口にして、家の懐と思うのは、当たり前のように何度も引っ越しを繰り返しながら、そこには多くの人が訪れ、奄美からは親戚がしばらく居候をしたり、島から連れてきたりということが自然に行われている。出産もふつうになされる

 或る日庭の銀杏の葉があまり美しく色づいたので、須美子を抱いて眺めて居りますと、お客様の声、お玄関にまいりますと、「小杉です」と天外先生が微笑して立っていらっしゃいました。小杉先生には昇が学生時代から大変お世話様になっておりまして、いつもその話を聞いておりましたし、先生の御著書も拝読して居りましたが、お目にかかりますのは初めてでした。私はしどろもどろに御挨拶いたしましたが、折あしく昇が不在でしたので須美子をあやして、すぐお帰りになりました。

 こんなささやかな日常のひとこまにも、懐の深さを思わずにいられない。いや、島にはまだこんな生活はあると思うのだが、いまの生活はそこから隔たってしまっている。その遠さに気づかされる。家が様々な関係を内包する豊かさを持ったいた、それを伝えてくれるのはこの手記のよさだと思う。


    『原郷の奄美―ロシア文学者 昇曙夢とその時代』

Noborisyomu

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